462話 蒼の約束、青き海、自由なき空を抱く
「スッゲーよ! マジでスゲー! 兄弟のやつマジスッゲーって!」
ねずみ色をした岩尾が上機嫌に地面をびしびし叩いた。
「なんだよあの丸くてガッシンガッシン動くやつ!? 最初はだっせぇと思ってけどメッチャかっけぇでやんの!!」
タグマフは興奮で頬を紅潮させながら少年のように目を輝やかせっぱなし。
狭い場所だというのに今にも小躍りでもはじめてしまいそう。
その横でも四つん這いの態勢で食い気味に身を乗りだす。
短い上に捲れた裾から中途半端に晒した臀部。誘うように左右にぷりぷり振っている。
引き締まった白肌の足が汚れることすら気にせずだ。
ねろりとはみでたべっ甲色の鱗尾が「お、お、おおっ!」荒い鼻息に合わせてひくひく揺らいだ。
「な、なんかスゴくない!? スゴイことになってるんじゃないのこれぇ!?」
「だからスッゲーんだっての! あの丸いやつマジヤバいし兄弟もマジスゲーやつだったんだ!!」
そこからも、これまでも。タグマフとエスナはすげーすげーと、馬鹿のひとつ覚えに合唱をつづけていた。
彼は年若くするとしても、彼女はそこそこ長く生きている部類だ。にも関わらず波長が合っているのはどういうことか。
すると突如エスナはぐるっ、と頭を上げる。短い跳ね髪をそよがす。
「ねねねっ! そういえばなんかさっきわたしのいないところでわたしすごいバカにされてた気がするんだけど!?」
タグマフが「……あ? 別にそんなことねぇだろ?」しっしとおざなりに手を振る。
すかさず「だよねっ!」天空の日輪ほど明瞭快活な声が遠くの森林へ響き渡った。
そんな2匹をよそに、もう1匹の龍は色っぽい仕草でちょいと指を振る。
――天龍は遠回しに雑魚ってバカにされてたけどね。ま、面倒くさいから言わないけども。
言うまでもなく色を匂わすのは意識してのこと。
自分という姿が愛くるしいことは承知の上。あえて淫らに振る舞う。
水とは生娘のように繊細なのだ。なにせ風に触れられるだけで悶えるように敏感な波を作ってしまうほど。
遠方視認魔法、《水鏡効果》に映るのは、1台の重機と1匹の龍である。
――変わらない日々。生き飽きた牢獄の日常も今日で終わりさ。
ここは決闘を見物するのに最適な特等席でごみごみしていなければ周囲の目を気にする必要もない。
うららかな日和。逞しくそそり立つ褐色の石柱から見渡せば森林のプールが地平線すらも覆い隠している。
その代わりに天を阻むものはない。真っ直ぐ降り注ぐ陽光は強すぎず温すぎず、およそ適温というものだろう。
そんなホットスポットから遠く離れた場所で龍たちもまた群れている。
――どっちに転ぶとしても……もう絶対に日常には絶対に戻れないんだ。
スードラはときおり指を振って己の魔法を調節して波を消した。
両手を杖代わりに背後につき華奢な肩に頬を寄せる。しっとりした生足を優雅に組み換える動作にすら蠱惑という生意気な魅力が香り立つ。
同性であっても彼の醸しだす麗しい色気に心くすぐられる者が多くいる。熟練した小癪である。
「オマエはどうみる?」
不意の問いかけが真横から投げられた。
「ん? なんか言った?」
スードラが声のしたほうむく。
黄色くしだれた髪の奥から気勢薄い目が真っ直ぐこちらを見ている。
長身で長髪。そんなムルガルが座っていると周辺に美しい黄色の花弁が花開いているかのよう。
仏頂な面、唐変の白木。彼こそこの檻から飛び立った1羽の鳥である。
今のところは生きてる。ついこの間までは生きているのか死んでるのかすら判断に困ったものだ。
そうやってしばらくスードラが感慨深く流し目で観察していると、山なりに閉じられた口が再度開かれる。
――再会したときは変わりように驚いたけど、やっぱり外にでてちょっとは心をとり戻してる感じだね。
「貴様は焔龍と近しい存在だったはずだ」
「主語が抜けててなんのことやら」
知っていてわざとらしく肩をすくめてた。
しかしムルガルはこちらを見るばかりでもう語り尽くしたと言わんげだった。
「誰かとお喋りするならもっとハキハキしなきゃダメだよ?」
「そうか、なら言い直そう。俺は海龍の感想が聞きたい」
守護が抜けている。なにも学んでいない。
だがきっと話下手なりの注釈なのだろう。
――もっとイジワルしちゃおっかなぁ?
なんて思いつつもスードラは彼の意を汲んでやる。
きめ細やかな唇へ指を添え、片手指ほどの時間だけ思考した。
「んー、だって相手は焔龍だもん。たぶんほどんどの攻撃は笑えるくらい効いてないんじゃない?」
なめらかな脇を無防備に晒し、んっ、と伸びをしながら紛うことなき真実を伝える。
少しくらい見られることを意識するも彼の期待した反応は返ってこない。
「……そうか。しかし焔龍も焦っているように見えたが……」
「それはきっと種族たちに不意打ちをくらうなんて恥ずかしいところを見られたからだよ。ああ見えてあの子ってば意外と周りの目とか評価を気にするタイプなんだよね」
「……そう、なのか」
ムルガルは相変わらずだった。
ボソボソとした低めの声でうつむきがち。注意しないと聞き逃してしまうくらいに小さい。
もういちど整った輪郭に手を添えながら「そう、なのか……」より湿度が増した。
「黄龍だってそれくらいわかるでしょ? だって焔龍がどれだけ長い間女帝として君臨していると思うんだい?」
「だが……」
それでも食い下がっていくる。
よほど挑戦者の側に思い入れがあるのだろう。
善戦していると信じたくてしかたがないらしい。
「ダガーもナイフもないって。まあ? 彼も、焔龍相手に1、2枚の鱗を剥がすくらいにはがんばってるけどさ」
言っている途中で黄色い瞳が水鏡のほうに逸れるのがわかった。
「そうか」
それでムルガルとの雑談は終わり。
さっぱりとしたもの。というより呆れられたのかもしれない。
「ちぇ~っ。聞いておきながら無視しちゃうんだぁ。なら僕拗ねちゃうもんね~だっ」
ぶぅ、ぶぅ。スードラは唇をツンと尖らす。
やはり水鏡むこうの行方は接戦というか、熱戦という感じ。
ワーカーの攻撃はどれも強力だ。龍の打撃に勝るとも劣らない。
――でも……それだけじゃダメなんだよ。そのていどなら僕らはとっくに自由になれていたんだ。
だがスードラの青い瞳にはどうしても効いているように見えている。
なにせ数多の龍が幾度も焔龍に挑んで失敗した。
これは歴史といってもいい。龍たちは挑んで、敗北し、魂を捧げたのだ。
つまるところ彼は龍族ていどの実力なのだ。
大陸で生きるならばそれでも十二分とも言える。英雄として担がれるのもまったく不思議ではない。
しかし焔龍に立ちむかうことさえしなければの話。
相手はあの女帝焔龍である。ならば龍と同級では不利なことこの上ない。
のはずなのだが、前挑戦者エスナは嬉々と水鏡にかぶりついていた。
「おー! 焔龍と押し合ってる! やれやれ~い! そのまま押し倒しちゃってびしばしだー!」
水面むこうで焔龍が被弾するたび黄色い声で声援を送る。
まるで応援する側が圧倒的に優勢であると言わんばかりだ。
「ほらほら! 岩龍も応援しなきゃ! わたしと同じくらい焔龍と互角にやりあってるんだよ!」
だが、いっぽうでタグマフはすっかりおとなしい。
エスナに揺すられても、あぐらをかいたままの体勢でなにやら胡乱な目をしていた。
スードラと同様不利に気づいたか。またははしゃぎ疲れたか。
「やっぱ……アイツすげぇよな。オレっちが龍だって知ってて正面から挑んできやがったし……」
どうやらどちらでもない。
深い鼠色の尾でゆるく揺れる。腰を降ろした赤褐色の岩がたいらに均されていった。
エスナはちょいと小首をかしげながら横から彼を覗き込む。
「なんでいきなり落ち込んじゃってるの? すごいと思うならちゃんと見てなきゃダメじゃない」
「いや、だって……オレっちじゃあんなふうに焔龍と戦えねぇもん……」
タグマフはうつむきながら被り物を深々と被って顔を隠してしまう。
辛うじて見える顔の下半分では唇がへの字を描いている。
「岩龍は別に戦う必要ないでしょうに。それにちゃんと警らをこなしてれば外にだってでられるんだから」
「……そういうこと言ってんじゃねぇし」
「ならどういうことなの? 癇癪起こすようなお子ちゃまって年でもないでしょ?」
「……うるせ。あと背中に触んな……」
エスナが手を添えながら優しく諭すも、タグマフはいっこうに顔を上げてはくれない。
無理もない。彼は若くまだ龍としても未熟なのだ。そしてみだりに戦いを挑むほどの大バカでもない。
言われたことだけこなしていれば良い。それで十分なのだから。
「オレっちらほうが全然雑魚じゃねーか……! 同種でもねぇ兄弟があんなにがんばってくれてんのに……! オレっちはビビって焔龍にヘコヘコ頭下げることしか出来ねぇなんてよぉ……!」
タグマフはとうとう膝まで抱えてしまう。
後悔あるいは願望からくる嫉妬か。
もしかしたらそのどちらもかもしれない。
英雄に憧れる若き闘争心が挫け、萎んでいく。
「挑む勇気もないってんなら夢なんざ見てんじゃねぇよ……! みんなにきゃーきゃー言われてぇだけなんてくっそ下らねぇ……!」
「そんなことないよぉ……? ねえったら岩龍ぅ元気だそうよぉ……」
タグマフの肩がひくひく震えだすとエスナまで眉を曇らせた。
まるで弟を慰めるようにして何度も何度も丁寧に背を撫でている。
「……」
すると無言で立ち上がったムルガルも、タグマフを撫ではじめた。
とくになにか声をかけるわけではない。だがエスナと一緒になって若き龍を慰める。
その感情を抱えているのはきっと若き龍だけではない。
決闘場に群れた龍たちだってきっと罪悪感を抱えているはずなのだ。
言われることだけをこなすことに慣れすぎた龍たちは気づいただろう。自分たちの牙がとっくに折れている、と。
それこそが水面のむこうに映る人間の狙いである。
「世界は変わるよ。せっかくキミが僕たちに気づかせてくれたんもん」
スードラは誰にも聞こえないほど密かに囁く。
「でもそれでキミが死んじゃったら意味ないよね。僕らに希望だけを託して去るなんて作戦、卑怯にもほどがあるよ」
聞かれなくたってよかった。
どうせ離れた場所で戦っている人間には聞こえないのだから。
「海龍よ、貴様はいったいなにを企んでいるのだ?」
硬い地面で姿勢良く膝を畳んだグルコ・スー・ハルクレートはスードラ背後で眉間にシワを寄せた。
眉間とはいえ眉はない。すべらかな頭部は昼の光に濡れててらてらに輝ている。
「企むなんて心外だよ。僕の目的ははじめからずっと同じだもんね」
「この期に及んで女帝は女帝らしくあれと願うか。さもしいことだ」
コンッ、と。グルコは木杖の根っこで地面を叩く。
しかしこの見た目だけなら少年の彼が、岩を小突く音なんかに驚くようなタマではない。
「女帝は女帝として究極の姿でなくてはならないんだよ。僕、いつも言ってるでしょ?」
「それにしては軽率な行動が多いものだ。外から種族を手引きしてまで焔龍と戦わせるとは正気の沙汰とは思えん」
愛らしい笑みがむけられても、グルコの渋面は戻るどころか陰影を強くした。
入念に鼻をひくつかせながら嗅ぎ分け、香を聞いている。
スードラの吐いた言葉に嘘の匂いを嗅ぎとったのだろう。
とはいえ質問が多い辺りなにがどこまで嘘かはわからぬようだ。
「このまま勝敗が決すれば貴様も龍玉に喰らわれようもの。邪龍がおめおめと見過ごすとでも思っているのか?」
「まあ見逃してはくれないだろうね。僕もあの夜以降きっと彼女の標的になったはずだし」
スードラはおもむろに立ち上がた。
やや強めに尻を叩きつつ鱗についた砂や埃を払う。
隙間に食い込んだ鱗を指で摘みあげる。はみでた肉を隠すことも――そのままでも別に良いが――いちおうの身だしなみというものだ。
それからグルコに見せつけるみたいにして。下着に指かけするすると半端に降ろしながら腰を左右にくねらす。
「んふふぅ、地龍ってば僕の心配してくれるんだぁ? なんならお礼に今夜そっちの寝藁へ遊びにいっちゃおっかなぁ?」
しかしてコンッ、と乾いた木が力強く地面を叩く。
せっかくのサービスだったのに怒られてしまう。
下着から指を外し、スードラは「ちぇ~っ」頭の後ろ手を組みつつむくれてみせる。
無論、ぜんぶ演技。場を和ませる――自身の平静のためかもしれない――ために茶化しただけ、ただのイタズラのたぐいだ。
そしてそれすらつき合いが長いグルコにはお見通しというやつなのだろう。
「尋常ではない死の香をまとった青年はいったいなんなのだ? 拙僧はあの青年に幾億ではきかぬ血と絶望を確かに聞いたのだぞ」
いついかなる場面でも土龍は寡黙に粛々としていた。
地の底で静寂を好むモグラみたいな男である。
「答えなさい海龍。貴殿はこの無意味な決闘になにを望んで――むっ? ……きたかっ!」
そしてグルコもそろそろ気づくころ。
タグマフとエスナも驚き跳ねるようにそちらへ首を回す。
「ちょ、ちょっとまってよ! まだ決闘の途中じゃないの!」
するとムルガルはゆらりと立ち上がった。
「狙いはおそらく俺だろうな」
異なる瞳が見つめる東の空には紅の月。
忌むべき方角から飛来する小さな影がひとつほどあった。
スードラなんてとっくに気づいていた。
皆が鈍感なのではない。はじめから警戒し気を張り詰めているから。
「さ・て・と。僕もそろそろシャキッとしなきゃねっ」
「よもやまたも邪龍とやり合うつもりか!? あの夜に実力の差を痛感したはずだぞ!?」
「それはどうかなぁ? 結構僕ってテクニシャンだから今日は勝てるかもよぉ?」
余裕ぶって――強がってみる。
だが体は正直だ。それは本能となのかもしれない。
翼の音が近づくにつれ、うなじの辺りにぴりぴりとした殺気を感じ、肌が水の如く過敏になるのがわかった。
「よもや……お主!? 龍玉から生き延びるためではなく邪龍を欺きつづけていたとでもいうのか!?」
グルコへの返答はぱちんっ、と。片目瞼を閉じて応じる。
より可愛く彩るためピンク色の舌先をだすことも忘れてはならない。
それから爽やかな青を胸いっぱいに抱きしめるようスードラは両手で大きな円を描いた。
「空ってこーんな大きくて広くて自由でなんにだって縛られることはないんだ。まるでぴちぴちした僕の鱗のようだよね」
とろりと垂れた尾っぽはどこまでも青く、額の宝玉だってそう。母なる海のように自由な空色をしている。
彼は、女帝を檻から解き放つ運命の導きを待ちつづけていた。
これはいわゆる叛逆の狼煙だ。
吹いたら消えてしまうほど小さな小さな種火が今ようやく灯ろうとしている。
異界よりきたりし者。
龍をも超過する技術を備えし勇ましき者によって歴史が塗り替えられようとしている。
「だから世界に生まれた瞬間から暮れなずむ鱗のあの子こそ自由に飛ぶ権利があるのさっ! こーんなに自由な空の真ん中で日の光のようにきらきらと輝いていなきゃいけないんだっ!」
少女の歌う歌のように大空へ木霊する。
はじめは半信半疑だった。
スードラのなかでは、からかいがいのある面白い青年という認識だった。
それに世界を覆すには彼はあまりにも弱すぎたのだ。
しかし長く生きたスードラさえ、あのような魅了魔法の使いかたを知らない。
――キミからの贈り物は確かに受けとったよ。蒼の世界からやってきた操縦士くん。
誰かを信用させるために己の記憶を――心を通わす。
滅茶苦茶にだってほどがあるだろう。
なのにそんなことをするお人好しが本当にいたのだ。
隣の笑顔を見るだけのために戦う勇敢で優しい兄がいた。
そしてこの世界でも今なおひた走っている。
「ついに鍵は見つかったんだ! 閉じられていた檻の蓋はもう開かなきゃいけない時間なんだ!」
だからスードラもまた魂ごと賭けていた。
遠方の影は品のある優雅な羽ばたきで少しずつ近づいてきている。
背に翼を、腰から尾を。紅玉を手に。




