586話 【異世界VS】終焉と常闇の訪れ -UN.residents-
小高き丘の上。青草豊かな草原と空の2色が水平線の如く広がっていた。
夏と思わしき湿り気を帯びた風が草を撫で海面の如く白波を打つ。
「な、なんてこと!? 空がまるでガラスのみたいにひび割れるなんてありえないわ!?」
「……あれが時空の亀裂か。常闇の襲来を予知する崩壊の序章……」
「まるでこの世に起こりうる如何なる現象をも凌駕する異常な光景ですね」
集結した英雄たちは空の異常を眺望する。
そして英傑と呼称される者たちですら、現実を真に捉えらえている者はおそらく皆無である。
「あれを見てるだけで変な寒気がするにゃ。なにかとても嫌なものであるという気配が拭いきれないにゃ」
「それもひとつふたつでは足りん。もっと大量の怨念があの奥でみっちりひしめいておるようじゃ」
「でっけぇーなでっけぇーな。アイツを砕いて広げりゃ空にぽっかり穴が空いちまうんだなー」
横並びに揃いながら玉になった息を呑む。
平静を保とうとしている。も、隠しようがないほど唖然していた。異色なる種族の瞳は、どれも透き通るほどにクリアな空へとむけられている。
やけに風が冷たく感じるのは冷や汗が滲んでいるからか。はたまた腹の底から冷え切っているからか。誰もが眼前に広がる光景に嘘というレッテルを張りたがっていた。
空が割れる。割れぬはずの空が割れようとしている。
事実であり真なる現実である。すでに見慣れたはずの天空には稲妻が疾走るが如く千もの断片が生まれていた。
光の屈折を無視して空を疾走る亀裂こそが、現象で、予兆。現世にあってはならぬものが、こうして存在してしまっている。
おびただしいほどの亀裂はまるで不可思議。現象は不確定でいて情緒を捻るような目眩む不安さえ孕んでいた。
狂気じみた演出が、見る者たちの正気を根こそぎ喰らい尽くしていく。
「なんなのよあれは……すごく気持ち悪い」
ユエラは耐えきれなくなって身を抱いて全身をぷるりと震わせた。
隣でリリティアが怯える肩へ手を添え勇気づける。
「かなりの大きさです。まるで空に貼りつけた巨大な手のようですね」
「……あのなかに闇がいるの? 明人の世界を滅ぼしたっていう数多の闇が……」
エルフの血筋である長耳が萎れに萎れて芯を失うほど。
ユエラの彩色異なる瞳からは光がすぅ、と溶けて消え、必死に空から目を逸らす。
「そのはずです。ですが――」
対してリリティアは凛としたもの。腰に履いた剣鞘へと手をかけながら背を曲げることなく佇む。
丘を駆け上がる戦場の風が白いスカートを大きな花弁の如くたなびかせる。
「そのために私たちが集ったということも事実です。ならばもう、この世界は容易に喰らいつくせるほど敵にとって甘くはないはずです」
きっと全員が現実を目にするまでは仮定としていられたのだ。
のうのう、とである。しかし知らぬことは罪ではない。ただ知ってしまったから恐怖というものは襲ってくる。
そして誰も怯えるユエラに辛辣な言葉をかけるものはいない。
生きとし生けるものたちが亀裂を垣間見ながら生命として怯えていた。生存本能そのものが亀裂そのものを否定しているということに等しい。
「あれが逐次ご報告と警戒を促させていただいていた時空の亀裂というものらしいです。地球と呼ばれる世界を滅ぼし人種族を追い詰めた世界の境界とも聞き及んでおります」
女王姿のテレーレは、しずしずと柔らかい草原へ歩みでた。
肘まである長いロンググローブの先端で亀裂を指差す。
天界への交信役として聖女は事実を知らしめる。
「とりあえず忌々しいもんがあるってことだけは確認できてるです」
以上を察知し、代表して呼びだされた天使ですらも光景に恐怖した。
薄ら笑いの表情が剛直して口角の辺りに髪から滲んだ汗が滴っていた。
「……天界からの救援は皆無なんて。嗚呼……これも私たちに与えられた試練なのかもしれません……」
テレーレはまるで己の失態のように落ち込んでしまっている。
理由としては、天界からの助力を得られなかったから。耽美なドレスの平坦な胸元で祈り手を結んで祈りを捧ぐしかない。
とはいえダメで元々の要請だった。地上との干渉を良しとしない天界へは期待なんていない。
しかもあちらは時の女神の応対に追われている。日に日に質を高めていく7色の勢力に備えることで精一杯なのだとか。
テレーレは、黙ったままの天使の前で膝を落とす。
「可能であればこの光景を目を通して記憶してください。そしてこれから起こることのすべてを天界で記録に残してください」
「視界そのものはとっくに天界へリンクさせているです。だからこの瞳を通して上級天使や創造神ですらも事の顛末を知ることになるです」
……でも。断罪の天使タストニア・リーシュ・ヴァルハラは、きまり悪そうに言葉を濁した。
正面から突風に煽られた清く白いワンピースが彼女のなだらかな肢体に貼りついて肌の色を透かす。
それから仮面のような笑み面を上げる。真剣な眼差しでテレーレの銀瞳と見つめ合う。
「さっきも言った通り種族の8割が輪廻へ惑う事態にならねー限り……天界は動かねーです!」
タストニアは、ややうつむきがちに、言い切った。
悔しさが滲む。弓のこをもつ小さな手が震えていた。
テレーレは僅かに目を丸くし、それから音も立てず立ち上がる。
「ここに命が在ったということを忘れないでいてくれればそれでいいのです。生きるために生きた皆様のことを……天界は忘れないでいてくだされば……それで……」
タストニアの手をとりながら小さな微笑みで勇気を称えた。
聖女の言葉は天界にも届いているはず。この言葉を聞いているに違いない。神も、最上位天使の2人も、きっと。
「……ごめんです、ごめんなさいです……!」
するとタストニアの蒼い瞳を揺らしていた水滴がつぅ、とあふれて頬を伝う。
「時の女神との対立が過激化していてどうしようも出来なかったです……!」
テレーレは、とりだしたハンカチで涙を拭った。
小さな体の天使をひしと抱きしめながら一党のほうへ悲哀の眼差しをむける。
「これは天界でも意見が別れている事案です。この機にルスラウス様の御体へ種族の魂を戻そうとしてる派閥が幅を効かせていると推測できます」
エーテル国女王ではなく天界との交信役である聖女として。
おそらくは蓋をしていた情報の一端であろう。一党らも心して聖女の言葉に耳を傾けた。
「おそらく大陸保全派の天使様たちが訴えかけてようやく得られた成果が種族2割の存命だと思われます。運命の天使へ私たちの魂を全返還さえすれば時の女神と戦う際に有利に事が運びます。なので今回の決定はかなりの議論を重ねた上での回答だったはずです」
すでに動揺すら覚える余地もない。時の女神の存在はあまりにも危機的すぎたのだ。
タストニアは、ただ唇を噛みながらもう1度「……ごめんなさいです」種族たちに謝罪を告げる。
彼女だって種の存続のために動けぬことが辛いのだ。辛いのだけれど、どうしようもない。
ユエラは不満そうにむくれながら深い溜め息を吐いた。
「神の世界も1枚岩じゃないってことね。私たちの先祖を創造した天界なのにやっていることはどこも同じらしいわ」
きっと悪気はないのだろうし、わがままを言うつもりもないはず。
しかし自然と当たりは強くなってしまうのは、亀裂を認知した衝撃が大きいから。
「ああ……涙を沈めください。天界だって時の女神の対応に勤しんでいるということはこちらもよく理解しています」
どれだけテレーレが拭ってやっても、天使の涙はあふれるばかりだった。
しゃくりを上げながらも「……ごめんなさいです」もう幾度目かの震える声が聞こえてくる。
種の8割が死に絶える事態に陥らぬ限り手を貸さぬということ。つまり天界は残る2割さえ助かればそれで良いという決断を下したのだった。
これを無慈悲とするか、譲歩とするかの意見が分かれるところ。だからといってこうして足を運んでくれあたタストニアを攻めるのは違う。
しみったれた空気に長耳がヒクリと揺れる。
「ならばこちらの戦力のみで成せばよいだけの話、違うか?」
ヘルメリルはふんぞり返るように傲慢な実りを前へ押しだし胸を張った。
弓なりに背を反らし、白くシャープな顎をうんともちあげながら、順繰りに睨むよう全員へ問う。
するとLたちはその問いをまるで下らぬとばかりに堂々とした立ち振舞で返すのだ。
「まったくもって真じゃのう。保険がかけられんだけで闘志が縮むような弱輩が現段階の大陸におるもんかい」
「にゃあたちはハナっから天界を当てにしてないにゃ。だからこそ時間と手間と面倒をかけてまで準備したんだにゃ」
「逆にあちしらたちだけのほうが気を使わなくていーんだ。戦場のお空を白い羽根でばたばた掻き回されちゃこっちも迷惑だってんだーな」
ゼトも、ニーヤも、アクセナも、得意の武器を傍らに闘志に滾っている。
万全の体制が整っていた。そしてそれはおそらく……アチラ側も。
丘の麓に展開された精鋭はおよそ30万にも及んだ。
そしてその僅か数100メートルほど上空では、分断され幾数千に分けられた亀裂が割れようとしている。
来る未来に多くの破壊がもたらされることだろう。それを英傑含む王と天使は万全の体制で見届ける。
そして全員がここまでひとことも発すことのない明人へ視線を集めた。
「…………」
白き羽織の下には当然の如く肌を浮かす黒地が帯びられている。
ここまで微動だにせず。2本の足で佇みながら太い腕を絡めて前のみを見つづけていた。
そんな威風堂々と佇む人間がいる。そしてその周りには出会うことがなかったはずの縁が集っていた。
「天界の支援がなくてもきっと勝てます。だって明人さんはこの日のためにこの見ず知らずであるルスラウス大陸をひた走ってくれたんですから」
「怯えていたってしょうがないことはわかってるわ。こうなったら鬼がでるか蛇がでるかしっかり見定めて退治してやろうじゃないの」
リリティアとユエラが伸ばした手を重ねていく。
それから誘われつられるように次々とその手に手が重ねられていく。
鈍色の鋼鉄が2人の手の上にずっしりと添えられた。つづいて焦げ色と灰かむり色をした双尾がゆらり。揺らいで白い手が加わる。
その上に、首を鳴らしながら革手がずしっと置かれ、黒き霧をまとった黒色が渦を巻き艶やかな手がそこへ重ねられた。
剣聖、自然女王、双腕、にゃにゃにゃ、斧動明迅、語らず。大陸にその名を轟かせる一芸に秀でた英傑たちが一丸となって次を待つ。
ここがきっと世界の中心である。
日と月の巡る狭間の境界で生きている。
7種族の住まう過酷な大陸があった。そんな世界にただ1人のみが迷い込んでしまった。
これは奇跡なのか、それとも……神のイタズラか。踊らされつづけた世界は迷い込んだ臆病者によって再び縁を繋ぐ。
しかし待てど暮せど輪に人種族が加わることはなかった。
「――きたッ!!」
その音に全員がほぼ同時に身を強張らせる。
そしてすでに亀裂は活動を開始していた。
空に広がった黒翼の卵の両翼がピシピシと高い音を奏でながら広がっていく。
200メートルほどの大きさだろうか。地球で観測された最大では1kmを超過することもあったらしい。
そして生命ですら豆の如く小さく見えるほどの離れた丘の上で、大陸種族たちは遭遇する。
「割れた奥に闇!? なんなのだあの尋常ではない大きさはッ!?」
「か、かなりデカイにゃ!? しかもまだまだ割れつづけて空に闇が広がっていくにゃ!?」
ヘルメリルとニーヤが同時に驚愕を口にしながら目を剥く。
視界の先で空色が爆ぜた。数億もの空を映した断片が地上へあられの如く降り注ぐ。
現れたものは漆喰に似た深淵の常闇。おどろおどろしくうねりながら伝搬する暗き黒き暗黒の大穴。
――動けってんだオレェェ!!
明人が襲来の気配をいち早く察せたのは、誰よりも怯えていたから。
今にもへし折れそうな震える膝で踏ん張る。もう引けぬならやるべきことをすべてやり尽くす。
手にした遠隔操作用のマイクを口に押しつけ、肺が破れんばかりの酸素を吸引した。
「全員耳を塞げッ!! 防御魔法を前面に展開ィィィ!!」
叫ぶ。命令を飛ばす。
喉仏が破裂しても本望だと言わんばかりに怒鳴る。
「ここで学べッ!! 倒す方法なんてどうでもいいッ!! どうすれば死なないかだけを学習しろォォ!!」
到来に怯え一瞬だけ止まりかけた心臓へ喝を入れる。
――もしオレが生き残ったとするなら今この時のためだッ!!
もう片方の手に用意しておいた着火剤首筋の静脈へ流し込む。
すると命の蒼が灯火から白光へと光を強めた。焚べる、勇気も恐怖も命ですらも。
「絶対に目を閉じるなッ!! 敵の存在を網膜に焼きつけろッ!!」
対アンレジデント初遭遇。種族たちにとってのファーストコンタクト。
この1度がこれから死ぬ数を左右する分岐点になろことを人間は知っていた。
だから明人は次に起こる悲劇と惨状を、この大陸へ学ばせる。
「オレたち人間は生きたんだッ!! その証拠をこの大陸に刻つけてやるッ!!」
戦友との教えに誓う。
臆病者だった青年は勇猛果敢に運命へ挑む。
「汝、生涯を賭して勇猛な盾であれ!! 我らは盾!! 天上に至りて世に個の歴史を刻む者。汝と共にあらんことをォォ!!」
人の犯した過ちに、築き上げるためにやってきた。
これは決死で生きる英雄たちの物語。
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