565話 【自然女王VS.】届かぬ声 双頭のミルマ・ジュリナ・ハルクレート 5
ミルマの動作が静止した。
まるで彼女だけ時が動いていないかのようだ。
膝をついて祈り結び、頭を垂らす。淡く美しい色をした波打つような紫煙の神が赤い絨毯の上に触れるほど姿勢が低い。
「ミルマさんお願いよ! あんなヤツの言うことに耳を貸さないで!」
『あら? 事実を教えてあげただけよ? 気づいていながら教えてあげないアナタのほうこそ残酷ではなくって?』
一瞬の油断すら許さぬ金十字が、ミルマへ駆け寄ろうとするユエラを強襲する。
たとえ白妙の肌を刃が掠めても、身を辛うじて包む蔦が切断されても、それでも訴えることだけはやめない。
「そんなって辛すぎる! アナタはただ愛したふたりのために苦しみ戦いつづけただけ! たとえそれが誰かに強制されていたとするならそれはアナタの背負うべき咎じゃない!」
『でもそれって身勝手なエゴよ。私がやったのは小生意気な蜥蜴2匹を捧げただけ。そこから自発的に同種を刈りとったことは彼女の自由意思による賜物よ』
クロノスの声を聞くだけで胸が燃えるような怒りに満ちていくのがわかった。
脳を痺れさせるような甘い音色に反して語る内容は相手を貶めることのみに特化している。
とりえあえず彼女はすべてを格下と位置づけているのだろう。そして尊厳を踏みにじることすら彼女にとってただの遊び。
ユエラは腸が煮えくり返るような思いで虚空へと怒鳴りつける。
「黙れエゴイストッ! 自己紹介なんてしている暇があるのなら道を開けろォ!」
『あらやだ怖いわぁ……。私はただ真実という事実のみを正面から伝えてあげているだけなのに。彼女が渇望していた旦那と子の死に際を、ねぇ?』
「そんなものはあの子にもう必要なかったのよ! あの子はこれからがあるの! そう、もっと素敵な世界があの子のことを待っているんだから邪魔なんてさせない!」
諦めたくない。ただ駆け寄ってその孤独な背を、抱きしめて包んでやりたいだけ。
それだけのためにユエラは必死に走った。
矢嵐に似た金十字の猛襲を花弁の身代わりを足跡代わりに突き進む。
「すべて仕組まれていた……? ぜんぶ……飛龍と翼龍が帰ってこなくなったことも、大勢の龍を捧げたのも……ぜんぶし、くまれた?」
ミルマはまだそこにいてくれてた。
真実を伝えられてなお赤い絨毯の上に尾を垂らし、翼を畳みながら、伏している。
「待って私の話を聞いて!! また友だちになって色々な場所へでかけて遊びましょう!!」
ユエラは絹を裂くような悲鳴とともにミルマへ訴えかけつづけた。
孤独を背負った背へ、石床を思い切り蹴って、うんと手を伸ばす。
その手を、足を、全方角から金十字の剣が隙とばかりに狙いを定めている。
「置いていかないで!! アナタは私の大切な友達のなの!!」
しかしユエラにとってはミルマへ届きさえすれば後のことはどうでも良くなっていた。その寂しい背に一瞬でも触れて思いが伝わればそれだけで良かった。
伸びた肘の腱が切れても良いとさえ思ってしまうほど思いを寄せる。そしてもう間もなく、後少しで手が届く。
「あっ……」
だが、願いは届かない。
友へもう1度だけと願いを籠めた手は、残酷にも届くことがなかった。
「あ、ああ、あああっ……!」
代わりに伸び切ったユエラの手が薔薇の花弁に似た朱色を覚える。
身体を苛む痛みはないが、その身を淡い温もりが包み込む。母には与えてもらえなかった母の よ う な あふれる温もり。
それとはまた別にぬるりとした液体がユエラの頬に落ち、伝う。
「やめて、よ……! なんで、なんでっ、こんなのって……!」
彩色異なる瞳がしどとに濡れそぼる。
じわじわと浮いてくる透明な輝きとともに鼻の奥がツンと傷んだ。全身を包むような圧迫感と優しさが、どうしようもなく悲しかったから。
元凶はなおも姿すら見せず。どんより曇りがちな吐息の音を聞かせてくる。
『そういう計画にない暴走はやめてもらえないかしら? それでも心を捻り潰して掌握しやすくするという目的はどうやら果たせたみたいね?』
同時にあれだけしぶとくつきまとっていた金十字の剣が襲撃を止める。
もういらないという判断が下されたのだ。もしくはこれ以上痛めつける理由がない、か?
ユエラはあれだけ求めていた友のしなやかな肉体をそっと抱きしめた。
「なんでよぉ……! 一緒にいようって言ってたのにっ、友だちだって言ってくれてたのにぃ……!」
ぐずぐずになった鼻を啜るたび甘くムーディな香水の香りが鼻孔に割って入ってくる。
それは買ったばかりの香水の匂いでだった。今日買ったばかりの。一緒に遊んで手にしたオシャレのひとつ。
抱き合うようにユエラへ身体を預けたミルマは、濡れた頬をさらに濡れた頬へ軽く当てる。
「……ありがとう……ずっと、ユエラちゃんの声……届いていたわ……」
「……ごめんなさい……友だちじゃないなんて言って……傷つけちゃったわね……」
グロスで艶めく厚い唇が薄い声で、2つの心が届けられた。
その身を貫くのはユエラへ狙い定めていたはずの剣であった。
「はなし、て! 今すぐ、治してあげるから!」
ユエラが力なく訴えかけるも、ミルマは抱きしめたまま離そうとはしない。
龍としての暴力的な力を前にしては混血であれ抵抗の術はない。が、現在のミルマはそれほど力を籠めていない。
「お願いよ……生きて……ミルマさん!」
ユエラには彼女の心情が痛いほど理解できてしまった。
きっと彼女にはもう生きようとする気力すらないのだ。
だから身を挺してユエラを守った。代わりにその身を犠牲にしたのだ。
「ご、めんね……ゆえら、ちゃん……」
ミルマは、ユエラの耳へキスするような距離で、小さく謝罪した。
限界まで追い込まれた心へ真実を伝えればこうなる可能性は多いにありえた。
だからユエラは伝えることをしなかった。心を癒やしたミルマが真実と立ち向かえる日がくるまで黙秘しておくつもりだった。
結果、願いは叶わず。最悪の形で幕を閉じようとしている。
「邪龍!? おいテメェ――テメェェェ!!?」
名の通り岩のごとく剛直していたタグマフも慌てて駆け寄った。
だがすでにミルマは足に力が入らないのか。ユエラに全体重を乗せるようしてようやく立っているといった感じ。
さらには咳き込むたびに口からおびただしい量の鮮血を吐きだしてしまう。
「っ、ほんと、は……うれしか、たわ。がんりゅ、におか、さんっていって……もらえて……」
「でも、かなしかった、よ……こどもた、ちの……から、め、をそらしていた、なんて……」
血の泡を吐きながらもミルマは僅かに頬を緩ませる。
ユエラの細い肩に顎を乗せるような姿勢で、喉からはひゅーひゅーという嫌な音が漏れている。
目のフチには大量の涙がじわじわと浮かび、やがてそれは大粒の涙となって流れ落ちていく。
するとミルマが言い終わった辺りで、溜め込んでいたであろう怒りが臨界点を越す。
「ッ、が――ガアアアアアアアアアアア!!」
タグマフの瞳と髪が鼠色から燃え盛る紅へとまたたく間に変化した。
「でてきやがれクソガアアア!! テメェが女神だなんだオレっちには知ったこっちゃねぇ!! こいつがまだ生きてる間にテメェの始末をつけなきゃおさまんねぇぞオオ!!」
身を振り尾を振り見えぬ宿敵へがなり散らす。
まさに烈火の怒り。象徴であるように火の粉を絶え間なく、まとう。
そうやっている間にもミルマは膝から崩れ落ちてしまう。
「ッ、そんな……なんで、なんでよぅ?」
ユエラは冷たくなっていく身体をそっと膝を枕にするよう寝かせてやった。
辛うじて薄く瞼を開いているミルマを大粒の涙が濡らす。
結論だけ述べるのであれば、間に合わなかったということになる。遅かったのだろう、なにもかもが。
「泣かないで大切なお友だち? アタクシの一生は生きるにはあまりに長く……もう疲れてしまっていたの」
すでに話す気力すら赤い絨毯に流れ出てしまっている。
それでもミルマはゆっくりとユエラの頬に手を添えた。
「アナタと出会ったときにはもうどうしようもないくらい……すり減ってしまっていた。心をすべて……使い切ってしまっていた」
さらにはユエラの膝の上で安堵するように、語りながら瞳を閉ざす。
そしてそれはもう治療してはならぬということを意味している。察するには非道なまでに十分だった。
たとえ致命傷を癒やしても彼女は再び死を選ぶだろう。そればかりはどれだけ優秀な医者であってもどうにもできぬ病なのだ。
「な、なんて量なんですか!? これすべてが捧げられた私たちの同胞とは!?」
蒼き陣の外側でも苛烈極まる。なにせ敵の出現速度が早まり予断を許さない状態になっている。
リリティアが紅の線を闇に描くたび、同胞たちが黒き霧となって霧散していく。
一党らが幾匹の龍を斬り結んだことか、火葬してみせたか。それでも無尽蔵とばかりに龍が湧いては沈む。
「ッ、早く! 早く明人さんを助けにむかわなければならないというのに! こんなところで足止めされている場合ではないというのにッ!」
紅の瞳が遠間にチラとユエラを見据えた。
ぎりりと強く歯を軋ませる。状況を把握しつつも迎えぬことへの焦燥感が垣間見えた。
剣戟、猛炎、猛り、がなり。この空間では死と生が絡み合うのみとなった。絶対的な力に義と勇が押されながらも相対している。
ユエラには決着がなんなのかすら見えなくなっていった。いったいどんな結末を迎えれば明日に笑えるというのかすら盲目の先と成り果てている。
「ひ、ゅう……よく、ぅ……あい、して……る」
ミルマの血は延々止まらない。
白き肌は血装束に濡れ、痛ましい金十字は刺さったまま彼女の生を貪っていく。
もはや胡乱な寝言の如く愛する者たちの元へ旅立つ準備を整えてしまっていた。薬師である者にとってその先が死であることは迷いようのない事実であることを知っている。
「……けて……」
ユエラの気がみるみるうちに削がれていく。身にまとった美しき花も気高き蔦もなにもかもが生を終えようと枯れ落つ。
目的はミルマを連れて変えることだった。しかしそれはもう叶わないと知った。脳裏にその先の未来を描いていたのに夢が失われていく。
『そろそろ限界の淵のようね。そこまで味わわせればあとはもうお仲間と同じ虚無の底。そろそろこの退屈で退屈で愛おしい茶番の幕を閉じましょう』
冷然としたうそ寒い声が棺の間へ吹雪の如く吹き荒れた。
直後に血色をした赤くブヨブヨの液体がなにもない天井のあたりからズンッ、としたたかに落ちてくる。
「あ、あれは――アレに触っちゃダメだッ!! 僕ら龍の魂を吸いとる龍玉の魔物だ!!」
敵の龍を羽衣で捕縛しながらスードラが跳ねるように叫んだ。
途端に龍たちは下腹に力を加えるよう身構える。
仕上げ、ということなのだろう。時の女神にとってはここが最終目標地点ということ。
『まずはそこで辛うじて生き長らえている壊れかけの玩具からね。よく踊る玩具でお気に入りだったのだけれど、ちょっとだけ寂しくなってしまうわ』
「ユエラっち避けろ!! 邪龍はもう……もう助からねぇ!!」
龍玉の化身が逃すまいと触手を伸ばす。
すると「チクショウォォ!!」泣きそうな怒り顔でタグマフは離脱し、躱すことに成功する。
平たく伸びた龍玉の化身は脈動を繰り返す。そしてすぐ近くにいるミルマとユエラを囲うように包囲した。
「……けて、よ……ねぇ……」
まだユエラは逃げようとはしない。死出の旅路を送ろうとするミルマを膝に乗せ、なおも離そうとしない。
もっと沢山の時間を共有出来るかと思っていた。同じ服を着たり、装飾品に目を細めたり、友に友を紹介したり。
もっと色々な夢が見られるはずだったのに、これはいったいどういうことか。夢だけならまだしも、神はミルマの命の灯火まで奪っていこうとする。強欲にもほどがある。
「はぁ……は、………ぁ……」
そしてユエラのそれは、きっと胸の揺らぎを浅くしていくミルマの見た夢と同じ。
父子とともにこれからを望み、破れ――こういう結末を迎えた。
ならば今。力なき無力な者にとって出来ることとはいったいなんなのか。ミルマをこの悲劇から救うためにはどうするべきか。
やがてひらめきの能力とは別の結論に至る。
「誰かミルマさんをたすけてあげてええええええええ!!!」
子供のように泣きじゃくりながらがむしゃらに助けを求める。
涙をまぶし、喉を枯らし、天へむかって祈るように救いを求める。
『さあいらっしゃい。新タナル世界へトモニマイリマショウ』
赤黒く野太い腕がミルマとユエラ目掛けて突進する。
轟々と、目の前の餌に喰らいつくよう醜く這いずって、死に体へと覆いかぶさろうとした。
「――ッ!?」
その時ユエラは見た。
ひとり、否。1匹の屈強なる巨漢が化身の腕を吹き飛ばすのを。
そしてそのていどでは終わらない。
『開けェ――ゴマあああああ!!』
ゴ、ゴゴ、ゴゴゴゴ。
混淆の祠へと繋がる巨大な扉が、巨大な腕によって、鈍い音を奏でながら開いていくのだ。
棺の間に鎮座している巨大すぎる扉が、巨大すぎる鉤爪状のなにかによって徐々にこじ開けられていく。黄色い光が差し込んでくる。
さらにその隙間から黒き影が鷹のような迅速獰猛さで部屋へと紛れ込んだ。
「テメエに渡すくらいならその魂は私がいただいやる!! ザマアミヤガレクソ肉穴●ッ●がァ!!」
影の正体は黒翼で滑空する冥府の巫女だった。
レティレシア・E・ヴァラム・ルツィル・オルケイオスは、時の女神を口汚く罵りながら唱える。
「死ぬか逝くかは死んでから決めろォ!! 考える時間なら私の血で永遠を与えてやる!! 《血族の盟約》!!」
彼女がミルマの身体に触れる。するとまるで服を剥ぐようにして内側から光沢あふるる球体が抜きだされた。
ズズズン、ズズ、ズ。あちら側では丸い巨大が蒼き細やかな光となって消滅したところ。
「ユエラ!! リリティア!! 無事か!?」
明人に名を呼ばれたリリティアは、大輪の花の如き笑顔で「明人さん!」と彼の名を叫ぶ。
信じがたいなにかが濁流のように、凄まじい勢いで巡っていく。
「…………」
それをユエラは呆然と見守ることしか出来ずにいた。
消失したはずの同居人が戻り、膝の上では亡骸となったミルマの肉体のみが安らかに眠る。
タグマフによって倒されたはずの巨漢がミルマを救い、化身のなかへ力なく沈む。
魂を引き抜いたレティレシアがしたり顔でニヤけている。横には足の透けた霊体のミルマが口元を覆いながら涙を浮かべ、存在している。
「なにが起こってるの?」
ユエラはそっと亡骸を絨毯の上に寝かせた。
そして夢遊病患者のようにぼう、とした瞳で立ち上がる。
なにが起こっているのかなんて理解できようはずもない。あまりにもなにもかもが唐突すぎて脳の処理が追いついていない。
一言で言うならば、目まぐるしい。大いなる理不尽のようななにかによって戦局が一変しつつある。
視界では次から次へと崩壊を見せていく。時の女神によって仕組まれたはずの完全なる調和がボロボロと瓦解していく。
どうやっても覆せぬ状況にあった。にも関わらずすべてが整然とばかりに規律の収束を行う。
『なんなのよ……これは?』
ことこの事態に陥ってもっとも動揺しなければならぬ者がいた。
『私の作り上げた舞台がメチャクチャに壊されてしまったわぁ? しかも時の牢獄があのていどのクズ如きに敗北したということぉ?』
声の主は手中で支配していた者。そう、勘違いをしていた愚か者。
高を括って見物を決め込んでいた時の女神に他ならない。
『はぁ……。そう、ようやく領解を得たわ。よく考えてみれば1級天使ともあろうものが無作為に現出するはずがないのですもの。こちらも少々侮っていたということを認識すべきなのかしら』
クロノス・ノスト・ヴァルハラは息の多い吐息を漏らす。
それは今までとはまったく異なった奇妙な静けさを孕んでいた。
「…………」
棺の間には――いつからそうしていたのか――天使が降臨していた。
手には弓を、混淆の祠から差し込んでくる光を背に、矢をつがえ立っているのだ。
クロノスは揺れるような細い声で、降臨し矢をつがえたエルエルへと呼びかける。
『でも残念なことにここからは私の領域よ。貴方たちを待っている運命は慈悲も愉悦もない惨劇のみの世界だけ。私の支配する私だけに与えられた私の世界へ誘ってあげましょう』
その音が最後に聞こえた、認識可能が終わりだった。
ユエラの意識が失われる直前。彩色異なる希望を移した瞳が捕らえたのは、1本の矢が放たれたということのみ。
そこで世界は1度だけ終りを迎えた。誰ひとりとして鼓動をせぬ永久に似た仄暗い闇へとこの場の全員が落ちていく。
『《悠久なる時の領域――別離世界移行》』
時が静止を開始する。
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