50話 さだめ
ぱたぱたと。足音は深紅色の岩肌に反響した。
肌にひりつくような空気は僅かに湿ってひんやりと、汗ばんだ額に涼をはこんでくる。
口のなかは粘つき、足が鉛のように重い。それでも荒い砂礫を蹴る。
早朝に街を飛び出し、《エンチャント》を掛けて、それからはずっと早駆けをしている。もう体力どころかマナすら残ってはいない。
「はっ、はっ……はっ!」
それでもラキラキ・スミス・ロガーは走らなければならなかった。
もはや涙は枯れ、しどと流れ出る塩辛い汗は迷宮の如き峡谷の砂に染みていく。
おぼろげではあるが昨日までは祖父と普通に暮らしていた。朝目覚めたらと祖父とともに朝食をすませ、祖父に見送られて仕事場にむかう。仲間と笑い合いながら一日中鉄を叩いてへろへろになって家に戻れば、祖父が晩の用意をして待っていてくれる。
変わらぬ日々。それでもラキラキにとっては幸せで尊い時間だった。
それがどうだ。魅了によってそう思い込まされていたと気づけば世界はものの見事に反転する。
街を包む淀んだ空気。
掛けた石畳。
くたびれた仕事場の釜。
虚ろな眼で笑わない仲間たち。
自分を含む街のドワーフ余すこと無く全員、毎日を虚ろに同じことを繰り返していた。淡々と、役割でも組まれているかのように。
畑担当はグールのように覚束ない足どりで土をいじって水をまく。店の担当は無感情に品と金貨を変えるだけ。そして、街のほぼ9割のドワーフが動員された工場担当は青い顔で鉄を打つだけ。
笑うどころか喋ることもない。風呂にも入らず必要最低限の糧を義務のように腹に入れて、萎びた顔つきで与えられた仕事をこなす。まるで人形のよう。
世界に置いてきぼりにされたかのような孤独感。昨日までの幸せな日々は、朝目覚めたら泡沫の如くすべてが消えた。自分がなにを作っていたのか、作らされていたのか。
なおも目的の場所を目指して年の割に筋張った足を繰り出しながら、ラキラキは視線を落としてふと考える。なぜワシだけなのだ、と。
咄嗟に朦朧とした脳内に映し出された祖父の顔。いつも眉間に深い皺を刻んで無頼漢の如く粗暴な祖父。優しい笑顔。
「お、じぃ、ちゃんっ……!」
ラキラキは食いしばって涙をこらえた。
ここでまた泣いたら足が止まる。足が止まれば見知らぬ元凶の思う壺だった。
今はただ、記憶の片隅に僅かに残っている祖父の言葉の通りに、駆けなくてはならない。
支援魔法は切れ、漏れ出して靴すら濡らしていた液体を不快だとすら思う余裕すら残っていない。体中は土埃にまみれ、疲労はとっくに頂点をすぎている。もう自身ですら走っているのか歩いているのかすらわからなくなっていた。
「――ぁっ!」
ラキラキは足がもつれて倒れ込む。不規則に丸みを帯びた岩がじっとり濡れた肌を剥がす。手のひらにじんわり広がる熱と紅。朦朧としているせいか、不思議と痛みはない。
間もなく夜がくる。紗がかるゴツゴツした地面に頬をつけるとひんやりと冷たかった。
ラキラキは落ち着いていた。安堵していたといってもいい。祖父の言葉は重すぎる。ひとりで背負うには荷が勝ちすぎている。
意識が遠のく。まるで頭からこぼれ落ちていくかのように。あの偉大な祖父がいたらこんな不甲斐ない孫になんと声を掛けるだろう、と。
そしてラキラキは静かに瞼を閉じた。
『さ―エルフのみな――もご―緒――』
すると幻覚か、幻聴だろうか。
湿った風にのって鼓膜をひっかくような幻聴が聞こえてくる。
エルフ。それこそがラキラキの目指した終着点だった。
『われらは――ジス――けっし――い~♪』
頬に伝わる僅かな揺れと逆の耳に入ってくる雑音にラキラキは思わず眉をしかめた。
魔物か死神だろうか。天界に選出されることはないにしろせめて冥界ではなく輪廻に乗れると思っていたラキラキは、少しだけ悲しくなった。
それでもなおつづく耳鳴りのような騒音はやかましい。
『清き球体に心をこめて~♪』
「げほっ、げほっ……」
地面を下から蹴り上げているかのような振動で腹を打ち、ラキラキは咳き込む。
死に体にムチを打つ輩に憤りを覚えた。
「明人さん! お静かに!」
『隣人たーちをぶっとばせー♪』
「救出作戦のときも思いましたけど、その歌すごい物騒ですよね!」
わんわんと。峡谷を揺るがすは悪魔の雄叫び。それと掛け合うような男のものと思われる怒号。
ずずずん、ごうごう。徐々にこちらにむかってくる小気味よいリズムの軋みと血の気の引くようなおぞましい唸り。
ラキラキは疲労困憊した体で最後の力を振り絞り、地を這って岩陰に入った。そして、目をきゅっと結んで祈った。追手に捕まり仮初の幸福に浸るくらいならば、ここを終の地とするために。
耳に入ってくる足音は複数あった。そして、この重々しい足音は土巨大だろうか。その大きさから察するにかなりの上位者が作ったものに違いない。
『……生体反応がある。この辺にだれかいるぞ!』
「そ、それは本当ですか!? 総員周囲を警戒しろッ!」
丁度、隠れている岩のすぐ隣で足音が止まった。
すっぽりと。岩の隙間に入ったラキラキの小さな体は恐怖にすくみ、ふとももがじわりと生暖かく濡れるのがわかった。あれほど水を欲していたにも関わらず出るものは出るのだな、と僅かながらに羞恥を覚える。
「んー、そこの岩陰ですねぇ」
妙によく通る凛とした落ち着き払った女性のものと思われる声が聞こえた。
ラキラキは、震える手で背に背負った槌を握る。
祖父に託された槌を。そして意を決して岩陰から飛び出し、豪腕をもってして目標に槌を振り下ろす。
「よっ、と? 直線的すぎてちょっと芸のない1撃ですねぇ?」
「そ、そのご尊顔……まさかっ!? け、剣聖様!?」
直後、目標の頭部と槌の間に白い腕がにょっきりと生えてくる。
予定ではその細腕をへし折り、ごと頭部をかち割り、脳漿を撒き散らしているはずだった。それが可能だという力と技量と自信もあった。
「あら?」
しかし、がっしりと万力に閉められたかのように槌はぴくりともうごかない。
どうやっても白い簡素なドレスに身を纏った女性の手から引き剥がせない。
必死に踏ん張る襲撃者を無視するかのように女性は目を細めてなにかを観察していた。
「この槌は……誰かのものと良く似てますね?」
「ッ――! な、なぜ動かぬのだ! は、はなせ! ワシはヌシらなんぞにかまけてる暇はないのじゃ!」
半狂乱になって抵抗するも徐々に地面から足が遠ざかっていく。
圧倒的な力の差を感じ、ラキラキは芯から凍えてパニックに陥った。
それはもう、駄々をこねる子供とたしなめる大人。
「イヤァァァァ! ワシはおじいちゃんと約束したんじゃ! ワシは、ワシは――」
「ああやっぱり。アナタ双腕のお知り合いですか」
女性は宝石のような金箔をまぶしたような瞳を瞬かせて、小首を傾る。
肩に掛けられた大きな三つ編みがゆらりと揺らいだ。
『ユエラくん。オレがリリティアを女性と思えない原因がわかったかね?』
『まあ……一理あるかな? リリティアってああ見えてものすごい豪腕だから……』
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