477話 【蒼VS.】夢の先へ ディナヴィア・ルノヴァ・ハルクレート 2
片足だけ踏み込んだディナヴィアの巨体がぐらりと大きくかたむいた。
なにせ踏み込んだはずの落ち葉溜まりには下が存在していない。
「KWOOOOOOOO!?」
それだけ大きな体なのだ。足への負担は大きいはず。
だから1足が欠ければそれだけでもう支えきれない。
龍は大空の覇者だ。翼があってこそ覇者となれる。
しかしどうだろう。その翼は羽ばたくことは出来ても飛翔することは許されていない。
だからディナヴィアは姿勢を崩しながら両手でもがく。
『こんな場所に穴だとッ!? まさか翼の使用を制限させたのはすべてこのため!?』
だが空はどうあっても掴みようがなく、沈む。
メキメキ、という乾いた音の正体は家の骨組みとして使った材木だ。
土を敷いて固め、隠蔽に葉を乗せたもの。巨大な落とし穴。
人の体重ならば上を通ることは可能だ。しかし龍の巨体ではこうも簡単に踏み砕いてしまう。
制約によって翼をもがれた龍は高い悲鳴とともに穴ぐら落ちていく。
罠に嵌められたディナヴィアはバランスを崩したまま穴の底へ背から呑まれる。
『グッ!? これは水――いや、泥か!? キサマこれはいったいどういう了見だ!?』
喉から絞るようにうめきながら上を仰ぐ。
しかもその穴のなかにはしこたま泥が沈んでいる。
焔龍たる光鱗の熱によって、じゅうじゅう、もうもう。泥臭い湯気が周囲に立ちこめた。
泥まみれの女帝。明人は落ちぬよう注意しつつ蒸気越しに見下ろす。
「それを掘ったのはアンタのお仲間だけどね。穴掘りのうまい土竜みたいな協力者がいてくれて本気で助かったよ」
『……土龍だな?』
明人はすかさず目を逸らす。
ディナヴィアに秒で協力者がバレたわけだ。
とにかく龍の地でそれほど有名な男なのだろう。あの飄々とした掴みどころのない盲目の男は。
――ちなみに泥を入れる嫌がらせを提案したのはオレなんだけどさ。
こちらが土だらけの粉まみれならば、あちらは泥かぶり。
どちらも平等に無残なザマ、ブザマだ。
ディナヴィアは狭苦しい穴のなかで、のっそりと起き上がる。
『底へ叩き落とし女帝の名に泥を塗る。こんなものが秘策とは言うまいな』
それはもう怒りを隠そうともしない凄みだった。
ゆるやかな挙動に轟轟とした苛立たしさ以上の殺気が籠められている。
『キサマはなにを求め龍を欲する? キサマは今まで龍へ挑んだ種族たちのどれども違うなにかを感じる。こうして相対している妾ですら姿が霞んで定まらんのはいったいどういうことなのだ』
牙を剥きだし鼻面に険を寄せ、喉はガラガラと鳴り止むことがない。
全身を滴リ落ちる泥に汚された鱗からはまばゆい光が煌々とあふれている。
数多くの無礼千万。女帝を冠したディナヴィアにとってこれ以上の屈辱はないはず。
しかも明人は弱者だ。本来なら世界頂点に君臨する彼女とこうしてむかいあうことすら叶わない絶対存在。
ディナヴィアは、見下すはずの対象を見上げる。
『妾の問いかけに答えよ下郎。キサマは何処を目指し何処へむかう。なにゆえ龍族を統べようとする』
周囲をぐるりと囲う森がせせらいだ。
まるで川のほとりにでもいるかのような心安らぐメロディーだ。
それなのに人間のみすぼらしさといったら、見る者が眉を寄せたくなるほどに惨めたらしい。
安っぽい防具ともいえぬ鉄をまとい、目下にクマを蓄え、鉄と油の臭気を漂わせている。
とてもではないが英雄だなんて呼ばれて良い代物ではない。これが英雄なら英雄の品格が下がるというものだ。
当人だって自分をかっこいいとは思っていない。
「オレは……」
それでも人を包む蒼は消えず。
立つ世界が移ろいでも未だ灯火はしぶとく生きつづける。
「未来を繋ぐために戦ってる」
明人はディナヴィアの瞳を真っ向から見据えた。
すると彼女は『そう、か……』視線を反らして吐息をとっぷりと吐く。
呆れ諦めというより根負けした感じ。吐き切るような溜め息だった。
『ならばこちらもその覚悟に免じ、全力でその生命を追い詰め、喰ろうてやろう。一切の余地なく、慈愛もなく。同等な手合いとして迎え撃ってやる』
その言葉に偽り――美しく勝とうだなんて女帝としての思惑はあるだろうか。
天龍との決闘でさえどこか余裕はあった。美しくあろうという女帝としての美学が存在していた。
しかし今のディナヴィアは美しくない。さらに穴の底から天を仰ぐよう地べたを這っている。
『稀有なことに同族の目を憂慮することもない。妾も汝の求むる姿にて……血の本能が求めるまま闘争を渇望してやろうではないか』
ヤレヤレといった感じで長首をゆるく振った。
稀有、とは言ったものだ。おそらくそれすらも気づいているのだろう。
この真なる決闘の場は、はじめから無観客を予定していたのだ、と。
「ありがとう。恩に着るよ」
明人が真顔で礼を言う。
ディナヴィアは露骨に顔をしかめた。
『礼はなぞいるものか。なにせ妾は汝が大嫌いだ。畏まられると身の毛もよだつ思いよ』
泥に塗れながらも、燃え盛る瞳が見据えているのは1人の獲物である。
宣言をしたからにはやり尽くすだろう。なにせ彼女に嘘をつく理由がない。
『ここからは1匹の龍として心の叫ぶままにキサマを獲りにいく。女帝ではなく、個の龍――ディナヴィア・ルノヴァ・ハルクレートとして』
ディナヴィアは、明人を見上げたまま浅く冷えた呼吸を繰り返す。
野太くけたたましい唸りで大気を震わせる。なのに熱は増すいっぽう。
もうもうと上がる蒸気は白く濃ゆいレースのようなって1人と1匹を包み込んだ。
いつしか天使も上空から決闘の行方を追っている。
「こういうことをするって先に言って欲しかったんですのよよよ……」
両名の制約を乗せた天秤を手に落ち着かないといった感じだ。
ずっと森の葉のむこう側からついてきていたのか、それとも今ようやく追いついたのか。
どちらにせよ騒がしいのだから見つけるのは簡単だったはず。小さな人を探すのは難しくとも、龍の背を追えば良いのだから。
「Grrr……」
ディナヴィアは、ぐちぐち文句の多いエルエルをついと見やる。
どれだけ勇壮に吠えようが穴の底へ落とされたことに変わりはない。
もし天使との誓いを破って飛翔でもすれば無条件で敗北が決まる、死が確定する。
『では……参るとしよう。忌まわしき才を賜った焔なる実力を……とくと味わうが良い』
抑揚のない無声会話だった。
同時にディナヴィアは横一線に割れた大口をがばぁ、と開け放つ。
きっと多くが生命の終焉に垣間見たであろう景色。整列した牙の裏側も、長い舌の根本も、喉頭蓋すらよく見える。
その顎へと、目がくらまんばかりの光が収束していく。
「V、VV、VVVVVVVVVV――」
喉奥からあふれんばかりに満ちていくのは白炎の予兆である。
いっぱいに酸素をとりこんだ胸がパンパンに膨れる。鱗をも透かす強烈な光が物の輪郭すらも消失させた。
そしてそれは天龍を退け、ワーカーすら再起不能にした、炎と炎の集合である。
龍ですら恐れる傑作の必殺。その名は――
『《猛火烈炎の吐息》!!』
次の瞬間。ディナヴィアの口から白色の吐息が放たれた。
みるみるうちに自然は女帝の炎に屈していく。葉は水分を失って枯れ、土は溶解し、大気は消滅する。
莫大な熱によって落とし穴という枠は消し飛ぶ。どころか世界すら焼き尽くすような勢いだ。
あっという間に景色は黒一色に成り果てる。
敷かれた葉が彼女の高貴な炎によって炭となり、そこいらじゅうへ黒い煙が充満している。まるで森林火災。
それをディナヴィアは大翼を振るって一瞬のうちに消火する。
暴風に舞った火の粉が空へ打ち上げられ、地上へと降り注いだ。
しかして灰となった大地に明人の影も形もありはしない。
「……無茶苦茶やってくれるんだから」
好き好んで自ら焼け石になろうとするものか。
夜より暗い闇にぼう、と蒼が灯った。
直後にズン、ズン、と。吐息を終えたディナヴィアは優雅な足どりが響き渡る。
『フンッ、今度は身を隠すか。つくづく行動の1つ1つが陳腐よ』
無声会話の音は離れていても聞きとりやすい。
明人の逃げ込んだ場所は湿気た土の底。腐葉土の香りが充満しきっている。
ここはあらかじめ用意してあった緊急避難場所だった。
つまり先ほどとは打って変わってこちらが地中の底というわけだ。
判断が一瞬でも遅れていたらと思うとゾッとする。今ごろは本当の意味で姿形も残っていなかったはず。
『よく聞け。次に汝が姿を現した瞬間で勝負は決する。手抜かり怠りなくだ』
彼女が練り歩くだけで穴がぐらぐら揺れた。
人1人で満員になってしまうような狭い穴ぐらだ。しかし死の恐怖からひとときの安寧をもたらす。
とはいえ死神の鎌は未だに首にかけられているというのも事実だ。
明人は降り注ぐ土を頭に被りながらも呼吸を整える。
「……スードラ、ムルガル、ありがとう……」
友の名を呼び、散弾銃を固く抱きしめた。
ディナヴィアが平静を乱している。ついには女帝の称号を脱ぎ捨て己の本心をさらけだそうとしている。
なのにあの狡猾で思慮深いミルマは割り込んでくる気配がない。
魅了し心を操作してまで作り上げた女帝という作品が、明人の手によって汚されつづけている。
このままディナヴィアの心をとりもどせば抑圧していた感情が制御不可能になる。作り上げた無という状態から逸脱してしまう。
そしてそれはミルマ・ジュリナ・ハルクレートにとってかなり良くないことだ。綿密に練られた龍族殲滅の計画に支障をきたす余分にすらなりうる。
しかしこの決闘において最も懸念していた邪龍ミルマがまだ姿を見せていない。
とするならばスードラとムルガルが暴虐の彼女をきっと押し留めてくれているのだ。
明人は万感の思いを込めてもう1度、遠く離れた友へ、繰り返す。
「でも……ごめん」
先ほどと同じ声色で謝罪した。
力をいれていないのに拳が震える。胸甲の鉄板に押しつけたRDIストライカー12がこすれてついぞカチャカチャと音を奏でている。
地の底で膝を抱えてうずくまる。ここまで去勢を張ってきたがついに限界を迎えた。
「……オレ、しくじった。もうとりかえしがつかないくらい……」
背を丸くして明人が呟いたのは、弱音だった。
どうしようもない、とりかえしがつかないやらかし。
それも1度や2度ではない。考案した作戦の5割は失敗に終わっていた。
「本当なら最初の攻撃で両腕を使えなくしてたはずなんだ……! 銃撃で片目を潰せてたはずなんだ……! ディナヴィアはとっくに我を忘れているはずだったんだ……!」
さらには破壊されたワーカーの姿を思いだしてしまう。
明人は顎が固まるほど奥歯を噛みしめる。
「ちくしょう……! ちくちょう……!」
堪えきれぬほどの悔しさを呪詛のように唱えた。
人の業が生みだした最悪の結果だった。
龍という存在者を脳内で構築しきれていなかった。
決して明人が軽んじて考えていたわけではない。
ただ人間の生みだした固定観念を超えることが出来なかった。
「やる、しかないのか……? この不完全な状態でトリガーを引いていいのか……?」
自問自答しても答えなんてでやしない。
怒りと恐怖に震える指先で腰のポーチを弄った。
F.L.E.Xの蒼がチカチカと点滅している。まるで心の臆病が伝染したかのよう。
「アイツが残したたった1つの思いをこんな風に使って本当にいいのかよ!?」
そして た っ た 1 発 の 銃 弾 を握りしめた。
それこそが黒龍セリナ・ウー・ハルクレートが別れ際に明人へ託した、たった1つの思いだった。