439話 そして大海から見た底の月
『おいどうする?』
誰かが伝えてきた。
しかし誰も答えない。ただ翼を動かし円環状に回るだけ。
答えられないと言ったほうが良いのだろう。なにせ答えがわからない。正答なんてものを持ち合わせるものなぞがいまさらいるものか。
模範解答は、なにもするな。そうやって思考するのを止め己の身体に刻みつけながら幾日たったことだろう。
しかし誰もが答えを求める。解答のない正解を探し求めている。
龍たちの飛来する空はとうに夜のしじまに覆われた。
広大な空を泳いで気づく、なんて籠は小さく空は狭いのだろう、と。
織りなす種族たちから隔離された龍たちにとって世界はあまりにも酷だった。
『暗いな。こうも暗いと、どうしても嫌になる』
また誰かが伝えてくる。
最強なんぞとちやほやされていても迷っている時いつもこうだ。決まって、きゅるきゅる。喉から繊細な音が漏れる。
龍たちは揃いも揃って殺風景な大陸を見下ろし、羽ばたく。
しかし彼、彼女らの見つめる先に光は1片たりとも灯っていない。まるで未来を予言するかのよう、闇が滾っているだけ。
「走れェ! 走れ走れ走れ! 疾走れ疾走れ疾走れ!」
否、そこ――底には1片のみ存在するものがあった。
放たれた声は遠方から聞こえ、豆粒を潰すようなほどに小さい。
さながら咳き込むかのように息を切らし、闇に一閃の道が灯っている。
『どこにいこうとしてるんだろ?』
『さあ? 外からきた連中の考えていることなんてわからないさ』
龍たちは底から響く音を聞き逃さぬよう最小限の羽ばたきで滑空していた。
見逃さぬよう天から静かに道を眺める。
夜闇を貫く蒼い光は汗と吐息を置き去りに滑るように走っている。
とにかく蒼を背負ってただひたすらにひた走っている。
黒に混じる紅もまた龍たちは見逃さぬ。聞き逃さぬ。
「そんなこと言われなくてもわかってるわよう! それにダープリが1番遅いだからもっとがんばりなさい!」
「フィナ、ふにー! うしろからまたきてる!」
泣き言を喚きながら喧々と。
それでも、かの者のたちは放られた小石のように転げ回っている。
その背後からは漆黒をまとって邪龍が猛追する。
「殺すッ! 殺して臓物を魚の餌にしてやるッ!」
「葬るッ! 葬って鳥の餌にしてやるッ!」
まさに猛者だった。普段からとり繕っていた仮面は剥がされていた。
顔を中央に寄せながら両爪と鱗を形成しながら追いまわしている。
「ミルマから殺意の感情しか伝わってこない! あと、せめてフィッシュオアチキンのどっちか決めてくれ!」
「なんで食べられるのが前提になってるのよ!」
つかず離れずの逃走劇。邪龍も冷静でなければ、彼らの足も遅すぎる。
さながら豹に追われる鹿のそれだ。あるいはライオンに目をつけられた野兎。つまり全体を通して絶体絶命の危機ということ。
馬の尻に座った幼子に至ってはベソをかいている。
「ふにーのお肉美味しくないと思うよ! お魚さんも鳥さんもお腹壊しちゃう!」
それとどこからか無声会話のゲタゲタと喚く声。下手くそな巨龍と同等くらいの耳心地の悪さだ。
『デも、ワタシちャんさんお気に入りのマヨかけれバいけんジャね?』
「無理っ! マヨは最強! でも無敵じゃないもん!」
小ぶりな臀部に敷かれた星が垂れ『さよで』呆れがかった音が漏れた。
「つまりオレは食えない男ということだな!」
「なんでこんな状況でプラス思考なのよお!?」
彼らは滑らかな白亜の石柱に、ゴツゴツと足裏に刺激を与える天然石の石畳を蹴って駆け抜ける。
どちらも整備するものなんていないため欠けや割れが多くて風化している。
歴史的遺物といえば聞こえはいいが、現実はただの荒廃した不毛の土地だ。現状、宗教的な美談がない廃墟とは石のクズにほかならない。
すると銀眼銀髪の少女姿が、ゆるりと周囲へ頭を巡らす。
「ん~……ここ本当にルスラウス様を讃えた神殿なのかしら? なんだか祀る雰囲気が聖都と違うような気が……」
「坊さんの住んでない寺みたいなものだろ! 縁起が悪いとか言い訳して壊さないからそこらじゅうで廃れてるんでしょ!」
『んなつまんねェことで言い争ッてる場合ジャないッしョーよ。みなさァん後ろをゴ覧なさ~い』
気が削げたことで邪龍がみるみるうちに射程へと踏み込んだ。
そしてそれを横殴りに「とーう!」赤い風が右から左から縦横無尽に襲撃する。
斜め上から襲いくる蹴りにあわや直撃するかと思われた。
「――くッ、海龍!?」
しかし邪龍も一筋縄ではいかぬ相手。
数本の髪の毛を犠牲に海龍の1撃をくるり、躱す。
「何度も何度もアタクシたちの邪魔をしないでいただける!?」
今度はこちらの番と言わんばかりに邪龍の拳が繰りだされた。
走りながらではあるが種の弱小な身体で当たれば損傷は確実なもの。
「遅いよ! 遅い遅い!」
それを海龍は華麗かつ身軽に跳ね、避ける。
すでに彼も邪龍も、髪と瞳は真紅に燃え滾っていた。
しかしそれでもまだ足りぬ、なんて。逆鱗を、さらに逆撫でるかのよう1本の石柱に張りついた海龍は生白い尻突きだし、ふりふり。
「やーだよ! ほらほらこっちこっち! 目を離してると叩きがいのあるお尻が遠ざかっちゃうよ!」
「このっ――!? ならばその小生意気な肉から魂のみをとりだして贄として差しあげましょう!」
すっかりノせられた邪龍は標的を海龍へと変更する。
それから尋常ではない速度でぶつかり合うたび、紅の火花が散った。
なにを見せられているのだろうか。そう、龍たち皆が思ったとして、誰も目が離せないでいる。
天空は閉ざされ黒だけ。龍たちの制するココはいったいどこなのだろう? 上がどちらで、どちらが下か。それすらもわからない。
見上げているのはどちらだろう。考えながら神の御首を探してみるも見当たらない。
『あの古株の海龍が寝返った?』
また誰かが伝えた。今度は呆気にとられるが如き高い音だった。
『邪龍に逆らう? そんなことをすれば天龍のように寿命が縮むことくらい理解してるはず。なのに……なんで?』
海龍は生き残っている古株のなかでも世渡りが絶妙に上手い。でなくばとうの昔に贄に捧げられていたはずだ。
だからこそあのような自己を犠牲にするが如き所業が、龍たちには信じられないでいた。
なのに飽きもせず龍たちは遊泳を試みながら眺めるだけ。
型にハメられた運命に逆らわず、型にハマった行動のみを繰り返している。
こうしていれば苦しくない。なにかを考えるから天龍のように常識を外れるのだ。
外れさえしなければもう少しだけ……生きていられる。
『ど、どうしよう? 経緯はわからないけど、あのままじゃ……なんかマズイんじゃない?』
『なんかってなんだよ?』
『わ……わからないよ。わからないけど……でもなんか……わかりたい』
『なんだよ……それ』
はずなのに、本日はなにかがわからない。
飽きるほど繰り返した日常ならば、とうに夜のまぐわいを開始していなければならない頃合いだ。なのにどいつもこいつも儀式にむかう素振りすらない。
罪を犯してなお、気づいていながらも上か下かもわからぬものへ、途方に暮れていた。
なおも海龍と邪龍が全身全霊の衝突を繰り返す。
同種での私闘はご法度だ。しかも龍族を管理する側である2匹が、だ。本日はおかしなことばかりである。
すると2匹の会話がこちらにまで漏れてきた。
「アタクシたちの魅了魔法はアナタに効いていないはず! それなのになぜいまさらになって反旗を翻すのでしょう!?」
とん、と。石畳を蹴って身を浮かした邪龍の鋭い蹴りが放たれる。
首を根っこから分断しようという意思の籠もった無情な1撃である。鷹が猛襲するかのような確殺の蹴り。
「だーかーらーさっきから何度も言ってるでしょ。ぼくはぼくにとっての正しい答えを見つけたんだってば」
それでもあっさり虚空を薙ぐ。
軽やかに邪龍の猛攻を回避し、海龍は辟易するように首を横に振った。
会話の最中だってお構いなし。どちらも疾走しながら殺意をひけらかし互いの命を狙い合う。
「その正しい答えというものを聞かせなさいと言っているの! 今ならばまだアナタにも情状酌量の余地が残されております!」
深いスリットから伸びるしなやかな脚が斜めしたから胴目掛けて打つ。
しかし当たることはない。身長差は顕著でちょこまかとした海龍はすんでのところで避けてしまう。
彼とて打たれてばかりは性に合うまい。邪龍の脚が戻されるのとほぼ同時。蛇が地を滑るようにして低い位置からの拳を放つ。
「やーだよっ。だってこれはぼくが経験して手に入れたぼくだけの宝物だもんねっ。簡単に教えたらツマラナイじゃないかっ」
すると邪龍は一瞬だけ細眉をしかる。
「我々龍族に求められているのは魂を捧げることだけ! ならば余分な思想はこの手で刈りとるのがアタクシの使命なのです!」
くるり。瓢箪のような肢体をひねって衣服を犠牲に無傷で攻撃をいなす。
狙い撃った攻撃が不発に終わった海龍は、忌々しげに邪龍を睨み、舌を鳴らした。
「チッ……まったくもってきみらしいツマラナイ答えをありがとう」
夜闇に白き別の脚が邪龍の側頭部に目掛け、標的を捉えず。
駆けながらのバチバチな死闘だった。燃える紅と暴力が交差するたび轟音と閃光が間断なく響き渡った。
日常に囚われた龍たちは一様に、くる、くるる。太い喉笛を細やかに唸らすだけ。
茫然としながら止めようともせず。どちらかに敗北して欲しいなんて願うものはいない。
なにせ、どちらも間違っていないのだ。邪龍にはそうしなければならない理由がある。
彼女が頑なに龍玉へ陶酔するのはなぜか。そんなことは決まっている。
龍族であれば誰もが知りうること。知らぬのであれば不躾な部外者くらいなもの。
だから龍たちは意向に逆らわぬ。公平と公正を盾に立ち回る彼女へと膝を折って長く尾を垂れる。
神より賜りし宝物の初期動作が龍たちの運命を決定づけたのだから。
回る、廻る、巡る。
龍たちは同じ場所をぐるぐると回りつづける。
思考も、日常も、未来も。すべてを預けて廻りつづける。
創造神へと其の御魂を返還すべく巡る。
同じ場所を――ここが籠とわかっていながら。
同じことを――やったところで意味がないと知りながら。
永遠と――もはや手遅れだと理解していながら。
白すら欠けた上も下もわからない退屈で冷たい世界で迷子になっていた。
するとまるで儀式を執り行うよう盤上に飛行する鱗の巨体が叩かれる。
雨だ。ぽたぽた落ちてくる雨粒が分厚い鱗に当たって弾けた。
待てと言う前に雨足はどんどん強くなる。滑空している龍たちの身体は濡れそぼっている。
『なあ……どうする?』
まただ。また今度は別の誰かが聞き飽きた問い伝えてくる。
そうでなくとも寒々しいというのに声色もまた不甲斐ない。
無論、誰も答えない。
「あえてこの感情をコトバにするのなら、ぼくは夢を見たってとこだね」
答えられないはず。
なのに眼下の闇から歌うような音色が聞こえてくる。
龍たちはいっせいに上下不覚なそちらへむかう。雨音が喧しい。
「なにをふざけたことを……!」
「なにもフザケてなんていないよ。だって邪龍も、あの蒼のなかに夢を見たんでしょ?」
「――っ!」
言葉の当たりどころが悪かったか邪龍はより一層の不快感を顔中に露呈させた。
怒りをかざすように声を裏返しながら飛び、殴りかかる。
「黙りなさいッ!! あのような空想がなんだというのッ!?」
「空想? あははっ、それはオカシイや。きみが見たのは過去にその目で見た現象の一端じゃないのかい?」
「――黙れエェェ!! 弱種に惑わされた貴様如きがお父上を愚弄する気かアアア!!」
しかし直情的で直線的な1撃が当たるはずもない。
海龍はすでに翼なくして空へと逃げていた。
『今、海龍のやつ……蒼って言ったよな? 月のことか?』
『違う違う。いつだったか明朝の辺りに私たちへ夢を見せてくれたほうの蒼を言ってるんでしょ』
何処からともなく声が伝わってくる。
それは創造神を司る敬愛なるもの。青より浅く、水より澄んで、綺羅びやかな蒼。
世界を創造せし御神。なれど今宵は空におらず。
そのせいで龍たちは夜に迷ってしまう。神の導き無き暗黒に惑う。
「皆はどのような夢を見なさった? 拙僧は……お恥ずかしながらもほどよく俗な夢を見ましたな」
フフ、と。渋げな音に似合わぬ若干の恥じらい。
「わたしはねっ! 龍の身体よりもでーっかいお肉に龍の身体で貪りつくの! すーっごい美味しかったんだよねー! えへへ……夢だったんだけどさ」
鈴を振るような活気ある音色まで雨音を切って聞こえてくる。
「オレっちは言わずもがなだぜ! 外の種族たちと一緒になってバカ騒ぎをしてぇ!」
堂々とした宣言まであとにつづく。
見れば少し離れた方角に巨龍に乗った面々がこちらへ語りかけているではないか。
天龍、地龍、岩龍、巨龍。いきあたりばったり、匂いマニア、性欲の化身、でくのぼう。どいつもこいつもひと癖ある面子が揃い踏みだ。
連中が今回の騒動に加担したのは言うまでもない。それなのに誰も彼も――似たような――胸を押しだし威風堂々と佇んでいた。
今度は、心を置き去りにしたような戸惑いが伝わってくる。
『おれは……好意を寄せてるやつと……一緒になる夢だった……』
誰が言ったのか定かではない。伝えてきた者にとって暗いことが救いだっただろう。
聞かされたほうはたまったものではない。鱗に覆われていなければ顔から火がだせたかもしれない。
だが勇気ある彼に背を押されるように『ぼくは……』、『わたしは……』ぞくぞくと。夢を語る念がそこらかしこからさざ波立つ。
俗なものも、乙女的なものも、幼子が見るような現想も。語りだした龍たちは尽きぬとばかりに己の夢を自由に並べて盛り上がる。
龍族で寿命を願い与えられた者は少ない。
それもそのはず、龍は夢を見る。
寝藁にでもしがみついても生きていたいだけなのだから。
なのに、そうやって必死に生きているところへずけずけと入り込んできた無礼者がいた。
「そろそろオレ限界かも! なんか眠くなってきた!」
今だって無礼極まりない。龍たちでさえ粗悪で雑だとわかる鎧を着込み、ひぃひぃ呼吸を荒げている。
地べたに吸われる力に負けるような走りかたも醜い。クレーターに住まう誰にだって生えている翼すらもっていない下等な種族。
願わずとも寿命を与えられた種は、生き急ぐ。
「つかオレも馬に乗せてくれればよくない!? なんでオレだけ徒歩を強いられてるの!?」
「ふにーはダメー。ムルとフィナでいっぱいだからダメー」
「ムルルはたまにオレのこと蔑むような目をするね!? あれか、初対面でソバット食らわせたことをまだ根にもってる感じなのかな!?」
勝手に入ってきた無礼者はあろうことか龍たちに村を作らせた。
こちらが苦しくないようなにも考えず言われるがまま生きようとしているのにも関わらずだ。
その蒼い閃光が流れていく方角を見つめながら龍たちはむっつりと黙り込む。
『もう少しだけ……もう少しだけでいいから近づいてみない……?』
誰かが伝えてきた。
今度は問いではなかった、とても遠慮がちな提案。
龍たちが迷っている間にも、あちら側では祭りでも開いているのかと思うほど賑わっている。
「ふにーはムルのことを脱がして裸を見たもん! それだけは許してないもん!」
「あっ、ふーん……どーおりで。私のグラマラスかつ気さくなお誘いにも乗ってこない理由がわかっちゃった。さすがの美女でも若さが相手じゃ勝ち目がないわね」
「あっ、じゃない! フィナ子はなにも察せてない! 頼むからもっと俯瞰でオレのこと見てくれ!」
未だ上も下もままならぬまま。ただ暗闇に灯る小さな小さな光をにむかって引き寄せられていく。
龍たちの巨体が不思議とそちらへ傾いている。
誰が先頭だったのかわからない。もしかしたら自分なのかもしれない、と。そう皆が思いながら光を目指し羽ばたいていた。
それは火に惑わされてみずからを破滅させる羽虫か。
否、天には創造神の御首たる月がある。
ならば月に集う星の子たちは、その儚くもココにある灯火を求める。とりどりの色合いの鱗をまとう大空の覇者が、空とは逆に灯る蒼へ群がっていく。
2度目の夢を見せてくれた地の底の蛙へと、心惹かれるようにして。
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