488話 【剣聖VS.】冥なる龍 龍玉 Dragon Heart
風が壁のようになって押し寄せる。しっかりしがみついていないと振り落とされてしまいそう。
大翼が夕闇を扇ぐたび速度と高度がぐんぐん上昇していく。そのつどチャーミングなハートの髪留めの裾あたりで前髪がざっくばらんに乱れた。
『ああッ、トブッ!? ちャんとアナタガ束縛してくれなきャオレちャん別のところに飛んデッちャうゥゥ!?』
変わらず耳に毒なチャムチャムの声ですら、激しい風の音に掻き消されてしまう。
この状況は帽子である彼――?――にとって死活問題だろう。もし流されでもしたら捜索は困難を極める。
「ネラグァもっと高く早く飛んで」
行儀よくぺたん座りしたムルルは、座っている硬い床部分ぺしぺしを叩く。
頭部でチャムチャムがそんなこととはつゆ知らず、とはまさにだ。
こちらも変わらずのしょげ顔。マントと2本の三つ編みを後ろへ流し、への字の眉。
僅かに上機嫌のように見えるのはクロトの錯覚だろうか。とにかくムルルはよりスリルを所望する。
「はやく、はやく。もっともっと高く早く飛ぶの」
『……わ、かタ。ぜん、そりょ……く、ネ』
すると頭部に幼子を乗せた巨龍ネラグァはぐるる、と喉を唸らせた。
大翼をより大きく素早く上下させる。即座に空気の壁の重みが増す。
そしてツバ広帽子がよりバタバタとツバ部分をはためかせる。
『あはァんッ、ッてかあァん!? ちョッとォ、ワタシちャんさんひョッとしてわザとやッてませェん!?』
「ちょっと、ね」
ニタリ、と。ムルルは、チャムチャムをしっかり押さえながら、影で怪しく微笑んだ。
そんな賑やかしい面々を置いて、クロトもまた少しだけ頬を紅潮させている。
「僕ら本当に空を飛んでるんだ! すっごく高いから日の沈む地平線まで丸見えだ!」
上下にうきうきと身体を揺すった。
すると遠慮ないたわわな実りも嬉しそうに躍動してみせる。
巨大な龍頭から少し身を乗りだすと、下は絶景だった。
遠方で森の海が流れていく。かなりの速度がでているはずなのにゆっくりに見えるのはそれだけ離れているということ。
なにせここは龍に騎乗した遥か上空だった。雲が泳ぐのとまったくの同じ高度に位置している。
「その姿勢だとクロ子ちゃんのパンツも丸見えよ? あと落ちないように気をつけてね?」
そのすぐ近くでもフィナセスが足を横に流しながらまったりとくつろぐ。
四つん這いで下を覗くクロトが落ちぬよう世話を務めているらしい。とはいえ彼女も少しばかり上機嫌に頬を緩めている。
「それにしてもクロ子ちゃんってば面白いこと思いつくのね。まさかみんなで空から決闘を見学しましょう、だなんてさ」
「えへへっ、ひらめいちゃいました! これくらいのお願いならみんなも乗ってきてくれるかなぁなんてっ! でもまさか全員が首を縦に振って乗せてくれるとは思いませんでしたよ!」
黒い髪に黒い衣装。黒いスカートをバタバタ暴れさせながらクロトは満面の笑みを浮かべた。
対してフィナセスも夕暮れをバックに流麗な白と銀の微笑みを返す。
「みんなきっと別け隔てなく触れ合えるきっかけが欲しかったのよ。しかもクロ子ちゃんの提案も決闘に関係してたからなおのこと同意しやすかったに違いないわ」
そう言って暴れまわる髪を押さえながら銀の瞳を空へ巡らせた。
わっさ、わっさと羽ばたく龍たちが大勢。あちらでも、こちらでも、空は満員御礼である。
まるで空中で編隊を組むかのようにして大勢の龍たちが大空を飛び交う。
背にはエルフ、ドワーフなどなど。ありとあらゆる西側の種族たちを乗せ、豪快に空というフィールドを共有、満喫している。
歴史上このようなことがあっただろうか。少なくとも懐かしそうに龍たちへ目を細むるフィナセスはともかく、クロトは知らない。
「こんな風に龍族と種族たちが一緒になることって今まであったんですか!?」
「さあ? どうかしら。神より賜りし宝物を賜る以前だったならあったのかもしれないわね」
フィナセスはクロトと目を合わせもしない。純白の鎧を帯びた肩を軽くすくめて見せるだけ。
どうやら彼女の心はここにあらずといった感じ。銀の瞳は遊泳する龍たちへ釘づけになっているらしい。
――ふふっ、これ以上フィナ子さんの邪魔をしたら悪いかな。
そう思ったクロトは4つんばいのまま赤子のようになって移動した。
触れ慣れぬ硬い鱗は大岩のようでいて、どこか弾力性も兼ね備えている。そのため丸い生膝をついてもさほど痛くはないのだ。
さらに言えばこれほど轟々とした風が吹いていても寒くない特権つき。その身にはオレンジ色の光魔法――《ウォームエンチャント》をフィナセスがかけてくれている。
そのままクロトはハイハイするように同乗した双子の元へ、むかう。
先ほどからサナとルナは、エルフの少女にご執心のようだ。
「やぁんきゃわゆ~い! ほらほらルナもほっぺ触ってみなさいって!」
「お、お姉ちゃんそんな大きい声だしたらびっくりさせちゃうよ……」
というよりそのエルフの少女が抱いている赤子が気になって仕方がないのだ。
「だってこんなの耐えられないじゃない! はわぁぁ……こ、こんなもちもちのほっぺた……今だけの輝きを逃す手はないわ!」
誰も止めないのを良いことにサナは、赤子の頬を存分に突っつく。
「お、お手々……! お手々がちっちゃい……! しかも指を入れるとぎゅってしてくる……!」
妹のルナも母性をたまらなくくすぐられているようだ。
ふたりとも赤子を見る目は母のように優しい、のだが鼻息も荒い。
当然、布地が極端に少ない彼女たちも魔法で暖をとっている。ほぼ下着姿に等しい格好でこの風は凍えかねないからだ。
とても教育に良いとはいえぬ破廉恥な格好の双子が、赤子を囲う。もしくは自我の芽生えていない赤子だからぎりぎり許容されているのかもしれない。
「いずれは私もお母さんになれるのかなぁ? 赤ちゃんが家にいたら仕事は手につかなくなっちゃうわねぇ」
「交代制で勤務するっていう方法もありかも? 私はこの仕事も大事だから子育てと両立していきたいかな」
ちらちら、と。横目がちに双子の視線が泳ぐ。
――僕は鍛冶仕事と剣修行の両立を一生つづけていきたいなぁ……。
しかし見られるほうは意に介さず。
そんな興奮状態のふたりを、赤子ともども、エルフの少女はニコニコ顔で見守っている。
「この子は生まれてまだそれほどたってないのかな! でも全然泣いたりしないとってもいい子なのっ!」
長耳を上下にピコピコさせながら自慢気に胸を反らす。
背丈は小さく愛らしい少女だが、赤子を抱いていると一端の保母のよう。
途端にサナとルナは真剣な表情でエルフの少女へ詰め寄る。
「や、やっぱり夜泣きとかあるのかしら? やっぱり毎日寝不足に……?」
「お母さんに聞いたらわたしはスゴかったらしいのかな。でもこの子はよく寝るいい子なのかな」
「お、おトイレとかも心配だよね? やっぱりお洗濯は大量なんです……?」
「この子はおトイレにいきたいとうーうーって暴れるからすぐわかるの。だから漏れちゃうこととかないのかな」
サナルナからの質門を、少女はハキハキ答えていく。
彼女の言う通り、赤子は双子に触れられてもまったくグズる様子がない。さらに龍の上という刺激的な状況であっても動じている素振りすらないのだ。
クロトも合流し、興味津々気味に白髪長耳の赤子を覗きこむ。
「……ふっ」
するとエルフの赤子はクロトに一瞥くれてフッ、と笑った。
かと、思えば静かに瞼を閉じてしまう。
――なんだろうこの子……! ふてぶてしいというか……どこか2週目のような貫禄すら覚える……!
なぜだかその赤子に得も言われぬ感情を覚えたのだった。
「あっ……!」
と、顔を上げればそこはまるで童話のなか。
思わずクロトの黒い眼も夢見る少女のようにキラキラと燐光を散りばめるしかない。
「日が暮れる、夜がくる……! 当たり前のように見逃してたものがこんなにキレイだなんて……っ!」
眠ってみる夢のような光景が視界いっぱいに広がっていた。
改めて考えてみれば途方もない。
伝説の龍に乗って、夜が深まりつつあるのを横目に、今日の終わりを見送る。
これこそ魔法と言うべきだろう。誰も傷つけないとても素敵な魔法だ。
それに加えてあっちもこっちもだ。
この素晴らしい世界を胸に刻んでいるのはなにもクロトだけではない。
創造主に創られし7つの種族が半球上の世界を見つめながらニコニコ目を細めている。
――きっと今日は時なんだ。この大陸にとって歴史に残る、ほんの一瞬の時。
7種をいっぺんに捉えたクロトは、もうたまらない。
胸の奥でいっぱいに膨れてくるなにかを感じた。くすぐったくて嫌ではないヘンな感じ。
それを逃したくなくてたまらず両手で柔和な胸部をひしっと押さえつける。
――たとえ瞬くような瞬間であっても……少しでも長くこの時を楽しめますように……。
祈りが届くかは神のみぞ知るところ。
そうやって種を乗せた龍たちは、とある1点へ大翼を羽ばたかせる。
影が伸び切った鬱蒼と茂る森のなかで昼のように明るい場所を目指す。
すると頬を撫でる風に流されてきた幼き声が、ひとつ。
「んー? なにかが森のなかを走ってるッすね?」
クロトの鼓膜を撫でたのはソプラノの効いた美しく青い声である。
音に誘われ目をむけてみれば、なるほどどうりで。納得がいくというものだ。
なにしろ半身が魚の少女が伏せるような姿勢でぴちぴちと尾を振っている。
「あれ、キミって確か?」
見覚えのある姿に思わずクロトはマーメイドの少女に声をかけた。
すると少女もこちらをむいてマリンブルーの瞳をぱちくり瞬かせる。
「ありゃりゃ? お姉さん奇遇ッすね? ワーウルフの住処でマイダーリンと一緒にいたヒュームさんッすよね?」
唐突に告げられる、熱愛感情。
とりあえずクロトはその箇所だけを聞かなかったことにした。
「なにを見ていたの? なにか下にあるのかな?」
隣り合って龍の頭から下を覗き込む。
するとマーメイドの少女は尾っぽを優雅に揺らしながらとある1点を指差す。
「あの赤いのって松明ッすかね? なんか赤い点が2つ森のなかを走ってるように見えるッす?」
「龍族が松明を掲げるとは思わないけど。もしくは決闘場のお客さんが決闘そっちのけで冒険してるのかな?」
クロトは、少女の繊細そうな指が差す先を一緒になって眺め見る。
確かに夜暗を駆ける小さな赤い灯火が2つあった。
どうやらこちらの目的地でもある女帝の輝きの方角へむかっている。
しかも2つの点は凄まじい速度で移動している。龍の羽ばたきに負けずとも劣らない。
「ああっ!? あ、あれってもしかして剣聖様じゃないッすか!?」
マーメイドの少女が突如跳ねた。
ピチチ、と。滑らかな光沢ある尾っぽで龍の頭を叩く。
「そ、そんなまさか!? 剣聖様って確かドラゴンクレーターに入ったらすごく危険なんじゃ!?」
慌ててクロトも確認しようと身を乗りだすが、やはりというか見えやしない。
夜の森はあまりにも闇が濃すぎた。マーメイドの少女が見えていてもヒュームの目では限界がある。
しかもどうやらその言葉にぎょっ、としたのは、クロトだけではないらしい。
「――うそでしょッ!? どこどこ、剣聖様どこ!?」
「あーっ、危ないですって!? フィナ子さんおちち、落ち着いて下さい!? このままじゃ落ち着くっていうか落ちちゃいますってばあ!?」
エーテル族の彼もとい彼女ならば落ちても魔法かなにかで無事かもしれない。
しかし知り合いが真っ逆さまというのは目覚めが悪い。突然横から飛びだしてきたフィナセスをクロトは慌てて捕まえた。
「GROOO……?」
しかもクロトたちが立っている巨龍の頭までぬぅ、と動きだす。
鈍重な唸り声、そして鱗が軋む音が同時に混ざって聞こえてくる。
『なつ、かし……? ハ、クりゅ、の……ニお、い?』
ネラグァは赤い点を見つめながらしきりに鼻をふんふんと鳴らす。
そこへムルルの「いってみたい?」という問いに対して『う、ン』徐々に高度が落ちていく。
どうやら他の龍たちも巨龍の不可解な行動を見つつ、その下にいる存在に気づいたらしい。
『あれは邪龍か!? 邪龍が外へ逃げだしたはずの白龍を追いかけている!?』
『いえ違うわ!? あれは白龍が邪龍を追いかけているのよ!? でも一体どうして!?』
龍たちはざわざわと騒ぎを起こす。
それらをよそにネラグァはどんどん地平へ迫っていく。
「きゃー! 本物の剣聖様だわぁ!」
フィナセスの黄色い声が耳障りななか。
ようやくクロトの目も真相をとらえる。
「け、剣聖様……っ!?」
信じがたい事象を目の前にし、思わず息を飲む。
純白の裾をはためかせ、青のリボンを頭に乗せて疾駆する。その姿を見紛うものか。あの聖都での経験はクロトにとって記憶に一生残りつづけるであろうもの。
しかも迅速な足どりに遅れる紅の三つ編みが森のなかでよく目立っている。
さらにその前方にも、もう1匹がいた。
どうやらフィナセスはその追われている者を知っているらしい。
「邪龍さん!? な、なんで邪龍さんと剣聖様がこんなところで追いかけっこしてるの!?」
クロトは小首をかしげつつ、「ご存知のかたなんで?」戦慄するるフィナセスへ冷静に問う。
「ご存知もなにもよ! この間ダープリと一緒にクレーターに忍びこんだとき邪龍さんに襲われたんだもん!」
「え……? 聖都を荒らしたふたりしてなにバカなことやってるんですか……?」
ドラゴンクレーターに忍び込むとは、冒険というよりそれもはや自殺願望かなにか。
フィナセスからの涙目の訴えに、クロトはちょっと引く。
ふと視線を感じてそちらを見てみれば、ムルルがささ、っと顔を背ける。
「ぁぅ……ムル、バカじゃないもん……」
クロトのなんとも言えぬ酸い表情に耐えかねたらしい。
ムルルは魔女っ子帽子を目深に被って顔を隠れてしまう。
どうやら彼女も共犯のようだ。しかも聖都を荒らした組が勢揃いだった。
とはいえフィナセスたちの暴挙はともかくとして、これは異常である。剣聖たちもまた夜闇の森のなかを日輪の輝きへむかっているのだ。
――つまり……フニーキさんの決闘している場所を目指してるのかな?
しかしその先を思考する暇なんてなかった。
「近づいてきてはダメです!! 巨龍逃げてッ!!」
唐突な叫びに驚いたクロトは、背筋をピンと弓なりに反らす。
すると剣聖の追う影からこちらへなにかがむかってくきている。
それがなにかはクロトにはわからない。わからないが剣聖の迫真がかった叫びに嫌な予感しかしない。
「……くっ!」
反射的に後ろ腰へぶら下がった2本の剣を掴んだ。
紅のなにかは辛うじて目で追える。しかしそれは間違いなくクロトたちの立っている巨龍を狙っている。
――双剣で対応する間合いじゃない! かといってあのぶよぶよを止めるために十数メートル上空から舞うのも現実味がない!
つまり、どうしようもない。
クロトが汗巻き迷っていると、横で白き鎧がカチャリとしなやかな鉄の音を奏でた。
「主よ我が御手にお宿り下さい! 《ハイプロテククト》!」
フィナセスの唱えに応じて上級防御魔法が発現する。
巨龍の曲でさえも包む多角形の集合体。それらが一瞬のうちにして張り巡らされた。
そして赤い光はフィナセスの生みだす魔法に阻まれ弾かれる。
「ネラグァはさん高度をあげて!! 早くッ!! それと他の龍にもあの赤いのに触れちゃダメって伝えてッ!」
『っ! み、ンな……逃げるッ!』
ネラグァは怒られたように一瞬ひるんだが、即座に大翼で風を押す。
巨躯が大空へと舞い戻っていくと、風で押された森が割れるみたいに横薙ぎに倒された。
フィナセスの機転によって難を逃れた。さすがの判断力と言える。
クロトが慌てふためいている間にも考えを整理し行動に移す。さすがは栄誉ある聖騎士の称号をもつ者だ。
そしてすでにフィナセスはいない。
「フィナ子さん!? いったいなにが起こっているっていうんです!? せめてちゃんと説明してから――ッ!?」
上昇する風に遊ばれながらも、クロトは遥か彼方へ呼びかける。
彼女は発った後だ。銀の三つ編みを揺らがし高度十数メートルから飛び降りていた。
暴風に混ざってクロトの耳に彼女の声が届く。
「クロ子ちゃんたちはみんなに伝えてッ!! 邪龍さんのもってるアレは龍玉なのよッ!!」
フィナセスの叫びが辺りを飛び交うみたいに木霊した。
龍玉。それは忌まわしき道具の名称であった。
♪
夜を貫く1羽の白鳥。清楚な丈長のスカートを蹴るようにして疾走する。
火の如き鱗粉を舞い上げながら夜を駆る姿は1羽の不死鳥。
その背に引っついたアクセナが唇をすぼめてぴゅうと鳴らす。
「ひゅ~、あぶねぇなあぶねぇな! 危うくまた面倒くさいことになるとこだったなー!」
みるみる上昇していく巨龍を仰ぎつつ額の汗を革手で拭う。
「はっ、はっ、はっ……!」
しかしリリティアには彼女に構っていられるだけの暇がない。
一瞬でも緊張の糸を緩めればそれで終わり。先ほど狙われた巨龍のように危険にさらされてしまう。
さらに逃げるミルマと一定の距離を保ちながら追跡を続行している。
――もう時間がない! このまま焔龍のもとにむかわせるのならばいっそ!
リリティアは剣を握る手にぎり、と力を籠めた。
木々を避けつつ地を滑るように走るこちらとは異なって、あちらは縦横無尽だ。
「アタクシの夢が叶うの! アタシの野望が果たされる! このくだらない世界に終焉という楔を打つことで新たにはじめらるの!」
素足で下生えを踏んだかと思えば樹皮を蹴り、枝葉を落とす。
錯乱、あるいは狂乱。とにかくミルマはもう普通ではない。
姿勢低く、肉の暑い尾と尻を突きだすようにして駆け回る。
「アッハハハハハハ!! そうよ、だからもうアナタたちは眠りなさいな!! 次に目覚めた世界はきっとアナタたちを歓迎してくれるわ!!」
喉で狂気じみた音色を奏でながら猟犬さながら闇を突き進んでいく。
追いこまれた果てに生まれた感情は、気狂い。それが率先して邪龍という器を支配していた。
つまりミルマは、3つ目の首によってたぶらかされているのだ。
ありもしない希望をもつことで飛龍と翼龍の死から逃げている。逃げることでギリギリの淵を生きているとも言えた。
「見えたァ!! 見つけたァ!! あれが希望の光なのよォ!!」
そしてミルマの吊り上がって歪んだ口角が極まる。
背から生えた両翼をわさっと開く。厚い唇からピンク色を下をはみださせ、ぺろりと湿らす。
彼女のむかう先では闇に溺れた森の奥が開けていく。
零れ落ちそうなほどに剥かれたミルマの瞳の先には、たった1つの光があった。
焔龍の鱗から漏れでる光であり、大陸最高峰の光だ。しかも創造神の傑作であってミルマの祈願成就に必須の光でもある。
「ここからすべてが元通りになるわ!! あの絶え間ない幸せに満ちていた本当の世界にようやく帰ることが出来るのよ!!」
そして手にしている龍玉を発動させた。
赤黒い物体がうねうねと禍々しく生まれたいく。
ソレが吸いこまれるようにして焔龍のいるであろう方角へむかっていく。
――テレジア……ごめんなさい。私には……もう。
つつ、と。一筋の涙がリリティアの頬を濡らす。
「……救えない」
まるで神の偶像を前に膝をついて懺悔する謝罪だった。
その直後に覚悟が決まる。悔やみながらも無理やり決める。
リリティアは身を深く沈め、無防備なミルマの背に狙い定めた。
鞘におさめた剣を引き抜けば後ろ髪もろとも薙がれ、首が落ちる。龍族は1つの魂と引き換えに、たった1匹の龍すら救えず、救われる。
「その罪はあまりに業が深いッ! だから私のこの手を同族の血で濡らしてでも断ち切るッ!」
そしてリリティアは銀閃を光らせた。
が、鞘から引き抜かれることはない。半分ほど剣身を鞘から抜いたままで、手も、視線も、一挙に止まった。
「え……? あなた、は……?」
リリティアは横をむいて見上げたまま固まってしまう。
雄々しい気配を察知してミルマを斬ることを止めたのだ。
あるはずのない場所にいるはずのない者がいる。
『…………』
5つの蒼が森の闇に紛れて沈黙をまとっている。
その刹那。キュル、キュキュキュキュという喉を締められたミノタウロスの如き怪音が夜の森を貫く。
『エンジン正常始動。オートモードで作業開始』
まるで目覚めだ。さらに木々を薙ぎ倒しながら立ち上がた。
ドルルン、ドルルン。健康とは思えぬ鼓動が夜を賑わす。
しかもその白く丸い鉄の身体には葉やら蔦やらが巻かれている。
ワーカーはずっとそこで待っていたのだ。あるいは身を森に扮して隠れ潜んでいたのだ。
『ここは危険ですので徐行して下さい。繰り返します。ここは危険ですので徐行して下さい』
抑揚ない音で警告を発す。
『あるいは――止まりなさい』
次の瞬間、鋼鉄の巨兵はなにかをぶん投げた。
轟音が闇を斬る。投げられた巨大なソレによって木々が道を作るようひしゃげていく。
ワーカーによって投げられた鋼鉄の正体は、己の腕。
それが見事に龍玉の軌道を阻む。さらには偽りの希望を目指して勇んでいたミルマの光すら閉ざした。
「なッ!? こ、これはいったい!?」
そして足を止めた彼女のさらに上からも飛来する。
流麗な銀白色の影が降ってくる。
「それだけはさせないッ!! 同種の魂を奪うなんて私が絶対に許容しないわッ!!」
舞い降りたフィナセスは腰の剣を迷いなく引き抜く。
放たれた剣撃はミルマの手から龍玉を弾き飛ばした。
咄嗟にリリティアは「アクセナッ!」背に乗っている幼子を龍玉目掛けてぶん投げる。
「いよっしゃーッ!! とったらーなぁ!!」
キャッチしたアクセナは空中で龍玉を高々と掲げた。
しかしミルマがそれを見逃すはずはない。
なにせ彼女にとっては、もうそれにすがるしか生きる理由がないのだから。
「アタクシたちの夢をカエセエエエエエエエエ!!!」
猿叫の如き悲鳴が森を稲妻のように駆け巡った。
ミルマはなりふり構わず地を蹴る。爪をたてて翼を広げ、龍にも勝る険しい表情でアクセナへむかって手を伸ばす。
だが幼子が飛んでいく方角にはフィナセスが待ち構えている。
「あちしを上にむかって放れな! もうリリーのほうは準備できてんだー!」
「準備……ッ! 了解ッ!」
白色の篭手で細っこい褐色の足をがっちりと掴む。
そのままフィナセスは星空目掛けてアクセナをぶん投げた。
「アタクシたちの見た夢がそこにあるのッ!! 翻る蒼に見えたアタシたちの本当に住むべき世界があるのよッ!!」
ミルマは遠のいていく龍玉を見つめながら空にむかって手をかざす。
しかし種の身体にそれほど慣れきっていない。
急角度に方角を変えられず。勢いをそのままに足を絡ませ地べたに滑り込んだ。
ごろごろ、と。手足を結ぶような動きでもんどり打つ。肉よかな身に砂をまぶしながら通り過ぎていく。
「やめてええええええええええええええええええええ!!! アタクシたちの夢を壊さないでええええええええええええええええええ!!!」
ボロボロの体で叫んだとしても、もう遅い。
投げられたアクセナはちょうど葉の天蓋から抜けでたところである。
頭に緑の葉っぱを乗せて勢いよく森を抜け、空に飛びだす。
「へっ! 神より賜りし宝物ってな御大層なもんだー! 気張っていけってんだーなっ!」
ギザ歯を見せつけるような普段と変わらぬ悪童の笑みを浮かべた。
風通しの良くなった脇の窪みを見せつけるよう龍玉を掲げ上げる。
そして両手でもった諸悪の根源を、さらに遠くの龍渦巻く空へ、思い切り捨てた。
同時に2色の白も空へと打ち上がる。
いっぽうは穏やかな白のドレスを波立たせ、1本に結った紅の三つ編みを揺らがす。
もういっぽうは堅苦しさこそあれど清らかな白、1本に結った銀糸の三つ編みをひらめかす。
「ということらしいですよ? 果たしてフィナ子さんの剣は私についてこられますかね?」
リリティアは凛とした微笑みでフィナセスへ問うた。
「以前までの私と思ってもらっては困ります! こう見えて剣技の鍛錬は毎日欠かさずやってるんですから!」
「それならおつき合いいただきましょうか。これもなにかの縁のようなものです」
「聖騎士冥利に尽きるってもんですっ! どーんと全力で剣聖様のご期待にお応えしちゃいますからっ!」
気さくに会話しながら、どちらの剣も未だ鞘の奥にあった。
だがフィナセスとリリティアの手は、柄に触れるか触れないかのあたりに添えられている。いつでも抜くことが出来る姿勢だ。
そして投げられた龍玉がちょうどふたりのむかい合う正面へ落ちていく。
誰の手にも渡っていなければただ美しいだけの宝石だった。僅かな光を受けてくるくると輝きを振りまいているだけ。
複雑にカットされて美しく形の整えられた紅玉。その美しさの反面、それは忌むべき物。この赤き道具は龍族をあまりに長く苦しめつづけた。
そして金と銀、ふたりの乙女――!?――はほぼ同時に剣を抜き放つ。
――あとは……。
金の瞳が高い場所からそれほど遠くはないそちら側を見下ろす。
くり抜かれた森の日が当たる場所。沈むことない爛々とした光がそこにはあった。
彼女と同じく2つ名を冠する者たちが未だ火中で戦いを演じている。
「あとはアナタの思うままに……目指す素晴らしい世界へ……どうか私たちを導いて下さい」
リリティアは白く柔らかな頬をゆるませた。
ただ1人によって龍たちが舞い、種たちも同じ舞台で歌い踊る。
境界を失った日と月が出会う唯一の世界が存在した。
♪




