第一章21話 『アルトリウスへの帰還』
夜の森は様々な音で満ちている。
虫の声に、木々のざわめき、水が流れる穏やかな音。普段ならここに、魔獣の鳴き声なども含まれるが、つい先ほど大量に倒した影響か、そういった雑音は全く聞こえない。その代わりに聞こえるのは、
「すぅ……すぅ……」
背中から聞こえる規則正しい寝息を聞きながら、魔術師は森の中を歩いていた。
「(やっぱり相当疲れていたみたい。……途中で無理やり背負って正解だった)」
ふと横から視線を感じた魔術師が、そちらを見ると、そこにいたのは白いワンピース姿の少女。
「お疲れ様です、エスト様」
「うん、こちらこそありがとうね、リウ。いつも助かっているよ」
「いつも言っていますが、助ける助けないという話ではないのです。ありとあらゆる害虫からエスト様を守ること。それが私の生きがい、ですから」
少女――リウは嬉しそうに微笑んだあと、チラッと魔術師――エストの背中でスヤスヤと心地よさそうに寝ているティアリスを見る。
「ふふっ、私が代わりましょうか?」
リウは春の日差しのような、柔らかい笑みを浮かべる。
「リウは僕以外の人に触れることができないでしょ。それにもう少しでアルトリウスの近くに出るはずだし――」
「ふふっ……そちらではありませんよ。エスト様の背中を、です」
リウが言ったのは、ティアリスを背負うのを代わるという意味ではなく、エストに背負ってもらう人を代えるという意味だった。つまりは、ティアリスと自分が代わるとリウは言っているのだ。
「却下」
「そうですか……残念です。私の方が、その娘より大きいと思うのですが……」
リウはそう言って自分の胸元を見る。
「ふふっ、……でも今がダメというなら、屋敷に戻った後ならいいですよね?」
「――? 屋敷で背負って貰いたいってこと?」
「それもそれでいいですが……今日はやめておきます。……エスト様、今日はエスト様の隣で寝ても、いいですか?」
「なんだ、そんなことか。いつもそうしているんだから、今さら――」
エストは何の動揺もなく、普通に答える。
「と思ったけど、……そういえば、最近は中に戻って寝ていたね」
「エスト様がお疲れになっている様子だったので……、ベッドを広く使って貰いたかったのです」
「(そういうことなら、普段より今日の方が疲れて――)」
「エスト様が、今日もお疲れになっているのは、わかっております。わかっておりますが……私、……他の女の匂いがエスト様についていることに、……これ以上耐えられません。……うっかり、……えいっと、過ちの一つや二つ、…………犯してしまいそうです」
「(過ちって何!?)」
エストは、光沢の消えたリウの瞳を見て戦慄する。リウから感じたプレッシャーは、先ほど魔獣たちに囲まれた時よりも凄まじいものだった。
「なので、エスト様がお断りにならなくてよかったです。ふふっ」
「ああ、うん」
◇◇◇
エストが言っていた通り、森の出口にはすぐにたどり着いた。
「やっとアルトリウスが見えた」
「ですがエスト様、すでに門が閉まっているように見えますよ」
「そこら辺は、手を打っておいたから大丈夫」
「……ああ、森に入ったときの。ふふっ、そういうことなら安心ですね」
ローブを着て、フードで顔を隠す魔術師と、その横をフワフワと浮遊しているリウの二人は、森を抜けて平原に出る。
「んっ……。――っ! す、すみません。私、背負ってもらったばかりか、寝てしまったようで。もう自分で歩けます」
魔術師の背中で寝ていた少女――ティアリスが目を覚ます。
リウはいまだに、魔術師の横を浮遊している。しかし、リウが視界に入っていても、ティアリスには彼女に気がついた様子がみられない。
リウはアルトリウスの門の方をチラリと見て、何かに気がついた素振りを見せると、その場から掻き消えた。
「あんなことがあった後なのですから、気にしないでください。それにもう少しでアルトリウスに到着するので、起きるタイミングとしてはバッチリですよ」
魔術師はティアリスを背中から降ろす。
「ありがとうございました」
ティアリスは背負ってここまで、連れてきてくれたことに対して、礼を述べる。
「ん? あれは……」
「――?」
ティアリスの礼に頷いて答えた後、魔術師はアルトリウスの門の方へと視線を向ける。それにつられて、魔術師が見つめている方向を、ティアリスも見る。
「お嬢様!!」
二人の視線の先にいたのは、黒髪で長髪の執事。彼はアルトリウスの門から、こちらに向かって走ってきていた。
「エスト君!!」
ティアリスは思わず、執事の方へと走り出す。
「お嬢様、ご無事――」
「エスト君! 怪我はない!?」
ティアリスは、執事の周りをまわって怪我がないかを確認している。
「……よかった」
そう呟いたティアリスの頬を一粒の涙が伝う。
「あの、私ではなくお嬢様は、お怪我の方は……」
「私は大丈夫です。エスト君が呼んでくれた魔術師の方に助けてもらいましたから。ほら、あちらにいらっ――あれっ?」
涙を拭いてティアリスが振り返った先に、魔術師の姿はなかった。
「……? どなたかいらっしゃるのですか? 先ほどからお嬢様のお姿しか見かけていませんが」
「いえ、でも……。たしかに、直前まであそこに……私のことを助けてくれた魔術師の方が」
「たしかに、私よりも強い魔術師にお嬢様の捜索願を出しましたが」
ティアリスはその言葉を聞きながらも辺りを見渡してみるが、やはり魔術師の姿はない。
「相手には屋敷の場所を伝えていますから、後日にでも報酬を受け取りにやってくるでしょう。門番に頼み込んで、門を開けたまま待っていてもらっているので、今日のところは帰りましょう」
「……ええ、そういうことなら」
そう答えたティアリスの顔は、すこし納得がいっていない様子であった。
◇◇◇
「ここまでありがとうね、ルト」
ローブを着てフードで顔を隠した者――魔術師が、ある屋敷の敷地内で真っ黒な魔犬の背中から降りる。魔犬は、魔術師に忠誠を誓うかのように頭を上下に動かすと、魔術師の影の中へと消えた。
石畳に穴の開いた裏庭から表にまわり、鍵のかけられていないドアを開くと、魔術師は室内に入る。
「……静かなのはいつも通りか」
魔術師は二階に上がり自分に割り当てられた部屋に入る。
「さて、もうそろそろお嬢様が帰ってきてしまいそうだし、急いで着替えないと」
魔術師はそう言うと、フードを外す。
「エスト様、もう帰ってきたみたいですよ」
「はやっ! いや、こっちが遠回りをしたからこんなものか。やっぱり、ルトに助けてもらって正解だったみたいだ。……それとも外で入れ替わるべきだったかな」
エストの声は、フードを外したことで、女性の声からいつも通りの中性的な声に戻っている。エストが着ているローブは、宙に溶けるように消えた。
エストは胸の部分に穴が開いた執事服をしまい、クローゼットから新しい執事服を取り出すと、それに着替える。そして、着替えがちょうど終わると、部屋の扉がノックもなく開けられた。
無言で部屋に入ってくるのは、自分と同じ顔、恰好をしたもの。
「髪を使って、魔法で作った人形とはいえ、じっと見ていると自分がもう一人いるみたいでちょっと怖いな」
エストは人形を作る上で、自分の髪を切って使用していたが、その量が僅かであったため見た目の変化はあまりない。
「はぁ……私はなぜ魔法が使えないのでしょう。もし魔法が使えたら――」
「……」
ぶつぶつと一人で喋りつづけるリウの横を通って、エストと同じ姿の人形は、ベッドに座る。そして、その身体が陽炎のように揺らいだかと思うと、次の瞬間には人形の身体は消え、残っていたのは一本の木の棒と執事服だけであった。
「よしっ、これで服の回収は終了っと。それじゃあリウ、少しお嬢様のところに行ってくるから」
「――エスト様が四人、エスト様が五人……」
枕を抱えてベッドにうつ伏せになり、足をバタバタさせながら未だに独りで喋っているリウにエストは告げると、静かに部屋を出た。
「あ! そういえば夕食はどうしよう」
今になって、エストは食材を路地裏に放ってきたことを思い出した。
◇◇◇
部屋から出たエストは、隣にあるティアリスの自室のドアをノックするが、返事がなかったため、一階の談話室へと向かう。
談話室のドアをノックして中から返事が聞こえたのを確認したエストは、部屋の中に入る。
「お嬢様、実は今日市場で買った食材なのですが、……全て置いて来てしまったので、夕食の分の食材が」
「そう言えば、まだ夕食を食べていませんでしたね。色々とバタバタしていて忘れていました。エスト君はお腹、空いていますか?」
「いえ、私は大丈夫ですが」
「なら問題はありませんね。私もご飯を食べないのは慣れ――今はあまりお腹が空いていませんから。エスト君、少しここで待っていてください。紅茶を入れてきます」
ティアリスは立ち上がると、足早に紅茶の準備をしにキッチンへと向かってしまった。その間に、エストは談話室の掃除を手短に済ませる。
帰ってきたティアリスはティーポッドの中を軽く混ぜてから二つのカップへ複数回に分けて紅茶を注ぐと、
「はい、どうぞ」
その内の片方をエストに差し出した。差し出されたティーカップをエストは礼を言って受け取る。ソファに座ることが多いティアリスも、今はエストとテーブルを挟んでイスに座っている。
「初めて飲んだ時にも思ったのですが、本当にお嬢様は紅茶をいれるのが上手いですね。王都のお屋敷でもこうして紅茶をいれていたのですか?」
「いえ、ここに来てからですよ。ここに来るまでは飲んだことがありませんでした。けど、紅茶が飲めるのも、屋敷にあった分が無くなるまでですね。最近、市場で紅茶の定価を見ていますが、なかなか手が出るようなモノでもなさそうですし」
ティアリスは何ともなしに言うが、ティアリスがこの屋敷に来たのは自分がここに到着する前日のことだったことをエストは思い出す。
「え!? 誰にも教わったことがないのですか?」
「ええ、人から直接というのはありませんね。けど……覚えてはいませんが、もしかしたら本などで紅茶のいれかたを読んだことがあるかもしれませんね。意識していなくても何となく手が動くので」
ティアリスは微笑みながら言って、ティーカップに口をつけた。
◇◇◇
数多くの命が一瞬にして消えた平原、から少しばかり離れた森の中、
「はぁ……はぁ、、、」
月明りが僅かしか差し込まない、薄暗い森の中を這いつくばって移動する肉塊が一つ。身に纏っていたであろう布切れは全てが赤黒く染まっている。それもそのはずで、その肉塊の右半身はほとんど残っていない。残っている部分も潰れているか、何かに噛みつかれたような歯形が残っている。
「……」
森の中の魔獣が駆逐されたことを知らない肉塊は、ただひたすらに安寧の地を目指して森の中を這い続ける。
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