568話 【蒼VS.】終焉の時満ちる時 新世界の女神クロノス・ノスト・ヴァルハラ 3
ふぅん、と。クロノスは変わらずふわふわと上下に浮かびながら艶かしい吐息を零す。
こちらの出方を伺っているのだろう。流麗な脚をしなやかに組み替える。
それから頬肘をついて小さくくつくつと喉を転がした。
「私、そうやって粋がる天使を何匹か捕らえたことがあるのよ。興味本位ってやつかしらね。連中は私と対峙した時点で生命の主導権を握られていることに気づいてすらいなかった」
明人は粛々と語られる声に耳を傾けつつ、手にした剣の調子を量る。
ヴェルヴァの握りを作ったのは師であるゼト・L・スミス・ロガー、そのドワーフだ。ルスラウス大陸随一の師が調整した柄に不手際など有りはしない。
だとすればあとは剣をもつ人物の力量である。剣聖リリティアならばこの剣をもってさえいれば女神相手でも戦い抜くことだろう。
「捕獲した天使たちはさぞ驚いている様子だったわ。瞬く間に己が檻に閉じ込められているんだもの。仕方がないといえば仕方がないのでしょうけど」
こちらの準備中でも、クロノスは紙芝居を読み聞かせるようにして嬉々として語る。
「まず四肢をもぐ前に羽を毟ってあげるの。そうするといよいよ自分が置かれている立場を察するのね。股布を濡らしながら地べたにへたりこんで命乞いをはじめるの」
物語に登場する天使たちはおそらくすでに生きていない。
彼女に捕まったら最後だ。凄惨な末路を迎えるだろう。
この短い時間のみの接触でもこの女神ならばそれくらい簡単にやってのける。察せてしまう。
「もちろん話なんて聞かなかったわよ? だってあっちが殺意をもってむかってくるのだから、こちらからも相応の報いを与えても文句はないはずでしょう?」
そうではなくって? 優越感たっぷりの問いかけに、明人は「…………」無視という形で答えてやる。
それでもあちらは別段気にした様子もなく天使の不幸な末路を語っていく。
「実験の結果は天使も獣も変わらない身体構造で創造されているということがわかったわ。それにしてもぉ……どうして覚悟の上で挑んできたくせに、死を前にすると、びぃびぃ泣き叫ぶのか不思議ったらないわ」
もともと質問や疑問を誰かへ投げていたわけではないのだろう。ただ喋りたいだけ。
クロノスはずっと自分がやりたいようにやっているだけなのだ。これまでも、きっとこれから先も、ずっと。
そしておそらく彼女の求めるものは、虚。
現実でもなければ仮想ですらない。満たされぬ欲求を破壊衝動で仮に満たしているだけなのだろう。
明人は 試しに剣を往復して振ってみる。
「……ヴィエルヴァが軽い。実は身体の調子が良いんじゃなくて脳みそがぶっ飛んだのかね……」
まるで羽を振っているかのよう。
脳がアドレナリンに浸かりすぎているのかもしれない。鉄塊を振る筋肉すら恐怖と高揚で酔っ払ってでもいるのか。
ともかく万全だ。よく寝て起きた朝くらい体調も精神面も安定している。死の淵に立たされているにも関わらずだ。
そして明人は、世界を渡ってからずっと隣にいてくれた者へ、そっと手を伸ばす。
「リリティア……」
触れてみるとリリティアの頬は冷え切ってしまっている。
姿は剣を装備している構えのまま。反応はおろか呼吸すらしている様子はない。
しかも時が固まっているからか頬に触れた指は沈みこまないし、触れているのにいつもみたいな微笑みを返してくれない。
「ユエラ……」
もうひとりのほうも止まったまま。
ユエラは目を丸く、フチに涙をいっぱいに溜めて座りこんでしまっている。
なぜ衣服を着ていないのか、その身を覆う蔦はなんなのか。問いただすなら今ではない。
「……っ!」
明人は、ふたりの様子を横目に確認して異常に気づく。
唐突な孤独感に胸がきゅう、と押しつぶされそうな感覚を覚えた。
それでも優しさを目一杯に繕った声で、身を翻す。
「それじゃあ、いってきます」
日常であれば、いってらしゃい――ではなく私たちも一緒に連れていって、と。活気ある声が返ってきたことだろう。
明人は、ふたりに一時の別れを告げる。真顔で誰も頼れないたった1人の戦いへと赴く。
「旅立ちの準備は終わったかしら?」
笛のように澄んだ音が静寂に尾を引く。
クロノスは待ちくたびれたかのように、んっ、と伸びをして背を反らした。
待っていてくれたなんてとんでもない。そんな人間臭いマネをコイツがするわけがない。
だから明人は短く「おかげさんで」と、クロノスを低い位置から精一杯睨みつけた。
「もうあまり長くは時を止めていられないの。別離世界移行を解除すると同時に天使たちがなだれ込んできちゃうのよね」
「そりゃあ重畳だ。せっかくだし天界にも役に立ってもらわないとな。こっちもがんばって時の牢獄だかを倒したんだからさ」
「これがもし時間稼ぎと言うなら大成功よアナタ。世界でもっとも時の女神を追い詰めたことを誇りなさいな」
「それなら良い土産話になりそうだよ。帰ったら酒のつまみにでもしようか」
高低差のなか睨み合う。
瞬きすら許されない。肌の表面が凹凸立って敏感になりながら痺れる。緊張感が血を冷やしていく。心の臓がエンジンの如く激しい暖気を開始する。
「本当に帰れると思っているの? さきほど説明してあげたでしょう? 私に出会った瞬間運命は決しているのだってね?」
「これから聖城のバルコニーでバーベキュートゥナイトなんだよ。肉を食うんだから運命如きに負けやしないさ」
「あら素敵っ。それはとても愉快で思い出に残る一夜を過ごせそうね」
時が止まっているのだからこれから時間の余裕はありすぎた。日の入りまでの時間はまだまだ飽きるほどあるだろう。
そう、時が本当に止まっているのであればの話だ。明人はスニーカーの爪先で石床を叩いて見る。紐の締りも悪くない。
さらには、ここまで言われて黙っていられる者が世界にどれだけいるだろうか。
格下の、路傍の石ころ、ただの雑魚。どれだけ強がりぶった安い挑発であっても、相手が有頂天であればあるほどに、よく効く。
「じゃあ――」
すると理想通りに、クロノスが動く。
白く長い指が膝上からついと上がっていく。
「お別れよ」
すらりと指が標的を捉える。直後に明人の周囲に黒い霧がもうもうと湧きでてくる。
霧のなかからあふれるように現れたのは数匹の獣だった。
プリズマビーストは命じられるまでもなく、明人の周囲を徘徊しながら涎を滴らせる。
「幸福な夢を見ながら潰えなさい。それが私からあなたへ贈るせめてもの手向けよ」
クロノスが言い終わるのを待たずして獣たちが一斉に明人へ飛びかかった。
「1日に2回も食われてたまるかよ!」
先ほどクロノスが語っている間に握りは見定めた。
ならば次は実戦で構えを学ぶ。
「ハアアアア!!」
「Kii! GEッ!?」
まず1匹が肩口を蒼に撫で斬られ首を落とす。
片手で振れば格好はつく。だが片手では竹束ですら振るうにも苦労する。
つまり鉄塊をもつのならなおさら片手は現実的じゃないということ。わかっているからこそ小指から薬指と巡に意識を巡らせ、剣の柄に力をぎゅうと籠める。
明人は、重ったるく長い剣の切っ先を、原理にて制することに成功していた。
――剣を無駄なく振るにはシーソーの容量が肝心だ。左手の力点で剣を振る。その際に柄を長くもつことで右手がテコの支点になる。
「kyyyyeeeee!!」
「Kiiiiiiiiii!!」
「――フッ、ハァ!」
そして今度は2匹を2振りで始末する。
見事な両断。2匹の獣は4つになって勢いのままに転げ、動作を停止した。
剣の構えに重要なのは物理である。それもテコの原理を応用する。
微細な運動エネルギーで巨大を動かす原理の応用。そしてとある武道との2段構えを用いている。
――昔、ちゃんばらごっこでどうしても空と旭に勝てなかったから悔しくて読んだんだ! 埃かぶってた剣道の指導書を読んでおいて正解だったな!
明人が参考にしているのは剣の道――すなわち剣道。
所作を重んじる武道であるため実戦となれば役に立つことは少ない。ほぼ皆無と言っても差し支えない。
だが、無駄というわけではなかった。
なにせ遥か昔、世が乱世と呼ばれていた時代で人を辻斬っていた技巧である。生きる術と呼ぶべき歴史ある殺陣の代物。
明人は次々に現れてくる獣たちを切り結んでいく。
「動きだす前に斬るッ! 待っててやるほどオレは甘くないぞッ!」
それも敵が7色の光を灯らせるより先に薙ぎ倒していく。
くるり、くるり、歩幅は小さく。激しい踊りのリズムを意識する。
剣は流れに逆らわず、川のせせらぎのように。敵を斬ったなら最後まで斬り抜くことも忘れない。
1人が踊る、闇に踊る。
「帰るんだッ! ココにいる全員を連れてッ! すべてを救うッ!」
蒼の拍子が飛沫を散らす。銀閃がなにものも触れさせることはない。
人という垣根を越える。蒼をまといし剣は異形の獣を高速で斬り伏せていく。
――身体が軽い! ヴェルヴァがオレの腕の一部になっていく!
昨日の自分より先を征く。
否。昨日 ま で 自分を、今日の自分が全速力で追い越していく。
どうしようもないほど爽快な気分だった。だから明人は狂ったように剣と踊りつづける。
「kieeeeee!!」
仲間を屠られた獣がまた1匹、正面から挑んできた。
ソレに釣られるよう残り2匹も左右両面から同時に明人へ大顎を開けて飛びかかる。
「――――――ッッ!!」
面倒になった明人は3匹の獣を1撃で決めた。
腰を捻りきっての大ぶりをくれる。180度の半円が3匹の獣を同時に処す。
まるでスーパーマンになってしまったかのような気分だ。アメリカンコミックで見たなんでも笑顔でこなしてしまう万能男のよう。
「ハァアァァァァァア!!」
しかしここにいるのもまた1匹の獣である。
敵が獣なれどこちらもまた死を決して戦う世界に1匹きりの獣だ。
蒼い瞳が闇に浮かび燃えるような光を灯す。表面を覆う白光もすでに身体の体積すらを越えて輝いている。
振るう剣に規則性はない。ただ敵と見なしたものを次々に切り刻んでいく。
剣のドレスに触れた獣は巡に分断され、生命としての鼓動を止めた。
「ガラアアアアアアアアア!!」
明人喉を枯らして吠えつづけながら掘削していく。
その動きは人の許容を遥かに超過している。限界のキャップはとうに外されている。
過去を残し今を征く。見るものによっては1人でも2人でもある。次から次へ湧きだす獣はそれすべて骸となって重なっていった。
「フフッ、ようやく本性を現したわね。これが審判の天使がお考えになった私に対抗する策ということかしら」
クロノスは、顎を高くして舞う蒼を見下すように眺めていた。
笑っているが、そうではない。明らかな殺意を籠め、口元では三日月状の狂気を象る。
「それにしてもずいぶんと様になっているのね。一端の冒険者みたいな剣筋だわ」
「そりゃどうも! うちには教本とするならこれ以上ない完璧な師匠がいたんでね!」
この期に及んで明人は嘘をつく。
見ていたのだ。ずっと。惹かれていたと言い換えても良い。
普段はあんなにふわふわとした笑顔の似合う女性なのに、剣をもてば敵はいない。
踊る姿は麗しく、剣を手にする勇猛さは憧れ。
だから追いつこうとした。臆病者ではない見合う男にならねば届かぬと己に課した。
脳が、舞う姿を覚えている。
網膜が、白鳥の水を浴びるような美しい県議を写真のように焼きつけている。
彼女がこちらを待っている間だってそう。こちらも彼女を追いかけつづけていたのだから。
「リリティア!!」
明人は剣を構えながら剣聖の名を呼ぶ。
「捨てろ打ち破れ! もっと先へ! オレをもっと先へ連れて行ってくれ!」
身体のバネを利用して剣を螺旋如く繰り返し、奮う。
信じるのは己ではない。ずっと隣りにいてくれた彼女のみを信じる。
肝心なポイントさえ押さえればあとは豪放磊落。生きるという生命本能に従って生き抜くのみ。
「こっちはぐずぐずしながらも十数年生きてんだ! これだけ不格好に生きていれば生きることに関しては誰にだって遅れをとることはない!」
コツは柔軟性である。剣を振るのは腕ではなく腰と脚。
身体の芯が柔らかければ柔らかいだけ長剣の先は顕著に、むかってくる獣を横柄に刻めた。
「kiiiiii!」
そしてわざわざ求めるまでもなく次が食らいついてくる。
獣の本能でも備わっているのか錯乱を誘うように軽やかなステップを踏む。
4足の足運びは4通りの複雑な挙動を可能にした。稲妻のコースどりで確実に距離を詰め、人肉を貪ろうと地を穿つ。
「keee――ッ!?」
「オマエらの狙いは首だけだな、だから読みやすい」
明人は下段から大上段へと切り上げた。
蒼の閃がプリズマビーストの正中を沿うように薙ぐ。斬るのではなく撫で斬る。
「フフ」
戦場の音に似つかわぬ囁き。
その後につづくよう金十字の剣が縦に割られた獣を貫く。死体を目隠しにして明人の額目掛け、強襲する。
1匹の敵を斬った直後では心体ともに無防備な状況となっていた。タイミングとしてはこれ以上ないほど完璧であった。
クロノスは、明人を仕留めたと見るか、くっくと笑う。
「とるに足らぬ存在とはいえ将来敵となる芽は摘んでおくのが私のやりかたなの。残念だけど、ここで死んでもらうわ」
蒼が鮮明に揺らぐ。むかいくる剣をどうしたものか。脳が即時演算をはじめる。
放物線を描き振り上げた剣を振り下ろすには時間が足らず。首を反らしては次の予測行動に難がでる。
「――ならァッ!」
そこで明人は両手持ちから片手しかも逆手持ちへと構えをシフトさせた。
金十字がちょうど当たる位置まできたのを目視し、剣を真っ直ぐもったまま直角に落とす。縦に斬るのではなく下へ直角に落として鋭い受けの盾とする。
ヴェルヴァの剣身に触れた金十字は悲鳴のような短く高い音を奏でた。
「捨てるような剣にオレの打ったヴェルヴァは負けない」
信念の唐竹割りである。
金十字の剣は切っ先から割れてなにも貫けず。どころか切っ先から柄までを割られて剣と呼べぬゴミクズと成り果てた。
僅か0コンマ1の世界である。人が生きるにはあまりに早すぎる。目まぐるしいにもほどがある。
しかし明人は愛剣とともに生きていた。
人生に降りかかるありとあらゆる困難と同じくらいの濁流を、すべて斬り伏せていった。
「数15あまり……10の振りでいければ合格点ってとこか」
背骨に冷却水でも流れているのかと疑うほどに冴え渡っている。
どこへでも疾走れる気さえした。覚悟さえあれば翔ぶことさえ厭わぬほど完成している。
身体に蒼が馴染んでいく。なんでも出来てしまうという錯覚が気球のように膨れ上がっていくのがわかった。
――神弓コーリング……ったく人にむかって物騒なもん撃ちやがって。
明人は斬撃の合間にチラとそちらを見た。
エルエルは神弓を構えたまま。こちらへ矢を放った姿勢で静止している。
|彼女(?)は、あの最中に撃っていた。固定観念を曖昧にする魔法の矢を明人へむかってだ。
――偶然、じゃなんだろうな。
言ってもあれで神の御使いである。
現れたタイミングから現状の点と点をひと繋ぎにする。すると笑えるほどに直線が出来上がっていく。
見た目は腑抜けでも一筋縄でいくような存在ではないらしい。
「あとできっちり始末はつけてもらうからな」
そう言って明人は最後の1匹を切断し、骸へ化かした。
予定通りの10回分の振りで15の敵を刻み尽くした。リリティアであればもう5つほど少なく出来たであろうが、小心者にはこれが及第点である。
そして獰猛な獣が息絶えると再び伽藍堂な静謐が場を支配した。
「ンンー……これもひとつの経験とするべきなのかしら?」
「もうオシマイするかい。正直こっちも作り物とは言え無駄な殺生を好まないんだ」
アレが素直に負けを認めるわけがない。知りながらも明人は、問う。
しかしクロノスは聞いているのかいないのか。弧を描く指を艶めく唇へ押し当てぼんやり空なき空を仰いでいた。
色気を含んだ音色でうんうん唸るだけ。金十字やプリズマビーストの追加をしてくる様子もない。
そしてパチン、と。水が弾けるような軽い音が静寂を乱す。
「そうね。では、ここで一旦引くとしましょう」
至極あっさりとした敗北宣言だった。
これには思わず明人も肩をすかす。「……はあ?」という疑問を呈さずにはいられない。
するとクロノスはようやく明人と目を合わせた。7色の眼を狐のように妖しく細める。
「ここで敗北を知れば私はより完成へと収束するわ。心の構築に足りないものを得ることで未来へ活かすの」
「自分から辛酸を舐めるっていうことか? こっちとしては大助かりだけど……奇特なやつもいるもんだな?」
「でもいただくものはきちんといただいていくわ。負けるだけっていうのはとても悔しいことだもの。せめて引き分けくらいにはさせてもらうわよ」
クロノスの語るソレは、明人にとって引き分けではない。
龍の魂を根こそぎ奪われたとするならば圧倒的に揺らがぬ敗北である。
「そうかい」
明人はおもむろに石畳の隙間に剣を突き立てた。
剣なんてもっているのも億劫。鉄塊を握りつづけるにはやはりむいていない性質。
それになによりもう剣を振る必要はなくなったのだから。
「あら、ずいぶんとあっさりしているのね? もう少し悔しがってくれないとこちらとしても――……そういうこと」
「ようやく気づいたか。オレははじめから勝とうなんて微塵も思ってなかったんだよ。オマエがひとりで指人形遊びしてただけってことさ」
「ふふ、本当に素晴らしいわ。……本当に、ねぇ?」
棺の間にあるのは闇。対峙するのは蒼と7色だけ。
クロノスが予め引いておいた紅の帯が消失している。
それはなぜか。明人が猛攻を潜りながら化身をすべて斬り刻んだから。
策は成った。だからこうしてひと仕事終えたヴェルヴァを手放している。
「もしもう1度仕掛け直すならオレは全力でオマエを妨害する。龍族の命はもうオマエに1つたりとも渡さない」
「せっかく生き残れることが確定しているのに殊勝なことねぇ? そんなことをすれば今度こそ死んじゃうかもしれないわよ?」
「たとえこの命尽きようとも必ず守り抜くさ。もうたった1人きりで置いていかれるのは勘弁なんだよ」
迷いのない威風堂々とした返しだった。
蒼に駆り立てられているからか覚悟は十分にある。なにより死ぬよりももっと怖いことを知っている。
死への恐怖は当たり前のようにある。だが、ここで逃げることのほうがもっと恐ろしかった。
「頼むここは引いてくれ。オレなんかじゃあどう足掻いても勝てないんだよ」
清廉とした眼差しを上空のクロノスへ投げる。
闘志すら籠められていない臆病者の瞳だ。この世界の月色によく似た蒼く透けるような蒼を孕んでいる。
クロノスは、しばしニタニタという意地悪じみた表情で弱者を見下す。
「アナタ面白いわ、私のものになってみない? 静止世界を作る私と接触できるアナタが組めばありとあらゆる勝利を容易く得ることが可能になるわ?」
「勝ちに興味はないよ。オレは負けないために生きてるだけだからさ」
「そ、なら交渉決裂ね」
クロノスが音もなく地上へ降下を開始した。
そして勿体ぶるように腰を揺らす足どりで明人へと歩み寄る。
さらに頬へそっと手を添えた。
「では引き分けということにしましょう。なによりアナタがいなくては龍玉を手にする事はできなかったんですもの。いわば……恩、じん?」
「恩人で意味はあってるよ、色々言いたいことはあるけどさ。それにたぶんオレが翻る道理を使わなかったとしても結果は変わらない。龍玉を手に入れるのだって時間の問題だったはずだ」
「そうね。でもアナタが手伝ってくれたということは事実よ」
ひどく作り物臭い手が頬を包む。まるでマネキンに首根っこを掴まれているような感覚に近い。
それでも女神の名を冠するだけあってその身は極上の限りだ。大人から香るような甘く艶かしい匂いに脳がトロかされそうになってしまう。
すると次第にガラガラと音を立てて世界が崩れていく。1人とひとりだけの白と黒の世界が破砕の音とともに色をとり戻していく。
「じゃあ短き生を送る恩人へせめてもの餞を。お別れの贈り物を差し上げましょうね」
クロノスはそう言って軽い口づけを交わす。
抵抗の余地はない。ただ明人は嵐が過ぎ去るのを待つことだけで己を保てていた。
「ふふふっ、《時渡し》!」
その瞬間世界が1点のみ歪んだ。
「ッッ!? こ、これは――」
「フフッ、シンセカイデアイマショウ?」
いつか聞いた文言を唱えたクロノスは、忽然と明人の前から姿を消した。
瞬くよりも刹那の間だった。影すら残さず彼女の姿は消滅している。
女神が姿を消すと、まるではじめからなにもなかったかのよう。苛烈な戦闘も、命を焚くような死闘も。なにもかもが嘘だったみたいに静寂と平和が戻ってきはじめていた。
少しずつ足並みを揃えるようにして現実感が帰ってくる。
――……目的……そういうことだったのか。
明人は牙を剥きだしに拳を握りしめた。
高揚する心と反比例するようにF.L.E.X.が沈静化を開始する。戦いが終わったのだと脳と身体が同時に理解したのだ。
するとあちらでも混淆の祠側で戦った戦友たちがぞろぞろ棺の間へと踏み入ってくる。
「せんぱーい! 腰抜けてんで肩貸してくんねーです! ったく、マジでヒデーめにあったです!」
「僭越ながら私の肩でもよろしいですかな? タストニア様?」
駄々をこねるタストニアをレィガリアがすかさず抱えあげた。
その後ろからもハリムとミリミのゾンビ兄妹がつづく。
「天使様なんですし飛べばいいんじゃないですかね?」
「お兄ちゃん。女の子は時として誰かに頼りたい生き物なんだよ」
誰ひとりとして失わず。
そして1人しか知らず。
「あ、あれぇ!? 私のヴェルヴァがなくなっちゃってます!? 明人さんがくれた私のヴェルヴァがなくなってるんですけど!?」
「焔龍ぅ~僕もう疲れたよぉ。抱っこしてー」
「断る」
龍族たちも敵性反応がないと見るや賑やかなもの。
明人には、1秒にも満たぬ鮮烈な記憶がまるで遠い過去のようだった。
――エルエル。オマエがオレに見せたかったものはアレだったんだな。
クロノスが別れ際に使った魔法はなんだったのか。
とにかく魔法の先に1人は夢を見た。
明人はなにも語らず。弓を手にした審判の天使と遠間から見つめ合う。
「…………」
エルエルはただにんまりとふやけた微笑みをくれるだけだった。
死と隣り合わせだったという実感はまるでない。静止した時のなかから帰還したという喜びすらも感じる暇さえなかった。
だがとりあえずは成功したということだろう。ユエラとミルマが涙を流しながら抱き合う姿を見つつ、明人は剣を手に仲間たちの元へ帰ることにする。
『《悠久なる時の領域――』
アレはきっと夢である。現実なわけがない。
クロノスの魔法によって見せられた一時の幻想なのだ。
幸福で儚き、寝てみるような夢の話なのだろう。きっとだ。
ここではないどこか別の場所の記憶か記録を見せられただけ。
『餞のための前奏曲》』
詠唱によって現れたのは億をゆう超える金十字の大量である。
それに立ち向かうようにして、ある影は2体ほど。1つは明人にも見たことがある背だった。
しかしもう1つはよくわからない。人の姿ですらない歪な背が並んでいた。
そしてその2体の間にももう、1人。蒼をまとった背があったのだ。そこまでがクロノスによって見せられた別れの一幕である。
「2体の神と……祈り女神の紋章……」
たなびく裾長の白衣にはとある紋章が描かれていた。
「あれはいったい……」
己の手に問いかけても答えてはくれない。
ただそれは人間にとって確かな希望に見えたのだ。
この間違えつづけた世界に見たたった1つの道標だと思えた。
そんな気がした。
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