596話 そして「おはよう」
「とある日、いわゆる某日ってやつです。天界は大陸へ現れた異物を発見したわけです。あれだけ惨たらしい悪意の塊が現れたんですから気づかねーわけがねーんです」
一党は、小柄めな天使の背を追う。
「そりゃもう尋常どころの騒ぎじゃなかったです。なんせちょっと口を開いただけで冥界ですら受け止めきれねー量の悪意がだだ漏れになったってんです」
生白い素足がぺたぺたと湿った森の土を踏む。
急ぐでもない早さで歩を進めるたび清廉な白いスカートが首をもたげた花弁のようにゆらゆらと揺れる。
この異常を理解するのは大いに難題を極めた。だからつづく一党らは無言で顔を見合わせることしか出来ないでいた。
なにせ寝起きではっきりとしない頭の眼前に高位天使が降臨したのだ。大陸種族たちにとって無視か許容かを選択する余地すら残されてない。
「それからというもの冥界で浄化できないぶんの悪意によってかなりの変異種が大陸に生まれちまったです。こっちとしても種族にバレねーよう秘密裏に処理をしてはいたんです。それでもかなり迷惑をかけちまってみたいで申し訳なかったです」
タストニアは進む足を止めて振り返った。
そのままブロンド頭をぺっこり下げる。
「そんなわけでここにいる連中にはとくに迷惑かけたです」
ごめんなさいです。上げ終えた顔もやはり笑っている。
そして何事もなかったかのように前をむくと、ぺたぺた。森の影を潜るみたいにしてまた歩きだす。
天使の後を追い始めてどれくらいか。日が昇るほど長くはないが、焦りを覚えるくらいには短くもない時間が経っていた。
なによりヘルメリルが見ていて辛いのは、リリティアの酷いくらい焦燥している様である。
「……っ」
一切の落ち着きが消えてしまっていた。
今こうしている間だって青ざめてしまっている。
先ほどからずっと遠くの幹の隙間をきょろきょろと見回す。ここにいない影を探す。
「あーそれと、はじめ天界は人間を始末する手筈だったです」
「え!? そんなッ!?」
リリティアの視線が刹那の間にタストニアの背にむいた。
もちろん彼女だけではない。そのあまりにも残酷な事実を容易に受け止められるものか。
ユエラも、ヘルメリルも、とにかく人間と親しい者たちが身体と表情をいっぺんに強張らせた。
なのにタストニアは、種族たちが驚愕していても振り返ろうとしない。
「でも正直あのぼっとん詰まりの悪意から落ちてきたんだししかたねー話なんです。どう考えても大陸によくねーものが紛れ込んだと思ってもしょうがねーんです」
ただ征くへも告げずに淡々と、抑揚のない音色を聞かせるだけ。
「なのにクソじょ――審判の天使は独断で接触を試みたです。ま、後々聞いた話ではルスラウス様とクソ――審判の天使による談合だったらしいです」
2回言いかける辺り上司への鬱憤は相当なものか。
聖書の伝えによると、天使の等級は生まれ持つ才能によって上下を決定しているのだという。
つまり断罪がより上位等級である審判を超すことはない。だから永遠の部下であって上司なのだ。
タストニアはこほんと愛らしい咳払いをし、話をつづける。
「そして人間は一方的に狩られるはずだったヒュームを呪いによって敵意マシマシにされたワーウルフごと救ったです。その前にだってエルフとドワーフを命懸けで救ったです。気まぐれってんならともかく4種族を救ったとなりゃ話は別です。こうして天界は人という種族を駆除対象ではなく要注意対象に定めたというわけです」
それを聞いてリリティアが安心したように薄い胸を撫で下ろした。
「ほっ……良かった」
おそらくはエルフとドワーフ――ヘルメリルにとっての出会い――の辺りで創造神の気を引いたとみるべき。その実績を買われて審判の天使が地上へと派遣されてきたのだろう。
そして人間は創造神の期待に応えるだけの十分な働き……おそらく想像以上の働きをやってのけた。
「なにより決定的だったのは選定の天使様との対面です。あの御方はどちらかと言えば人間排除派だったんです。なのにあろうことかあの一件以降手のひらを返したかのように人間保守派に化けたってなわけです」
びっくりです。タストニアがいったんくるりと振り返るも、やはり笑ったまま。
その表情はまるで仮面である。感情が読みにくいし、相づちですら打ちずらい。
ただおそらく一党ら全員が気づいている、共通の見解。断罪の天使タストニアは、今ここにいる全員へなにかを伝えようとしている。
宝物戦争に関わった面々へ聞かせたいのだ。人間が降ってきたことで天界が動乱したという一部始終の事柄を。
「それからしだいに天界は人間という外枠種族の動向から目が離せなくなっていったんです。注意対象としてではなくただ純粋な好奇心と興味によって、です」
タストニアは、ひと区切りつけるみたいにふぅと浅い吐息を吐いた。
つまるところ天界は人間を駆除対象から保護対象へと切り替えたということ。
はじめは異物としか見ていなかった者が世界を変えていくさまを見せられ、観察していくうちにそうではないことに気づいたのだ。
天使の語りが僅かに控えられると、そのすぐ後ろあたりで銀の三つ編み活発的に跳ねだす。
「わぁぁぁ……天使様よ天使様! さ、サインとか貰っちゃダメかしら!」
フィナセスは先ほどからずっとこの調子である。
敬虔な信徒である聖騎士にとって降臨なんてイベントは滅多にない。だからか声を潜めながらも銀眼をキラキラと輝かせていた。
無論のこと月下騎士もまた敬虔な信徒のひとりであることに変わりはない。
「ダメに決まっているでしょう。せがみにいったと同時に冒涜として私自らが貴方へと決闘を挑みます」
しかしレィガリアのほうは至極冷静だった。
フィナセスを横目でじろりと睨みながら騎士然とした佇まいを崩すことはない。
多少なりとも興奮はしているはず。それでも表情に一切ださない辺り流石のひとことにつきた。
「神話にでてくる神聖な天使と異なり実態は非常に愛らしいものなのだな」
感心するみたいにこくりこくりと頷くディナヴィアへ、テレーレは慣れたものとばかりに手を打つ。
「凛々しい御方も数多くいらっしゃいます。そして天使様全体に言えることですがとても親切で愉快なんですよ」
そんな聞こえてくる潜め声をタストニアは意に介した様子もない。
森林に開いた狭い道を銀の弓のこ片手にすたすたと潜っていくだけ。
――はてさて。天使のむかう先に待つものとはいったいなんなのだろうな。
とにかく天使が未だ核となる箇所に触れていないことだけは明確だった。
なにゆえに干渉を避ける種族たちの眼前へ降臨したのか、どこへむかっているのか。先に口にした世界の中心とはなにを差すのか。
ヘルメリルはとりあえず目の緋色にした龍の肩をとんと叩いて落ち着かせることにする。
「ともかくお前たちは落ち着け。天使は我々を案内しているだけにすぎん」
「で、でも!? こんな悠長にしている間にも明人さんが魔物に襲われているかもしれないんですよ!?」
瞳に感情の紅が浮かんでいるだけでリリティアの必死さが伝わってくるというもの。
本当にままならないといった感じ。なにかしらの引き金があれば即座に飛びだしていってしまいそうなほど。
ユエラだってあまり変わらない。
「……もし自殺なんかしたら絶対に許さないんだから……」
鋭角に目端を吊り上げ森の先を睨みつづけていた。
するとタストニアは首をぐるりと回すように後方のふたりへ視線をむける。
「そんなに心配する必要はねーです」
それから1拍追いて。
「あれはもう大丈夫です」
碧眼の奥が透けて見えそうなほどに澄んでいた。
リリティアがなにかを言いかけるも、すでにタストニアは前をむいている。
真意を問うことは、はばかられた。その羽を生やした小さな背がついてくればわかる、と語っている。
そしてちょうどを測っていたのかどうかはわからないが、ようやく森の奥が徐々に開けていく。
――……この方角は昨日の戦場跡か?
ヘルメリルは、木陰からでるときのあふれるような眩しさに目を細めた。
それも瞬き1つで慣れてくる。一党は両手で囲いきれぬほどの草原へと足を踏み入れる。
手の入っていないなだらかな上りの丘がどこまでもつづく。青々とした草を蓄え、朝の風に撫でられるたび浅い川のようなせせらぎを響かせる。
世の明けぬ瑠璃色の空と暑季を涼しげに彩る若草たちが準備を整えて、一党らを贅沢に迎えてくれた。
「なっ――ッ!?」
そのはずだったのに。
ヘルメリルはこの世のものとは思えぬ光景に喉を狭めさせられた。
誰もが息を呑む、誰もが声が縛られる。誰もが目が奪われる、全員の視界が覆い尽くされる。
王も、Lも、騎士も、身分なんて些細なものは関係ない。森を1歩ほどでたと同時に、全員がその光景に心ごともっていかれてしまう。
「蒼くて……キレイ……」
瞬きを忘れたフィナセスは、魂を置いてきてしまったような小さな声で、そう表現した。
一党らを待っていたのは、光虫たちの群れである。あるいは明けの空に浮かぶ満天の星の子たち。
どう形容してもその絶景を的確に表現できるものなどいない。草原の広がる世界にあらゆる美しさを超越する美しいモノが満ち満ちてあふれている。
あまりに甘美な光景に一党は目を皿のように丸くし、呆然愕然と、立ち尽くした。
「で、先の話のつづきなんです。そのままでいいから聞いて貰いてーことがあんです」
そんななかタストニアは清純なスカートと流麗な髪を翻す。
立ち尽くす一党を眺めながら表情筋をひくりともさせやしない。
代わりに小首をかしげるみたいに頭を斜めにかたむける。
「なんで人間はこの世界にやってこられたのか、です。それはあまりに異常すぎて天界ですらクソほど根を詰めて会議してもまったく答えがでなかったわけです」
純白の翼をはたた、と振りながら空を扇ぐ。
広がるのは明けの空。彩るように無数の蒼が遊び回るよう浮遊している。
「でも、この世界の狭間から脱した魂たちを見てようやく理由が判明したってなわけです」
そのタストニアの告げたひとことは、ヘルメリルの正気を根こそぎ奪いさった。
「今なんと言った!? これらすべてが魂だとでも言うのか!?」
それだけの破壊力を秘めていた。
敬語すらも、不干渉という道理すらも、忘れさせるほど。
他でも景色に目を奪われていた者たちも一斉に頬を引きつらせた。
しかしタストニアは気にした風もない。
「これらすべてが狭間に閉じ込められていた人種族どもの魂です。もっというなら死ぬ間際に願った願いの塊みてーなもんです」
寄ってきた1つの蒼をふわりと優しく手の上に載せた。
包み込んで自分の胸のなかへと抱き寄せる。
「その願いはたった数個ほどの魂が願った小さな小さな願いです。ただその小さな願いが祈りとなって世界を繋げるなんていうバカクソやべー奇跡を起こしたんです」
そして銀の弓のこが、なだらかな丘の頂上を指し示す。
全員が目を滑らせるようにそちらへ注目する。
「あ、きと……さん?」
するとその先では周囲の蒼より鮮明な蒼をまとう。ひとりの青年がいた。
手には剣をもつ。もう片方の指輪をつけた手は、天を押すように空に差し伸べられている。
空を舞う蒼い光が彼を中心にゆらゆら揺れ、まるで1枚の絵画のような佇まいで、そこにいる。
「……あん?」
すると青年は、ふとした感じでこちらへ蒼い瞳をむけてきた。
足元には無数の魔物の死骸が折り重なるように転がっている。
それをやったのが自分であるということを知らしめるかのよう。手にした剣から血を滴らせている。
「おお、みんなおはよう」
人間は、立ち尽くす大陸種族たちへ、微笑みかけてきた。
それもまるで憑き物が落ちたような。泣いていた赤子が笑うような屈託のない心からの笑みを貼りつけている。
「なにやってんだい? こんな朝っぱらから揃いも揃ってさ?」
同時にヘルメリル含めた種族たちは、天使の語った言葉の理解する。
舟生明人は、ようやく朝を迎えることが出来たのだ。と。
闇が連れてきたのは混沌だけではなかったのだ、と。
「なんでか今日はすごく気分がいいんだ。いつもなら毎晩見てた悪い夢も見なかったし、身体も心もまるで羽が生えたみたいに軽くて軽くて仕方がないんだよ」
もしかすると彼にこの美しい光景は見えていないのかもしれない。
舞う魂たちも含め、すべてがその視界にすら入っていないのかもしれない。
「だから朝の散歩にでかけたら、これだ。こっちがいい気分だっていうのに魔物がぞろぞろ湧いてくるんだからイヤになる」
なにせあの人間の世界はどうあっても揺らぐことがないのだ。
どうあっても、臆病で、嘘つきで、卑怯者で、利己的で、超がつくほどの現実主義者である。
だから彼の立つ世界は日と月の巡る中心である。常に己が立っている場所でしかない。
「でも数打ちを倉庫から引っ張りだしておいて命拾いした。剣をもっていたおかげでこいつらの朝食にならずに済んだみたいだ」
だけどその歩む後ろに、いる。
まるで友のように寄り添う影が、ひとつと、ふたつと、いる。
しかもどうやらそれだけでは済みそうにない。
みっつも、よっつも、いつつも、むっつも、ななつも、やっつも――それだけにとどまらずまだまだ、いる。
『『『『――――――――』』』』
共にあると誓いたてた戦士たちが、死してなお、世界を違えてなお、蒼として隣り合う。
そうやってまるで戦友のように肩を並べて笑うのだ。
ヘルメリルは瞳を潤ませながら奇跡を尊ぶ。
「《汝、生涯を賭して勇猛な盾であれ。我らは盾。天上に至りて世に個の歴史を刻む者。汝と共にあらんことを》……か」
そう、消え入りそうな声であっても語らずにいられなかった。
操縦士たちはようやく会えたのである。
長い時を越え、世界すら飛び越えて、闇の本流から逃れ、ついに再会を果たした。
明人は蒼を揺らがせながら微笑を貼りつけ、のんびりと歩く。
「ちょうどいい機会だしリリティアにひとつお願いがあるんだ」
走るのではない、止まるでもない、のんびりと。
迷いも偽りのない本当の顔しながら手をズボンで拭う。
それから未だ心を飛ばして呆然と佇むリリティアの前で立ち止まる。
「ちっぽけな人間がどこまでやれるのかを是非試してみたいんだ」
さながらダンスに誘うみたいな仕草で差し伸べた。
「だから1度オレと一緒に全力で踊ってくれないか?」
長き夜が明ける。
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