515話 そして再会に祝福ある日
聖なる都とて光あれば影がある。華やぐ雑踏から1本ばかり道をはずれると日の届かぬ闇があった。
なにも聖都にあるのは秩序だけではない。光あるところに影は発生するものだ。憚られる混沌もまた闇に潜み、裏で蠢いている。
生きとし生けるものが全員まっとうに生きられるならこの上ない幸福だろう。しかしそうでないのも事実なのだ。
「はっ……! はっ、はっ……!」
止められぬ足で駆けながら、子供のやった石畳の落書きを軽やかに踏み越える。
ここはまるで岩の牢獄だった。しかも閑散とした裏路地だからか気配もろくにありはしない。
カビ臭い石の上に座った露天商の男が彼女のマントを目だけでで追った。
「……チッ。ヒュームのガキが入り込むようなとこじゃねぇぞ……」
汚らしい襤褸の上に置かれているのは禁制品ばかりだ。
猛毒のある薬草に、心を惑わす壺、魔物の肝に、魔物を呼ぶ瓶詰めされた女の体液。日の目を見ないものだけ、たくさん。
花道から逸れて迷えば、そういう店は幾らでもある。花を摘みにきた男が寄る花屋も、脛に傷をもつ者たちが集まる酒屋も、昼は静かに声を沈め、夜になれば足繁く行き交う。
大抵、そのような場に蒸れるのは冒険者崩れだ。
大きな夢に食われた者、魔物に仲間を食われた者、あるいは仲間を食い物にしようとして追いだされた者。ひとりひとりに異なる罪が付随しているのだ。
「はっ、はっ! っ、はぁ、はぁはぁ!」
小柄な身と同じくらい大きなマントがはためき揺らぐ。
荒れる呼吸を口から数度ほど。日の当たらぬ細道で湿ったカビのような臭いが肺を満たす。
「はっ、はっ! はっ、はっ、はっ!」
それでも彼女は止まるわけにはいかなかった。
裏路地の長い影をまといながらくぐり抜ける。木枝のように細く未熟な足を回すように駆けていく。
追跡者は振り返ればもうそこにいるのかもしれないし、いないかもしれない。
そんな可能性の賽子を振るならとにかく疾走るだけ。
「はっ――ぅっ!」
ヤツに捕まれば捕縛される。捕縛されれば幼き尊厳を内側から砕かれることになるだろう。
恐怖を教えこまれた身体が、彼女の意思とは関係なく、無意識にぷるりと震えた。
なにが間違っていたのか。彼女は走りながら思考を巡らすが、真っ当な回答は見つからずじまい。
吐息とともに本日の不幸を喘ぐことが精一杯だった。
「ど……し、て……! こ、こ……に、っ!」
少女は、ただつつがない日常を謳歌していただけだった。
年相応に学び舎へ通い、友らと半日だけの授業を終える。あとは教師に別れを告げて下校し、友と午後に遊ぶ約束をとりつけて、自宅へ帰る途中だったのだ。
そこでなんの因果か神のイタズラか。ばったりとでくわしてしまったのである。
「に、逃げな、きゃっ! つ、捕まっちゃ、う!」
そう、これはきっと不幸な巡り合わせ。飽くなき日常に現れたハプニングというやつ。
なにせヤツはここにいてはならない存在だった。
だから少女は曲がり角でヤツと鉢合わせたとき判断を違えた。
逃げるべき正しい方角は表通りだった。しかし気配の少ない路地裏に翻ってしまったのだ。
平和に馴染みすぎて判断が遅れてしまったのだろう。
仲の良い友だちがいて、日が当たる路地を大手を振って歩き、家ででてくる食べ物はぜんぶ薄味。そんな当たり前じゃないことを当たり前だと思って暮らしていた。
『おい後ろジャないゼ! ヤツは上からくるゾ、気ィつけろよッ!』
終わりが迫っている。琥珀色の髪の上にかぶさった相棒のダミ声が、それを教えてくれていた。
彼女が潜ってきた修羅場を数は同世代の子どもたちより遥かに多い。
だから体力には自信はあった。そんじょそこらの成年者たちにだって負けやしないはずだった。
だがさすがに相手が悪すぎたのである。
「――あうっ!?」
影に覆われ驚き、振り仰いだ少女はついに終わりを予見した。
上空より迫りくるは身の3倍はあろうかという大きな影である。圧倒的質量。
さらには巨大な両翼がむきを変え、猛スピードでこちらをめがけ、落下してきている。
「つ~か~ま~え~た~ぁ」
化け物のように長い腕が幼き身へ絡みつき自由を縛った。
なんたることか。ゲームオーバー、バッドエンド。以上をもって虚しき逃走劇は悲しい終幕となる。
ポケットにおさまるようにすっぽり、とだ。小さな体が大きな体に抱きかかえられてしまう。
「……ぁぅ。……無念」
ムルル・フィーリク・ティールは白旗を上げた。
眉をへの字にしながらも、抵抗はすでに諦めている。ウェスト辺りに硬く巻かれた腕はそう簡単に離してくれないことを知ってたから。
両足は宙に浮き、ぶらり、ぶらり。合わせて魔女っ子帽子の星も、ぷら、ぷら。
「やったぁ! ねらぐぁのムルちゃんゲットぉ!」
ようやく捕まえたネラグァ・マキス・ハルクレートは、ウキウキと小躍りをはじめてしまう。
あれだけムルルが全力で逃げたというのに汗ひとつすら滲ませていない。
「ムルまだ誰のものでもないよぅ……。あと、離してよぅ……」
「だめぇ、断固拒否ぃ!」
涙ながらに訴えても聞き入れてはもらえず。
ヒュームていど足で勝機なんてなかったのだ。背に生えた龍の両翼には敵いっこない。
せめて大勢の行き交う場なら見失わせることが出来たのかもしれない。だが、それはそれで大騒ぎになっていただろう。
抱えられたムルルは、身をよじりながら肉の狭間から顔を覗かす。生まれつき困っている眉をうんと寄せながら問う。
「……なんで?」
なんでここにオマエがいる、なんで自分を追い回す、どうやったらこんなに胸が大きくなる――……えとせとら。
あまりにも言いたいことが多すぎた。だからなんでのひとことにすべてを集約した。
するとネラグァは、にへっ、と頬をほころばす。
「ムルちゃんにねぇ、会いにきたっ! サヨナラしてからまた会いたくなってねぇ、会いにきたっ!」
春の陽気のように無邪気な笑みだった。
靴の踵を鳴らしてくるりとその場で1回転。その動きに合わせ首回りに羽織るタイプの民族的衣装が花弁のように広がる。
「いい匂いのなかにもっといい匂いがしたよ! すごくいい匂いで嗅いだことのある匂い! 追っかけてみたらムルちゃんがいた、運命の再会っ!」
そうやってはしゃぎながら捕まえた獲物をぎゅう、と両手で抱きしめた。
尾っぽがブンブン振られて嬉しいという感情を隠そうともしない。
されるがまま。盛り上がる肉の狭間に封じられたムルルは、半死半生の目で「……あ”づぃ”」とだけ呻いた。
『そういやなんデデッカイちャんガクレーターの外にいるわけよ? いくらワタシちャんさんにあいてェからッて勝手にデてきちャダメッしョーよ?』
不甲斐ない主の代わりに帽子のチャムチャムがてっぺんの星をネラグァの顔前で揺らす。
「おひさぁ」、『おうッ』と。まずは軽い挨拶から。
「勝手じゃないよぉ? ねらぐぁたちは聖都に旅行にきたんだよぉ、3泊4日ぁ」
『旅行とはまあ、また面倒くさいことをしてやガるゼ。しかもたち、ッてこたァ別ガいるッてことデもあるわな』
ネラグァは揺らぐ星から目を背け、しばし頬に指添え首をかしげた。
「えっとぉ……焔りゅー、邪りゅー、とかが一緒だよぉ。みんな仲良し、4泊5日ぁ」
『3泊か4泊かドッちなんダよ』
尾をフラフラと揺らしながら「わかんなぁい」ぼんやりとした返事だった。
龍族が揃って聖都への旅行にきているらしい。しかもネラグァの言うことが本当ならば厄介な存在まで紛れ込んでいる。
女帝焔龍に、龍玉騒動の元締めである邪龍までいる。となれば、ある程度の予測はつくというもの。これほどの厄介ごとを招けるのは、あの青年くらいだ。
ムルルはうんざりしながら心当たりを口にする。
「……ふにー?」
「そだよぉ。焔りゅーと邪りゅーを元気元気にしてあげたいって言ってたぁ、大仕事ぉ」
大当たり。即座に肯定されてしまう。
これにはムルルも「はぁ……」小さなため息とともにがっくりうなだれるしかない。
物好きここに極まれリである。面倒事を背負う才能なら彼に勝るものはいないとさえ思えてくる。
『なんダッてんな面倒くせェことしてんダ? あんな連中なんかほッときャいいのになァ?』
だみ声の言うことも珍しくもっともであった。
ムルルは激しく首を縦に幾度も振って相棒に同意するしかない。
「……ぁぅ?」
つぶらな蜂蜜色の瞳がはたと動きを捉えた。
今度は空からではなく地上から足早に接近してくる影がひとつあった。
巨龍ほどではないが、背が高く、ひょろ長い。背にはねずみ色の翼を携え、さらにどうやら雌の龍ではないらしい。
「バカ巨龍いい加減にしろっつってんだろ! オメェのせいでアイツらとはぐれっちまったじゃねぇかよ!」
クソがァ! 息巻くも呼吸を整えるほうが忙しそうだ。
「あ~、岩龍だぁ。こんな場所で会うなんて奇遇だねぇ?」
「奇遇じゃねぇよ!? オメェのこと追っかけてきたんだからぜってぇ奇遇とは言わせねぇよ!?」
痩せこけた青年は肩で息をしながら呑気な彼女をキッと睨みつける。
ここまで追ってきたからか汗だくもいいところ。きかん坊そうな顔立ちにしどと水滴をまとわせている。
「ぜぇ、ぜぇ……! しかも……こんな場所で翼を使って飛ぶんじゃねぇよ……! ぐっ、種族たちを怯えさせっちまうだろうがぁ……!」
青年はどうやらあまり種族の体に慣れていないようだ。
膝に手をつきながら咳をするように息を切らしつづけている。
またムルルも、その青年とはほどほどの見識があった。
「まふーも旅行?」
「……あ?」
まふー。もとい岩龍タグマフ・ウェマイ・ハルクレートはしばらく路地裏の前後に目をむける。
それから首を回してきょろ、きょろ。どうやらムルルの姿に気づけていないようだ。
「な、なんだよ今の声? 空耳ってやつか? にしては、ずいぶん眠そうな声だったな?」
ムルルは身をよじって「よっ」と小さな手をたてた。
そこまでやってようやく、タグマフがこちらと目を合わせる。
「お、ムルっちじゃん。そういや黄龍と聖都に住んでるって言ってたし、そりゃいてもなんらオカシクねーわな」
ニシシッ。怖い顔をくしゃりと歪めた彼は歯を見せて笑う。
見た目は怖いがそうでもない。ムルル的に彼はわりと安全な龍という区分に入っていた。
「わりぃわりぃ。オメェの体が小さすぎてどこにいんのか見えなかったぜ」
これには眠たげな目を細めて不満を訴えるしかない。
「違う。ムルが小さいんじゃなくってネラグァが大きいの。ムルは普通に生きてるだけ。それにこれからおねぇちャんみたいにすくすく育つ予定」
今の状態を不遇な境遇と言わずしてなんという。発育の良すぎる房をこれでもかと押しつけられいるのだ。未発育の薄い胸が劣等感でいっぱいである。
直後に「ああ、そういうことか」なんて。タグマフは彼女たちを交互に見やった。
「だからわがまま言ってまで旅行にきたがってたんだな。いつもなに考えてんのかわかんねぇ巨龍にしてはずいぶんと自分の意見を口にだすと思ったぜ」
ぎゅうっ、と。幼い体へと回された腕にちょっぴりだけの力が籠められる。
締めつけるのでもなく、痛くもない。まるで愛用のぬいぐるみを愛でるような感じ。
そうやって彼女は影の落ちたカビ臭い石畳へ、膝を落とすのだった。
「いーっぱい……いっぱいいなくなっちゃったもんねぇ。友だちともみーんな会えなくなっちゃったぁ……」
タグマフが被り物を深くかぶって目隠しし、見守るなか。
ムルルもまた、しばらくこの境遇を我慢してやることにした。
「でも……今度は会えたよぉ……! 嬉しいよぅ……とーっても嬉しいねぇ……!」
嬉しい、嬉しい。そうやって幾度も紡がれるのは喜びの歌である。
ネラグァは輪唱するようムルルの耳元で同じ言葉を繰り返しつづけた。
「もう……終わったんだねぇ……! ぜーんぶ終わってくれたんだよねぇ……!」
しゃくりあげるたび線が増え、路地裏の影にひたひた流れ落ちていく。
頬を伝って頬に届く涙は、抱かれている幼い心にも、染み渡ってくるかのような。
決して冷たくはないもの。それくらい暖かいものだった。
「……ぁぅ。もうぜんぶ終わったよ。ぜんぶ終わったから泣かないで」
「泣いてないよぉ……! こんなに嬉しいんだもん泣いてなんていられないよぅ……!」
再会こそが彼女のなかで長きに渡る苦痛の締めくくり……――だったのかもしれない。
今度はこちらが薄い胸で抱きしめてやる番だった。
……………




