94話 【VS.】気丈夫な狼の姫君 ジャハル・カラル・ランディー
拳の荒れ
人は
ヒュームは
ただ耐える
その時を待つものと
その時を諦めたもの
転回する
期待と不安の入り混じった様々視線が2者をとり囲んだ。村を流れる小川のせせらぎが鼓膜を揺らすほどの静けさがたゆたうだけ。
「どこからでもかかってきても良いぞ」
獲物を狙うが如く、ジャハルは音を殺してゆったりと草の絨毯を左右に踏みしめる。
まるで楽しむかのような微笑が口角に現れ、ふわふわの尾が優雅に揺れた。
じりじりと間合いが詰まっていく。しかし、明人は未だ構えず。
「随分期待されてないみたいだけど、ヒュームってそんなに弱いのかい?」
それどころか談話に興じた。
「ヒュームが弱いのではない。己を弱者と認めた連中こそがみな勝手に弱くなるだけだ」
「低いところが居心地の良い場所だと思い込んだらそれ以上は強くならない、か」
「良くわかっているじゃないか。さすが我に挑むだけのことはある。どうやらただのバカではなさそうだ」
柵を隔てて、村中の民が集まっていた。
それでも数は、ほんの僅か。目視で数えられてしまうほどヒューム数は少ない。
それもそのはず上位存在に増えることを管理され、村に閉じ込められている。さながら家畜のように。
「狼になんてか、勝てっこない……! 無残に食い荒らされるだけだ……!」
「最弱種族はどうあがいても最弱なんだ……。虐げられても文句は言えない……」
貼りついた表情は誰も彼もが怯えきってた。
対面の狼族に気を呑まれるかの如くぶるぶると震えている。
それを見て、明人はやれやれとおどけてみせた。
「当事者がビビってないのになんであんなに怯えてるんだろうな?」
「さてな。みずから籠のなかに入れられ、それを平和だと思い込まねば生きられぬ弱者の気持ち。我には汲みとれんさ」
なおもジャハルはにじり寄っていく。
骨格逞しい体型にも関わらず、ボトムが食い込んだ白く艶やかなふとももは、女性的で肉肉しい。
抑圧によって飼いならされ、与えられた不満足な社会的地位。ヒュームは弱小種であるからこそ、それを平和と捉えることで偽りの満足感を得ている。こうして変革の機会が訪れたのに最底辺にいようとしていた。
――どう考えてもこの現状を維持する理由はない。
ここで明人はようやく構えをとった。
――少しくらい生き方の学習でもさせてやれたら良いんだけど……。
肩を上げ、両手を顔の前へ上げる。
手の甲を相手に向け、完全防御の姿勢とった。
「ハァ……言っておくけど、オレは弱いぞ?」
「知っているさ。しかし、後ろの連中と比べれば気骨はある」
距離はすでに3メートルほどまで詰まった。
横から差す橙の実のような日はじょじょに頭を下げて沈んでいく。鼻歌でも歌うが如き速度で小さくなっている。
1人と1匹の影は伸びきり、あとは夜闇に飲まれるだけとなっていた。
「先手をやろう。貴様がどこでも好きな場所に1発だけ撃ち込む。そこから再スタートとしよう」
今度は逆にジャハルが構えた両腕をだらりと下げた。
そして、抱擁を求めるように体を開く。
場を引き締め直したいのだろう。しかし、そこにはとるに足らないといいたげな強者的余裕が垣間見えた。
「じゃあお言葉に甘え――てッ!」
とんっ、と。明人は、足で地を軽く蹴った
躊躇はない。ジャハルの腹に思い切り拳を抉りこむ。
「ウソ……だろ……!?」
普通であれば会心の一撃だった。
しかし、拳骨に伝わってくるのは異常なまでの硬さ、あるいは硬度。まるで岩をシルクで包んだかのような硬い筋肉の壁だった。
「顔にくると思ったがなぁ……――ぞんがい紳士だッ!」
「がッ!」
油断の隙を縫って放たれた拳は反射の如く明人の腹筋を砕いた。
体をくの字に曲がり、肺の酸素が強制的に吐瀉される。
まずい。この3文字が明人の脳裏をよぎった。
「くぁ…ッ!」
すかさず、後方へと待避するべく大地を蹴る。
そして、ジャハルによる大鎌の如き蹴りが明人の鼻先をかすめた。かすめた皮膚が焼け付くような痛みを訴える。
「いいぞッ!! さあ……もっと勇猛に喰らいついてこいッ!!」
彼女はおもちゃを見つけた子供のようだった。
流麗なる笑みとともに放たれる、エゲツのない連打。
もう逃げるという言葉すら明人の頭から抜け落ちるほど、捕縛されていた。
「そらそらそらそらそら! ほらほらどうした!」
1発1発は肌を叩く程度の威力で大したことはない。
しかし、10発に1発ほどのタイミングで芯が混じっている。
この闘い方に意味を求めるとするならば、大人が子供をあやすような遊びの類。もしくは弟子が師にかかり稽古を挑むような。
絶望的な身体能力の差異が、浴びせられる拳をとおして痛みと実感へ変わっていく。
「ほら、右! 次は左だ! どうした! 構えが下がっているぞぉ!」
腰の入っていないラッシュとはいえ、しかしそれは矢の雨の如く降り注ぐ。
じわじわと確実に明人の体力を削っていく。今の段階でできることとすれば、頭部への一撃だけは絶対に避けること。
「くっ――! このォっ!」
「甘い!」
打ち出した拳は難なくいなされた。
ジャハルは悠々とカウンターの拳を繰りだし明人の腹部を穿つ。
「グぅっ……!」
すでに腰は引け、後ろへ後ろへと下がらざるを得ない試合展開となっていた。
その一方で、まあこんなものだろうという空気に包まれる観客たち。
「ほら、やっぱり勝てるわけがないんだ……」
そう、誰かが言った。
それは明人からして後方、村のなかから聞こえた。
ヒュームが他種には勝てるはずがない。そんなどうあっても捻じ曲げられない常識がルスラウス大陸には存在している。
「っ……!」
「目を背けてはいけない。あれがこの世界にヒュームとして生まれてしまった罪なんだから」
ヒューム少女が訴えかけるよう青年に投げた。
青年の袖が引かれるも、青年はただ力なく首を振っただけ。
痛めつけられる者を静観することすら日常となってしまっているのかもしれない。
「あ、あのっ」
小さな体躯で小さなお尻をふりふりと振りながら、キューティーはヒュームの群れにかけ寄っていく。
そして、負け犬根性を持つ者たちの前で小首を傾げる。
「ほんとう、に?」
幼子のようなドワーフの女性を前にして、青年を含めてヒュームたちは僅かにたじろいだ。
他のヒュームたちの視線も彼に向かって吸い込まれるよう注がれている。
「だって……だって……しょうがないじゃないか……!」
青年は頭を垂らす。
骨の浮くほど華奢な拳を握り、唇を白くなるほど噛みしめた。
「そうだよ……! オレたちは……どれだけ物のように使われても……生きたいだけなんだ!」
中年の男性は震える拳を握りしめて耐えるように歯噛みする。
横の女性が自身の言葉から目を背けるように顔を伏せ、涙をこぼす。
「そうよ! こんな生活だけど生きているだけで幸せがあるのよ!」
しかし、少女だけは真っ直ぐ村の外を見つめていた。
「…………」
跪き、胸の前で手を結び、祈りを捧げるようにして。
居心地悪そうにしている天使にむけられていたものかもしれないし、もしかしたら別の場所に向けられているものなのかもしれない。答えは物言わぬ少女にしか、わからないだろう。
「似てるなぁ……」
明人がガードの隙間から、そうこぼした。
「ハハハッ! まだ喋れるのか! 一点を見つめているからとっくに意識を手放しているものかと思っていたぞ!」
一方的に叩く物と静かに時を待つ者。構図としては本当に良く似ている。
ジャハルは、力強い脚力で明人から距離を離した。
さながらスパーリングでも終えたかのように肩を上下させ、白い肌は桜色上気し、僅かに汗が滲んでいる。
「ふぅ……天使様。ひとつほどご質問をお許しいただけるか」
「へぁっ? あっ、はい! どうぞですのよ!」
まさかこのタイミングで話しかけられるとは思っていなかったのだろう。
もはやただの試合場の置物となっていたエルエルは慌てた様子でこくこくと首を縦に振った。
天使。この大陸に住まうのならば、ジャハルにとっても偉大な相手であることは間違いない。その口調は火が消えたかのように敬服を備え、穏やかさがこめられている。
「相手が意識を失っても我の勝ちでよろしいのでしょうか? なにぶんあの男、なかなかに負けを認めようとしませんので」
「と、とうぜんですのよっ! もし相手が意識を失ってなおつづけるようでしたら……んー、負けですのよ!」
「承知致しました」
そう言って、ジャハルは淑女を誘うような礼を天使へ返す。
腕を広げ深々と獣耳の頭を垂らした。次いで獣の如く姿勢を低くとってみせる。
「ここからは嬲ることにしよう。貴様に合わせ2手2足で戦うのはもう終いだ」
顎を地面すれすれまで下げ、5本の指を草原へ食い込んだ。
筋を作る腕の筋肉が盛り上がり、腿にも血管が浮かぶほど。それはおよそ短距離走のスタート準備に良く似ていた。
「ふふふっ……なかなかに楽しめたぞヒュームよ」
その表情は常に変わらず。
あざ笑うかのごとく端正な顔だちは笑み作る。
「そりゃあよかった」
そして、明人もすっきりしたような顔で構えを解いた。
両腕をだらりと垂らして、瞳を閉じる。
観客たちの目にはそれが諦めに見えたのだろう。罵声も飛ばず、歓声もわかず、穴のなかに落ちたような生ぬるい空気感を漂わせるのみ。
「勇気ある行動に敬意を。末路は愚かしくともだ。目が覚めたのなら改めて解呪の礼を言わせてくれ」
官能的なポーズだった。それでいて猛々しく最後の言葉を口にして、ジャハルは尾を逆立てる。
そして彼女は跳ねた。それは弾丸のような速度で真っ直ぐ、一瞬のうちにして距離を縮めた。
「これが我ら獣族の真なる戦い方だッ!!」
ジャハルは吠えた。愚直に明人へと襲いかかる。
振りかざされた拳は、確実に受けた相手の意識をもぐだろう。しかし、死には至らないほどの力加減をしているに決まっている。
そして、1人とひとりが交差した。
瞬間。
「エ”ぅ……!」
ジャハルは虫が潰れるような声を上げた。
だけではなく、ごろごろともんどりをうつようにヒュームたちの足元へと転がっていく。
彼女が転げる道に沿って数多の草が舞い上がった。
「ひっ!?」
「な、なにが……!?」
観客達が紙を破るかの如くざわめいた。
ワーウルフは信じられぬ光景を見るかの如く毛を逆立て目を見開いている。
ドワーフたちは凍りついたように硬直し、エルフたちは大口を開け、ヒュームたちは唇をわななかせながら刮目した。
そして、ブリキの人形のように首を軋ませすべての視線が明人にむく。
「く、クククッ! ハァーハッハッハ! NPCよ貴様なにをしてくれたぁ!」
ヘルメリルによる歓喜の笑い騒々しく、静寂を破り捨てた。
紅潮し、喜色満面といった様子で元凶へ問う。
それを聞いて正気に戻ったのか観客たちが次々と罵声と完成を紡ぐ。
飛び交う喝采とヤジの対比は8:2ほど。
今のは魔法だのなんだのと言いがかりをつけるものもいれば、長耳がとれてしまうのではないかと思うほどにぶんぶんと上下に揺らすものもいる。
しかし、ヒュームたちだけは村という檻のなかから愕然とした表情で佇むだけ。
なので、明人は白い顔をしているヒュームたちにむかって右手を突き出して見せてやった。
「女相手に使うか迷ったけど……。あんまりナメられてたから、これで突いてやっただけだよ」
その右手は握り込み、親指と中指の腹を合わせた鳥のくちばしを模たような形をしている。
「ゲェ……うっ、アぁぁ……がっ、げぉっ……あぐっ!」
草のベッドの上でジャハルは、のたうち回った。
自身の首を絞めるように両手を添え、嗚咽の如く咳き込む。
余裕の笑みは剥がれ落ち、今はでは面影もなく汗と涙とヨダレで顔中をべちゃべちゃにしている。
「鎖骨と鎖骨の隙間あたりを、ちょんってさ」
順風満帆に策は成った。
爽快な笑みをこぼす明人を見て、ヒュームたちはひとことも発さず。より青ざめただけだった。
中編でした。