465話 【海龍VS.】無垢なる母性 ミルマ・ジュリナ・ハルクレート 2
「あの事故は確かに気の毒だったよ……。でもキミが過去に縛られたままなんて彼も望んじゃいないはずさ……」
なんて重みのない安い言葉だろうか。命乞いにしてももっと飾れるだろうに。
それでもスードラはわかっていながら試みる。
「ただ偶然が重なっただけ。……いや、それでもとてつもない不幸の連鎖だったよ。それに彼は英雄的ともいえるほど偉大な龍だよ。なにせ彼らの犠牲があったから龍玉の効果が解明されたんだからね」
しかし彼の――半ば諦めがかった――説得がミルマに届いている様子は皆無だ。
濡れた唇で法悦の弧を描きながら縛られた彼の元へむかっていく。
「ああ……これでまた1匹の龍が神の御下へ還っていくのね……。命とは成りまさるも尊く儚い細工物のよう」
「そう、あるべき場所へ……アナタの還ったところへ。……やがてアタシたちも還るべき聖域へと」
もうすでに自分の世界へ入り浸っている。
腰を揺めかす嘆かわしい歩みと羽ばたきに合わせ、艷やかな尾が揺らぐ。手に巻きつくよう伸びた鎖がちゃらちゃらと軽率な音を奏でた。
複数連結された細やかな鉄の輪はたわむことなく真っ直ぐのまま。まるで彼女の意思と直結して伸縮を自在に――見た目すら変化させているかのような。
そしておそらく鎖の魔法そのものが不可視になることが可能なのだ。でなくば、スードラにとってもこれほど簡単に捕縛された説明がつかない。
――邪龍がこれほど頑強な魔法を呼びだせるなんて予想外だった。たぶんこれはあらかじめ詠唱し発現させていたと見るべきかな。
鎖によって四肢は繋がれ抵抗する術はない。力を込めても体力をムダに浪費するだけ。
徐々に近づいてくるミルマにも注意をむけつつ、スードラは空に固定されている支点箇所を睨みつける。
細腕とは思えぬ龍の力で勢い任せに引いてみる。が、ぎりりと鎖が軋むばかりで抵抗は無意味に等しい。
――あの部分が支点になってる上に逆側には動かないのか。強度も十分だし捕まったら最後逃げるすべはないようだね。
「よくできた魔法だよ……」なんて。ため息とともに漏らすが賞賛というより負け惜しみでしかない。
これでは翼をもがれた――彼は翼がないタイプだが――龍だ。そうなると巨躯をもて余す爬虫類に成り下がるのだからたちが悪い。
さらに厄介なものは、ミルマが我が子のように大事に抱いている紅の水晶である。
光をとりこみやすいよう反射屈折させるような形をした、美しい宝石。
――抜かれた魂は龍玉に吸われ、空になった体は時の流れに蝕まれながら朽ちていく。もし最強種族である僕たちに弱点があるとするならば……アレを使うことだろうね。
これで何度目だろう。尾っぽをだらりとしょげさせ「はぁぁ……」ため息が止まらない。
負けていた。スードラははじめからミルマの手のひらの上で踊らされていたのだ。
だから彼女は少しだけ遊んだ。目の前をちょろちょろ逃げる独楽鼠の尻を追っていただけ。
「海龍。アナタはアタクシたち、ひいては龍族のためにとても良く働いてくれたわ。だからその労に報いるよう優しく果てさせてあげる」
辿り着いたミルマは、彼の頬にそっ、と種を模した手を添える。
「従順であるから生かしていたのだけれど、残念ながらそれももうオシマイ」
絹の如き白い手が優しく慈しむように。
肌に触れ、スードラに甘い快楽の余韻を与えていく。
「アナタの未来ははじめからアタクシたちのもの。やがて龍族そのものがすべて1つとなって濃密に混ざり合うのよ」
「そしてアタシたちも役目を終えたらその1つになるんだよ。生と死の垣根すら超越した1つの存在となって苦痛を知らない闇のなかを漂いつづけるの」
瞬きひとつで純真な瞳へ。
それからしっとりと喉をくつくつ鳴らしながらイタズラをする前みたいに細まった。
ミルマの白枝の如き指先がするする、と。スードラの胸に巻かれた鱗の下へと入り込んでいく。
「これから海龍は長い旅にでるのよ。終わりなき旅」
「……っ! ……っ、っ!」
「でも大丈夫だよ。アナタと共に興じた日々はアタシたちのなかで生きつづけるからね」
左右に振られる声。とろみがかった唾液の水音とともに吐かれる息が彼の耳をかすめる。
いっぽうでスードラは今のところされるがまま。意図せず頬を赤らめ、ときおり身をよじる。
「ふ、っ……! あっ……ぅ!」
内ももの辺りに昇る快楽を拒みながらも睨むことしかできないでいた。
そんな反応を楽しむよう。しかしミルマは決して核となる箇所に触れ責めてはこない。
ねぶるような小癪な手つき。
かと、思えば意表をつくように円を狭めて芽をかすらせる。慣れすぎた手さばき。
「や……め……っ! はうっ!?」
唇を噛みながら拒絶しても、内では欲望が膨れ上がっていく。
しかし四肢は鎖で無理やり開かされている。跳ね除けることすら叶わない。
執拗な責めによるむず痒さで脳が痺れていく。彼女の欲す姿へ、目尻が溶かされてしまう。
「も……もうっ! それ、いじょう、っは……!」
スードラは息を荒げながら身体が迎ようとしていることを察す。
だらしなく舌をだし、喉の奥で呼吸を刻む。耳の先はすでに落ち葉のように赤く染まって、肌はしどと汗に濡れている。
「怖くないように……みんなと同じようにしっかりと堕としてから捧げてあげるから……」
おもむろにミルマは少女のような笑みを傾けた。
そして寸前となった彼の頭を、両手を広げ、全身で包み込んでしまう。
「あ、うぶっ――なにをッ!?」
隙間なく、吸いつくように。彼女の発する女の香がスードラの意識を、ごと覆い尽くす。
未熟で小さな頭部は、ミルマの起伏した肉の狭間に埋もれてしまう。
まるで色に溺れる遭難者だ。スードラはミルマという魔性に溺れて喘いだ。
鼻腔も満たされ、呼吸するたびに喉奥を熟した甘さが抜けてむせ返る。
「|《母の抱擁》」
そして聞こえてきた詠唱ですら耳をかすめるだけ。危機感すら薄らいでいた。
両手両足は縛られている。スードラは弱々しくも暴れてみるが、より強く鼓動を頬に押しつけられるだけ。
――まず、い……! これ……みりょ、うの……魔法だ!?
すでに意識は紗がかって虚ろう。脱せねばとわかっているはずなのに本能が逃げようとしない。体が彼女を求めている。
とめどなく快楽がなだれ込む。心地よささえ覚えるほどに無尽蔵な愛情が精神を染め上げていく。
脳髄がチリチリと焼ききれてしまいそうな錯覚さえあった。このまま身を投げだし生温く融和な揺り籠のなかで生命を果ててしまいたいと……
「GGGGRRRR!!!」
魔力に抗えずスードラが眠りにつこうとした、直後。
本当の意味で身を焦がす暴虐的な火炎が彼らの交わる空へ燃え盛った。
「――なっ!? 黄龍ですって!?」
あわや直撃と言ったところでミルマは彼を手放し離脱した。
しかして現と夢の狭間を漂っていたスードラは炎に巻かれる。
「あちゃあ!? あちあちあちっ!? あちちちッ!?」
寝耳ならまだしもだ。全身に水ではなく龍の火炎なのだからたまらない。
火が届いた爆弾のような速さでスードラも炎から離脱する。
「なにすんのさ黄龍!? 今、わりと全力の吐息だったよねェ!?」
たまらず怒鳴りつけた先では、わっさ、わっさ。
『……なぜ避けない?』
黄色い鱗の龍が、僅かに焦げたスードラを不思議そうに眺めている。
しかもその声色といったらあいも変わらず寝ぼけた無声会話だった。
「あの状況で避けられるがわけないでしょ!? まさか丁度いい感じで僕と邪龍を同時に消し炭にするつもりだった!?」
ぷりぷり激怒しながら頭から煙をだす。微かに髪が焦げている。
『……。その発想はなかった……後の参考にしよう』
「否定してよ!?」と怒声が飛ぶも、聞いているのか聞いていないのか。もしくは無視しているのか?
ともあれ魔法の鎖が炎とともに消失した。ミルマ自身の意思が逸れれば形をたもっていられないらしい。
「んもう! 僕だったから良かったけど……というか僕も熱いのは苦手だけど……」
スードラはブチブチ文句をこぼしながら自由になった手足の調子を確かめた。
可もなく不可もなくといったところ。どちらかといえば炎のダメージのほうが大きいくらいか。
龍の羽音とともに暴風が吹き荒れる。前髪がスカートのようにぺろりと捲れ上がって額を晒しだしている。
『貴様に言われた通り機を見て援護へ入っただけだ。文句を言われる筋合いはない』
「あのねぇ……アレがキミの大好きなふにゅうくんだったら今ごろ大やけどじゃすまないんだよ……?」
『……?』
「無言で首をかしげないでくれないかなぁ!? オマエが相手だからやったんだけど感がスゴイんだけどぉ!?」
多少焦げたとはいえ、だ。ムルガルの横槍で助かったのも事実である。
この通り五体の自由が返ってきて魅了魔法も回避できた。さらに時間稼ぎとするなら最高のタイミングといえなくもない。
なのでとりあえずスードラは龍形態のムルガルへ伝える。
「ま、それはもういいとして――黄龍はさっさと種の状態に移行したほうが賢明だよ?」
焦げた毛先をつまみながら、まるでふと肩を叩くような気楽さだ。
しかしこれほど重要なアドバイスはそうそうないだろう。
「なにしろそのままだと死んじゃうからさ」
言葉の意図が汲まれるのに、そうかからなかった。
ムルガルは『なにを……?』と。言い終わる直前に『――クッ!?』龍の形態から種へと瞬く間に姿形を変化させる。
丁度だった。彼の面長の頭部があった場所だ。そこを血色の光の如き現象が凄まじい速度で通り過ぎていった。
「んふふっ。拘束されてた僕がなんで龍の姿に戻らなかったかわかる? 答えは、体積が大きくなるからなんだよね」
「邪龍が狙っていることに気づいていたなら早く言え!」
さすがのムルガルでさえスードラへ怒声を飛ばす。抑揚のない声に気迫を加えた。
肝を冷やしたのか生白い額に一筋の汗を浮かべている。
先の攻撃はまるで巨獣の腕による薙ぎ払い。それでいて紅の大蛇のような現象の根本には龍玉を手にしたミルマが浮遊している。
「……せっかくの子守唄を邪魔するだなんて無粋なのね」
「黄龍は悪い子だよ。それとも甘えてる海龍に嫉妬しちゃったのかな?」
さもくだらないとばかりの言い草だ。しかも草を見るような侮蔑を孕んだ目つき。
少し高い空から2匹を見下ろすミルマの目には、すでに母は宿っていない。むしろ思い通りにコトが進まずふてくされているようにさえ見えた。
龍玉の変貌をなんと形容したものか、もはや宝玉と称することさえおこがましい。玉からあふれたおどろおどろしい流血がゆらぎ暴れまわっているような。
スードラはしばし頭をぐしぐしと掻きむしりながら思案する。
「とりあえず……すごくエッチな動きかたをしてるよね……」
そして導きだした回答を真顔で口にした。
ウネウネ動く光の帯は、さながらローパーの触手にも似て非常に卑猥な動き。
紅というのもスードラの目には扇情的に映ってしょうがない。
するとさも当たり前のように辛辣な罵声が返ってくる。
「バカか? 貴様は状況をわきまえろ。そして1度くたばれ」
その龍玉の変化をスードラは知らないし、きっとしかめ面のムルガルも知らない。
おそらく知る者はすでに魂を血色の宝玉へ吸われているからだ。捧げらている。
間近に感じる死の恐怖、おぞましきものが可視化されたからか、余計に恐怖心が煽られて仕方がない。
「……たぶんここからが本番になるよ。とにかくあの鎖だけには気をつけようか……」
「……フム。あらかじめ二手に分かれ邪龍の情報を得られたのは大きい……」
ミルマを騙して手のうちを晒させたもののだ。スードラとムルガルは龍玉を前にして押し黙ることしかできずにいる。
下手に動けばとり返しがつかぬ事態になることを、どちらもが感覚で悟っていた。
2匹という有利は無に等しいだろう。増えたせいもあってあちら側の警戒が増したと考えるべきか。
「ふぅん。どうやら踊らされていたのはアタクシのほうだったようね」
と、たわわな果実が呼気で弾む。
2匹のオスが険しく構えるいっぽうで、1匹のメスは手にした龍玉に軽い口づけを交わした。
「なんか海龍にハメられたみたいでムカつく……。けど、見られちゃったものはしょうがないね。考えを切り替えていこうよ」
「柔軟に対応できるのは美点よね。とっても素敵よ、アタクシ」
「えへへっ。アタシに褒められちゃった」
2役で対話をするというなんとも不可思議な光景である。1つの体に複数の性質をもつ彼女特有の行動だった。
するとミルマはおもむろに瞼を閉じる。それと一緒に活発化した龍玉のうねりが縮小し元の形に戻っていく。
それから片翼を大きく振ってくるん、と。どこか幼気で活動的なもうひとつの顔へすげ替える。
「じゃあ次はアタシの番だね。アタシに代わってアタシが海龍と黄龍で遊んだげる」
変化したのは雰囲気だけではない。肉感的な身体を残し、両手両爪、両足両爪。四肢を鱗へと移行し構えをとった。
「ほうら、黄龍でも海龍でもどっちからでもいいよ? なんなら同時に相手してあげちゃうからさ?」
鎌首をもたげた爪をくい、くい。かかってこいと言わんばかりの挑発に似た招き。
ミルマは体の支配権をもう片側に譲ったのだ。しかも今度は受け身から積極的な肉弾戦を望んでいる。
――戦闘スタイルが変わったと見るべきかな。なら……余計にこっちからは仕掛けられないね。
だからといってスードラが誘いに乗るという選択肢はない。
先の打ち合いで力量差は悲しいほどにわからされている。すでに慣れという面で劣ることを自覚もしていた。
「うーん……」と。スードラは愛らしい顔を曇らせつつ眉根を寄せて重い頭を振る。
――もう秘策を使っちゃおうかな? でもあっちはあっちで準備が必要だろうしぃ……。
堂々巡りだ。細やかに時間を稼いではいるがやはりまだ幾ばくかは足りていない。
こういうときに限って日の動きとはノロマなのだ。中天から僅かにかたむいたまましつこく上空にありつづける。
そうやって悩んでいると、意外な助け舟が彼の肩を押しのけた。
長身痩躯のひょろ長い影がぬぅ、と躍りでる。
「では俺がでよう」
ムルガルだった。
それを受けてスードラの口からでたのは「……冗談でしょ?」正気を疑う声だけ。
とてもではないがハイそうですかなんてすんなり見送るわけにもいかない。――だってどう見たって強そうに見えないんだもん。
だが、ムルガルは――割りとはじめからずっと――スードラなんて眼中にないらしい。
「こなせることはこなす。こなせぬのであれば必死になってでもこなしてみせる。これは俺が檻の外で経験し学んだことだ」
細首が振られて開けたなかから生白い顔が現れる。
紅の瞳。灼熱の髪を流しながら黄色の翼を羽ばたかせてぐんぐん上昇していく。
「しかし今回のこれはこなすのに必死になるべきものではない。つまり……俺にとってこなせるものだ」
曖昧にボソボソと口ごもるような語りを終えた、その刹那だった。
「――うそッ!?」
スードラは、ムルガルと己の目の2つを同時に疑った。
遅れ風が眼球を撫でて乾かすも、瞬きすら忘れる。
もっとも衝撃を与えられたのは離れた場所で構えをとっているミルマだろう。
「……え、は?」
なにをされたのかすらわからず惚けている。
口から呆然とした音色を漏らし、わけもわからぬまま体がぐらりとかたむいた。
彼女の瞳もまたスードラと同じ場所を見つづけている。
しかしそこにあったはずの形跡が雲や霧の如く消滅している。
「俺をあのころのままだと思うな。それに……」
そして消えたはずのムルガルは再びそこにいた。
だらりと垂らした種の両手で拳を作りながら。沈みかけた夕日の如き長髪が舞い無数の線になって揺れて踊る。
身には肌を晒さぬ無骨な鎧をまとう。その表面は黄龍たる彼の者の鱗よりもまばゆい。
「家主ならばこのていどの1撃……――普通に避けるぞ?」
龍すらも置いていくその速さはまず間違いなく支援魔法の類だろう。
その証拠にムルガルの体は、金色の闘気によって、鮮やかかつ煌々と彩られていた。
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