576話 そしてこのとっておきの宝物を 4
微熱に浮かされるよう息を弾ませる。
「実は私ちょっと前までこういう往来の盛んなところが嫌いだったんです」
麗らかなロングスカートがレースカーテンのようになびく。
気温も温帯で天候が崩れる心配もない。うってつけのデート日和。
「覇道の呪いが発動してたししょうがないさ。あとリリティアは有名人だから周囲が放っておかないだろうしね」
「それももちろん……主にフィナ子さんとかがうっとしかったですが……やっぱりごみごみした空気がちょっと苦手です」
下から僅かに覗く細い足首。不思議とその歩調に音という概念は存在していない。
往来の音に紛れているということもある。だがまるで常時摺り足をし、気を張り巡らせているかのような運足だった。
リリティアには剣士としての在りかたが身についているのだろう。剣を志すものでなくともその流麗な動きは自然と視線を奪っていく。
――体幹ができてるんだなぁ。細身なのに軽々剣を振れるのは龍の豪腕だけってわけじゃない。
「でも今はこうして……って。さっきから明人さんはなにを見てるんです?」
明人は、ハっとして顔を上げた。
するときょとん顔でリリティアが小首をかしげている。
「あ、蟻を踏まないように注意しながら歩いてたんだよ。一寸の虫にも五分の魂っていうしね」
心中で慌てても顔にはださず。これはある種の得意技だった。
「でも蟻さんには創造主の魂が宿されてないらしいです。テレジアが聖書にそう書いてあると教えてくれたことがあります」
「へ、へぇ……含蓄があるなぁ」
明人はとりあえずその場を凌いでから反省した。
繋いでいるその手は剣を握った。己の打った墓剣ヴェルヴァを手にし戦ったのである。
時の女神戦時に剣を握ったことによって剣聖リリティアという存在を確固たるものだと理解する。美しくも鮮烈に舞う剣士という肩書きに憧れを抱いてしまう。
あれは直接対決とは言い難い。それでも剣を握ることでこうして生き抜いている。だからこそ剣の頂点に立つリリティアから無自覚になにかを学ぼうとしていた。
明人はフラワーガーデン沿いに所狭しと立ち並ぶ屋台のひとつに話を逸らす。
「お、聖都にチョコクッキーの屋台が結構増えてるね。オレが広めたと思うと感慨深いものがあるかな」
いわゆる話題逸らしというやつ。
デートそっちのけでリリティアの足ばかり見ていたなんて言えるはずがない。言ったところで怒りはしないだろう。それでも男としてデート中によそ見は良いことではないはず。
するとリリティアもまた饒舌ぎみに話題へ食いつきを見せる。
「ユエラが私の作ったあまあまさくさくをもって売りこんだらしいです。ああ見えてあの子商売っけが強いんですよね」
「そうなるとムルルに教えたマヨネーズのほうも広まるのかね? ああ見えて妹のほうも姉に似てたりするし?」
「ふふ、明人さんの目につかないだけですでに広まってるかもしれないです。ワダツミ産の強いお酒も一瞬のうちに大陸へ広まりましたし」
「そりゃ酒は冒険者のガソリンみたいなものだし。しょっちゅう各地に散らばる連中が広めるんだったら風の噂じゃすまないさ」
まるで日常を切りとったよう。会話を途切れさすことなく、のんべんだらりと聖都を巡る。
大仰にデートなんて。いつも通りを意識しさえすればこんなに簡単。やっぱり、な感じの1人とひとりである。
都路を眺めれば屈強な冒険者も、神事の信奉者も、剣だって杖だって当たり前。当然、ごった返すなかにいる人間もまた世界の景色の一部だった。
流れる景色。街頭の端々では様々な催し物が開かれていて。
「ついこの間まで戦争の中心になっていたとは思えないくらい賑わってますね」
「それも以前のように聖都はエーテル族だけのものじゃない。逆に他種族が加わったことでエネルギッシュに見えるよ」
ふとどちらともなく明人とリリティアは足を止めた。
蛇腹の楽器が牧歌的な異界の旋律を奏でて都に彩りを豊かに加えている。
小粋な語りと稲妻の踊り。舞台メイクの種族たちが大道芸を繰り広げれば拍手喝采が大雨のように降り注ぐ。
あちらは弓術と剣術のパフォーマンスをとり入れた屋台だろうか。エルフの男女が番えた矢の先で剣を構えた。
女はしばし凛とした清廉な空気をまとって、矢を放つ。
男がそれを一刀両断だ。
割れた矢が後方に置いた2つの的にストンと刺されば、お慰み。
そしてそれを遠巻きに絵として切りとる絵かきもいる。後世にこの風景が描き残され、それを見た誰かが懐かしいなんて言うのかもしれない。
「オレも南京玉すだれとかやってみようかな? この辺でやれば珍しくて小銭くらいは稼げるかも?」
「なんですそれ? そっちの世界の芸かなにかです?」
リリティアと明人も周囲の客たちに習って惜しみない拍手を送っていた。
見世物に関してなら日本だって負けていない。和人の血が滾ってくる。
「こう、2本の紐で棒をたくさん結んでぇ……――ちょいと伸ばせば魚釣る竿にさも似たり、ってさ。それ以外にも橋とかしだれ柳やら旗にだってなるんだよ」
明人は軽く拍子にノリながら小さなすだれをもったフリをした。
それから唄に乗せながらスイっと伸ばして竿を握る風を装う。浦島太郎の部分はどうせ伝わらないし、はぶく。
するとリリティアはこちらの想定した2倍くらいの食いつきを見せる。
「なんですそれ!? すごく見てみたいです!? どうやったら竿が橋になるんです!?」
金色の瞳が金粉をまぶしたようにキラキラと輝いた。
撒き餌に寄せられた小魚くらい小さく上下に揺れている。そのたびくびれた腰のあたりで大きな三編みがゆらゆら踊る。
「そういう風に見えるっていうだけで実際デカくなるわけじゃないから。そういう魔法的なサムシングはこっち側の特権だっての」
「でも見てみたいですう! すごく見てみたいですう!」
途端にリリティアは駄々っ子モードに入ってしまう。
この孤独な龍は、楽しいことを放っておける性質ではない。とにかく楽しそうなことがあればなんでも首を突っ込むことを好む。
袖がぐいぐい引かれる。明人の頭部が赤べこのように左右に揺さぶられる。
「わかったわかった。すだれ自体は簡単に作れると思うし、そのうち作って見せてあげるよ」
「ふふ、約束ですっ! あっ――あっちにケーキ売ってます!」
「切り替えの速さよ!?」
ツッコミを入れる明人の腕はすっかり鹵獲されてしまっていた。
リリティアは、男らしい太い腕を抱き枕のように抱え込んで走りだす。
身体を密着させていることすら気にもせず。あっちへ、こっちへ、やや戸惑いがちな明人を引っ張り回す。
「どうせなら聖都の外にまで足を伸ばしてみますか? 私はどっちでも良いですけど、どうします?」
「外には魔物が少なからずいるだろうし、聖都のなかだけで十分だよ。オレは安全な温室でぬくぬく育つ野菜になるのが夢なんだ」
ようやくな発言のタイミングだった。
しかし明人がしみじみ語るも、リリティアの興味はとうに明後日の方向にいってしまっている。
「そうですそうです! 明人さんいつも似たような恰好なんでもっとカッコいい服をプレゼントしようと思っていたんでした!」
うっかりです! そう言いながら混み合いを割ってずいずい進んでいく。
なにがうっかりなのか。楽しみすぎて忘れていたとなれば本望であるところ。
「あのさ? リリティアって自分の姿を鏡で見たことあるかい? パイロットスーツを着てるぶんオレのほうがバリエーション豊富だかんね?」
なんだかんだぶつぶつ言いながらも明人はリリティアの強引な提案に付き合う。
どちらがどうということではないのだ。どっちもが公平かつ平等に浮かれていたし、はしゃいでいる。
「あっ! あっちでワーキャットが玉乗りしてるみたいです!」
「是非見に行こう! 実は話にだけは聞いてたけどワーキャットを見たことがないんだよ!」
それもきっとこの1人と1匹だけではない。聖都にいる種々諸々が生を謳歌している。
種族も、民も、龍も、人だって、そう。誰もが、みなが、平和なルスラウス大陸を存分に満喫していた。
今やこの2名が聖都で一緒にいても――視線こそ集まれど――なんら不思議なことではない。剣鞘コンビと呼ばれる2名が世界をひた走ったことは周知の事実なのだから。
今日も今日とて農夫服の青年が、腰に剣を履いた笑顔の素敵な少女に手を引かれ、聖都を駆けずり回っている。
「明人さん明人さん! あっちにドワーフ印の男汁が売ってるみたいですよ!」
「Lクラス特権かなんかでその名前を変えられないかなぁ? みそ汁の見た目も相まって食欲減退甚だしいんだけど……」
「ならみそみそしるしるに改名しましょう! きっとそれがいいです!」
「……相変わらずネーミングセンスが壊滅的だ。相談相手を間違えた……」
日がくれるまで2人のデートはつづく。
2人で作った。この平和な時間を、さも当たり前のように、謳う。
――そういえばタストニアとエルエルはどこにいったんだろうな。
まあいいか。明人は一瞬よぎった考えを振り払ってデートに戻った。
メインイベントが待っているのは妹の名を冠した夕暮れどき。
明人は緊張の時間が刻一刻と近づいてくるのを感じつつ、もう余計なことは気にせず。リリティアとの大切な時間を楽しむことにする。
……………
そんな2人を上空から認める影が2つほどあった。
その2人は奇なことに冥界を彷彿とさせる黒と天界を称える白鱗をしている。
だからか聖都を見渡せるほどの高度にいてもとてもよく観察することが出来た。
タストニアは、浮かれる2人を丸い眼に映す。それからぴぃ、と桃色の唇を窄ませる。
「ありゃすっかり浮かれまっくてんです。朝っぱらに天使の胸を好き放題転がした浮かれポンチのくせにです」
不満げに言いながら己の平坦な胸を見下す。
白い衣を突起させるぶぶんを両手でもちあげてみれば、あるにはある。
手のひらに包まってしまうほどの儚さ。だが女性であるという認識を相手に与えるには十分なくらいにはあるのである。
平素と何ら変わりのない表情だが乙女心は少々異なった。今朝のことを思うと微かにだが頬がぬるく感じてしまう。
「まったく……別の女とイチャコラしながら幸せそうな顔してやがんです。別に好みってわけじゃねぇですがなんかムカつくです」
タストニアは首を真横に傾けつつ、背から伸びた2枚の白翼を羽ばたかせつづけた。
わっさわっさと綿のように白い毛並みが風を押す。押す際は強めに、引く際は柔軟に。
翼の上下に合わせてスリットの入ったスカートが布切のよう、ふわふわと浮き沈む。そのつど青空の下で白く滑らかな太ももがこぼれた。
「冥界の暴走による天冥の代理戦争……神より賜りし宝物による大陸の混迷……そして時の女神の神格化です。一体この世界はどうなっちまってんです」
眼下に広がるのは聖都、そこからさらに仰げば地平線がどこまでもつづいている。もっと高さを稼げば水平の彼方まで地図のように閲覧することも可能である。
天使とは元来大陸種族との交流を良しとしていない。だからアレは特例中の特例というやつ。言葉を交えることでさえここ数百年は皆無であった。
なのにも関わらず、少々過ぎているというのはどういうことか。タストニアは横へ瞳を滑らせる。
「それなのにこっちの気も知らねぇでアイツさんは上手くやってんです。嫉妬です、いっそ天罰下してやるです?」
タストニアの横にも、もうひとりほど天使がいた。
先端に天秤を飾る長杖を手にした偉大な天使は、くすくす。嫌味なく笑う音を奏でる。
「横暴かつ一方的な感情の発露による天からの権力行使行為ですのよ。それでもあの御方に危害を加えるというのであればこの場でお灸を据えるんですのよ」
彼女のもととは異なる、すらりとした細身に6枚の白翼を生やしていた。
清らかな横顔は陰影がくっきりと分かれるかのよう。眉辺りで切り揃えられたブロンドの髪がはらはら揺れる。
「それを先輩が言えた義理です? しかもいつまでそのへんちくりんな喋りかたつづけんです?」
「フフ、ちょっとこうすることが癖になってしまっているんですのよ。それとも普段どおりに話していたほうが親しみやすいのですか?」
「正直なところ甲乙つけ難しです。でも依代を使ってないときにその話しかただと逆に恐ろしいまであるです」
美麗な笑みを向けられたタストニアはやれやれと肩を竦ます。
微笑み顔のままで眉の中央へウンとシワを寄せると、天秤の女性は「まあっ!」さも心外とばかりに口元を手で覆う。
規定を疎かにしているのはいったいどちらだろうという話である。共謀を打算された側からすればいい迷惑だった。
しかもあろうことか無断での神器もちだしまでやってのけたのだ。3等級天使の視点からすれば正気の沙汰とは思えぬ所業である。
「今回のは心象を改変する神弓までもちだすほどの事象だったんです? これをお偉がたに口外したら天界がわりと大騒ぎになるです……」
「貴方が口外しなければ騒ぎにならないという証明であるところですのよ。いまさら天界がそのていどの誤差を気に病むほど甘い状況ではないんですのよ」
そして天秤の天使は「それに必要な措置ですのよ」タストニアを見ようともせずつづけた。
乙女は、優雅な羽ばたきで天衣を波立たせながら聖都に微笑みつづけている。
断罪の天使でさえ触れることが罪になりかねぬほどの美貌があった。恋や愛をするように創造されている身として両手に抱えきれぬ花束を拝ませられている気分。
そんな怪訝さをぶつけるみたいにタストニアは愚痴を口にする。
「なにがそんなに楽しいです? こちとら肩えぐられて胸揉みしだかれて踏んだり蹴ったりってやつです」
丸く子を描くよう柔和なぶぶんをほぐし、ほぐし。不満と同時に嫉妬も混ぜてぶつけた。
時の女神によってえぐられてしまった肩は、とうに完治している。種と比べ物にならぬ再生能力と救急処置が良かったこともあって怪我の跡は見る影もない。
あの攻撃を唐突に対応するだけの力はタストニアにはない。
「あの野郎をこれ以上のさばらせておくと手がつけられなくなるです。時間遡行と元界解除の合わせ技。以前天界の軍勢相手に逃げ回るだけだった女神が余裕で反撃してこれるくらいヤベーことになってんです」
決してタストニアが弱いわけではない。等級もちの天使の戦闘力は大陸の民どころか天界の民ですら軽々凌駕しうる。
だが、結果は限りなく敗北だった。あの女神の放った金十字が放たれた瞬間、心臓を貫かれる直前に彼女は愛用の魂狩りを振ることで逸らすことに成功していた。
つまりそれまでである。タストニアでさえクロノスの攻撃を逸らすことしか不可能だった。
あの八つ当たりに等しい1撃だけは間違いなく殺傷を目的としていた。時の女神は全力でタストニアを狩るつもりだったはず。
逆説的に言うならば、あの1撃以降たかがお遊びに等しい行為でしかない。と、いうことでもある。
「んで、そろそろ本当のこと話せです。審判の天使が種族の前に顕現するだけの価値があるのかってことです。先輩の目的は本当に混血の覚醒だったんです?」
「さあ? ワタクシは貴方の問いかけによる真意をそれほど深く理解が出来ないんですのよ?」
「下手くそかつ腹が立つ感じでしらばっくれんなです。口外しないって約束する代わりにそれくらい答えろです」
タストニアが僅かに語気を荒げると、ようやく天秤の天使は聖都から視線を外す。
そして澄み渡った空色を映す蒼い瞳が、じんわりと細められた。
知る者にとっては背筋の凍る微笑である。その裏には間違いなくなにか良くないものが隠れているはず。
しかも直前に問うたタストニアでさえそれを知りたいという欲求が失せてしまうほど。
乙女の横顔には意味深な迫力さえ存在していた。
「彼の者はワタクシの期待通りの結果を残してくれました。これを希望と呼ばずしてなんと呼びましょう。あの御方はこちらの目論見通り――見事時を歩いてみせたのですから」
ほうらやっぱりです。そう、思うと同時にタストニアは笑みを硬直させる。
石のように固まった頬の辺りをつつ、と冷や汗でもないぬるい汗が伝う。
まず耳を疑うべきだっただろう。幻聴であることを脳が願っていた。コイツなに言ってんです? という現実逃避に似た言葉を浴びせかけてしまっても良かった。
実際に変異時空で迸る蒼い光を見させられなければ妄言と形つけることが可能となる。
「時の女神が支配する世界に他社が介在できるはずねぇです。でも……アイツさんという人間種は目の前でやりやがったです」
「あれこそが蒼の本懐、事実、夢を歩く力。願いを現実へ昇華させる、100に至らず1を手にする力なのです」
経験をしたからこそ至る答えもあった。
ふたりの天使は遠く離れた聖都を慈しむような微笑みで見下ろす。
女神のもつ時間遡行能力は名ばかり。
ではあの現象はいったいなにか。神の至る極地とも呼べる創造の賜である。
「あれは時の女神が制限付きで2重世界を作りだし移動を繰り返しているです。花の詰まった頭で創造した空想世界に切り込むとは天界ですら実例がねーです」
「しかし舟生様は実際にやったのです。その幾何学的まとまりのない不完全な力を行使することによって未知への介入を」
そして審判の淑女は空に浮かぶ光沢のなかからあるものを抜きとる。
神弓コーリング。短弓を模した偉大なる神器だった。
存在しうる神器のなかでもヒュームを司るひらめきの弓。生みだされる光の矢は直撃した者へ直感を授ける奇跡の弓。
「やけに人間なんていう新種族肩入れすると思ってたです。ツバつけてたのは異世界種の固定観念を捻じ曲げる隙を伺ってたってことです」
「ふふ、どうなのかしらね? ワタクシと彼はお友だちという位置づけにおさまると考えているのですが?」
「…………」
タストニアは、乙女の意味深でいて嫣然とした笑みに、すべてを繋げた。
彼女の行った行為は末恐ろしいことでしかない。ある種の賭けですらある。
あの蒼い力はダメなのだ。人間という種が大陸にもちこんだ蒼は、あまりに不確定要素が多すぎる。
「あの力のせいで1度大陸が改変されてんです。たとえ神より賜りし宝物で天空突破されていないとはいえです。そうやすやすと利用していいはずの力じゃねーはずです」
「でもルスラウス様は首を縦に振ってくださいましたよ?」
乙女の微笑に思わず息を呑む。
「かぁ!? まさかはじめっからぜんぶ仕組んだってこってす!?」
こうなってしまっては上司であれど関係はない。
タストニアは「アンタさんらはばかやろうです!」親である神すら含めて審判のことを捲し立てるよう叱りつけた。
しかし乙女はそのぶつけられた怒りですら愛おしそうに見つめるだけ。
「ですが結果は大成功を収めるという形に落ち着きました。邪龍ミルマ様を含めても被害者はゼロと言って良い。時の女神の糧となり挫きとなる事象ですら舟生様は完勝というこれ以上求めようのない形にまでお仕上げてくださったのです」
白枝の如き指が弧を描きながら聖都を指差す。
乙女の指した先にいるのは唯一存在である人間種の青年だった。
2徹後の死んだ魚のような眼で石畳の上を引きずられ踵をすりびいている途中である。
「まさかこっちの肩が抉られて神聖マナを翻る道理に注ぎ込むことすら計算ずくだったなんて、です。アンタさんらはもう少し等級下の天使にも恩赦かなにかを払うべきです」
はぁーあ、です。タストニアは1度聖都を見た後に、んんっ、と伸びをした。
やれやれである。痛い思いもしたし怖い思いもしたが、それすべて上の意向というやつだったのだから。
すべては世界存続のために。このルスラウス大陸が書き換えられてしまえばぜんぶまっさらに終わってしまう。
生きとし生ける種族も、生きることで繋いだ命のたすきも、種族たちが生みだした文明も。森羅万象がクロノス・ノスト・ヴァルハラという新世界を望む者によって抹消される。
そうなっては世界は崩壊してしまうのだ。天冥は違え、大地と空は乖離し、夢と現実の境界すら失われることになる。
勝たねばならぬ。それが天界の絶対的目標である。だからいかなるものであれど利用しなくてはいけないのだ。
「で、あの丸っこいのも利用すんです? もしアレすら使うっていうのならアイツさんにはとびきり辛い真実を教えねーといけなくなるです?」
如何に蒼の力が悍ましきものであっても怖気づくわけにはいかぬ。
あの糞を頭に詰め込んだ者が作ったであろう外道と悪意の塊ですらも利用するというのか?
思うところがないわけではない。あの異世界より人とともに渡ってきた丸い鉄の塊を使うのであれば、外道と同様の道を歩み選択でもある。
タストニアは、変わらぬ笑みのまま梟のように小首をうんと傾げた。
「…………」
こればかりは即答が難しいか。無感情で理路整然と魂を審判する天使でさえ押し黙った。
それからゆっくりと鈍足を歩むよう目のさめるような美貌がタストニアのほうをむく。
「翻る道理に神聖マナを……注いだんですのよ?」
「そりゃ注いだです。じゃなかったら前文明の主ラグシャモナの忘れ形見と一緒に時の牢獄にぱっくりです。あるいはプリズマ種の獣の高級なご飯になってたです」
タストニアはさも当然とばかりに、なぜか言葉使いがオカシイ上司へ言い放った。
明らかに彼女の様子がおかしい。と思う間もなく、みるみるうちに端麗な姿が縮んでいく。
瞬く間に容姿に恵まれすぎた美女は、ちんちくりんで身の丈に合わぬ大房をぶら下げた少女へと変貌を遂げる。
「それじゃあふにゅう様は復活した翻る道理を使って時空魔法を攻略したことになっちゃうんですのよお!?」
姿を戻した――?――エルエル・ヴァルハラは、タストニアの襟首を掴みぐわんぐわんと揺さぶった。
タストニアはタストニアでされるがまま。やり返してもいいがやり返して碌な目に合わぬことを知っている。
「しらねーですそんもんはです。はじめにこっちへ目的とかそのへんを教えねーで高座決めてっからこうなるです。しかもどうあってもああする以外助かる道はなかったです。なにせどっちにしろ食われてたら成功も失敗もありゃしねーです」
だからエルエルに振られながらも正論のみで畳み掛けてやるのだった。
これ以上求めようのない形。自分から最高の結末だと言ってしまったエルエルだ。もう後には引けまい。
「せっかくルスラウス様とワタクシが一夜漬けで考えた作戦だったのにですのよお! むきぁぁぁ!」
目を吊り上げながら烈火の如く顔を真っ赤にし、部下に己の失態を当たり散らす。
対してタストニアは涼しい顔、というかいつもの微笑を寸すら変えやしない。慣れてるです。
「にしてもアイツさんクソほど弱かったです。しかもあの力の使いかたじゃ青天井もいいとこです。あれをどうやって遥か高みに押し上げるつもりです?」
薄い胸をぽかぽかしてくるエルエルに問う。
すると彼女は小さい飾り羽をひくく、と震わせた。
「未来視をした舟生様が口にしたお言葉を覚えておりますですのよ?」
「あのクソノスがアイツさんに絶望を見せつけるためだけに使ったやつのことです? 相手に未来を見せつける魔法、自分の未来は絶対に見れねー不完全魔法のことです?」
「そのとき未来視を終えた彼が口にしたという――祈り女神の紋章。これがおそらく終末を回避する大きな改変に近づく鍵ですのよ」
しばし天使ふたりは美しくも広大な大陸を眺めつづけていた。
生き生きと種族たちが行きつづける世界。もう幾100ほどで終わってしまう世界。
せめて網膜にしっかりと焼きつけておけるよう。青い空色の瞳が4つ、いつまでも眺めつづけていた。
☆☆☆☆☆




