518話 【蒼VS.】狼の姫 ジャハル・カラル・ランディー VS ???? 4
僅かコンマ数秒の出来事だった。
ジャハルは体制を崩しながらも宙で腰を軸に全身のねじる。その回転を利用して強引に引き剥がす。
「言っただろう甘いとな! 我を仕留めるにはなァ!」
明人の手に残ったのは余韻だけ。きめ細やかな感触と僅かばかり浮いた汗の汁気のみ。
決定打としてかけた技が力任せに外されてしまう。
「くそっ、そこまでして勝ちが欲しいのか!? 気高さもなにもあったものじゃないな!?」
「それも先ほど伝えたはず! 我は今日こそ貴様に勝つとな!」
明人は技をだした体制のまま動けないでいる。通り過ぎていく対象を睨むことしかできない。
勝ちを確信した脳裏に浮かぶもの。それは焔龍戦でも痛いほど思い知った種族特性だ。ジャハルがやったのは獣特有の瞬発力――あるいは人とは異なる生きかたの所作。
「さあつづけていくぞッ! まだ全力をだし切っていないのなら悔いを残さぬよう存分に振る舞うが良いッ!」
まるで曲芸。落下する猫が宙で体をひねるような動きだった。
そこからジャハルは犬歯をギリリと期しませる。尾を立てながら足裏と手詰めで石畳を削る。
獣の姿勢で速度を殺す。毛量の多い毛が後方からの風を浴びて百獣のたてがみの如く踊る。
「今に限っては誇り穢れの類はいらん! こちらは本気でいく! ゆえに貴様も本気できてみろ!」
雄々しき決意とともに身を矢とする2射目が放たれた。
明人へ迫るは猛獣。約5メートル如き彼女にとっては1歩に過ぎぬ。
危機を察し、近接用に構え直す。
――ここであの技を使うか!? あの禁断の技を!?
この期に及んで迷いが生まれる。
しかし相手は思考する余地すら与えてくれはしない。
ゆえに判断までの時間が動きを鈍らせた。
「隙だからけだァ!!」
振られる拳。明人の目でもってしても霞んで見えるほどの速さ。
「つぅ――ッ!?」
びょう、と。真に矢でも放つような風切り音が耳をかすった。
かすった部分がジリジリと焼かれるような痛みを覚える。
ジャハルが「――なっ!?」一瞬だけぎょっと目を剥く。
「これも避けてくれるとは楽しませてくれる! ならばこちらは数で押させてもらうぞ!」
だが、それも刹那ほどの間のみ。
いっぽうで明人は無意識だった。ほぼ反射的行動で体が横にかたむいただけ。霞んだ蒼が遅れて揺らぐ。
しかし両者は完全に間合いとなった。
「そらそらそらァ!! 以前のように捌ききれると思ってくれるなよ!!」
爆竹の如きヒット音が墓前である試合場へ、無残にも木霊した。
まずは、と。いわんばかりにジャハルの拳が腹部へ刺さる。
「――ガハッ!?」
あまりに早すぎた。明人に防御する暇なんてない。
衝撃で驚いた喉が閉じ酸素の吸入を止めてしまう。この試合が開始されてはじめて直撃を貰った。
だが苦しんでいるばかりではいられない。次の攻撃が散弾の如く押し寄せてくる。
――ジャブ!? いや、これはフェイント!?
2発目のボディへの拳は防御する。
「教わった技だ! 早速使わせてもらう!」
さらに間髪入れず、横から迫るのは――肘。即効を極めるような攻撃が横薙ぎに振られる。
しかしジャハルの攻撃はすでに影を追う形となった。
――あぶねぇっ!? 教えるんじゃなかった!?
これも危機一髪で回避に成功する。
明人は彼女の懐に入り込むよう、身をかがんで屈んでやり過ごす。
同時にそれが失敗であったのだと、耳が聞く。
「ほうら? そこからの景色はどうだ?」
先ほどまでの気迫は微塵もない。裏を返すが如き冷たい声。
屈んだ視界のすぐ上。ジャハルの顔いっぱいに悪戯っぽい微笑が浮かんでいた。
「景色……――ッ!?」
まず明人が覚えたのは鼻腔に入り込んできた魅了の香りだった。
酸いと甘いを混ぜたような、それでいて嗅いだことのある匂い。
身を沈めた姿勢で顔を上げると、絶望が電流の如く全身を駆け巡る。
「うそ、だ、ろ!?」
ようやく開いた喉が、まず現実の否定にかかった。
次いで襲いくるのは強烈で確かな戦慄である。
眼前に広がるすらりと長い両足のつけ根近辺か。雪のように白い太ももが汗に濡れて扇情的に照り輝いていた。
しかも片ジャハルは股ぐらを晒す。足が地に立ちながら天へと伸びている。
「みだりに迎える箇所ではないのでな。そうそうに立ち退いてもらうぞ」
よいな? おそらく彼女は回答を待っていない。有無を言わさぬ問いかけ。
きっと明人のダッキング行動すら読んでいたのだ。読んでなお見計らっていたのだ。つまり術中にハメたというやつだ。
ややあって明人はようやく置かれた状況に気づいた。
「か、踵落とし――ッ!」
脳が理解した瞬間すぐさま横へ飛んでいた。
そしてジャハルの足が振り下ろされる。
明人が先ほどまで立っていたであろう石畳が、クッキーの如く弾ける。
間一髪だった。当たれば確実に仕留められるほどの威力。必殺どころか確殺に近い1撃だった。
それほどまでにジャハルは今回勝ちを毟りとるつもりなのだ。相手の安否どころか生死すら厭わず。
「そうこなくてはなァ! 貴様が本気を見せる前に終わられてはツマランッ!」
そんな彼女が受け身もままならず転がった獲物を逃がすものか。
また明人も迅速に立て直すことに成功したが、すでにジャハルの間合いとなっている。
「2度の勝利で貴様は自惚れを学んだのだ! こちらが泥を啜るような悔しさのなか貴様の背を追いかけているとも知らずに!」
「うっ、はや――いッ!?」
その信念はたとえ防御しても防ぎきれないと知る。
ジャハルは完璧なコンビネーションを明人へ見舞っていく。
拳に籠められているのは気高き狼としての品格か。骨のように折られてなお強固に繋がった強さが秘められているかのよう。
「ゆえに我はことここに至れり! 貴様に勝利することで我は失ったモノをとり戻す!」
たかが弱者と見くびった者から与えられた屈辱的な贈り物。それがここまで実力を研ぎ澄ませたのだ。
猛々しい咆哮「ハァァァ!」とともに打たれる拳が筋張った肉を穿つ。容赦のない、さながら攻め立て。
彼女の攻撃がヒットするたびに周囲が沸き立つ。
対して明人は歓声が響くたび追い詰められていくばかり。
「防戦一方で戦局が覆ると思うな!! もし闘士が少しでも残されているのならば打ち返してみろ!!」
「ぐっ、あ!? ふ、っは――!?」
機関銃の如き痛みの襲来を浴びてなお、蒼の瞳は曇りなし。
最小限かつ最高のタイミングで躱す。避けられぬならば守る。
決して特別な力はなくとも最低限の人の道理のなかで捌くのだ。
しかし明人の体力も無限とはいかない。先ほど貰った腹への直撃が今になって枷となっていた。
「貴様が目覚めたら改めて友となろう!! 共に酒でも酌み交わしながら過去の試合を歌おうではないか!!」
手始めのジャブから流れるようにストレート、そして上がったガード下へ蹴りを叩き込む。無呼吸での3打。
そこで終わりなはずもなく。ジャハルの猛攻はまるで大嵐か暴風雨の如く止むことはない。
晒された人間は全身を打たれ――やがて……膝がゆっくりと落ちていく。
「フッ――これにて因縁の決着とさせてもらう!! 覚悟しろ舟生明人ォ!!」
終盤も近い。ジャハルが特大の予兆を見せる。
そして最後に彼女の選んだ技は、大ぶりの1撃だった。
人の頭部を刈りとる死神の鎌。長い足を鞭の如くしならせた中段蹴りの構えである。
「喰ら――ッッ!?」
弓引かれ放たれる直前にジャハルが攻撃の動作を止めた。
だけではない。まるで跳ねるように後退へと舵を切ったのだ。
彼女の不可解極まる行動に観衆たちがどよめく。一様に首を捻りながら頭の上にクエスチョンマークを浮かべた。
あろうことかみすみすチャンスを不意にするとは。唖然とした誰もが――口にしないが――表情で語っている。
「ハッ、ハッ、ハッ!? き、貴様……今、狙ったな!?」
しかしジャハルだけは察していた。
喉で刻む吐息。それは数多くによる攻撃の疲労か、あるいは別のものか。
察さざるを得なかったはずだ。なにせ彼女のみが見ることを許されていた。
かたむきゆく最中の瞳に勇敢な蒼が煌めいたことを。
「なにをしようとした!? 意識を手放し倒れゆくなかになにを秘めた!?」
――獣の勘ってやつか。厄介だが……これで良かったのかもな。
明人は踏ん張りを効かせて大地に足を根づかせた。
思いの外、遠くからジャハルの喘ぐような声が聞こえてくる。
「き、貴様が我に放ったものは確かな殺気だった……!? あの防戦一方の体制から新手を繰りだすつもりだったとでも言うのか……!?」
肩で息をしながらふるりと身を震わせた。
全身がくまなく汗に濡れ、尾がぶらりと股下から見えるほど垂れてしまっている。
「つまり……窮地に追い込まれてなお我の喉笛に喰らいつこうと機を狙っていた……!?」
彼女の疑問はおおよそ正しい。ただこちらに答えてやる義理はない。
明人は安全を確認しながら両腕をだらりと垂らす。
――まったく……そんな顔するなよな。
それは、彼が倒れるほんの僅かに前の一幕であった。
乱打を繰りだすジャハルのむこう側に、明人は白い影を見た。
――普段笑ってるくせにさ。ああいうときだけそんな顔をするんだから……さすがに参るよ。
流れる雲を吹き返すよう空にむかって熱い吐息を長めに吐く。
身体は内から底までずくずくに痛む。余すことなく叩かれ、具沢山のスープにでもなったような気分だった。
ふともう1度。黒い瞳がそちらを確認する。
「…………」
見れば観客たちの最前列で見慣れた姿がひとつほど。
試合そっちのけも良いところ。双眸を瞼で覆い隠し、祈りを結ぶ、ひとりの女性がいた。
「……リリティア」
明人は呼び慣れた名を呼ぶ。
彼女がいた。だから譲ろうと演じていた役を降りた。
負けることをやめるしかなかった。ジャハルへ勝ち星を譲りたくなくなった。
「格好良く生きるのは難しい、多分オレにはむいてない。でも……格好悪くないように生きるのは少しだけ楽だ」
これが彼の卑怯なりの生きかたである。
だから彼女の前で格好悪い、ブザマな姿を決して晒したくなかった。
敗北が決す瞬間のみを――ほぼ無意識下で――狙ったのだ。己の道理に背くことを前提とした凶悪な技を使用してでも、だ。
ここでまた仕切り直し。互いに見つめ合うのに合図はいらない。
「ここで参ったって言っても、そうは問屋が卸さないよな?」
「ッ――と、当然だろう。フフッ、貴様があれほど真に頼る技、それを見ずに終えられるものか」
まるで終盤を背負うような両者が、再び歩み寄っていく。
中空に日は昇る。昼時にするならばもってこいの時間帯だった。
種々様々に入り混じった観客たちもまた見入るかのように前のめりになる。ここまできたら決着までの皿まで食らう覚悟のようだ。
「しつこいようだけどこれが終わったらすっぱり諦めてくれ。正直なところグラーグンよりも闘いづらくて胃が痛いんだよ」
「我を双王と同列に並べてくれるか。いいだろう約束しよう。この決闘を終えたら貴様と呼ぶことをやめる」
誓おう。そう言ってジャハルはフッと頬を和らげた。
敵意のない友へむけるような微笑である。
きっと本心からでた表情なのだろう。言葉に嘘を塗れるほど彼女は汚れていない……こちらほどは。
「いや、呼びかたは別に変えなくてもいいんだけどさ」
「……そうか? 我も、ふにゅうと呼んでみようかと考えていたが……」
「よしそれでいこう! 是非頼む!」
なんて。何気ない会話を挟みながらも両者の距離は縮んでいく。
どちらも1歩、1歩、と。宝物のようにもったいぶりながら刻んでいく。
明人もボロ雑巾なりの覚悟を決めたし、ジャハルも肌を上気させながらも冷静をとり戻していた。
これならきっと互いの力をだしあってそれなりに気持ちよく終えられた……はずだろうに。
「まったくもってお安い試合。これではチークというよりチープなダンスを見ているような気分です」
ガシャン、という重い音が静寂に響いた。
それいでいて小札のチャラチャラした金鉄の音も混ざる。
騎士の誇りはすでに墓の前に添えられていた。腰に履いていた剣はとうにグラーグン・フォアウト・ティールの墓前へと立てかけられている。
明人は試合に戻る足を止めた。
「割り込み風情がずいぶんな言い草じゃないか」
そしてそちらを涼やかに睨んでみせた。
ほうら、きた。待ちに待った来客を醜悪な笑みで迎えてやる。
「これは失礼を。つい、このような人間風情に王が敗北したという事実を受け止めきれなかったもので」
すると監視役の男も「ついつい本音を」また涼やかな笑みで返すのだ。
歩み寄る。鎧を脱ぎ捨て武器を捨て、ジャハルと明人の試合の場に割り込んでくる。
「是非、私もお仲間に加えてはいただけませんでしょうか。なぁに、ちょっとした戯れです。私めが優しく手ほどきをして差し上げましょう」
うやうやしい――嫌味ったらしい――紳士的な一礼をくれた。
まったく悪意のない、気持ちが悪いほど、純粋な殺意を背負いながら。
☆☆☆☆☆




