第一章8話 『長い一日の終わり(裏)』
「よしっ、これで大丈夫そうだ」
入浴を済ませたエストは、黒を基調とした服に着替えていた。その服はエストが明日から仕事をする時に着る制服みたいなもの――つまりは執事服だ。
エストは屋敷の一室に置かれていた幾つもの執事服の中から自分に合いそうな物を選び取り、自室で試着をしていたのだ。いま着ている服は、奇跡的に丈も肩幅もぴったりであり、何処も直す必要がなさそうだ。
エストは執事服を脱ぎ、寝間着に着替える。
「他の執事はいないんだし、これと同じサイズのものを幾つかこの部屋に持ってきておこうかな。お嬢様に伝えるのは……明日でいいか。今日はもう夜遅いし」
エストはそう考え、再び執事服やメイド服が置かれた部屋に行くと数着の執事服を持ち出し、自分の部屋の衣装ケースの中に並べてかける。
「これでよしっと」
エストはベッドに寝転がる。
「仕事、もう少しで半分以上をお嬢様に取られるところだった」
夕食が終わったあと、エストとティアリスは話し合って屋敷での仕事を分担していた。
終始、仕事は自分がやるとエストが主張したため、エストの方が仕事量が多くなったが、何も言わなければ間違いなく半分以上をティアリスが引き受けていたことは想像に難くないような状況だった。
苛烈な仕事争奪戦を経て、エストが得た屋敷での主な仕事は料理・洗濯・掃除だ。
「明日の朝食は残り物でどうにかなるとして、問題はそれ以降か。明らかに食材が足らなそうだったから忘れずに買い物をしておかないと」
エストは明日に備えて眠ろうと目をつぶった。しかし、誰かに見られている気がしたため、すぐに目を開ける。
「なんだリウか。誰かと思った。ごめん、今日はもう眠い……」
ベッドに腰をかけ、自分を見下ろす金髪紅眼で白いワンピースを着た少女を見て呟くとエストは、警戒をといて再び目を閉じるのであった。
◇◇◇
――エストが執事服のサイズ選びを始めたころ。
何もやることがないティアリスは、既に自室で寝間着に着替えており、すぐに寝ることができる態勢を整えていた。胸の辺りで左右それぞれ一本に結んでいた髪はほどいている。
ティアリスはベッドに座り、ボーッと正面の壁を見つめる。壁の向こう側はエストの部屋だ。
「エストさんは私がレストリア・アークフェリアの娘だと教えられていた。それはつまり、家の人たちは何があっても彼女を逃がす気はないということ」
ティアリスはこれまで、まともに外出したことがなかった。そのため当然なのだが、彼女には人との関わり・繋がりがアークフェリア家の関係者以外にはない。
とはいっても、その唯一の関係もかなり希薄なものではあるのだが――。
それはさておき、彼女は他所との関係が無い生活を今までしてきたが自分が置かれている立場というものは正確に理解していた。
「もしあの時、エストさんが執事を辞めたいと言っていたらその時点ですぐに――」
“家の――それも屋敷とかではなく、人に直接仕えるのだから、ティアリスの事情は遠くないうちに知ることになるだろう。であれば、最初からその存在を教えておけばいい。後から色々と説明するのは面倒だ。その上で、アークフェリア家から離れるというのなら、口封じとして一応殺しておく”
この理不尽極まりない考え方が、アークフェリア家の中で蔓延していることをティアリスは知っている。
自分に関する深い事情を何かの間違い・手違いで知った一般人には連絡が取れなくなると、メイドたちの中で陰ながら噂されていることを知っている。
「(私のせいで……彼女も)」
ティアリスはベッドに倒れこむ。
この広大なセミファリア王国に、アークフェリア家の目が直接届かないところは数あれど、力が及ばない地域は存在しない。つまり、アークフェリア家から逃れるのは実質不可能だ。
こういった情報をティアリスは王都の自室――ティアリスの部屋で、仕事をそっちのけにし、ティアリスがいることも気にせずに会話をしているメイドたちから得ていた。
「……」
ティアリスは自分の思考が段々と悲観的になっていくことを感じたので、それを打ち消すように頭を振ると、ベッドから起き上がる。
「私に残されている時間で、彼女のためにできることをしよう」
ティアリスはこれまでで考えついたことを頭の中で整理する。
「私に出来るのは、エストさんが本当は女性であるということに気がついていない振りをすること。アークフェリアから不用意に離れないように促すこと。家の異常性に気がついて執事をやめることを強行しないように、今すぐには私の境遇を知られないようにすること。そして――」
“私が殺された場合に、巻き添えで殺されないように対策を立てておくこと”
「とは言っても、最後のは今すぐにどうこう出来るものじゃないよね。まずは……決めた。“エストさん”じゃなくて、“エスト君”って呼ぶことにしよう」
ティアリスがエストの呼び名を変更しようと考えたのには、しっかりとした理由がある。
「そうしないと、彼女を男性だと勘違いしている風には見えないかもしれないし」
ティアリスは始めてエストの姿を見たとき――屋敷の玄関扉を開け、顔を上げたときに受けた衝撃を思い出し、クスッと笑う。
その表情からは、先ほどまでの落ち込んだ雰囲気は全く感じられない。
「あんなに美人さんだと何をしても女の子にしか見えないよね」
ティアリスは全く男装をしているように見えなかったエストを頭の中に思い描きながら、ぼふっとベッドに倒れこんだ。そして、思い返すのは今日一日の出来事。何もかもが新鮮で絶えず心臓が高鳴っていた日のこと。
「私は味音痴だけど、エスト君が作ったシチュー……あれは本当に美味しかったな」
エストの料理を思い出していたティアリスは不意に目頭が熱くなるのを感じる。シチューを一口食べたときは目の前にエストがいたから我慢をした。我慢をしたのはエストにそういった姿を見せたくなかったから。
今は部屋に一人、誰もティアリスを見ている者はいない。
けれど、少女はここでも決して泣くことはなかった。
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