544話 そしてひとりぼっちの龍、確定する運命の審判
光の壁を抜けた先は1本の道となっていた。
欠け剥げの目立つ白亜壁が左右どちらにもあり迫ってきそうな圧迫感をもたらす。青蔦這う様子はこの空間が年月を忘れて存在していることを意味していた。
目眩がしそうなほど遥か遠くにまでつづく石畳と棺の回廊である。それが線を引くようにして途方もなく、どこまでも、終わりがないとさえ錯覚させてくるのだ。
見慣れたはずの空は黄の光沢に満ち青くない。月もなければ日の気配すらせず、ただ流れる雲だけが常に優雅なのである。
ここは彼女にとって感じたことのない、どこか焦燥感を煽るような歪さを秘めていた。
ミルマ・ジュリナ・ハルクレートは心で叫ぶ――訴えかける。
――お願い身体を返して! このまま時の女神に会ってどうするというの!
――ユエラちゃんのところへ帰って! あれじゃあの子を裏切ってしまったことになっちゃう!
そんな歪な空間に流麗なドレスをめかしこんだ女性がひとつ。
荒れる吐息と高い踵を叩く音が壁に反響していた。そこに混ざりて悲痛な叫びがひとつ、もしくは、ふたつある。
身体が意思に反して前へ駆けていた。慣れぬ種の身体であるはずなのに、まるでそれは自分の身体の如く地を駆っていた。
「フフッ、強がりはおよしなさいな。アタクシはアナタたちのためを思って行動しているだけのことよ」
己であって己でないものが己の顔で不敵な微笑みを作る。
現在、彼女の身体の支配権を有しているのは3つ首めだった。
――そんなッ! こんな愚行をアタクシは望んでなんていませんッ!
――ましてや時の女神にそそのかされるなんてありえないッ! 一刻も早く身体を返して!
ここまでどれほど声なき声で訴えかけたことか。そのどれもが聞き入れられることはなかった。
己の意に反して足が前へ前へと迅速な跳躍を繰り返す。せっかく友と選んだ大切なドレスの裾がバタバタと後ろで暴れている。
アレを油断と呼ぶべきか……ソレはない。だって唱えることは許されなくても思うことは自由なのだから。
――今ならまだ引き返せるわ! 引き返せばまだ聖都であの子が待っててくれているはず!
――だから止まってよお! 初めて出来たお友だちなの! こんなアタシのことを飛龍の次に心から受け入れてくれた大切なお友だちに……っ、こんなことってないよッ!
声を裏返すほどに叫ぶ。
身体さえミルマのものであればきっと喉が枯れていたことだろう。
それほどまでに強い意思で静止を呼びかけた。
「ああ、またアナタたちは心を閉ざしてしまっているのね。仮初であるアタクシが表面にでられるのがなによりの証明なのだから」
だが、事実はこうも残酷だった。
――……ッ!?
――そ、それは……ッ!
「それにせっかく時の女神直々のお招きなのだから。こんな素敵な出会いを安々と反故にするなんてもったいないじゃないの」
容赦のないひとことにミルマたちは言葉を詰まらせてしまう
心の隙間に住み着いた彼女が浮上しているということは、心の隙間が心の領域の大半を支配しているということ。
あの瞬間ミルマは、ユエラという少女に自分の過去を重ねてしまった。それも飛龍と翼龍とともに過ごした幸福だったのころの自分を、だ。
そしてミルマは身体の支配権を、意思ではなく本能が手放した。
――アタクシという生き物はなんて浅ましいの……! 思想ですらすでに獣以下に成り果てていただなんて……!
――あの子を妬んでもアタシの幸せは帰ってこないことを知っていたはず……! なのに……最低よッ!
羨ましいと思ってしまった。
同時に、それが自分の幸福のように砕けてしまえばいいとさえ思ってしまった。
偽りなれど温かな家族を語るユエラの横顔が、ミルマの心の穴を広げた。狂おしいほどに眩しく見えてしまった。
「他者の痛みは己の幸福ではない。他者の不幸に愉悦を覚えるのであれば満たされぬ己の不憫さを認めることと同義。一時に与えられた偽りの至福を追うならば、やがてその身は飢え、満たされず、気づくころには化け物に成り果てるだろう」
3つ首は呼吸を乱すことなく「……そんな感じだったかしら?」空虚な心をさらに抉った。
忘れるものか。忘れないためにどれだけ身をやつしてきたと思っている。その言葉を毎夜幾度唱えたことか。
それは最愛の夫である飛龍がかけてくれた初めての声である。地べたにすがって己の運命を呪うミルマが初めて空と出会ったときのもの。
さらに3つ首は止まらない。ミルマであればとうに息があがっている種族の身体で、不安定なヒールで疾走する。
「僻み妬みを育てるな。誰かの幸福を誰か以上に楽しんでみろ。それこそが己の幸福を手繰り寄せる近道だ」
聞きたくない。お前がその言葉を語っていいはずがない。
たまらずミルマは心の音量を上げる。
――やめて! もうそれ以上アタクシの声でアタクシの大切なモノを否定しないで頂戴!
――許さないッ! 飛龍がアタシと出会ったときにかけてくれた大切な誓いを穢すなァ!
ふたりの悲鳴が内側で木霊すると、己は上機嫌に鼻を吹く。
「愛する飛龍のことをバカにするはずがないじゃない。た・だ、今のアナタたちは彼の望んだカタチでありつづけられているのかを問うているだけよ」
己の身体が鋭角に笑む。黒く淀み、濁り、辛うじて笑みと呼べるような。そんな化け物の如き表情だった。
ミルマ自身でも己の表情がここまで歪むことを知らず、恐怖すら覚える。
果たして今の自分を彼が見たらどう思うだろうか、なんて。そんなこと決まりきっている。
龍玉などという忌みなるモノに父子を奪われた日、ミルマのなかでは世界が閉じていた。
ならば今こうして生きながらえている肉はなんなのだろうか。果たしてこの物体を生きていると形容して良いのだろうか。
――……アタクシはいったい、なんのために生まれてきたというの?
――……アタシはいったい、どうすれば救われるの?
心が濡れてしゃくりを上げる。
しかしもう泣くことすらこの身には許されていない。
――飛龍も翼龍も帰ってこない……ただひとり……わかっていたことなのよ?
――居場所はない……同胞たちにも恨まれつづける。しかも……差し伸べられた手すら握り返せない。
ミルマが生の価値を問えば問うただけ心が置き換わっていく。
ようやく絶望の淵に自らの意思で立っているのが見えた。ただ気づいていなかっただけ、すでにこの魂は終わりを迎えていた。
本当に化け物になっているのは3つ首ではなく、己。飛龍が避けよと願った成り果てへ、ミルマはすでに成り下がっていたのだ。
――……ねぇ、アタクシ? もう終わりにしてしまいましょうか?
――……そうね、アタシ。なんで……どうして……こんなことになっちゃったの?
やがて心が訴えることをやめる。
支えとしてあった生きるという言い訳が済んでしまった。
徐々に映した世界が閉じていく。報われぬままに生き、報われぬままに死を迎える。もうあがくことすら折れていた。
――もう……どうでもいい。
双頭は己の運命を受け入れていく。
すると、影が落ちた。
「フ、フフフッ! そうよアナタたちはもう十分に苦しんだのよ! つまりそれこそが罪への贖罪、洗い流し終えて再び前へと歩みだす希望とするのよ!」
そこにいるのは誰でもない。だってミルマはなにも離していないのだから。
絹の如き皮膚が泡立つように逆立ち、本来の鱗をとり戻していく。陶器の如き手指も、白枝の如き足もが狩り形を思いだす。
背の肉が破れ、羽織った布切れをも貫通した。現れたのは両翼、そして3つ目の龍の翼である。
「これほど過酷な運命を乗り越えたアタクシならば、ここからは己の幸福を追う番ではなくってェ!?」
1匹の化け物は一陣の風となって滑走した。
も、返答はすでにない。化け物は化け物らしく化け物として振る舞うのみ。
「望んだすべてをとり返すのよ! 失った世界そのものを再構築してでもアタクシはあったはずの幸福をこの手にとりもどしてみせるの! 神はアタクシを生みだしたことを後悔する――させてやるんだアアア!」
ミルマという個の面影はとうに消滅している。
追いすがり求めるだけの強欲、嫉妬、怨恨の化身は枷を破壊し解き放たれた。
微かに、消えかけの火の粉のように残された彼女たちへ、3つ首の化け物の意思が雪崩込んでくる。
――……1つ、めの?
――……りゅう、ぎょく?
恥辱と暴虐に塗れた生に審判の時が訪れようとしていた。
下すのは天使でもなければ犠牲となった龍たちでもない、己の弱さが生んだ悪鬼である。
「この大陸世界に大いなる不幸と死をもって報復をもたらす!! やがてアタクシも飛龍と翼龍のいる場所へと昇華する!!」
もうひとりぼっちの龍は狂ったように叫ぶ。
吹き抜けとなった黄色い空は届いた叫びに返答を返さず。
そしてそれこそが龍玉へと捧げられた同胞の望みだったに違いない。
――……しを………て……。
ミルマは消えゆく意識の最後に、友を見つけて、願う。
それでも祈りは届かぬだろう。彼女にとって苦痛だらけだった生で唯一確定した事象だった。
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