592話 そして闇のさりぎわに枯れた涙
青草の枯れる臭いをまとう。焦げの跡をヒールの踵が踏みしめる。
ふたりの女性は爛れた丘を優雅に下る。互いにつかず離れずの距離を保ちつづけた。
「あれだけの戦いをもって死傷者はおおよそ200と少し。貴様はこの数を多いと思うか?」
「少ない」
ベル状に開けたスカートを揺らしながら長く白い足でしとしと歩く。
両端2つ結びをゆらゆら揺らし歩くにつれ、焦げの臭いがより鮮明に強くなっていく。
「なぜ少ないと断言できる? 200通りの命、200通りの生命がそれからの生のすべてを失ったのだぞ?」
我ながら意地の悪い問いかけではあった。
なにせこの問に成否も答えもありはしない。答えを見つけることが間違い。どちらかが答えだと悟れたということは気が狂っている。
瞼を閉じれば網膜にこびりついた光景がまざまざと浮かんできてしまう。闇の襲撃、防衛と反撃、そして敗北。
しばらくしてエリーゼは「だって……」ワーキャットのぬいぐるみを両手でぎゅうと胸に押しつけた。
「200万いて200、100分の1。裏を返せば逆、考え方次第で99が救われたことになる」
唇をあまり動かさない感情の希薄な喋り。だが、場が静まっているからよく通って聞こえる。
それを聞いたヘルメリルは笑っているのか怒っているのか。自分ですらよくわかっていない感情を「ふんっ」と筋の通った鼻から吹く。
「考え方次第、つまり視差か」
「んっ。それが今の私にだせる回答。以前の私とは違う、今の私の答え」
エリーゼは、ぬいぐるみの後頭部にキスするような感じで口元を隠す。
現在は救済の導の継ぎ接ぎではない一般的なエーテル族の女性と言いたいのだ。
「合格ということにしておいてやろう。命を嫌っていた貴様にしては上出来な回答だ」
ヘルメリルがぞんざいに言い放つ。
するとエリーゼはぬいぐるみの影に隠した唇を子供っぽく尖らす。
「それって褒めてるようで褒めてない」
「よくわかっているではないか。正味どっちでも構いやしないただの雑な談話あるいは談義という戯れよな」
ヘルメリルは白い手を蝶の羽のようにひらりひらりと振って進んでいってしまう。
たとえ女王であってもその答えを導くに至らぬ。永遠の課題というやつ。
「……ならもっと楽しい話にしてくれると嬉しい」
エリーゼもまたその後をゴシックなモノクロのドレスを揺らして追った。
尊き生の征くへとはいつの世も似たりよったりである。
天界へ昇るか、冥府によって存在という魂を濾過され別となって生まれ変わるか。
特例として冥界の巫女に拾われる例もある。この場合、極めてまれな例となるだろう。
ここ。宵迫る戦場跡にもまた死があふれた。
イージス決死軍は敗走を余儀なくされたのである。とてもではないがアレに立ち向かえるだけの術を備えていなかった。
死というものは取り返しがつかない代表格のようなもの。だからか還らぬと現すものもいる。
ならば此度は還らぬと言うべきだろうか。悪夢という安い妄言に変えてしまうべきだろうか。
そんな死地に弔いを意味する黒をまとった女性がふたりほど。黒々しい髪も――合わせたわけではないが――また弔いを意味する。
「あれは魔法かあるいは化学とやらか。16を起点とした熱波の腕が大地を削ぐとはな」
「たぶん魔法や化学ですらないと考えるのが妥当。はじめから私たちにむけられていた殺意そのものかもしれない」
兵たちは撤退した。だからここにはもうなにもない。
踏まれた青草、大小様々な足跡、爆発の窪み、魔法の余韻を残す燻るような煙。祭りのあと。
「……ついたな」
「……うん」
目的の場所へ到達したふたりは淵に足を止め、同時に口を閉ざした。語らぬまま夜が落ちたような奥のほうをただ見つめるだけ。
それはあの不快極まりない空の亀裂が世界へもたらしたもの。闇に浮いた16の瞳が最後に放ったなんらかの傷跡である。
あの時、16の瞳はイージス決死軍を前にし、発した。
発せられた紅焔の熱波は大地を横薙ぎにして大陸そのものを削りとった。
ふたりの足元にあるのは、なかったはずの亀裂。地平から地平へ繋がってしまうような、繋げられてしまったあまりにも巨大な溝であった。
「たったの1撃のみ。それきりで妖精の住まう土地が焼却された。容易に荒廃を作りだしたということか」
「とてつもない威力。まだ奥のほうが熱で溶岩のように煮立ってる」
互いに表にださないが、やはりうちには恐怖という感情を押しこめるしかない。
それほどまでにこの右と左を一直線に繋いだ亀裂は、凄まじかった。
こちらは状況に応じて対応したはず。しかし相手もまた状況に応じた進化を遂げたということになる。
「はぁ……こうして生きているのは運が良かったということになる」
ヘルメリルは細身にひっつくような房をしぼませるみたいに深く吐息を漏らした。
それからお手上げとばかりに暮れなずむ色の空を見て、もう1度さらに深いため息を吐ききる。
生きているという喜びを笑う余裕なんて微塵も湧いてこない。ただ運が良かっただけ。
――16の瞳……宵闇の奥の鬼神。
そうやって失望とともに仰いだ空は美しいものだった。
塞がった空も、まるで日常と見紛うほどに夕暮れを享受している。大穴が空いていたことすら忘れてしまうほどに。
精鋭の搭乗したモッフェカルティーヌが盾となることであらかじめ全部隊が後方へ位置していた。、
しかも敵の狙いが甘かったことも幸運である。なにせ飛来する瓦礫を音の壁が吸ってくれた。魔龍機兵隊でも光の帯をまともに食らったものはいない。
そのすべての豪運が噛み合った結果、敗走を許された。
でなくば1撃でこの身もろとも200万の兵を焼却されていただろう。敗走すら許されずに、だ。
「ね……ねぇ、メリー……あれなに?」
女王には感傷に浸っている暇もないのか。
垂らしたヘルメリルの長耳が友の声を拾い上げた。
しかしなにやら様子がオカシイ。ちらりと横を見れば出不精の生白い顔があちら側を眺めて青ざめている。
「深淵を垣間見て体調を崩すとはな。闇の傀儡たる貴様もまだまだ私には届かぬということか」
とりあえずの状況確認は済んだ。あとは巣に戻ってここからどう立ち回るかを詰めなくてはならない。
ならばそろそろ戻るとしよう。ヘルメリルがほつれたスカートをひらりと翻す。
「ち、違うもっと奥! 向こうの、対岸の、亀裂があった場所の下!」
「おいこらあまり強く腕を引くな。貴様は器用貧乏種族なのだ。もう少々エルフを労ること、を……」
エリーゼに腕を引かれ、指差す方角を――仕方なく――見やる。
大量の死体。あるいは大量の死体だった破片。投げ捨てられるようにして肉塊がごろごろ、と。
「――ッッッ!!」
ヘルメリルは秒もかからず理解するのと同時。脳の理解が肺の動作を止めた。
見開かれた血色の瞳がいななくように震える。
「つまりあれはただの癇癪ということか!? 大地の根ごと削りとった1撃の正体は玩具を壊されて怒り狂った結果ただどこでもない物に当たり散らしただけ!?」
恐怖する。
敵にではない。己の内に渦巻いた悪辣な怒りのはけ口に。やり場のない怒りが出口を求めている。
ヘルメリルは亀裂のあったはずの空を怒涛の如く睨んだ。
「巫山戯るなよ命をこうもぞんざいに扱うか!! ならば貴様らは生命ではない!! 存在そのものが許されていいはずがないのだ!!」
道徳すらもたぬ闇にむかって喉を裏返しながら大空へと咆え猛った。
おそらく連中は吐いたのだ。
闇はいらぬものとなった人種族たちを吐き捨てたのだ。
向こう側には折り重なるように転げているのは肉塊たち。操縦士と称される者たちが死をもってして救った者たちの残骸が、無残にも捨てられていた。
ヘルメリルは怒りに呑まれて握りかけた手を解く。
「は、ック――……ふぅぅ。……あちらでの扱いは火葬と言っていたな」
負け犬の遠吠えで済ませていい話ではないのだ。
臓腑を煮えくり返らせる滂沱の如き感情は、腹の奥に据えておく。いずれ相応なる引導を渡すために今はとっておかねばならない。
だから今やるべきことははっきりとしていた。
ヘルメリルは対岸へとそっと手を差し伸べる。
「……神の現存する大陸で鎮魂し送ってやるとしよう……」
「私も……手伝う。ひとりじゃこの数は大変」
せめて安らかなれという心で唱えた魔法は、優しい炎となって人たちへと贈られていく。
ヘルメリルとエリーゼが火葬を終えたのは地平の彼方へ日が沈んだ辺りだった。
わざわざ出向いた成果とするならこれで十分な価値があったはず。
なにせ誰かの目にこの光景が映らないですんだのだから。
……………
帰還したヘルメリルは仮設救護所に設えた本営テントのなかへと潜りこむ。
「どうしたんです? なんだか顔色が優れないみたいですけど?」
すると長椅子に腰掛けたリリティアがこちらを見るなりきょとんと首をかしげた。
それをヘルメリルは「……少々な」構うなとばかりに手を払う。
しかし外に出向いた成果を思いだす。長耳がひくっひくっ、と揺れる。
「……空の亀裂は消失した。とりあえず闇の気配も消え失せている……微塵も残さずな」
ヘルメリルは伝えるべき最低限のことを最小限に済ませた。
それから硬い木椅子へ老婆の如き深い溜め息を吐きながら腰を落とす。
「ああ……なんてひどい1日なのだ。まるで馬糞の上を素足で歩かされたような……だな」
木組みに布を被せただけの天井を熱い吐息とともに仰ぐ。
もう歩きたくない。そんな思いをばら撒くように伸びをしながら脱いだヒールを蹴り飛ばした。
「ずいぶんお疲れみたいですね。そんなに乱れたメリーを見るのは久しぶりです」
「ずいぶんどころかかなりだ。私もこんなに疲弊を感じたのはいつ以来か、記憶の彼方の闇の中だな」
そしてもう1度大きく伸びをして凝った身体をほぐしていく。
破れほつれの魔装を正そうとすら思わないほど心身ともに疲労している。
肌色を透かす薄手のデニール。タイツ越しの足がヒールのせいで蒸れており外気に触れるとひんやり心地よい。
ヒールというのは歩くことを主としておらず。ひとたび脱いでしまえば解放され血流が巡っていった。
敷物の上で丸くなっているニーヤが獣耳をぴこりと立てて上体を起こす。
「メリにゃんずいぶん参ってるっぽいにゃ。足をパッカン開いて座るのはお行儀悪いにゃ」
「しょうがないじゃろうて。あんなモンをまざまざと見せられたのじゃ。兵の目が届かぬ本営まで体裁を保っただけでも褒めてやれぃ」
それをゼトは槌の手入れをする手を止め、やれやれとゆるく首を振って返した。
どちらも傷くらいは塞いであるが薄汚れたまま。衣服は汚れ破れてすっかり精魂尽きたと風体が語っていた。
――あんなもの、か。今すぐにあの惨状を小奴らに教える必要はないだろう。
ひとまずは安堵といったところである。
なにせあれだけの苦渋を舐めさせられた挙げ句の火葬を済ませたのだ。あと時間がある時にでも聖女に供養してもらえば死者も浮かばれることだろう。
それになにもヘルメリルだけが半身と痴態を晒して参っているわけではない。どいつもこいつもが疲労困憊の渦中で溺れかけている。
木材を組み民族的な刺繍の入った布を被せた簡易的な休憩所で疲労を癒す。
豪華絢爛に大きいわけでもなく、とはいえ肩を縮こめねばならぬほど小さいわけでもない。だが王が居着く場と称するのであれば貧相極まりない休憩場所である。
それでも屋根があって風が当たらない視線が通らない。戦場に便所以外でそんな場所があるだけでも涙を流して喜ぶべきであろう。
外は怪我の治療や戦闘の後始末やらでごった返している。ヘルメリルならびにLクラスが揃ってこの状態を晒すのも忍びない。王の威厳を保つには、布1枚でもあったほうが無難だった。
「で、それはなにをしている?」
ヘルメリルが椅子をギィギィ軋ませながらちら、と横を流し見た。
それを受けてリリティアは困ったように眉を寄せ華奢な肩をすくませる。
「うーん、これはたぶん落ち込んじゃってるんです。なにせ今日は怖いこととか悲しいこととか色々ありましたから」
ふたりして視線を下に向けると、その先にヤツがいた。
そこは長椅子の端にちょこんと座ったリリティアの膝の上。顔面を埋めながらうつ伏せに伸びている人間が1人ほど。
「………………」
しかも話題に挙げられているというのにピクリともしない。
僅かに背が上下しているため辛うじて生きていることだけは確認できた。
ヘルメリルはうんと眉をしかめながらリリティアへ問う。
「くたばっているの間違いではないのか?」
「どうなんですかね。お夕飯の献立やらを聞いたり語りかけたりと努力はしたんですがこの通りまったく反応してくれないんです」
「ならばくたばっているということだろう。まったくあいも変わらず肝の小さい男だ」




