572話 そして龍と天使とバーベキュートゥナイトッ!! 4
「……」
しかしミルマはあと少しといったところで足を止めてしまう。
3段のうち2段を上がる勇気はあったのだろう。だがそこからいっこうに進もうとはしない。しかも顔色はまるで凍っているかのように血の気が引いていた。
棺に近づくにつれて呼吸は乱れ、艶のある唇がふるふると震えだす。女性的である体を両の手で抱きしめるようにして凍えを紛らわせている。
「な、なぜこのように残酷なことをなさろうとするのです!? もう十分に苦しめたではないですか!? これ以上アタクシたちの不幸を眺めてなにが楽しいというのです!?」
身を切るような悲鳴が棺の間を切りつけた。
慈悲無く、哀れみにあふれ、聞く者の胸を抉るような叫び。
それも彼女は個体の双頭である。極度の状況で受ける心的ストレスはかなりのものだろう。
「この期に及んで世界はまだアタシを突き落とすのね!? わざわざこんな棺まで作って!? それとも己の抜け殻を前に死を受け入れろとでも言いたいの!?」
まるで大嵐に揉まれながらも必死に立つカカシのようだ。
木偶だ、あるいは機械人形。ここまできてもなお目の奥が充血しそれでもなお枯れてしまっている。
叫べども紅の瞳は濡れず。涙はでず。緩やかに波打つ髪を振って散らし叫ぶのは……おそらく怒りですらない。
「エルエル、タストニア。ミルマさんの随伴を頼んでいいか?」
「――っ!」
明人が天使を呼ぶと、ミルマは全身を大きく跳ねさせより青ざめた。
油の切れたブリキの如く軋む首でそちらへ。絶望の瞳で見る先にはすでに天使が音もなく近づいている。
「ミルマ様どうか……こちらへ。お願いします」
「手間かけさせんなです。魂魄として存在するアンタさんを浄化するのは容易いです」
「いや、いやよ! 止めてこんな、ッ!」
待機していたエルエルとタストニアは神妙な面持ちで、少なからずな抵抗をするミルマの両肩を押していく。
こうなってしまっては暴れようとも無意味だ。片側に審判、片側に断罪。それぞれが死を司る――らしい――天使である。信仰ある大陸種族にとっては崇高であり恐怖すべき存在者たちなのだ。
「ぃ、あ! こんな――こんな終わりかたなんて望んでいません!」
「どうか、どうか御慈悲を! せめて双頭であるアタシだけを罰してください!」
後悔を悲鳴で叫びながら最後の1段を上った。
断頭台さながら。連れ添うのは処刑人ではなく正真正銘の天使だ。
嫌だ、嫌だ、と悲鳴を発しながらも、その1歩を踏む。踏まされる。
「さあコッチにおいで。そしてここからはじまるんだ」
明人は、天使の連れ添うミルマへ道を譲った。
下から仰ぎ見るリリティアとヘルメリルも不安を隠せないらしい。
両者揃ってか細い喉をコクリと動かし、こちらまでその音が聞こえてきそうだった。
到着を確認した天使たちもまたミルマを開放して距離をとる。
「ひっ、はっ、はっ、ぁっ!」
「あぁ、あぁぁぁぁ……!」
ミルマは過呼吸になりながらも木棺から目を背けつづけた。
当然エルエルとタストニアも諦めたというわけではない。つまるところ、ここからは自分の意志で刮目せよと彼女へ希望を告げているのだ。
「この運命を受け入れたところ神がアタクシに行った罪が晴れることはないのです!」
「おお、神よ! それでもこのアタシの魂が還ることを望むの!? 飛龍と翼龍の元へ還してくれるとでもおっしゃるの!?」
ミルマは天を振り仰ぎ祈り手を結ぶ。
しかしどれほど光を求めたところで暗く淀んだ棺の間へは届かない。悲しき叫びはただ反響をつづけ、やがて消えゆく運命。
彼女の犯した罪は果たして許されるべきものだろうか。
家族を失い、無罪の同種を生贄とし、その身もまた魂だけとなる。なにももう失うものはなく、それでも失った子と旦那を思いつづけていた。
そう、明人は神へ祈るミルマから目を一瞬たりともそらさず、心に問う。
「見るべきなのはそっちじゃない。下を見ろ」
そんな母であった彼女を神は許すだろうか。
――神如きにそんな大層な権利はないッ!
答えは簡単であった。決めるのはミルマ自身である。
時の女神に貶められたとして同種の龍たちを捧げつづけたのは――そこからどうやって歩いてきたのかは、ミルマの意思なのだから。
「――目を背けるなッ!! それでもテメェは人の親かッ!!」
明人は、目の前の龍を怒鳴り散らす。
責任を神へとなすりつけようとする。そんなミルマの襟首をひっ捕まえて強引に引く。
「ひッ、やめ――!?」
そのまま細首を後ろ側から掴む。
棺のなかへ頭を力いっぱい押し込んだ。
「ぁ……」
ほどなくしてお棺のなかから微かな吐息が聞こえてくる。
直後にミルマの両膝が、がくりと砕けた。
ぺったり、と。まるで腰が地べたへ吸われてしまったかのようにして尻餅をつく。虚ろな瞳がなにをみたか。それはミルマ自身が最もよく知っているはず。
しかし現実を見ても未だに理解が及ばないらしい。へたり込んだまま口をパクパクとさせた。
「……嘘? 嘘よ、こんなものは幻覚よ……」
「……どういう、こと、なのです? どこかで魅了魔法を使われた感覚すら……」
「じゃあそれは………………ほん、もの?」
あまりの驚きに翼がわぁっと開いてしまっていた。
階下に下るようにしなだれた尾っぽの先がひくひくと脈を打つ。わざわざ首を切り替えねば話せぬくらいには衝撃だったようではある。
明人は、重く疲労ののしかかる身体に力を入れて彼女を立たようと手をとる。
「そんなに疑わしいのなららわかるまで見てみればいいだろう。なんなら触って確かめてみればいい」
自分で立てずにうずくまってしまったミルマへ、もう1度棺のなかを見せるべく肩を貸す。
「ほら立ちなさいっての。そんなところに座ってたらせっかくめかしこんだのに毛玉がつく。ほらほら立った立っ――くっ、重い!?」
リリティアの眼光から殺意めいた光を感じとったため、「つ、翼と尾のせいで重いのかなあ!?」言い訳も忘れない。
そしてミルマは支えられながらも、再びお棺のなかを雲を踏むような足どりで覗き込む。
「ッ、こんなもの嘘――大嘘です!? こんなことがありえてはならない!? だってこんな――!?」
「きっと魔法の類によって見せられている幻影よ!? そうでなければ奇跡と呼ぶしかないじゃない!? それとも悪夢のつづきをまだ見せられつづけているというの!?」
するとミルマはハッ、と気づくようにして即座に口元を両手で覆った。
今度は崩れ落ちず、お棺へともたれかかれている。
すでに目から大量の涙が、しどと吹きこぼれるようにしてあふれだしていた。
ようやくである。彼女たちは、苦難と困難のみに見舞われた長き月日を乗り越え、今こうしてようやく出会えたのだ。望んでいたからこそ受け入れ難いもの。
それはきっと彼女自身が生涯に渡って求めたであろう――本当に望んでいた終わりであるはず。だからとうに枯れたはずの涙が清流のようにあふれるのだ。本心を語るのは口ではなく心、その粒が棺のなかへと燐光のように流れ落ちていく。
「そこそこ苦労したんだよ。まさか粘土細工でってわけにもいかなかったからさ」
な? 明人は、ようやくといった感じで黒い頭をボリボリと掻いた。
今日は色々ありすぎた。掻いた爪には土やら砂利やら。早々に聖城へ帰って晩酌でも胃に流し込み、風呂にでも――……サウナしかないんだっけか。
「快い協力感謝するよ。おかげで今夜はひどい夢を見ないで済みそうだ」
煤けた頬を緩めて礼を告げた。
近くでおろおろしているどちらかといえば軽くなさそうなほうの天使を、小脇に抱えこむ。
抱えられてしまったエルエルは暴れるでもなく、しゅぅんとうなだれる。
「……これは特例中の特例です、のよ。ミルマ様を蝕む原因となったのは他でもない神が起因となってしまっているのですから……」
「それにしたってアンタさんの暴れっぷりもそうとうです、どっちかってーと頭おかしいです。言うこと聞かねーとルスラウス様に直談判するって脅しやがったです。これはさすがに大陸創造史上最低最悪の不敬です」
タストニアは表情こそ変わらず。
つづけて「快いとかどの口がほざくです」文句を言い足りぬらしく不満たらたら。うんざりと小口な肩をすくめ愚痴を零す。
それからリリティアとヘルメリルも後を追う。階段の上にある棺のなかを恐る恐る覗く。
「ふふっ。たしかにこれは大陸創造史上最高の贈り物ですね」
「クククッ。またも道理を翻すか。このような翻しかたならばなかなかに乙なものよな」
白と黒。大陸最強同士がふたりして思わずといった感じで頬をほころばした。
お棺のなかに入っているのはなにも死を受け入れさせるという意図のものではなかった。
ただ終りを認めさせるものであることは確か。その1枚の光景を見たミルマは己を騙すのだ。
1つの終焉がそこにあるのだ、と。
「ああ! なんという大嘘つきなのでしょう! こんな大嘘をついてまでアタクシたちに生きろと命じるのですか!」
明人は、ぐずぐずに泣きじゃくるミルマの横へ膝をつく。
「オレはただ讃えながら報いているだけだよ。だって死に別れてもそこに愛は存在するって、証明をした勇敢なヤツがいたんだから」
懐からとりだしたハンケチでヒドイ顔を拭ってやる。
しかし拭えども拭えどもだ。とめどなくあふれる涙は布切れ1枚で足りそうにない。
証明書は必要ない。だってこうして彼女が生きていること自体が証明なのだから。
最後まで愛し、愛されつづけたからこそ、世界がその存在を認めている。
「アッチがアンタのために頑張ったんだ。なら次はコッチが踏ん張る番じゃないのかい?」
「そんなことっ――不可能です! これほど恥を晒しながら生きつづけるなんてアタクシには無理です!」
「甘ったれんな。まだ息子の仇を討ててないだろ」
ミルマは、明人の抑揚すら入れない言葉に、全身を硬直させた。
「――ッッ!? あ、アナタはアタシに復讐をしろと命じるの!? 復讐のために生きろと!?」
正気を疑う問いにだって「そうだ」なんの気なし。
さもありなんと軽く答えてしまう。
「恥ごと噛みしめるくらい歯を食いしばって生きてみなよ。それで最後はザマアミロって、やってやったんだって、息子と旦那にむかって笑ってやれ」
復讐は終わりじゃない。
始まりなのだ、と。そう明人は豪語した。
「良いのですか!? 今この身に残されているのは憎悪のみ!? もし生きるならば堕し修羅を歩むだけの獣と成り果てるのですよ!?」
「獣になるかはミルマさん次第だよ」
「そんな無責任がすぎるわ!? 畏敬の念で身を窶せと命じるのはアナタでしょう!?」
2つの心を切り替えながら慣れた言い訳を繰り返す。
しかしもう生きたいという欲求には抗えない。彼女はすでに過去に生きたミルマ・ジュリナ・ハルクレートの境遇を逸脱している。
「もうひとりぼっちじゃないってことくらい自分が1番知ってるはずだ」
彼女に生きていてほしい。そう、確定して願う者を明人は知っている。
だから泣き喚く龍へ勝手に生きろと責任を丸投げできた。
なにせ彼女が僅かな勇気を振り絞って生を選べさえすれば事足りてしまう。その勇気ある決断の先には確実な幸福が待っていることもわかっていた。
「もしユエラと死んだアンタの旦那の飛龍、ふたりの気持ちが届いてないのならさっさと死ね」
明人は、目一杯に優しくも残酷な微笑みで理解を強要する。
ミルマが生きようが生きまいがどうでもいい。それだけは絶対的に変動しない構え。
だがそれではユエラが悲しむ。明日の朝腫れた瞼の彩色異なる瞳が曇ってしまう。
だからしょうがなく、最低限で、簡潔な、解決法を用意してやっただけ。同情も純真もミリ単位すら籠めていない贈り物がお棺のなかにしまってある。
「やりかたによっては復讐のために人生を謳歌することだって出来るはずだ。それでもまた道を間違えるようだったら。周りでふらふらつきまとってくる連中に聞けばいいだけだ」
なにせアンタはもうひとりじゃない。
明人が突き放すように言い放つと、やがてミルマも悟る。
「復讐……時の女神への弔い……仲間たち……?」
「飛龍と翼龍……旦那と我が子の敵討ち……とも、だち……?」
言い訳すら止め、完全に時間を停止させてしまう。
絨毯の上へ髪を広げるように座り込んで胡乱に空へなんらかを呟く。
お棺のなかには逃げ道すべてを塞ぐだけの代モノが入っている。だからもう死ぬ理由が塗りつぶされつくし生きるしかなくなってしまう。
これが明人の用意した簡単な策――ミルマ自身が自分を騙す、大嘘の茶番である
「大事なものをぶんどられたんだから相手の大事なものもぶんどってやれ。時の女神に自分が生きたっていう証をまざまざと見せつけて後悔させてやれ」
なにより彼女には多くの友いる。
乳母と慕うものも入れば、きっと笑うようになったミルマに恋するものだって現れるだろう。情緒不安定ながらも見栄えだけは良いのだから。
そして道を踏み外しそうになったとき連れ戻してくれるものこそが友である。今の彼女は、1度目の狂乱の時のよう1匹――否、1体で2匹きりではない。もっと多くの目が彼女を望み、渇望している。
「もう自分たちだけで支え合いながら演じ分けなくても良いんだ。回りにいる誰かに助けての一言さえ言えればみんなが助けてくれるはずだから」
明人は微笑みつつ、ミルマへ手を差し伸べた。
しかしなかなか差し伸べた手が取られることはない。なので仕方なくこちらを見上げたままぼう、と動かないミルマの頭を、ぐしゃぐしゃに乱してやった。ざまあみろ。
「それに――」
今のミルマには、ユエラがいて、タグマフもいる。
きっとディナヴィアだって無表情ながらに許しているし、ネラグァなんかハナから気にも留めていない風だ。
誰だってもう置いていかない、先にすら行かせたりはしない。ずっと横に寄り添って楽しい楽しい夢のつづきを語れるようにいずれなる。
「復讐は最高だよ。色々批判は多いだろうけど、やったらスッキリする。それだけでもやる価値は十分にあるんじゃないか」
だから兄だった青年は、――まるで自分の過去を語るように――親指を立てながら無責任に笑った。
するとミルマも濡れ鼠のような面で痙攣した笑みを作ろうとする。
「ありがとう……! アタクシ……みんなに償います……! すべての同族がアタクシを許容してくれる日まで……ずっと!」
「そして時の女神の首に牙を突き立て笑ってやる……! 飛龍と翼龍にあの怪物の血を捧げてみせますわ……!」
震える声でしゃくり上げながら、見るまでもない。
どれほど酷い顔をしていても笑っていればそれだけで美しいのだから。
「なら帰ってユエラにごめんなさいしてくれよ。あとちゃんと一緒に聖都を回ろうともつけ加えてさ」
明人は――目の奥にツンとくるものを堪えながら――早々に踵を返す。
後のことは別に知ったことではないのだ。彼女がどうなろうが知るもんか。
これから彼女に関わった全員が幸せであってくれればそれでいい、とする。
――……でもあの状態って生きてるって言えるのか? 魂なんだよな?
生を歩みゆく者へささやかな花束を。
贈り終えたのであれば帰るだけだ。いつまでも因縁の……しかも棺だらけの薄暗い場所なんかにいてたまるか。
ミルマの勇気にて、龍玉と愛憎の戦いは真の意味で集結した。
母による因縁に決着がついたとも言える。そうなればこれからまた新たなる戦いの日々か始まるのだ。
未来は誰にもよくことは出来ない、たとえ神であれどだ。
間もなく7種族によって新たな世界の夜明けがくる。
ひた走った価値はきっとあったのだろう。
これにてルスラウス大陸を貶めた宝物戦争の終戦である。
「腹ヘったぁ……せっかくの霜降り肉なのに1切れも食べてないよ……」
早く帰ろ。明人は、気だるげに伸びをくれた。
とんでもない1日だったのだ。最後くらい手を抜いても構わないだろう。
肉が龍たちに食い尽くされていないことを心の底から願いつつ、棺の間を後にする。
○○○○○
……………
棺の影から動く影がひとつほど。
ひょこひょこと身を屈めながら這いだす。
「まったくとんでもないもの連れてきてくれたわね。ここは天使禁制。肝が冷えるどころか凍えて縮む寸前よ」
蝙蝠の尾を生やした少女が、ぐぅっと丸い腰を突きだしながら伸びをした。
ずっと棺の影に隠れながら見物を決め込んでいたからすっかり腰が固まってしまっているのだ。あまりに唐突な天使の訪問だったため隠れることで精一杯。
レティレシアは背に走る鈍い痛みへ舌打ちをくれるのだった。
「あん、もう腰が痛いったらないわメリーの大扉が現出したかと天使のご降臨とはね。断罪だけでも例外的だというのに運命の勅命第1等級までセットとは洒落ンならないわよ」
後につづいてもそもぞ立ち上がる長身の影が1つ。
それと棺のなかから起き上がるワーラビットヘアバンドが特徴的な影が1つ。
合わせて2つ。あちらが断罪と審判セットならば、こちらは兄妹のゾンビセットである。
「しかも主様は魂を横から掠め盗っている身ですし、なるべくなら対面はしたくないですよね」
「どっちの天使様も可愛かったなぁ。あの不自然におっぱい大きい天使様が1等級天使の審判様なんだ、はじめてお会いしちゃったっ。会ってはいないんだけどねっ!」
眉を曇らせたハリムとミリミは、爽やかかつ穏やかな微笑みを浮かべた。
兄のほうは熟した女あたりが好みそうな敵意のない好意的な顔つきである。身なりもきっちりと正されどこぞの城で給仕に勤しんでいても差し障りない。
その兄あっての妹。そちらは酒場で酒を運ぶ愛玩的衣装に貧相な身を包んでいる。
――これじゃ天使2匹と対等の勘定とは言えないわね。雲泥あるいは月とゴブリンほども格差があって嫌になるわ。
「ははは。僕らの主様は僕らをみながらなんか言いたそうお顔をしておられますねぇ」
「ほらほらっ、主様はお綺麗なんですからとびっきりのスマイルがとてもよくお似合ですよっ」
レティレシアに流し目を食らった兄妹は、めげない。
どころか機嫌を直せと彼女の周囲をぐるぐる回りはじめる始末。
――なんでコイツらはこんなに着やすいのかしらね。別にいいんだけどさ。
レティレシアはうっとおしい兄妹を華麗に躱していく。
どっかりと慣れた椅子に座り込んで長く肉の厚い足を回し組む。
「ったく……とんでもない日だったわ。時の女神の襲来に、天使の降臨。しかも時の牢獄に食われて50近い周期を彷徨わされるとはね」
苛烈怒涛の1日だったと言えよう。
時間にすれば数時間ほどだっただろうが、牢獄で体感した時間はそのウン千倍にも及ぶ。
助けに入ってきたであろうエーテル族の男もおそらくは数年の時を要したに違いない。よくまあ報酬もなしにそんな大層なことをするものだ。
「現界している上にどうせ暇なら紅茶を入れて頂戴な。……正直マジでもう1歩たりとも動きたくねぇ……」
レティレシアは椅子の肘置きに頬杖を突きながらついと指を振る。
するとハリムとミリミは結託したように主の介護をテキパキと進めていく。
「アッサムダージリンアールグレイウォッカのどれがいいです? オススメは最後のやつですが?」
「最後のは酒じゃねぇか。こっちは普通の茶をよこせって言ってるの」
「冷めたクッキーとそこそこ暖かいクッキー、どっちがお好みです? あと私の愛情が籠もりすぎて焦げたクッキーもありますけど?」
「けどぉ、じゃねぇよ。焦げてなければ冷たくても暖かくてもどっちでもいいわよ」
音程は違うが似た声で「「わっかりましたー!」」そう言って兄妹は元気に棺の間から元気よく飛びだしていく。
やかましいのがでていくと、とたんに部屋は元の形をとり戻す。
これが通常である。冥なる祖母によって大陸へ遣わされた日から延々とつづく飽いた日々の断片だった。
だからこそ不意を打つ突飛な事態に対応できなかったとも言える。安全な籠もり場だと安心しきっていたフシがないわけではない。
「……クソが」
誰もいない部屋だ。悪態のひとつくらいつきたくもなる。
対立神との力の差は想定していた最強の遥か高みにまで至っていた。
「……足りねぇ。クソみてぇに、ウンザリするくらいに、手も足もでなかった。運命から授かった時間停止能力があそこまで完成しているとはな……」
レティレシアは、1つ結びを揺らし、頭をどっぷり抱え込む。
怒りが湧いてくる余地すらもないほどの決定的敗北だった。
数千の時を数えながらも対応していたはずだった。にも関わらず満たされることはない。
「もう幾ばくも余命は残されてねぇ……! しかも100分の1ていどの時間でアレに到達しろってか……冗談じゃないわよ!」
レティレシアは血抜き用の牙を剥いてギギ、と歯ぎしりをした。
本日は肉体が心底憔悴しきっている。肘掛けを殴る力は弱々しいし、地べたに転がった大鎌を拾う気概すら根こそぎ失せている。
とはいえ今回の敗北から得られてものがゼロというわけではなかった。
「初めて手に入れたレアが1つ、か。龍の魂魄が余の特殊な血に順応出来さえすればとびきりの戦力になってくれるわね。今まで拾い集めた救世主のトップをハれる才能をもっているはずね」
レティレシアは豊満な胸に手を添え、そっと目を閉ざす。
「とり囲ったときとは比べ物にならないほどやけに安定してるわね。さっきのママゴトが良い方向に働いているということかしら」
もはやあの双頭の魂は共にある。だからこうして意識を集中させることで感情や能力を推し量ることすら容易い。
当初は捨て鉢。てっきり本物の死骸であったかのように壊れかけだった龍が、徐々に生命を蓄え始めていた。
「マナの流れに生命力が加わりつつあるわ、それに戦うという意思もかなりのもの。こうなってくると彼女のなかで余の血と順応が発生し徐々に才能変化を促すはず」
良い兆候であった。
もしあの龍が欲、あるいは信念を欠いたままであればゴミ以下の価値でしかなかった。
しかし今は活力と怨念を携えている。彼女自身が力を得るにはなにより望むことこそ重要だったのだ。
レティレシアは――微かな希望に縋るとわかっていながら――悪食な笑みで半月を形作る。
「あれはなかなか悪くねぇ。しかもレアもんのなかでも新レア相当とくれば極レアってとこだ。どこまで導きの光に化けるか楽しみったらないわ」
すると「……あら?」ふと、見慣れぬものがそこにあることに気づく。
疲弊していたため気づかなかったのか。わりと近い位置にソレは置かれている。
――木箱? なぜこんなところにあんなものがある?
私室に等しい空間に置かれた異質。気にならぬわけがない。
レティレシアは両脚に活を入れて椅子から立ち上がった。
「時の女神が忘れ物でもしたってことかしらね?」
言ってみて気づく。だとしたらヤバい。
もしそれが本当でとりにでも帰ってきたら今度こそ洒落にならないことになる。
レティレシアは慌てて蓋の開いた長方形の木箱へとパタパタ羽を揺らしながら駆け寄った。
「……ああそういうこと」
中身を確認して思わず頬が緩んでしまう。
こんな気持ちはいつぶりだろうか。もしかしたら生まれて久しく感じたことのない憂慮すべきものである。
そしてコレはきっと希望のタネであったことを瞬時に理解した。
と、なればやるべきことは1つ。
「ゾンビ共集合なさい!」
レティレシアは、タイミングよく戻ってきている途中の兄妹を急しにかかった。
「お茶のほうが入りましたけど、まだなにかご入用ですか?」
「あ、もしかして焦げてるやつも食べたくなっちゃいました? あれもっと暖めるともっとこげちゃいますけど……」
状況を理解せぬ者にとってはなにがなんだかわからないだろう。
しかしレティレシアはつづける。
「アイツの名――いや、そんなことはどうでもいいわ。とにかくアンタたちはアレを守りなさいな」
肉厚の臀部をどっか、と椅子に預けながら命じた。
だがどうやらふたりはお互いに見合い、小首をきょとんとひねる。
「守るってなにをです? お茶のことですか?」
「それともクッキーのことですか?」
揃ってティーポットとクッキーを皿ごと掲げた。
どちらでもない。というより茶と菓子を守るという思考回路がどうにかしている。
「どっちでもねぇよ。アレだ、あの……にん、なんとかっていう外側からきたっていうオスがいたでしょう?」
「ああ、明人さんのことですか。なんなんとかではなく、たしか人間という種族ですよ」
「蒼様だね! はああ……とっても優しくて温かいおかただったなぁ……」
レティレシアにとって名前なんてどうでもよい。オスであるということが穢らわしく忌み的なのだ。
なにやら視界の端にチラチラ写り込んでいたことはあった。が、直視するに至らない。ようやく認識し始めたのは――……たしかスカラヘッジドラグコアの件辺りだったかしらね?
「アンタたちには余のマナを潤沢に使用する権限を与えるわ。だからソレの周辺に張り込んでいざというとき守ってやんなさい」
「いいんです? 聖戦のために節制してるとお聞きしていますが?」
「だよねだよね? 槍の救世主さんが主様はケチくせーって愚痴ってたし?」
主の命を聞いたハリムとミリミは、はっ、と目を丸くした。
驚きながらも着々と茶の準備を整えていく辺り流石と言えよう。すでにテーブルの上には茶会のセットが組まれている。
レティレシアは引かれた椅子へ腰を据えながらも説明をつづけた。
「神より賜りし宝物の混乱、スカラヘッジドラグコアの討伐、そして今日のこと。ともかくこれ以上の借りを作っておくのは私的の教義に反するのよ」
注がれた茶で舌を潤わせる。香り高い香気が口腔内から鼻腔にまで安らぎを与えてくれた。
それから冷めながらも歯ざわりの良い茶請けで香りをリセットし、もう1度ほどガブリとティーカップの中身を煽って空にする。
生気が満ちていくのがわかる。今日という疲れを身体が自覚し、瞼の辺りがとろんと重くなっていく。
「わかったかしら?」
そう、問う。
しかしこれは問いかけではない。主からの厳粛なる命令である。
ハリムとミリミは同時に片膝を床につき、「「かしこまりました」」指示を受け入れた。
「とりあえず明日からになさい。今日はお疲れの主様をマッサージすることがアンタたちの仕事よ」
そしてふたりは揃って「「えぇ……」」戸惑いを顕にするのだった。
棺のなかにあったもの。それはどうやらとてつもない大嘘つきが用意したものであろうもの。
なかなかに粋で、姑息で、茶でも飲まねば苦笑を堪えられそうにないほどのもの。
――蒼、か。そういえばメリーとリリーが慕っているらしいわね。
友が茶会の席で楽しそうに話題に上げていたことを思いだす。
当時はオスの話題なんて、と。耳障りくらいにしか思っていなかった。
しかしどうやら本当に僅かながら価値ある者であるようだ。
――天使を脅し道理を捻じ曲げてまでやることがコレ、か。
長方形の箱の中では眠っている。
否、息絶えてなお繋がっていた。
――ま、もう会うことはないでしょうけど。だからゾンビ兄妹をむかわせるわけだし。
レティレシアは仲睦まじく寄り添って眠る男女の龍を肴に茶を嗜む。
味は、つい頬がほころぶほど甘くほろ苦い。
きっと2匹はもう離れ離れにはなることはない。そういう魔法ではない魔法によって、2つの躯が1つの箱に納められている。
――そのうち聖女でも呼んでなんの意味のねぇ祈りでも捧げてもらうとしましょう。
どちらの寝顔も幸福な夢を見たまま。
幸せだった、と。見るものすべてに自慢するよう、2匹は寄り添いながら棺の中で眠りつづける。
それも1つの終わりということなのだろう。母であったはずの女は、偶像の躯とともに、ここでこうして眠りつづける。
「嘘を真に受け空想に駆けるか」
「なにか言いました? 紅茶のおかわりですか?」
「なんでもねぇよ。でもおかわりはさっさとよこしなさい」
あの龍は新たな道を歩むための大嘘に乗って騙されることにしたのだろう。
そうなると屈強の龍へ優しき矛盾を与えた大馬鹿者がいるということ。
夢を置いて夢にむかう。それもまた希望と呼ぶもののはず。
レティレシアは異界へつづく大扉に寄りかかるみたいにして、背もたれへとふんぞり返る。
「フ、フフフッ。笑えるくらい儚くも甘い甘い夢だこと。とんだ大嘘つきが迷い込んだものよね」
甘いメロドラマ。そして復讐への航路。
これを笑わずにいられようものか。レティレシアはゾンビ兄妹に身体のマッサージさせながら、笑い噛み殺す。
「ご機嫌みたいですけど、めちゃくちゃ肩凝ってますねぇ。女性とは思えない鉄板みたいな硬さしてますけど」
「でも脚はもちもちだよ? たぶん重いものぶら下げてるから肩が凝っちゃ、ッう!? なんかジェラシー……」
大嘘つき馬鹿げた嘘を信じた龍がいる
だから大馬鹿な龍の報われる日を待ってやろうと思った。
世界が終わるまでの時間は、瞬くほどに短いが、たっぷりとあるのだから。
「主様……ソレってなにカップなんですか?」
「数えたことねぇよ、んなもん」
恨みがましいミリミをかっかと笑ってやる。
今日あったこと丸ごと笑い飛ばせるくらい愉快な夜だった。
○○○○○




