550話 そしてGallery In Your Mind
「どこ……ここ」
虫の縋るような声が喉奥から漏れた。
冷たい床の感触がする。どうやら自分は横になっているらしい。
やけに瞼が重く感じる。しかも紗がかる視界に若干の戸惑いを覚えた。
目覚めは悪いほうではない。が、なぜか頭がぼんやりくらくらする。
「りりてぃあ? あき、と?」
重ったるい頭を斜めにしながらむっくりと状態を起こした。
猫のようにして目をグシグシとこすり、こすり。汗ばんだ頬に貼りついた髪を気だるげに散らす。
そして蒙昧な意識でもう1度繰り返す。
「……どこよここ?」
それを知るものはいないだろう。なにせひとり。
リリティアのように気配を敏感に感じとれる技術をユエラは持ち合わせていない。だが、なぜだか自分が孤独であるということだけはたびたび察してしまう。
ユエラ・L・フィーリク・ドゥ・アンダーウッドは――傾いた頭――斜めになった視界でぼんやりと記憶を探る。
「えっとぉ……ッ! そうだ! ミルマさんを説得してあげなきゃ!」
寝癖でへし折れた長耳がぴこんと元のシャープな形をとり戻す。
存外早くやるべきことに至れるものだ。目的は友だちの救出と軽い説教。それから連れ帰って聖都旅行のつづきをしなければならない。
「こんなところでぼーっと寝コケてる場合じゃないわ!」
そうなればまずは現状の把握は必須であろう。
あれ? そのはずだったのだが。ユエラはようやく自身が棺の間ではないどこかにいることに気づいた。
未だ充血が引かぬ寝ぼけ眼が、ぱちくりと周囲を無意識に睨みつける。
「……ここって博物館かしら?」
いいや違う。言ってみて即座に頭が否定にかかった。
なにせ博物館であれば少なくとも色がある。それなのにここは白と黒の2色で構築されている。
先ほどからぺたりと尻を落としている冷たい感触は白色へ斑に墨を垂らすような大理石の床だった。シミひとつない真っ白なタイル状の石材で作られた壁が軽量かつフラットな印象を与えてくる。
「まだ夢でも見てるのかしら。とにかくこの光景を見る限りだと現実っぽくはないわね」
ユエラは、胡乱かつ怪訝な心持ちでブーツの靴底を大理石へと押しつけた。
よれて内側へ巻き込んだスカートを戻す。埃をほろい、ほろい立ち上がる。
――と、なるとなんらかの魔法って考えるべきよね。しかもオリジナル、《レガシーマジック》の極めて面倒くさいやつ。
竹色の頭を振って長い髪を振りほどく。
それから精巧な指を立てつつ桜色の唇へと押し当てながら思考を開始した。
――まず追うべきなのは、私の記憶がいったいどこで途切れたのか。
少し前の自分であればこうはいかなかっただろう。自称ではあるが猪突猛進なところがあったはず。
しかしこういうときまず動くより考えることが大切であると学んだ。身近にいる者が呆れるほど物凄い考えるタイプのヤツだから。
目覚めたら白と黒の世界にただひとりぼっち。しかもここには音もなく、風の入りも悪く、嗅覚すら働きが鈍い。焦燥感を駆り立てられるような気味の悪さ。
細身を抱くように腕組みしたユエラは、眉間にシワをうんと寄せる。
――明人に頼まれて……ミルマさんのほうに歩いていって……、うーん?
頼む。真剣な眼差しでそう言われたあの瞬間の気持ちをなんと表現したものか。
頼られて嬉しい、というより、頼ってくれたことが嬉しい。似ているようでどこか違う。
あれはどうしようもないヤツなのだ。だから手助けしてやらねばいけない変な気分にさせられる。
不器用で、弱くて、融通がきかなくて、臆病で、回りばっかり気にしてるのに自分のことはおざなりで、図体はでかいのに心が小さい。
――そのくせお願いごととかを嫌な顔ひとつしないで聞いてくれたり、優しいのよねぇ?
アレは本当にどうしようもないヤツなのだ。そう、周囲に助けてのひとこととすら言えぬほどに。
だからこそ女帝と決闘なんてものをやらかしたとき、集った。
あの場の全員に彼への信頼という感情もきっとあったのだろう。でも、それ以上に支えてやらねばならぬ、庇護したいという気持ちのほうが勝っていた。
――格好つけてるのとは違う。そう言う男はごまんといるけど、そのどれにも当てはまらないしぃ。
……むむむぅ。ユエラは知らぬ間に思考の方向がシフトしていることに気づく由もない。
考えれば考えるだけ無性にイライラしてしまう。ブーツの踵が忙しなく大理石の床を打った。
ま、いいわ。組んだ腕を解いて髪をすくい上げて振り払う。どうやら雑念が混じってまとまりそうにない。
「とにかく私はミルマさんを助けなきゃだわ。アイツとリリティアが私にしてくれたようにね」
ユエラはほんのり熱を帯びた頬を軽く叩いて景気をつけた。
そうそうに見切りをつけ、颯爽と前後知らぬ道を踏む。
これも学んだのだ。あれこれうじうじ考えすぎないことも大切である、と。反面教師は案外近くにいる。
「それにしても殺風景で辺鄙なところよね、明るい感じがしなくてなんか薄気味悪いし。しかもこの壁に飾られた絵なんて暗いものばっかり」
こつん、こつん。乾いた足音だけが白く冷たい壁に反響すた。
聞こえる音が1つきりだと意識がそれだけを拾ってしまうもの。独り言でも呟いていないと気がおかしくなってしまいそう。沈黙していると静寂が――長――耳障りでしょうがなかいのである。
それだけではない。こうして孤独に包まれていると嫌なことを嫌でも思いだしてしまう。
――……私もアイツのこと言えないくらい弱かったわね。
過去を過去として消化できるにはまだ若干ほど時が足りていない。
夢に見るほどではなくなったにしろだ。自分の父親であるヒュームに馬乗りにされた時の光景は未だ鮮明に思いだせてしまう。
私利私欲の欲情に滾る目、道具を弄ぶような手つき、荒い息遣い。なにもかもが最悪である。
もしあのまま男が及んでいたら。もし自分の位置すら判別されず助けがこなかったら。もし逃げだした先で出会わなかったら。
「ふふ。こうして思い返してみると、私の歩いてきた道って幸運なことばっかりだわ」
ユエラは言い聞かせるようにして頭に浮かんだ光景をせせら笑う。
もし、もし。そうやって己の過去を考えれば考えただけ救わなくてはならないと意思が固くまとまっていくのだ。
幸福な自分と比べて彼女はあまりにも救いがない。だからこそ自分が――自分にとっての恩人たちがしてくれたときと同じく――手を差し伸べてやらねばならぬ。
ユエラは、覚悟の代わりに固めた拳を良く育った胸元に添える。
「問題は……あの雄龍よね。あれをどうにかしないとミルマさんは一生過去に囚われつづけちゃうわ」
ミルマとユエラの違いは明白だった。
理を受け入れるか否か。
墓を作ることで愛する者の死を受け入れさせる。そこまではよかった。しかし愛する者の登場でミルマは再度過去の殻に閉じこもってしまった。決闘がおこなわれる以前よりもずっと強固な殻へだ。
「いざとなったら強硬手段しかないかな。たとえ龍族でも今の私なら……きっと越えられる」
ユエラは、外套のポケットの感触を確かめた。
なかには小く硬いころころとした小瓶が1つほど。マンドラドラから生成した龍砂である。
龍族の地にて龍の気をたっぷりと吸って育った植物を加えた極上の逸品。自然女王形態の土壌とするにはこれ以上ない、究極とすら言えた。
「とはいえ、とうのミルマさんが見つからないんじゃ元も子もないんだけどさぁ……」
ユエラは、迷子であるという事実に、長耳をしょげさせ重い溜息をつく。
己がどこにいるのかすら判明していない。しかもとりあえず爪先があちらをむいていたから歩いているだけ。
それにしても静謐な空気である。回廊とはまた異なって広々とした空間がどこまでも広がっていた。
「あっ、忘れてたわ! 博物館じゃなくて画廊よ、画廊!」
唐突に思いだしてパチン、とだ。
指を鳴らして少し浮かれる。忘れていたモノを思いだせたときの達成感といったら一種の快感だった。
「かといって思い出したからどうなるってわけじゃないのよね。……さっきから壁にはられているこれは絵、かしら?」
ユエラはひとまず足を止める。
それから彩色異なる眼を細めてしげしげ壁に引っついた額縁を眺めた。
「膝を抱えた白い女性が黒い背景にぽつんとひとりぼっち。白黒ってこともあるけどなんだか暗い雰囲気の絵ね」
つい、と。横に目をやればどうやらつづきのようになってるらしい。
「今度はふたりの女性かしら? なんかどっちもそっぽむいて険悪な感じ、喧嘩でもしてるの?」
自然とユエラはそちらにむかって歩を進めた。
なにがあるというわけではない。ただこの絵くらいしないのである。だからか別に芸術の類に興味がなくてもついつい追ってしまう。
順番に物語が進むようになっているのだろう。次の絵はふたりの女性が手をとりあって互いに額を当てている。仲直り?
「ここだけ赤い。どうしてかしら?」
次の絵には赤が塗られていた。
ふたりの女声の間に小さく小さく赤い点が描かれている。
それからもユエラは絵を追った。
あるときふたりの女性がいた。女性たちはふたりで3本の足をもっていた。離れることは出来ない。
ふたりが外にでると周囲の者たちは特異である彼女たちを避けた。そのたび彼女たちは穴ぐらへ帰り互いの涙を拭い合う。
悲しめば悲しむほどに赤いモノが膨れていく。白と黒の絵画に血のような染みが滴っていった。
ユエラは、とある1枚の前で立ち止まって、理解する。
「……これってそういうことよね……」
その1枚とは1つ影。穴ぐらで慰め合うふたりの女性の前に現れた大きな光だった。
堂々とした描かれかたである。身長が高く肩幅のしっかりとしたところから察するに男性なのだろう。
「もしこれが私のみるバカげた夢じゃないとするなら、ここはミルマさんの心象を模した空間。つまり私的空間」
ユエラは友の過去を追う。
すでに歩調は歩くというより走るに近い。曲げた膝でスカートを蹴りながら小走り気味に未来へ向かう。
ユエラに先ほどまでの物見気分は、すでにない。この絵を見なければならないという強迫観念じみたものに駆られてすらいた。
「はっ、はっ! まだ幸せ、幸せ、幸せ、幸せ、っ!」
描かれた風景には光と笑顔が満ちている。
ふたりの女性が笑うたび共鳴し合う。白い背景に塗られた赤い染みが縮んでいくのがわかった。
「っ、は、なにが起こったの!? アナタの世界になにが起こってそんなに苦しまなきゃならなかったのよ!?」
豪快に描かれた男は彼女たちの性質なんてなんのそのだ。
彼女たちが慰め合う姿を見れば、怒鳴り、強引に外へ連れだす。
彼女たちが仲間たちに忌避されたと見るや、やはり怒鳴る。
彼女たちが野に咲く花を愛でていれば、理不尽に怒鳴る。そして次の絵は満開の花畑で彼女の肩を抱きながら高笑う。
なんと強引かつ大胆な男なのだろうか。喜怒哀楽というより喜怒怒楽。悲しむという感情が怒りによって支配されているのかもしれない。
「はっ、はっ、はっ! やめて、っ、お願いだからもうこれ以上は進まないで! なんでこんな――こんなに幸せだったアナタがッ!」
男は、どちらかを愛するのではなくどちらもを平等に愛していた。
やがて女性は愛する男の子を産んだ。つまり、あと少し。
「――ッッ!!」
ユエラは、荒れた呼吸を整える間もなく、絵画から目を背く。見ていられなかった。
赤、白も黒もない。白に塗られていた世界が突如1枚の赤に変わったのだ。
その世界に存在するものすべて。山も、川も、空も、陸も、上も、下も、輪郭すらなくぜんぶが真っ赤に染まった。
「……っ!」
ユエラは、顎が痛くなるくらい食いしばった。
拳も固く閉じやりきれぬ思いを握りしめるかのよう。ただひとつの、ふたつぶんの絶望を嘆く。
その赤塗れが最後の1枚の絵である。ようやく彼女の立つ場所に辿り着いたのだ。
「あの子たちに変わってお招きさせていただきましたわ。いらっしゃいませお友だちさんようこそおいでくださいました」
気配を感じたユエラは、ゆっくりと振り返る。
目で見ずともいることはわかっている。なにせ彼女がここへ招き入れたのだ。そして己の過去を見せてくれた。
するとそこには、全身に不均一な鱗をまとって彼女がいる。隣には亡骸にも等しい無感情の雄龍も待機している。
ソレはおそらくは件の飛龍であろう。女性ひとりが巨木の如く逞しい腕にしなだれても傾きすらしない。
「ここはアタクシの夢のなか。そして制約結界の外、いわゆる避難場所というところなのですわ」
ミルマは、うつむくユエラにむかって艷やかな笑みを向けた。
目端を溶かしぼう、と蕩けるような。一夜の夢に浮かれる少女の如き幸福に満ちた微笑。
「せっかくいらしていただいて申し訳ないのですが、もうあの子たちが表面化することはありえません。ここにいるのは邪龍ミルマ・ジュリナ・ハルクレートの傷から生まれた膿、本物の邪悪」
紫陽花色のドレスをすすと捲くり上げる。スリットから肉の詰まった腿をみだりに露出させ男の足へ重ねる。
割れた腹筋へ丸い房の形が変わるくらい押しつけ、細指と太い指を隙間なく絡ませた。
厚い唇が湿度を増すほどに吐息は荒々しく、肌はしっとりと汗ばんで呼気するたび色香が可視化されるかのよう。
今にもハテてしまいそうな状態で濃密に男と肌をすり合わせた。
「これよりアタクシはあの子たちを破壊した世界へ復讐を開始します。神の心臓へ報復という爪を突き立てるまで止まることはないでしょう」
「…………」
「奇遇にも時の女神と目的は同じです。そして彼女も絶望に打ちひしがれるあの子たちをお誘いくださいましたの。共に世界へ反逆という刃を仕向けましょう、とね」
ユエラは震えた、慟哭する。外套越しの貨車な肩がひくりひくりと揺らぐ。
下唇が真っ白になるくらい歯を立てた。友――なのだろうか――の声は耳に届くも頭に入ってきていない。
そうやってユエラがうつむいたままでいると、ミルマはふんわり小鳥を乗せるような仕草で手をこちらへ差し伸べた。、
「だけどユエラちゃんだけは特別に選ばれたのですわ。あの子たちに愛され、あの子たちを愛してくださった。そんなアナタだけは幸福に生きる権利があるのです」
「…………」
「苦痛の時を無理に生きる時代は終わったのです。神の気まぐれに弄ばれたアナタはここから自由に羽ばたけるようになる」
そう言ってミルマは踵を浮かし男へ口づけを交わした。
軽く触れるようなキスを終え、未だ動かぬユエラのほうへ踏みだす。
酒によった女のような足どりだ。丸いシルエットの腰を淫らに振りながらヒールで不調子を奏でながら近づいていく。
「怯えないで、今ごろ外では浄化がはじまっているころです。アタクシたちと一緒に時の彼方へと身を委ねましょう」
そのくせ表情だけは子を眺める母のように優しいのだ。
「さあ、共に生きましょう」
友からの誘いだった。
混血と双頭、どちらも望んで得た境遇ではない。神の気まぐれによって与えられた特異である。
ほんの少し違っているだけで周囲との乖離が生じた。そのせいでユエラは忌み子と軽蔑されエルフとすら認めてもらえなかったのである。
「癒えたあの子たちと再会を果たすまでにこの色褪せた心にとりどりの花を添えましょう。そして時の女神の望む新たなる世界で幸せに暮らすの」
因果な巡り合わせだった。
しかしふたりはこうして出会った。
痛みをわかってやれるから。だからユエラはミルマの手を払いのける。
「……え?」
まるで予期せぬ事態とばかりにミルマは目を丸くした。
舞台の上で台本と違う展開が待っていたと言わんばかり。払われた手がふるふると小刻みに震えている。
「……えんな」
「ゆ、ユエラちゃん? あ、アナタは、あの子たちのお友だちなのでしょう?」
それなのにどうして? 言わせてやるものか。
うつむいたままだったユエラはようやくミルマを彩色異なる瞳の内側に映した。
「――甘えんなァァァ!! 」
心の画廊に激情の叫びが爆発する。
勢いそのままにミルマの胸ぐらをひねり掴んだ。
「薬師だから言わせてもらうけど助けられようとしない患者はどうやったって助けられないのよ!!」
我慢の限界だった。
相手が龍であれ友であれ関係なんてあるもんか。
ユエラは額をぶつけるくらいミルマを引き寄せ、叱りつける。
「友だちだから助けにきたに決まってんでしょ!! それなのに諦めて引きこもって誰かに任せるってどういうことよ!!」
先ほどまでおとなしくしてやっていたのは、彼女が可愛そうだから。
可愛そうだから救おうと思ったし、幸せになってほしいと思えた。
しかし今のミルマは救うに値しないという判決が下った。
「あ、ゆえ……」
もうなにも言わせない。もうなにも聞きたくなんてない。
これ以上の御託を並べるのなら、こちらにだって言いたいことはたんまりとあるのだ。
「頭から抜けるような猫なで声に腹が立つ! 自分の舵を明け渡したその性根に腹が立つ! 不幸の上に鎮座してメソメソしてるのに腹が立つ! 幸せになりたいって口で言うくせになにも行動しようとしないのも腹が立つ!」
ユエラは形振りかまっていられなかった。
眼前にある友の顔に唾がかかろうが知ったことではない。
ミルマも抵抗するどころか目を皿のようにして瞬きすら忘れて剛直している。
「ち、違う、違うわ!? そうじゃないのよ!? アタクシはただ――」
「なにも違わない! それに今、私はアンタに話しかけてるんじゃないの!」
「じゃ、じゃあいったい誰――ぁッ!?」
その時。平手がミルマの頬を殴打した。
パチンなんて可愛いものではない。もっと可愛そうなやつだ。思い切り振りかぶって頬に手形がつくくらいの全力ビンタだった。
「なかにいるアンタらに言ってるんでしょうがッ!! いつまでもうだうだやってないででてこいこの、ッ――臆病者ォ!!」




