43話 そのため、朝から頬と胸とお腹と背中がくっつく
部屋の四隅から棚の上を隅々まで塵芥ないこと確認し、毎朝の恒例である雑用が終わる。
日は、とっくに昇っており朝と昼の狭間。曇りひとつない透明な窓のむこうで鬱蒼と茂る誘いの森の木々が葉をそよがせる。
瓶に溜めた水で汚れた手をゆすぐころには腹の虫が、不満げに鳴く。
明人は、テーブルの上に顎を乗せて風呂の余韻に浸っているリリティアに朝食の催促をする。
「そろそろご飯作ってー」
この家では、料理長の生活リズムに合わせて基本的に2食しか食べない。
昼に朝食で晩に夕食。魔草の配達を終えたユエラにとっては今からが夕食となる。
「んーぅ……」
怠惰を満喫しているリリティアの頬を洗って清潔になった指でつっつく。
すると、顔を撫でられた赤子のように口ぽっかり開けて空気を漏らす。
「うぁー」
ふっくらもちもち。炊きたて白米のような感触が指に吸い付いてくる。
真っ白い肌の質感は、なかなかに飽きがこない。
「リリティアさーん。ウェイクアーップ」
ここは3人家族の団らんの場。そしてこの部屋は明人の寝室でもあった。
あまり広い家ではないためリリティアとユエラの部屋しか用意されていないが、それでも倉庫のコンクリートで寝ていた頃よりは暖かみがあるというもの。住み着いて3ヶ月ほども経てば、自然みがあふれる木材の香りにも慣れたもの。もはや他人の家の匂いはしない。
「ねえ明人」
「はいなんでしょう?」
「フリルってこんな感じでいいのかな?」
リリティアの対面に座って裁縫をしていたユエラが、手元にある薄緑色の布を見せてくる。
努力は垣間見えるが波打ちにばらつきがあり、まだ未熟。明人はテーブルに投げ出された布の切れ端を1枚拾い上げて、素早く縫い上げた。
「こんな感じで縫いしろを等間隔にすることを意識するといいよ。あとはこの2本を優しく引っ張るだけ」
布が両端が寄って凹凸を作るさまに関心したのか、ユエラはその彩色異なる瞳を星の如く瞬かせた。
「へぇー、やっぱり器用ね。それにしても、ずいぶん手慣れてるけど裁縫の経験でもあるの?」
「まあ、順縫いだしね。それに人を縫うよりは楽よ。動かないし」
「アンタってときどき発言に闇がちらつくときがあるわよ……」
キングローパーの一件以来、ウッドアイランド村のエルフたちから感謝として支援を受けられるようになった。
これによって個人でおこなっていた薬草を採取をする負担が減り、こうして暇な時間は友人として過ごす時間が増えた。あれだけの騒ぎになってもユエラの負担を減らすことに成功しているのは思わぬ収穫だろう。つまり、ユエラの夢であった同族の輪に加わるという夢も叶ったということ。
「ふー、今日はこのへんで止めておくわ。目がいたーい」
ユエラは切れ長の目をこすると作業途中の布を大切そうに折って、木箱にしまう。
すっかり毒の抜けた顔は、年相応に少女然としている。心的外傷はまだ癒えぬようだが、もうユエラは今までのユエラではない。
ゆっくりと。たゆたうが如くながれる平和な時間。すべて世は事もなし。
「――んっ? リリティア?」
ふと、さっきまでテーブルに伏していたはずのリリティアの姿がない。音も気配もなく忽然と消えてしまった。
入れ替わるようにしてその背後に現れたのは1枚の扉だった。
人1人はゆうに飲み込めるであろう大きさ。鐘楼にぶら下がった鐘の如く黒光りした両開きの扉だ。それがいつからか部屋の中央に異彩を放って存在している。
一瞬の間をおいて、横でユエラが前髪の小さな三つ編みを揺らして弾かれたかのように立ち上がった。肉感的な尻が置かれていた椅子が音を立てて床に投げ出された。
「エェッ!? こ、これって大扉の《レガシーマジック》よねッ!?」
「ええ、これは長距離転移魔法。つまり、お客様ですね」
ユエラが青ざめながら大げさに驚く。
その隣。先ほどまでの腑抜けた面影は露と消え、氷のような冷たい微笑を浮かべたリリティアが凛と佇んでいた。
腰にはいつの間にやら鞘に納まった剣が下げられている。
明人とて、ルスラウス歴3ヶ月。なにかが起こっているということをふんわりと少しだけ、やや理解している。それも家主であるリリティアが客というのであれば、おもてなすのが日本の心。
「お茶出したほうがいい?」
「のんきかっ! なんでアンタはそんな平然としてんのよっ!」
そんななかで立て付けの悪い軋むような金属音を立てて扉が開いていく。
「いえ、ちょうどいい機会なので指輪の実験でもしてみましょう」
リリティアは指を立ててやんわり微笑む。
指し示したのは明人の左手薬指にはめられている魔法の指輪だった。
神より賜りし宝物の模造品まなまなちるちる。またの名をマナレジスター。
「その扉の前に立って左手を掲げて指輪の名を唱えて下さい」
明人はリリティアに背を押され、何気なく開かれた黒壇の扉の前に立ち、愕然とした。
「……」
肉を破って心臓を抉り出されるような錯覚だった。
異様な緊張が満ち溢れる。扉のむこうに広がった粘着くが如く、渦巻く闇でしかない。光ですら呑み込んでしまう漆黒の1色。破滅の色。
明人の知る最悪にとても良く似ていた。脳にこびりついて離れない凄惨な光景を呼び起こされ、体の芯が徐々に冷えていく。
「明人さんどうしたんですか? お顔が真っ青ですよ?」
不意に後ろ手を組んで覗き込んでくるリリティアが視界に入り、明人は正気に戻される。
「あ、いやっ……なんでもない。本当になんでもないよ」
なにやら怪しげに目を細めるリリティアに悟られぬよう注意をはらい、左手を闇にむかって押し出した。
銀を基調としてブルーラインが横一線に入った指輪に意識を集中して、名を呼ぶ。
「マナレジスター!」
「まなまなちるちるですってば!」
リリティアの訂正虚しくマナレジスターの円環で眩い閃光が疾走を開始した。
わりと大雑把な代物のようだ。矢の如く眼に刺さった強い光に明人は思わず目を背けてしまう。
「んにゃっ!?」
そして、むにゅり。駒鳥の鳴くようなか細い悲鳴もセットだった。
かろうじて手のひらに収まらないていどの生暖かい感触が押しつけられる。リリティアの頬と同じくらい柔らかい、球体が明人の手からあふれだした。
閃光が徐々に枯れていく。明人が意を決して正面を見ると、そこにはいなかったはずのひとりの女性が立っていた。
途端にはじけて光の粒となって消えていくのは黒い布地。残されたのは、呆然としかし慄くように震える、小股の切れ上がった黒い下着姿の女性だった。
「ぴっ――!」
黒い長髪の女性は長耳を逆立て小鳥のような短い鳴き声を漏らす。
その病的なまでに白い肌は時間をかけてゆっくりと朱に染まっていく。
明人は心中名残惜しい気持ちでいっぱいになりながらも鷲掴みにした大きな果実から左手を退けた。
しんと。火が消えたかのごとく静まり返る室内。すると女性は俯きながら覚束ない足どりでヒールの踵と喉を鳴らした。
「……ふ、ふふふっ……クク、クククッ……この私をハメるとは面白い。面白いぞっ! 白銀の舞踊ッ!」
「明人さん! まなまなちるちるですッ! まっ、なっ、まっ、なっ、ちっ、るっ、ちっ、るっ!」
「この私を蔑するということは万死に値する行為だぞ!」
狂気の笑みを浮かべ黒髪長耳の女性が細白い指を突きだす。
が、リリティアはまったく意に介してやらない。
明人にとって女性の胸部に対して生まれて初めてのダイレクトコンタクトだった。
喧騒を背景に左手に残った柔らかなわびさびに思いを馳せる。
たそがれる明人の背中で、ずっと貼っ付いていたシルルの腹が大きくわなないた。
「そんなことよりご飯まだなのかなぁ~?」
そんないつもより騒がしい朝だった。
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