9話 どうせ3人ともマイペース
部屋の掃除を終えた明人は、ついさきほど手渡された分厚い本を片手にリビングで一息ついていた。
おもむろに渡されたのは大判の真新しい本だった。
著者はリリティア・L・ドゥ・ティールと書いてありタイトルは”一夜で仕上げたルスラウス大陸での生存方法”だとか。
「こんな綺麗に製本するとか器用だなぁ……」
本を開けば押し絵とともにミミズがのたくりまわったような文字が書き連ねれている。
つまり異国、もとい異世界の言語なのだとか。
無論、明人は生粋の日本人であり母国語しか話せない。その上、専行学習したものは重機の操作や整備の方法だったため学もない。
それでもこの世界で会話をできるし文字を読めてしまうのは、世界に住まう種族間の意思疎通のために神が世界全体に張り巡らせた道理なのだとか。
「道理やら魔法やらなんのことやらさっぱりわからん。というより現実感すら未だ湧いてこない……」
明人は教わった話をぼんやりと頭で反芻しつつ見返しのページをめくった。
すると世界地図とかかれた一個の大陸の絵がデカデカと描かれている。不審に思ってページをめくれば次の項目が始まっている。
間を置いて明人は震え上がるように戦慄した。
「――まさかっ! この世界、一個の大陸しかないのか!?」
「うるっさいわねぇ。なにひとりでぶつぶつ騒いでるのよ」
ユエラが浴室へと繋がる扉からひょっこりと顔をだす。
ちょうどリリティアを風呂に沈めてきたところなのだろう。しかも早朝に見せた笑顔の面影は当たり前のように消えていた。
「あの寝坊助は?」
「たぶんそろそろ身体が温まってふらふらでてくるわよ。ハァ……疲れる」
彼女はあれでも仕事帰りなのだとか。
にもかかわらず護衛とひと仕事を終えたユエラはうんざりとした様子で長耳を垂らした。
「まったく昔よりやること増えていやになっちゃうわ。そうでなくともこっちはこっちで悪戦苦闘というしてるっていうのに……」
そして大きな袋を木床に広げる。
ここに居候をしはじめて明人がもっとも驚いたものは、魔法という非科学的な現象――ではない。
あの凛とした家主、リリティアが絶望的なまでに寝坊助だったということ。
早朝に大量の薪を割ったのも、リリティアを風呂に放り込んで食事を作らせるため。申し訳なさ気な彼女本人に真実を告げられたときの驚きたるや。
「そういえばリリティアってたまに朝でも起きてるけどあれってどういうことなの?」
「ううん。そういうときは1晩中起きてるのよ。夜寝たら絶対に朝はグダグダになるって覚えておきなさい」
「あ、うん。そうなんだへぇ……」
てきぱきと床に道具を自身の周囲に設置しているユエラから視線を外し、明人は読書に戻る。
――天地冥の地にあたる、海に囲まれたルスラウス大陸か。
書かれた文字に視線を滑らせていくとますます現実感が遠ざかった。
上位、下位、エルフ、ドワーフ、ピクシー、ワーウルフ、龍。
この大陸では7つの種族が、それぞれ異なる文明を築いているのだとか。
異なる種族や国家が蔓延り争い合う。さらには現在世界規模の戦争中ですとまで注釈されている。
――異世界って言っても地球の人間たちと大差ないんだなぁ。知的生命体の運命ってやつか。
これではまるでおとぎ話だ。あるいはファンタジーの書かれた娯楽本。
明人はひとまず本にしおりを挟んで大きく伸びをした。
なにから手を付けて良いものか。生きる道を選んでしまったため、やるべきことはいくらでも積み上がっていく。
戦友の墓作りとワーカーの修理はさっさと済ませたかったが、護衛を依頼しサラサララの群生地におもむかねばならないため優先度は低い。おそらく1日2日でどうにかなるものではないだろう。
明人がうんうんと唸りながら思考の海を泳いでいると、浴室の扉が軋んで開く。
「ふぁ~、おふろいたらきまひたぁ」
すると家主のようやく起床してきたようだ。
とはいえ、たるみきった顔つきを見るにまだ夢心地のはず。
布を頭に乗せたリリティアは、体からほこほこと湯気を立ち昇らせている。
「おはやうごらいますぅ……」
「おはやうとはまた随分と風情ある挨拶だねぇ」
「ふぇふぅ……」
明人が茶々を入れるもどうやら耳にすら届いていない。
リリティアはとろけるような表情でリビングへ入ってくると、テーブルを挟んで彼の対面に腰をすとんと落とした。
文字通りぐったりと垂れた彼女に普段の清楚さの欠片も見あたらない。
――ここから10分くらいかけて少しずつ凛々しくなっていくんだよな。
曰く、体温調節が必要なんだとか。
ふわりと石鹸のようないい香りが部屋に漂っている。
「あらぁ? あきとさんはどくしょですかぁ?」
しかし現在は酔っぱらいにしか見えない。
瞼は7割ほど閉じ、頭はふらふらと首が座っていないかのように揺れている。
「せっかくリリティアがオレを思って作ってくれたんだからちゃんと全部読ませてもらうよ」
「うれしいれふぅ」
リリティアはゴツン、とテーブルに額と寝ぼけ顔を落っことす。
それから喜びを表現するようテーブルに額をつけてゴロゴロと頭を転がした。まだしっとりと濡れたブロンドの髪がまばらに散らばる。
ともかくこのままでは会話にも使い物にすらならない。ので、明人は読書に戻りつつ無視を決め込んだ。
「……?」
唐突に背後からぐぅぅ、という豪快な音が聞こえてくる。
振り返ってみればユエラが気まずそうに腹をさすっていた。
「な、なによ……?」
「いえ、なにも?」
「アンタのそれって口癖かナニカなの? なんか顔が腹立つんだけど?」
どうやら空腹が限界を迎えているらしい。文句にすら少々元気が失せていた。
言いつつもユエラは細くくびれたウエストのあたりをしきりにさすっている。もしかしたら昨晩からなにも食べていないのではないのだろうか。
彼女はどこか余裕がない。
これは明人が感じたここ数日の記憶である。
普段の生活すらどこか鬼気迫るものがあった。
昼に就寝して日が傾くと起床し、月の光とともにどこかへ出掛けていく。睡眠時間は4時間もないはず。どこかまるで身を削るようにしてなにかを成そうとしている。
その同居人を心配するなというほうが難しいだろう。明人は、先日ワーカーから下ろしたケースに歩みよると、なかからお菓子をとりだす。
「ほら、昼食までまだ時間があるし食べるといいよ」
ビーカーやフラスコのような器材に囲まれているユエラにそれを差し出す。
「……なによこれ」
「昔、市販されていた食べ物だから不味くはないと思う」
「……」
矯めつ眇めといった様子でユエラはチョコレートクッキーの包装を眺めた。
不信というより興味のほうが大きいようだ。証拠に長耳がピンと上向きになっている。
ちなみにワーカーから下ろしたケースの中身は8割方が食料で満たされている。これによってハッチの不調でワーカーのなかに閉じ込められたさいにどれだけ生き延びられるかが決まるのだ。
明人にとって食料は本当の意味での生命線だったが、食材にあふれたルスラウスにいる以上もう必要はない。
「じゃ、じゃあ……いただきます……」
ユエラはおそるおそるクッキーを拾い上げた。
それから匂いを嗅いだりと精査しつつようやく口へ運ぶ。
そしてひと口齧ってびくっ、と身をすくませる。かと思えば、ハムスターのように細かくクッキーを頬張っていく。
「な、なにこれ! おいしいっ!」
色合いの異なる瞳をキラキラと瞬かせてユエラは目を見開いた。
「あまくてサクサクですごくおいしいっ!! リリティアの料理の10分の1くらいおいしいわっ!」
「き、企業努力の評価が微妙過ぎる……。でもまあ美味しいならよかったよ……」
評価は微妙だが、気に入ってもらえたらしい。
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