566話 【蒼VS.】終焉の時満ちる時 新世界の女神クロノス・ノスト・ヴァルハラ
たったひとりによって巡るだけの孤独の世界。寂しさ以外にナニモナイだけの世界。
音もなく色もない空虚な伽藍堂。生も迎えず死すら訪れぬ分断された切れ端の世界。
そこへ7色を砕いたような時計盤が突如として現れる。
「相変わらず埃臭くて陰気臭いところね。天使の介入も懸念すべきだし、それに息苦しいわ」
波打つ盤の内側から歩みでてきたのは、絶世の美女だった。
その身は極上と称して差し障りないほどに完成されている。世の男たち虜にし、欲望の視線を独り占めにできるほどの価値があった。
緩急際立つ身に帯びるは法衣と呼ぶに相応しくないほどに露出が高い。
見せぬべき箇所を隠すだけの布きれ。ヒップとバストのみを隠すのみで留め具もなければそれはもはやただの布でしかない。
「これほど計画から逸れるとはなんてね……ふふっ!」
彼女が細くくびれた腰を揺らすと豊満で型崩れのない毬がふかふかと重力に逆らって弾む。長く細いおみ足が伸びるたびひたり、ひたり。湿り気の多い足音を奏でた。
止まった世界にはただひとりきりのみ。7色の眼をした流麗美女のみ存在を許されている。
「はぁ……世界とはなんと激しく揺れ動くの……!」
現界せしクロノスは、彫刻のように整った顔立ちでうっとりと目端を沈めた。
若干ほど雪色の頬に桃を帯びる。まるで白肌に、ぽっと桜が咲くかのよう。
「見ているだけにも関わらずこんなにも展開してしまうだなんて……! ああ、この世界はなんて素晴らしいのかしら!」
熟れた杏色の唇で熱い吐息を吐ききるくらいに吹く。
肉の厚い太ももをこすり、こすり。股ぐらに腕を差し入れ腰を軽く揺らめかす。近づけた指に舌を入念に這わせて唾液をまぶしていく。
まるで発情した雌のように肢体を汗と体液で濡らしていった。
「んっ、ふ! 高潔でいて、ぁんっ、高尚、崇高なれど尊大……っ! 過ぎたる美さに高ぶってしまうわぁ……!」
太ももをこすり合わせる肌の音に混ざって粘液質な水音がこぼれた。
クロノスは、膝をカクカクと震わせながら覚束ない足どりで近づいていく。
分厚い硝子の塊を愛でるようそっと手を触れる。
「アナタは愛という蒙昧なもののためだけに抗っていたのね。なんて雄々しく素晴らしい生き様なのかしら」
龍玉より生みだされた化身の表面を丹念にねぶっていく。
なかに封じられているのは――……誰だアイツ? わからない。
肩幅が広く筋骨隆々とした男は――灰の彫像に呑まれながらも――どこかやりきったというような笑みを貼りつけたまま沈んでいた。
クロノスが淫靡に尻を振って次に向かう場所には、天使が硬直したまま固まってしまっている。
「私の源とならぬよう1匹でも多くの龍を救う策は見事だったわ。でも、残念ながら私の能力ほうが勝っていたようね」
時の止まったエルエルの顎下辺りを撫で歌うみたいに耳元へ呼びかけた。
引き際に頬へ軽く触れるか触れないかという口づけを交わす。
「…………」
しかしエルエルからの反応はない。
ただ弓を構えた姿勢で固まったまま。一切の反応を遮断するばかりか呼吸をしているのかすら怪しい。
呼吸は、酸素は、血流は。ここでそんな現実的なことを考えるだけ無駄である。バカバカしい。
「なんという変転なのぉ。 生々流転とした展開が次々に押し寄せてきて目が回ってしまいそう。なのに私はそのすべてを味わい尽くしてしまいたいと、強欲に溺れてしまうの」
止まったモノクロの世界には、クロノスだけが活動を許されていた。
天覆う闇を抱くよう、混淆の祠から差し込む白い光をスポットライト代わりにくるり、くるり。踊り子のように細足を組み替え交差させ、その場で機嫌よく回り始める。
「うふふふふ! こうして興じているだけで心が満たされていくわ! あはははは! なんて楽しく、それでいて痛快愉快なのかしら!」
花畑で踊る少女みたいに無邪気そのもの。
なにが楽しいのかすら定かではない。それでも棺の間へ美しくも悪女じみた音色を響かせる。
時の女神の在り方は年若き女性とそれほど変わらない。変わらないだけに7色をぶん殴って亀裂を入れたような眼球と谷間に植えられた血色の球体のみが異質さを強調させていた。
そしてオンステージだ。衣服もままならぬはだけきった女性がストリップショーさながらに歌い踊る。遠心力で浮いた布地の下が僅かに突起めいた影を覗かせる。
「この世界は私のものよ! 遠からずにあの御方と愛を紡ぐ私たちだけの世界がやってくる! 私とお父様のふたりっきりの何者も生きることのない邪魔のいないふたりっきりの愛の世界!」
それでも今この場で生きていると位置づけられるのは彼女のみだ。
恥も外聞もなく戯れることも厭わない。なにせ彼女が今この時のみ、時の支配者なのだから。
……………
――あー……なんだかなぁ。
森羅万象、天地万物。それらが凡て停止している。
この状態を生きていると表現することは無意味な行為に他ならない。それに3度目ともなればさすがに慣れる。
――……だって魔法だもんしょうがないよなぁ。魔法って言ったらぜんぶかたがついちゃうんだしなぁ……。
慣らされたというべきか。
明人は氷のなかに閉じ込められている気分だった。寒気と窮屈さのなかにいる。
1度目は今いる棺の間の近所も近所、混淆の祠にて時止めをくらった。
2度目は本日の聖都だ。ミルマが飛び立つ直前に同じ体験を無理やり味わわされた。
そしてこれが3度目である。3度目の時間停止魔法。時の女神による、《レガシーマジック》とでもいうやつか。
間違いなく危機、あるいは窮地と呼ぶべき場面であろう。リリティアも、ユエラも、ボディコンシャスよろしくな格好をした冥府の巫女も――なにより神の使いであるエルエルですら――停止してしまっている。
――……なーんか頭がぼうっとするんだよなぁ……。
なのに、なんかしっくりこない。
5感のすべてが身体から抜け落ちてしまったか鈍くて鈍くてしょうがない。喜怒哀楽の感情すら月か火星らへんのどこかへ飛んでいってしまっている。
頭も蕩けたチーズのようにトロトロになってしまった気分だった。身体が時に固定されていなければ小舟でも漕いでいたことだろう。
明人は、なおも夢現の境を彷徨いつづける。
――こういうの金縛りって言うんだっけか? 身体が寝ていて脳だけが覚醒してるんだっけね?
まるで現実と夢の境界線が失われていくかのような感覚だった。
なんとも無様ではないか。為す術もないとわかっていながら見物するにも指さえ咥えられないのだから。
肌の感覚さえ曖昧になってぬるま湯に浸かっているかのような錯覚に包まれる。視界が薄ぼんやりと紗がかって現実ではない過去を映す。
――うるさいな。そうガミガミ言わなくたって自分を特別だと思ったことなんか今の今まで1度もありゃしない。
声がする。
耳からではなく脳髄のあたりから響くような声がする。
『貴様らはなにも出来なければなにかを成すことすら不可能だ!! みな等しく平等に糞尿を垂れるだけで最後はゴミクズのように野垂れ死ぬ!!』
あいも変わらずむかっ腹の立つ声である。
記憶の奥にずっと居座っているのは、腹の肥えた軍服の汚い大人だった。
あるていど時勢を読むことが可能であれば気づくのは難しくない。現代では人の価値を人が決めるなどとおこがましいフザけたマネがまかり通ってしまう。
無能が権力で弱き者を虐げる。そうやって砂上の楼閣に見栄えだけは良い椅子を据えてふんぞり返るのだ。それが今の常識というやつ。
『新人類などという言葉に浮かされて惑わされるなよ!! 貴様らは人類以下に位置づけされるべき旧人類だ!! 我々人類の礎となるべくして生まれた消耗品でしかない!!』
――なんだよ新人類って。自分のなかで新しい言葉作ってんじゃねぇよ。ほにゃららすべきとかお前の価値観の押しつけじゃんか。
『我々軍に逆らうおうなどとは考えぬことだな!! 逆らった時点で貴様らの処遇が決まると知っておけ!! そう、貴様らフレクサーは我々のためにのみ動く機械人形に過ぎぬ、足らぬ存在なのだからなァ!!』
なおもありがたい説法はつづく。
しかもこれは第1章だ。このあと数年に渡って毎週2章3章と似たような話を聞かされることになる。
朝も晩も関係はない。ただ軍――とすら怪しいが――連中はそうやってF.L.E.X.に目覚めた者たちにしつこく聞かせつづけた。
――……あれ? それって……?
オカしいじゃないか。
灰色をした過去の映写を泳ぎながら明人は、ふとそんなことを過去へ思う。
――なんでその手にもつ銃で脅さない? なんで数と暴力で抑圧しようとしない? 明らかにオレたちのほうが不利で弱い存在だったのに?
不思議と静止した時のなかで脳に血が巡っていくのが感じられた。気がした。
操縦士とは掃き捨てるべき存在であろう。それなのになぜ権力者は己の手で始末をつけようとしなかったのだろうか。
間もなくして――どうせ秒針は止まったままだが――気のせいなどではないことに気づく。
――ああそうか、お前らも必死だったんだな。
生存者キャンプが生き残るには操縦士を送りださねばならない。そうでないと無数の闇が毛すら残さず連れ去っていってしまうから。
縋らねば迫る死の運命から逃れるすべがなかったのだ、と。
――連中……オレたちに逃げられるのが怖かったのかぁ。だからあんなに……怯えていたんだなぁ。
……………
そして灰色の過去が砕けていく。幾千もの断片となり硬質でいて高くしたたかに散っていく。
蒼が灯る。7色の作りだした静止した世界にたった1つの蒼い意思がストロボのように照っていく。
あちらでは呑気に耽っているらしい。踊り終えて疲れでもしたのか、尻を揺らして喘いでいる。
「はぁぁ……んっ、そうだわ……」
耽っていたクロノスは、行為を止めて薄い笑みを蕩かす。
龍玉の化身にしなやかな身体を預けて恋人のようにピタリと全身で寄り添った。
「この蜥蜴のような突飛な行動をとる理念が私には理解できないの。つまりこれはお花の妖精さんの言っていたように心が不完全であるという証明ね」
なかに浮いている雄々しい男を映す目を細め、ピンク色の舌を薄い硝子状の壁に這わせる。
「ならば生贄に捧げられた蜥蜴どのも記憶を漁ってから記憶してしまいましょう。そうすればあの御方がどうして私に捧ぐ愛を大陸などという掃き溜めに注ぐのか理解できるかもしれないわ」
紅色の頬としどとに濡れた肢体が淫らに乱れた。。
呼吸は荒く刻むたびになだからかな肩が上下に揺れる。
彼女がなにを思いなにを目指すのか。理解することすら悍ましいとさえ、明人は見下す。
――またか……またこうやってオレは無力なままなのか? 妹を奪われたときのように?
いつの間にか夢現を漂っていた感覚が完全に現実へ戻されていた。
それも口ではなく心で訴えかける。しかし当然だがクロノスの耳には思いが届くことはない。
「素敵よぉ。これがあの御方が目指す傑作のカタチなのね」
彼女は小躍りしながら衣服と房肉を柔軟に揺らがしディナヴィアへと近づいていく。
いっぽうでディナヴィアはまるで彫像である。美しさを保ったままに美の象徴として在りつづけていた。
そんな彼女の肢体を、クロノスは余すことなく両の手で味わっていく。
「この傑作でさえもう私のもの。この作品さえあれば創造がずぅっとあの御方の概念に届くことになる。ふふ、素晴らしいわぁ」
素晴らしい、素晴らしい。呪詛のように感情のない称賛を繰り返す。
つづいてはそのすぐ横に並び立つスードラの元へ。
「愛、友情、信頼。私にその理由なき情念のすべてを教えて頂けないかしら」
耳元にわざとらしく唇を押しつけ、囁きかけた。
そして次はネラグァと触れ、タグマフへの匂いづけも忘れない。
クロノスは静止した龍族たちを値踏みするように巡っていく。
「これからまた忙しくなってしまうのね。終わりのない飽くなき時間に浸ってのぼせてしまいそう」
彼女が巡ると、その後につづくよう赤く血の腐ったような帯が空間を包んだ。
龍玉の色に酷似している帯が龍たちを覆い尽くしていく。時が動きだした直後有無を言わさず龍族たちを捕縛出来てしまうものだったとする。
それをただ1人のみが認知していたとする。
――また奪うのか? 失ってから手に入れたものすらまたオレの手から奪っていくのか?
止まってしまった色のない空間に蒼い瞳がぼう、と花めく。
仲間を救うため疾走ろうにも足が動かない。敵を殴ろうにも拳すら握れない。無力な人間は運命を呪うことしか出来ない。
無力ながら抗っている間にも、クロノスは赤い帯を連ねて歩を進める。
「最後は、こ・の・子♪ 1匹のために5匹もついてくるなんて――ちょろいものよね」
肉と肉の谷間に埋め込まれた赤い宝玉が不気味に光った。
小気味よい足どりで硬直したままのリリティアの周囲に赤い網を張り巡らせていく。
――止めてくれよ。もうオレから奪うのは止めてくれ。なにかを失うくらいならオレの命でもなんでもくれてやるからさぁ。
足掻く。足掻く。足掻く。足掻く。
なれど指1本たりとも動きやしない。伝えようにも喉が奮わず叫びを生まず。
1秒あれば事足りてしまう。1秒あれば棺の間へ張り巡らされた赤い帯が一斉に龍族たちの魂を吸い上げるだろう。まるでスポイトで水を吸い上げるような感覚で容易に死を迎えさせられるはず。
そしてクロノスから無情なるひとことが発され征く。
「はぁ、時を止めるのも楽ではないのよね疲れちゃったわぁ。それに時の牢獄がやられたせいで天界からハエがうようよ湧いてきているんだもの」
いやんなっちゃう。言葉のわりに嫣然として蠱惑な微笑を崩そうとはしない。
汗ひとつ浮かべていない首筋を伸ばしはたはたと風を起こして優雅に扇ぐ。
「あまりに愛おしいからつい遊びすぎてしまったようね。手早く回収を済ませてこの領域から脱出するとしましょう」
んっ、と。滑らかに曲線を描く背を反らして伸びを加えた。
ツンと重力に逆らう張り詰めた胸が大仰に揺らぐ。爪先までグッと伸ばし、腹の底に溜まったガスを吐くように欠伸を漏らす。
猶予はなかった。一刻どころではないほど極めて時間がない。時が動きだせばそれでリリティアたちの運命がクロノスのありのままに決められてしまう。
――ん、まてよ? 時が止まってるのになんでアイツだけが動ける?
しばし眺めていた――眺めさせられていた――明人は、不信感を覚えた。
それと当人の意図せず、蒼がふわりと霧散する。
明人は視界に見える範囲で仕掛けを探す。
――もし本当に時が止まっていたとしたら動けない……だってそういうものだろう。
一輪の光が咲いた。それは無謀だが希望に変わりつつある小さな小さな光の発生だった。
時の女神という文字列に騙されかけていたということか。もしクロノスの能力が時を止める――ようにみせかけているものだとしたら。
明人はなんとかする、ただそれだけの思いで、死を覚悟する決死の捜索を開始する。
「ふふふ、思い出の頁を吸収した後は消してしまいましょう。そうすればあの飛龍とか言う愚かな蜥蜴のように逆らう意思すら掻き消える。手間をかけずに生贄どもをより効率的な籠絡を可能にするはず。今宵の舞台は新世界の築きへ大いに貢献してくれたわね」
――そうだ……そうなんだ! だったら……オレだって動けないはずがない!
そして明人はクロノスの歩みを見て判明させる。
発見と同時に爆発するような蒼が人の内側から現出する。
「……あらあら?」
どうやらクロノスもようやく異常に気づいたらしい。
しかしそちら側ではすでに始まっていた。
「時が!」
まずは聞き手の側だ。バキッ、という硬いものがかけるような音がする。
右手に絡む鎖を引きちぎるようにして振り払う。
つづいては左手だ。両手が動かねば殴ることにも不自由極まりない。
「へぇ、そういうこと。審判の天使の狙いはこれなわけね」
それではクロノスは意に介した風でもなくただ興味深そうに見守るのみ
介入する明人をスンとしました顔で眺めるだけ。しかしやや、僅かに意外そうに目を細めていた。
「止まるわけ!!」
そこからの脱出は簡単だった。完全な仕組みはわからずとも、 言 い 訳 が効くならばそれだけで十分だった。
両手と同様に両足も自由に動くよう振り解く。静止した空間を薄氷の如くバリバリと打ち砕いていく。
「ないだろうがあああ!!!」
フゥー、フゥー。華麗な脱出に使った体力は多く、荒めな呼吸を刻む。
その身にまとうのはF.L.E.X.とは異なる色をしている。身体の線を浮かすパイロットスーツの表面に沿うようにして限りなく蒼に近い白が浮かび上がっていた。
明人は、クロノスの世界へと介入を果たす。
「で、どういった理屈で私の別離世界を看破したのかしら?」
「はぁ、はぁ……ふぅぅぅ。時が止まってるのなら大気の流動すら止まってるはずだ。ならオマエだって止まった世界で動けるわけがないんだよ」
呼吸を整えつつ強がってみせる。
だが返ってくるのは「あら、そ」別段お届きに満ちたものでもなんでもなかった。
それどころかクロノスは唇で優雅に弧を描いて明人の介入を認める。
「屁理屈を山のように重ねることで己を確定させたというわけね。その力、思った以上に……――ふふふっ、危険だわ」
本当に素晴らしいのね。そう言ってささやかながらの拍手を送った。
女神と人。決して出会うはずのなかった7色と蒼が、時の止められた世界へ介入を果たす。
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