表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

白い夏休み

作者: 林 雅

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

 8月31日、夏休み最後の日だというのに俺は昼の12時過ぎに目を覚ました。うちには古く温度設定も出来ないようなクーラーしかなく、俺は生暖かい布団の上にも寝転がっているのが嫌になって重たい身体を起こす。まだ意識がハッキリとしない。けれども、起きてからいつもやる事は決まっている。


「今日は何する?」


「やっぱり花火じゃない??夏っぽいしさ!」


 携帯の液晶に映る通知を見て、俺は柔らかいため息をつく。まだ夏休みは終わってないんだと、まだ楽しめるんだと思うと胸の奥に住み着いていた不安はいつの間にかに消え去って、俺は慣れた手つきで返信をする。


「いいね」


 いつやるか、どこで花火をやるかなんて決まっていなかった。だが、俺にとっては遊べるという事実があるだけで十分だった。ただ遊ぶことだけを考えていれば、何も他の事は考えなくていい。友達とアプリで繋がって、特に面白くもない反応をしあって、一緒に予定を組んでいる間はそのことしか考えられなくなるんだから。


 隣のアパートが近いせいで夏の眩しい太陽の光が届かない部屋の中で俺はようやく立ち上がり、落ち着きのない髪を右手でかきあげながら洗面所へと向かう。しかし、その洗面所へ行くまでの短い距離はいつも俺を憂鬱にさせる。一層のこと部屋の中に閉じこもって一日を過ごしたいとも思ってしまうほどに。


 扉を横に引きながら開くと、俺の鼻には息の詰まるような、濁った煙草の臭いが飛び掛かってくる。それと同時に半目を開いた親父が死んだような眼で俺の方を睨む。ぼんやりと右肘をつきながら人差し指と中指で挟んだ煙草を不味そうにふかしている。


 こいつは俺が物心ついた頃からこんな自堕落でどうしようもない人間だった。俺には信じられないが、母さんが言うには昔は一切酒や煙草には手を出さなかったらしい。しかし、今では一日中酒と煙草に溺れて、何か言うかと思えば金と自分の事だけしか話さない。なのに、母さんはこいつには何も責めないで奴隷のように働いている。こいつは俺達の身がなくなるまでむしり取る悪魔だ。母さんとこいつを見て、俺は二人が公平だと思ったことは一度もない。母さんに同情して、なんで離婚しないのかと聞く日もあった。しかし、母さんは静かに、そして淋しく笑うだけで何も答えない。それからというもの俺はこいつのする事を見て見ぬ振りをする。


「おい、どこ行くんだ」


 何も答えない。いつも通りに何も答えずに、目も合わせないで親父の前を通り過ぎる。


「ちぇっ、愛想のないガキだなあ」


 今にも殴ってやりたい。この生産性も生きる価値もない人生を作り出した原因が自分だという事も分からないやつに文句を言われていると思うと、悔しくて狂ってしまいそうになる。しかし、俺にはそんな怒りをぶつける場所なんてなく、ただ心の中で愚痴を吐き、自分を汚すことしか出来ない。


 惨め。


 弱い自分は不安となり俺を縛っていた。家の外では強い自分を演じて、馬鹿なことをやる友達も沢山いて、他の皆に慕われている。でも、家の中だと飲んだくれの男一人に服従して、反発することさえできない。何を言われても黙って我慢している。こんな姿を家の外で見せたら今まで積み上げてきた信頼はなくなり、皆からは幻滅されるだろう。


 洗面所に入ると、ズボンのポケットに入れていた携帯が揺れ、通知が来たことを知らせる。朝に連絡を取っていたグループの中の一人が個別で連絡をしてきたのだ。


「今日花火やるときさ、あれ持ってきてくれない?」


 あれとは煙草のことである。この連絡を送ってきた友達の雄介は裕福で、両親とも教育にうるさい人らしく、酒や煙草を酷く嫌っているらしい。そんな親が気に食わないのか、雄介は親が見ていないところで親が嫌いそうなことをやっていた。煙草に酒に女遊び。だから、俺の家に煙草があると知っている雄介はわざわざ俺に低い姿勢で頼んでくる。しかし、雄介の親、そして学校の先生、俺達とは違うグループの同級生の奴らは雄介の事をイケメンで、好青年で、優等生だと思っているらしい。そんな重い期待から逃げているだけかもしれない。他の人の理想に従うの自分を変えたいのかもしれない。


 名前は忘れたけど、昔にやってた学園ドラマで非行に走った友人を更生させる熱血な主人公がいたことを思い出す。なんて言ってたか。友達を正しい道に戻してあげるのが本当の友達だ、みたいなことを言ってたと思う。そのドラマを見た時は素直にかっこいいと思っていたが、実際には簡単じゃない。色々な問題、考え、小さな社会の想い達が複雑に絡み合って、その結果として雄介は煙草を吸っている。そんな複雑な事情も知らない俺が何か偉そうな事を言えば、雄介はもう俺とはもう目も合わせようとしなくなるだろう。それが怖い。外でも孤独になってしまう。怖い。だから、雄介の頼みを断るなんてことは出来ない。


「分かった。持ってくよ」


 歯磨きをしながら返事をして、ふと目の前の鏡に映る自分の顔を見ると背筋に氷を落とされた感覚がした。その顔はこの家に住み着いた悪魔と同じ生気のない顔をしていた。眼は将来の事なんて見られないように光が通っていなく、その下にはうっすらと、だけど、はっきりと紫色の霧がかかったように見える。自分にはやはり同じ血が混じっている。酒、煙草狂いのあいつの血が混じっていると思うと妙に胸の中がざわついて、腹が立って、やるせなくて、ただ目を虚無の反射板から逸らしてしまう。

 この生暖かい、吐き気を促すモヤモヤとした感情を洗い流すために、蛇口から勢いよく流れ出ている冷たい水で顔を洗った。二秒ほど何も考えずに。息もしないで冷水を顔にかける。この時、やっと一日が始まったような気がした。まだ起きて二十分も経っていなかったせいか、目を覚めてからの事は夢のようにぼんやりと頭から消えていった。


 もちろん、それは水の中で息を止めている間だけ。


 鏡を見ないように、横にかけてあったタオルで濡れた顔を拭き、自分の部屋に戻るために扉を開けるとやはりあいつが座っている。部屋の真ん中で、山に住んでいるボス猿のように、尊敬の出来ない威厳を放っている。


「おい、ちょっと座れや」


「うっせーな」


「座れ」


 一言目よりも少し大きな「座れ」という言葉に弱い自分は心の奥から渋々やってくる。小さなテーブルには空き缶や、もう空っぽの煙草の箱、白と灰色で包まれた灰皿しかなかった。椅子に腰を掛けても目の前にいる悪魔とは目を合わせずに斜め左のカレンダーを何となく見ていた。


「宿題は…もう終わったのか? 夏休みももう終わるだろ」


「……」


 普通の家族なら何気ない会話になることも、うちではありえない会話だった。今まで、家族、いや、社会にだって目を向けてこなかった男が一人の子供の宿題の事を話したからだ。


「少しはやったのか?」


「……。やってない、悪いかよ」


 少しの反発はこいつに対してやってはいけない事の一つだった。どれだけ侮辱されても我慢する、そう決めたはずなのに、家族らしい会話をして気が緩んだのか、俺は親父に反抗した。そして、すぐに俺は少しの安らぎが招いてしまった単純な行動に後悔することになった。親父はまた悪魔に成り代わった。顔は炎のように赤く染まり、片手に握りしめた酒缶を机に強く叩きつけた。


「なんだ!だらしないガキだ!今まで何をやってきたんだ?ずーっと、ずーっと布団の中で引き籠ってたのか?それとも友達とやらと遊んでたのか?くだらない…。俺がな、学生の時はな、一生懸命勉強してたんだ。遊んだことなんかない。勉強、勉強、勉強の日々だったんだ。いいか?宿題というものはな、目標みたいなものなんだ。宿題も出来ないような奴はな、いつか失敗することになる。それなのにお前というやつは何もやらないで……いったい誰に似たんだか」


 地獄とは唐突に感じられるものだ。


 何もやらない、誰も助けない、もはや人間と呼んでもいいのか分からない存在に俺は罵られていた。しかし、罵られたことが地獄だったわけじゃない。大声で自分の事を否定している奴に歯向かえない。恐怖に屈服して、奴の話を静かに苦汁をなめながら聞いてしまっている自分がいるということに情けなさを感じて、まるで地獄に落とされたようだった。


 悪魔は話し続けた。自分は優秀だった、それに比べてお前は違う、みたいな事を言ってたと思う。もう何も聞こえていなかった。耳は塞いでいないのに、悪魔が言っていることが理解できなかった。それでも悪魔は話し続ける。


 俺はとうとう耐えれなくなって、席を立ち、勢いよく自分の部屋の布団の中に逃げ込んだ。布団の中では泣くことしか出来なかった。悪魔にバレないように胸から滲み出る声を殺しながら。泣いている途中も悪魔の声は常に頭の中に響き続けた。そして、それが本物の音だと気付くのには時間がかからなかった。悪魔は話し続けたのである。目の前に俺が座っていなくても、父親にでもなったかのように説教を続けていた。その事に気付いて、俺はまた泣いた。今度は赤ん坊のように声を上げて。


 いつの間にかに俺は眠りについていて、暗い部屋には夕日のオレンジ色の明かりが少しだけ入ってきていた。携帯には多くの通知が来ている。遊ぶ時間だった。寝転がっていた俺の目の前には終業式の時から触れていないリュックが無造作に置いてある。その中には宿題も入っているだろう。しかし、俺は何も見なかったかのように部屋を去った。リビングでは悪魔が両腕で顔を覆いかぶすようにして眠っていた。そして、そいつの前には煙草が一箱。俺は箱を手に取り、家を出た。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

この作品は寝る前にふと「夏休みの遊びたいって気持ちと煙草を吸いたくなる気持ちって似ているのかも…」と思い書いてみました。(自分は煙草を吸わないんですけど)



この作品に対する感想、評価をつけてくれるとと嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ