595話 そして勇敢なる朝へ、優しき未来へ
ルスラウス大陸上空を飛行する敵母船――宙間移民船型の活動の一切が不透明だった。
なにか害を及ぼすでもない。ただ遠泳するみたいに空を回遊するのみ。地上から見上げれば巨大さも相まって気味が悪いことこの上ない。
つまり一切の情報がないのである。そのためなにかしらの動きが見られるまでは傍観するという意見もほどほどにあった。
だが敵の制圧力は凄まじく、それでいて亀裂がどこにでも現れるという異常性から事態は急を要すものだと判断が下される。なにかがあってからでは遅いという結論に至る。
そこで王たちは限られた兵のみを集めた少数精鋭での母船討伐作戦の実行を翌日に行うと結論づけ、その日は解散となった。
本日で勝負を決める。大陸全種族による一世一代の大討伐がはじまる。
他世界へ壊滅的打撃を与えた魑魅魍魎へ変わって引導を渡し、無事平穏を掴みとると誓い、いよいよ決戦の日を迎える。
「くッ――いたか!?」
「どこにもいません! 周囲をくまなく探したんですが影も形も、どこにも見あたらないです!」
決戦を控えた翌朝のこと。
ようやく鳥の目覚める薄明かりのころに事件は起こった。
それも考えられるなかでも最悪のシナリオである。
「せめていつからという時間くらいはわからんのか! それさえわかれば行動範囲も絞れる!」
「それすらわからないんです! 私が別の寝床から目覚めて様子を見に向かったときにはすでにいなくなっちゃってたんです!」
「昨晩の異常を過労と判断したこと自体が間違いだったか! せめて相部屋となる者をひとり用意して監視に置くべきだった!」
夜の間に明人が消えてしまったのだ。
しかも伝言すら残さず忽然と。書き置きすらも残さず。
慌てふためくリリティアより知らされた凶報は、英雄と王たちから微睡みの時間を奪い去った。
捜索の開始は夜明けを待つことすらない。起き掛けと思えぬ早さで即座に明人捜索を開始している。
「ど、どうすればいいんです! このままじゃ明人さんの朝ごはんがなくなっちゃいます!」
「たわけ! 朝食どころかアレ自身が魔物の胃を満たす肉になってるかもしれんのだぞ!」
そしてもっともパニックに陥っていたのは、なにを隠そうリリティアだった。
まさか敵前逃亡なんて予想すらしていなかったに違いない。だからか起き抜けのまま髪を結うことすら忘れてしまっている。
そんな青瓢箪のような面をした彼女が駆けずり回っているところを、ヘルメリルが発見した。
「とにかく手が足りん! このままでは一般の兵にも混乱が伝染しかねん! だからなるべく異常事態を悟られぬよう他のLと王どもに声を掛けて回れ!」
「は、はいっ! 急いでテレーレたちを起こしてきます! それと他にも繋がりのある龍族やフィナ子さんたちにも応援を依頼してみます!」
リリティアは、ブロンドの髪をまばらに散らして脱兎の如く身を翻す。
重鎮たちの眠るテントへ向かって韋駄天の早さで駆けていってしまう。
「よりにもよってこの忙しいときになにを考えているというのだ?」
絶望している暇も、愚痴をこぼす暇もない。ひたすらに捜索を急がねばならない。
なにせ人間は弱く脆すぎる。他者の庇護なくば――運が良くて3日が関の山――とにかくこの魔窟大陸で生きられぬ。
「とにかく早急に見つけだすほかないな」
ヘルメリルは地上を仲間に任せて空からのアプローチを試みることにした。
勢いよく叩かれた霧が竜巻の如く渦巻いて晴れ渡る。風に揺らされた下生えの朝露も濡れ手を振るみたいに水を吐いた。
事態は急を要する。もし人間が魔物に発見されでもしたら……一大事だ。
しかも昨晩の様子が明らかにオカシイのは一目瞭然だった。なのに誰も気づけてやれる余裕がなかった。
一刻も早く草の根をわけてでも探しだす。出撃前に不幸な事態が起これば全体の士気にも影響がある。本日の作戦での失敗は可能な限り避けたい。だからこそ見つけださねばならない。
「む?」
するとヘルメリルは上空からなにやらかの異物が転がっていることに気づく。
野営地としてキャンプを広げた大草原からちょうど森に差し掛かる辺りの木陰である。そこに自然的ではない不可解な染み、のようなものが確認できた。
「あれはなんらかの……」
死骸。
ヘルメリルは口にして心臓を掴まれるような悪寒を覚えた。
だが近づいてみればなんてことはない。なにより目的の人間よりも遥かに背丈が小さい。
「ゴブリン……巡回の兵が発見して駆除したものか?」
試しに降り立って目を細める。現場を観察する。
転がっていたのはゴブリンと思わしきものの成れ果て。
どうやら森に逃げようとしたところで背から心の臓を貫かれたらしい。草原に結晶となった浅黒い血染みがこびりついている。
「そういえば昨日戦場で数名が旅立ったか。ならば魔物たちも死の臭いに釣られて活性化しているかもしれないな」
ヘルメリルは掲げた手から炎を現出し、死骸を炙って焦がす。
なにもゴブリン如きの供養ではない。死骸が昼気温で腐り近辺に病魔を呼ばぬよう対策を実施しただけ。
最悪なのは戦後すぐという地形状況である。前日に近辺で多数の死者が冥府へ旅立っている。
食と性などという欲に単純な思考理念の魔物にとっては格好の活動時期なのだ。拠点周囲そのものがどうあっても餌場と化してしまっていた。
するとそれほど時間が経っていないというのにリリティアが応援を連れてどたどたと合流する。
「どうやらニーヤが明人さんのでていくところを見ていたらしいです!」
「それは真か!?」
これを朗報と言わずしてなんと言う。
しかもヘルメリルが飛び退くみたいに振り返ると知った顔がほぼ全員揃い踏みではないか。
寝耳に水だというのにずいぶんと集まったものである。王、L、聖騎士、月下騎士、その他ももろもろ。人脈が広いにしてもそれなりに中軸となる面々ばかり。
強力な応援の到着に安堵を覚えつつ、ヘルメリルは未だ眠た目のニーヤへと詰め寄る。
「それであのバカはどこでなにをどうしていた? 護衛かなにかを連れているような様子はあったか?」
「ちょっと前にそこの茂みでおしっこをしようとしてたらふにゃーがいたにゃ。それでひとりで向こうの森の奥に歩いていってにゃ」
ニーヤは大あくびがてらにそちらを指差す。
目端に浮かべた玉のような涙を振り袖でグシグシ拭う。
そちらはちょうどヘルメリルの背後である。しかもゴブリンの寝ていた森の入口らへんのさらに奥。
「そのとき……自殺しそうなほど思いつめた表情をしていたか?」
ユエラが「自殺!?」と声を裏返して驚愕するも、今はそれどころではない。
考えたくはないが可能性のひとつである。敗北、多くの死、元凶と。無駄に背負い込んでしまう出来事は幾らでも存在した。
ニーヤはなにをバカな、とでも言いたげに眉間へシワをうんと寄せる。
「そんな顔してたらさすがのにゃーもおしっこを途中で止めて飛びだして行くにゃ。なにせふにゃーはにゃーにとっても大切なふにゃーにゃ」
「む、たしかに貴様であってもあれをひとりきりにさせるはずがないか」
当たり前にゃ。スレンダーな胸を反らしながら毛の厚い尾をゆらり揺らす。
「ああそれと、なんだか鼻歌交じりでご機嫌な様子だったにゃ。なんていうかあんなにすっきりした顔のふにゃーを見るのは初めてだったにゃ」
――……それはそれで悍ましいな。
とりあえずニーヤの証言でわかったこと。それはバカがひとりで森に入っていったということくらい。
状況としてはなにもかわっていはいない。むしろむざむざと危険な場所へ潜り込んでいったことがわかったくらい。安心するどころか、より急がねばならなくなった。
「とにかく全員手分けして探すしかないです! 飛べるかたは空から少し遠くの辺りを、そうじゃないかたは野営地周辺を探ってください!」
リリティアがたまらないと言った様子で駆けだそうとする。ひとりでにいなくなってしまった人間が心配でたまらないのだ。
剣と鞘。その身はすでに解き放たれているというのにずっと一緒。世界が出会ってからずっと一緒だったからこそ――そんな彼女だから大切で大切で仕方がないのだ。
そしてリリティアが背の翼を広げて長丈のスカートを翻す。
そのときである。
「時満ちるです。ここにいる全員のみつべこべ言わずについてきてほしいです」
鱗の羽ではない。まるで光が差すかのような早さ。
なにもなかったはずの夜明け前の草原に彼女はいる。
正真正銘の翼がもった天使が、身をすくめ固まる一党らの前に、降臨していた。
「ひた走りつづけた世界の中心が生まれ変わる瞬間へ案内してやるです」
断罪の天使タストニア・リーシュ・ヴァルハラは、いつものように笑う。
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