『※****』531話 そして【新世界への系譜】 前編
高く空に届かぬ左右の両壁が反り立つ。
その丁度中央をまるで突風のようにとある少女が駆け抜けていく。
「クッソ聞いてねぇ……! クソクソクソクソクソ……!」
こんな不幸な日なのだから八つ当たりでもしなければやってられない。
手にした大鎌をひょうと振るって空を裂く。口汚く己の直面した非道な運命を呪う。
予測できたか、否。なにせそれは運命の神ですら予期しても対応できなかった事態である。
であるならば、このような事態に遭遇したとして、彼女に隙や油断があったと嘲るものもいまい。
「フ、ッフ――足りねえ……! 甘過ぎた……! あのレベルにまで融着するなんて聞いてねぇぞ畜生が……!」
歯ぎしりは己への怒りを意味する。発達した吸血の牙が下顎の歯と擦れ、ギリリと尖った。
足を止めている暇なんてない。1秒たりともだ。
ミチミチと内側から押される風船の如き肉の厚い太ももと、しなやかな膝が前方のみを押す。
突風の如く音を置き去りにする風によって嫌な汗が散った。なびかれた腰巻きが暴れに暴れる。
「よりにもよってこの場所に侵攻するのかよ!! この 肉 穴 土 偶 如 き が ッ !!」
どれほど貶そうとも負け惜しみにしか過ぎぬ。
なにせこちらは逃げの1手であって一辺倒の手段しか持ち合わせていない。
しかも追いつかれれば死ぬときた。ならば尚更立ち止まれるものか。
とはいえこののまま脱兎の如く逃げたからといって、なにをどうにかできるわけでもない。
「穢れつきの不選定戦士たちを奪う気かよッ!! 余の集結させた救世主をッ!!」
後方の追跡者へ聞こえるよう激情の憎しみを込め、怒鳴りつけた。
縦に切りとられた空は黄金色。大陸の世界とまた違った風色を浮かべている。
ここは狭間。世界と世界の境界となる界と界のちょうど中間にある余分な空き、世界の余り。とどのつまり辺鄙な所だ。
世界を渡る廊――回廊をもじって界廊とでも呼称すべきか。しかし通常、種族たちであればこの界廊を――棺の間と呼ぶ。
そして突発的遭遇存在に追われる彼女のことも――最上級の畏怖を秘め――棺の間の主と呼ぶのだ。
「くっ――!?」
走れども走れども気配は遠ざかるどころか近づいてくる。
「飽きられちまった肉穴ふぜいがずいぶんとイキるじゃねーか!!」
足では叶わぬと知った彼女は、さも珍しい皮の黒翼で身を翻し、侮辱とともに飛翔した。
しかし相手はこのていどの安い挑発に乗ってくれやしない。心の差、力量の差。これほど開きがあってはさすがに……である。
「チッ……! 言い返しすらしてこねぇ調子こきやがって……!」
冥の巫女レティレシア・E・ヴァラム・ルツィル・オルケイオスは敗走を余儀なくされていた。
そう、これは勝負にすらならない。一方的でいて戦いにすら発展することのないものである。
「舐めやがって舐めやがって舐めやがって舐めやがってェ!!」
それがプライドの高いレティレシアの癪に障ってしまってしょうがない。
闘争の意思は十分にある。が、冷静さを失うほどではない。
もしここで浮かれた頭でむかっていけば、もっと碌でもないことになるとわかりきっていた。
だから彼女は最速で界廊を飛翔する。
直線でありながら不意の事態にも対応出来うるだけ、細心の注意を払いながらだ。
速度は突風の如し。棺の間からあふれたぶんの棺が両端に並ぶも、彼女にとってもはや線か点ほどにしか視界に入らない。
「――ッ!?」
すると背後から微かに……本当に僅かな殺気が迫っていることに気づく。
突風となる彼女に炎球が押し迫っていた。
周囲の景色すら飲み込まんばかりに歪ませながらレティレシア目掛けて飛来する剛速の炎球。
「ナメンナァァァ!!」
それを彼女は大鎌でなんなく両断してやる。
が、上手くやっているようで実のところはそうでもない。
あのていどの魔法なんて相手にとっては鼻をかんだ紙を放るようなもの。
きっと見えぬほど離れた後方では汚らしい笑みを浮かべているのだろう。余裕で余裕で仕方のない子犬をなぶるようなゲスの笑みを。
その自分勝手な妄想がさらにレティレシアを血走らせた。もう癇に障って仕方がない。
『フフフ。お話をしましょう?』
その音も。
『調律を終えるまでに余暇が出来たの。だから私じきじき迎えに来てあげたのよ。それなのに逃げるなんて酷いわぁ』
その存在も。
『ねぇ? 前主ラグシャモナ・アーハム・セネグリス唯一の愛娘――単一種族、レティレシア・E・ヴァラム・ルツィル・オルケイオス?』
その境遇も。
『私達はよく似ているとは思わない? だって私もまた……現主フィクスガンド・ジア――』
「ダマリヤガレエエエエエエエエエエエエ!!!」
『あらっ? うふふ、つれないのねぇ?』
ひとことでこの状況を言い表すならば……
「例外のない凡てだ!! 1つ残らずケツからてっぺんまでのぜんぶが気に食わねェぞッ!!!」
だ。
彼女は自負するほどに己が短気であることを知っている。
しかしここまで対象へ怒りをさらけだすことも、そうそうありはしないのだ。
血色の眼が血走って怒りに染まる。噛み締めた口内から軋む音がとどまらぬ。
だからといってどうにかすることも出来ない。それは神へ剣をむけるのと同義であるから。
『アナタに送るための招待状をもってきているのよ』
そうら、きている。
こちらが逃げたぶんだけ、まるで日の後の夜のように。堕ちた影のように災厄ついてまわる。
『共に新世界へ渡るためのお船、それに乗るのは私と主様とアナタだけ。さあいらっしゃいな一緒に大崩壊の顛末をお空の方舟から観覧しましょう』
ずずん、ずずん、ずん。
ずずんずずん。ひた、ひた、ひた。
さあさ、最悪の災厄のおでましだ。
「はぁっ――!」
そしてレティレシアは水辺にダイブするような怒涛の速度で広間へと飛び込む。
こここそが棺の間。棺の戦士たちの眠る静寂のみの許される地。唯一である彼女へ唯一与えられた余分な空き。
「選定の天使!! グルドリー・ヴァルハラぁ!!」
そして勢い良く紅の絨毯へ滑り込んだレティレシアは、叫ぶ。
体はすでに元きた界廊へむく。大鎌をいつでも振るえるよう戦闘態勢を整えている。
ここには天界への導き――混淆の祠へと繋がる天界への大門が鎮座している。
だから彼女は叫ぶ。呼びかけるのは玉座の後方にそびえる大門へである。
「でてきやがれェ!! 終末の予兆を迎えても箱庭ごっこを演じるつもりかッ!!」
しかし声は悲しく棺の間に反響するだけ。
やがて伸び切った音は界廊から流れ込んでくる黄色い日差しの方角へと消えていく。
あとに残るのは無数の棺のみ。
選定も審判もなく運命の時を待つ救世主たちの眠る石の棺はなにも語らない。
答えぬ扉、開かぬ道。レティレシアは慄く膝に喝を入れながら鼻面に険を寄せた。
「……うんともすんとも言いやしねぇ……! ……クソったれの天使がよぉ!」
あんなものと個で対応できるものか。
襲撃してきたのは時の女神である。しかし要の天使は欠勤しているようだ。
とはいえ予知の可能な神が、この事態をみすみす見逃すとは思い難い――……と、信じたいところではある。
――天界側はおそらく聖戦にむけて備えを行っている。つまりこの余分な空きにまで意識が回っていないということね。
来たるべきは魂と魂の競り合う大合戦だ。
へし合い押し合いの潰し合い。残された魂を身に宿して神級の力比べにて勝利した側が世界の派遣を牛耳る。
なにもオカシイことなんてないのだ。以前もやったことなのだから。そうやってこの世界は幾分か……マシになった。
――しかたない。なら時間稼ぎていどには道化になってあげようじゃないの。
レティレシアは大扉を一瞥して覚悟を決める。
大振りの鎌で空を裂き、威嚇しながら界廊の側へ蛇の如き睨みをきかせた。
「もうお逃げにならないのです? ヒヒッ、もう少し……時間の許す限りではあるのだけれど、付き合ってあげたのだけれども?」
「――ヘッ! おめぇのクセェ売女の臭いがウザくて距離をとってただけだ! だがそろそろ蓋をして臭いの元を断ってやらねぇといつまでたってもクセェままだからな!」
「お強がり。愛らしいことっ」
ひたり、ひたり。
徐々に近づいてくる素足の落ちる音。呑気なものだ。
見せびらかすよう大仰な腰を左右に揺らしながら女――という形――は、やってくる。
レティレシアは笑み――という体――を作りながら、ゴクリ。白細い喉に冷ややかな唾液を流し込む。
この身を打ち震えさす恐怖を起こして伝えることは難しい。唐突な死と対面させられるようなものである。
「迎えにきて差し上げただけよ。だからそんなに怯えないで」
「……っ。誰も頼んでねぇんだけどよぉ」
「冥の巫女であるアナタだってきっとわかっているはず。だって私たちは寵愛を賜れぬ悲しく罪なる存在なのだから」
油汗を額から伝わせる彼女へ、滑らかな手がゆるく差し向けられた。
ソイツは間もなく光の波から棺の間の闇へと至る。
身に帯びるのは切れ端を貼りつけたような法衣だけ。清楚さの欠片もない。最小限で粗末な衣服である。
それでも内は絶世であって極上。細やかな肌は闇すら透かし白く照り輝く。歩を進めるだけで女の部分の肉が柔和に波打ち、伸び切った髪が揺らいで流れた。
身の毛が逆立つほどの美貌。しかして彼女をひとたび視界に捉えて覚える感情は、恐怖以上の何者でもないのだ。
「ねぇそうでしょう? 前主ラグシャモナ・アーハム・セネグリス唯一の愛娘――冥の巫女レティレシア・E・ヴァラム・ルツィル・オルケイオス?」
そして開眼とともにヤツの目に、7色の光が咲く。
「勝手に同類に決め込んでんじゃねぇ! 現主フィクスガンド・ジアーム・ルスラウスの肉穴――時の女神クロノス・ノスト・ヴァルハラ!」
対峙ではない。それはとても易しい表現である。
なら……謁見、拝謁。こちらのほうが正しいだろう。
「使い捨ての襤褸糞が、ずいぶんと面白くねぇことしでかしやがったじゃねぇかよ!」
「まあっ、使い捨てだなんて酷いわぁ。いずれ私はあの御方の宝物としてめとられる運命。そしてこれはその序章、愛と感動の終幕を迎えるための準備。いわば、あの御方の後押しをして差し上げているだけ」
時の女神クロノスは、うっとりと昆虫の如き眼の端を下げる。
白枝の如き両の指で頬を包み込んで、わざとらしく腰の布をはらはら揺らがす。
するとそこへ忌々しげな舌打ち飛んだ。
「――チッ! たかが兵器風情が陽気にウタってくれるじゃねぇかッ!」
レティレシアの強がりもここまでくればもはや箔だ。
なにしろこちらのは、神。しかも前文明の敗北者である偶像神から生まれし種なのだ。
ゆえに神、あるいはその同等の存在へは遠く及ばない。レティレシアに神と真っ当に闘争して勝つという目はない。
それが常である。
種は、神は、いついかなる場面であっても決して対等ではない。
それこそが曲がらぬ、そして翻らぬ、世の道理というものなのだから。
「HRRRRRRRRRRRRRRu…………!」
「だぁめっ。あんなのはただの虚勢。私に対する侮辱にすらなり得ないわ」
「……RRRrrrrru」
まるで無邪気な子供だ。
歪な巨躯の2足元をくるり、くるり、と。回りながらって踊るように素足を踏む。
そうしてクロノスは、連れ添う巨躯を、優しく制した。
――あれは……時の監獄?
レティレシアは異形の巨躯を仰ぎ見る。
ソレはまるで枯れ褪せ海中に沈んだ貝殻の屑に似ている。それらが2本の棘立つ足を支えとしながら球体を模す。
千の歯の如くバックリと横に開いた裂け目からは、呼吸なのか唸りなのか。とにかく良くわからない野太い音を漏らしている。
「……なるほど……そういうこと……」
嫌な予感というものはたいてい当たるのだ。
レティレシアは忠犬の如く付き従う貝の檻を見、即座に理解へ至った。
あの神が創造せし兵器もまた、聖戦にむけてこしらえた神が創造せし兵器によって――……呑まれやがったか、と。
「テメェさっき調律がどうとかって口にしてやがったな?」
「口にはしていないわ。だってあれ無声会話ですもの」
「いいから答えやがれカス」
「慌てないの。時間なら幾らでもたぁっぷりあるのだから。もし時が足りないのであれば私の能力で時を食んで差し上げるわ」
舐められたもの、ではなく舐められている。
クロノスは対面したレティレシアを脅威とすら見ていないのだろう。
その証拠にこちらへ顔を向けようともしない。
「んっ? 調律……調律……ちょうり、つぅ……? なにか大切なことを忘れてしまっているような……気がするわぁ?」
薄ら笑いを浮かべ、理由なくクツクツと喉を鳴らし、どこにむかうでもなく棺の間をうねり歩く。
レティレシアはソレを緊張の糸を張り巡らせながら待つことしか出来ない。
「あっ、そうそう。大切なことを忘れていたわ。この棺のなかに龍族はいたりしないかしら?」
するとクロノスはぽんと胸の前らへんで手を打つのだった。
それから近場に置かれている棺の上にしなだれるよう、尻を落として座り込む。
「私の調律に2つほど逆らう魂があってね。どうやらその2つの魂はたった1つの魂に伝えたいことがあるらしいのよ。でっ、その魂がこのゴミ箱のなかに入っていないか確かめたいのっ」
「……? なんの話をしてやがんのか頭っから説明しやがれ。あとまずこっちの質問に答えろ」
「この子たちを精神支配するのも簡単にはいかなくってね? まぁったく困ったちゃんたちがいーっぱいいっぱいなのよ? だから200周期くらいと目処を立てているのだけど、少しくらいは楽したいじゃない?」
――ったく面倒ったらない。と、……あれは?
棺の上でいじけるクロノスを置いて、レティレシアは彼女のとある1点に注目する。
薄暗い空間に煌々と浮かぶ7色の瞳。まるで7色に塗った硝子に1発打ち込んでヒビを入れたような奇抜な瞳。
そして彼女のもつ7色に付随する、もう1色が存在し、ぼんやりと棺の間に姿を主張していた。
踊る黒と血色の宝玉。それは時の女神クロノスと完全に癒着を完了していた。
胸にぶら下がった2つの肉房の狭間にて、おどろおどろしく燻っている。
「龍族の賜りし宝物……! 龍玉……!」
見紛うものか。それを1度目に授けた冥の巫女である彼女。
しかもクロノスの中央に植えられているのは、純正の冥より賜りし宝物である。




