425話 そして夜闇に集う願いと想い
声のよく通る広々とした空間に空洞の隙間から覗く空はすでに夜模様となっていた。
暗闇のなかで間断なくちょろちょろと湯の流れる音が耳心地良い。
「ほへぇ……蒸気のお風呂よりもお湯のほうが気持ちよかったかもぉ」
沸き立つ湯溜まりから上がったフィナセスは、手を引かれながら帰路につく。
極楽の余韻は抜けきらず。まとい直した鎧も口元も緩みきってだらしない。
三つ編みが解かれてリボンも首にかけられたまま。湿った髪が頬に貼りついている。
なにせひさびさの安楽なのだ。ちょっとしたオフザケを企んでいたフィナセスだったが、湯に使った途端疲労とともにイタズラ心もどこぞへ流れでてしまった。
そしてそんな腑抜けた彼女の手を、温もった小さな手がぐいぐいと引く。
「ふぃなが遅いかららふたりとももう上がっちゃったよ。早く戻ろ?」
ムルルもまだ濡れた髪のまま。上気した肌もぽってりと紅葉色。
前髪の両端で編んでいた2本の編みも解かれた状態で垂れ下がっている。
「ごめぇん。気持ちよすぎて骨抜きにされちゃったぁ……へろへろぉ……」
「ぁぅ……ちゃんと真っ直ぐ歩いて」
ぷくぷくの頬から湯気をたたせたムルルもまたさっぱりしたもの。
彼女の上皮からほのか柑橘類の爽やかな香りが立ち昇っている。湯にしこたま浮かべた柚子の香り。
あいかわらずのへの字眉だが内外ともに疲れも臭いもとれてか、いつもよりも晴れ晴れとしている。琥珀色の瞳もくりくりに丸く開かれている。
「これでもうムル臭くないよね? 変な龍に気に入られないよね?」
ね、ね? ムルルは、よろよろと覚束ない足どりをしたフィナセスの手をくいくいと引く。
やはり傷つきやすい乙女心。たとえ幼くとも女性は生まれた瞬間から女性なのである。
「だいじょぶよぉ? っていうかもともと臭くなかったしぃ。巨龍さんも悪気があったわけじゃないんじゃないかなぁ?」
フィナセスが率直な感想を伝えると、ムルルは相当小ぶりな胸の前で小さなガッツポーズを作った。
いっぽうで男性陣はといえば烏の行水も良いところ。すでに半刻ほど前に温泉から立ち去ってしまっている。
彼は汚れを落としたらとっととでていってしまうし、タグマフはヌルいという理由であまり楽しんでいる様子はなかった。
「今度うちにも湯船を作ろうかしらぁ? 剣聖様もお風呂好きらしいしぃ、きっとガルちゃんも気に入ってくれそうよねぇ」
「さんせいっ! ムルもお湯に浸かるの大好きっ!」
「ならダープリにでも頼んでみようかしら。クロ子ちゃんに依頼するのでも良いのかな?」
そうやってふたりは仲良く語らいながら手を繋いで帰路につく。
もときた道を引き返し、今度は奥ではなく洞窟の入り口を目指した。
腹も満たされ心身ともに浄化された。あとは湯冷めをしないうちにあの寝心地の良い寝袋にくるまれさえすれば最高の夜となること間違いなし。
未開の地へ乗り込んだ旅先でこれほど贅沢できるとは思いもよらない。
すっかりのぼせ上がった頭でフィナセスが野営の地へ辿り着く。
「ダープリぃお待た――ッ!?」
すると間もなく異変に気づく。
夜景を背負って焚かれ揺らぐ焚き火の炎と、薪がパチンと弾ける音。
この状況で咄嗟に腰の剣に手を伸ばせたのは彼女が熟練した騎士だったから。
闇に浮かび上がる影の数は想定していた数よりも多く、そして油断ならない。
フィナセスの目尻が鋭角に研ぎ澄まされ、瞬時に銀の瞳が情報を収集する。
数は目算して5つ。5つのうち尾と翼のどちらもない者はたったの1つだけ。
どくどくと体中に血流が巡り、トロけた思考が刹那の間に凝固し、展開が組み上げられていく。
逃走か、闘争か。
早朝はひとりだったから前者を選択することが可能だった。
しかし今は守るべき者があるため逃げるという選択肢はありえない。
フィナセスが親指で鞘を押し剣の根本を露出させた。
「わ、わわっ! ほ、ホントにエーテル族の子がいる!」
その直後。聞こえてきたのは細く綺麗で若干浮かれた声だった。
証拠に彼女の腰布の奥から伸びた鱗の尾っぽが元気に踊っている。
目もぱっちりとガラス玉のように見開かれ、両手で口元を押さえながら佇んでいた。
するとその横でも、座っていた影がむっくりと立ち上がる。
「――また会えたぁ!」
その声に、いの一番に反応したのはムルルだった。
びくぅっ、と。音がなりそうなほど全身を引きつらせぷるぷる震えだす始末。
「えへへへぇ」
そしてまったりとした声色のわりに長身で大房が2つ。
長い足の彼女が1歩近づくと、青ざめたムルルは2歩下がった。
「いやあこないでよぉ! ムル臭くないんだもぉん!」
「待ってぇ! 再会のはぐしましょ~、熱烈なはぐぅ!」
宿命の出会い。さらに間髪いれず逃走劇はじまった。
追う側は花がほころぶような笑顔だが、追われる側はたまったものではないといったところ。半べそへの字眉で焚き火の周囲をぐるりぐるりと逃げ惑う。
そしてムルルの明るい髪色をした頭からはらり。つば広の帽子が落ちる。
『……』
たとえ主がピンチでもチャムチャムは無言を貫くつもりのようだ。
いつか見た光景。それもかなり最近で記憶に新しい。
護衛のはずのフィナセスは、もはや警戒することすら忘れて頭を捻る。
「な、なんでここに巨龍さんが……?」
流麗な長髪が頬を撫でてはらりと流れた。
ふたりの壮絶な追いかけっこによって緊迫した冷気は一瞬に奪い去られた。
とりあえず危機でないのならば腰の剣を抜く理由もない。剣身を鞘におさめる。
「で、これはいったいどういうことなの?」
「どうもこうもなく、こういうことだよ。ちなみにタグマフは警らにでてる」
彼はこちらを見ようともせず、どころか振り返りもせず火の番に徹す。
手にした枝をポキリと折って長さを調節し丸い石組みのなかで煌々と燃える炎へと焚べる。
「こういうことって言われても……」
次にフィナセスは夕闇色にさざ波だつ拠点をぐるぅり。首を巡らせまんべんなく周囲に注意を払った。
気配の1つは言うまでもなく海龍だ。こちらが風呂を済ませている間に戻ってきていたらしい。
含みありげな笑みを浮かべながら揺らぐ炎の前で両脚を伸ばし、のんびりと寛いでいる。
残す気配は2つほど。タグマフが警らにでているということはどちらも交流のない相手。
そして見覚えがあるほうの少女とフィナセスの視線が交差する。
「はじめましてっ! すごーい本物のエーテル族だー!」
ぱあっ、と大輪の花が咲く。
黒い布地で巻かれた平坦な丘裾は白く、腰に純白の布を帯びただけの涼しそうな格好の少女。
すると彼女は子犬が転がるようとことこ小走り気味にこちらへ駆け寄ってくる。
「わたし天龍っていうの! エスナ・シャニー・ハルクレート! 天龍でもエスナでも好きに呼んでね!」
フィナセスの手を包み込むように握ったエスナは、自己紹介をしながらぶんぶん上下に振った。
明朗快活を体現したような友好的さ。さらに言うなら彼女こそ水面のむこう側に映しだされていた天龍である。
フィナセスは唐突な出会いに意表を突かれてしまう。口を鯉のようにぱくぱくさせながら茫然と立ちすくむ。
「これこれ天龍はしゃぎすぎですぞ。あちらが困り果てているではありませぬか」
「こんな近くにエーテル族がいるのに落ち着けってのが無理な話よ! 逆に地龍は外の子と会えて嬉しくないわけ!?」
「そうは言っておりませぬ。拙僧とて出会いとはかくも喜ばしいもの。ですが慎みをもたねば初対面の相手にも失礼でしょう」
壁際で端座した無毛の男は杖を拾い上げてよろよろと立ち上がる。
瞳を瞼で隠したまま。足元は覚束ず。
木目の杖で硬い地面を撫でる様子はさながら手探り。
「――あっ。お手をお貸ししましょうか?」
彼が盲目だと理解したフィナセスはいても立ってもいられず、速やかに手を貸そうと前に踏みだす。
相手はとても温厚そうな初老の風体。さらに目が見えぬとくれば聖騎士として黙っていては名が泣くというもの。
しかし男は垂れ袖を抑えながら「お構いなく」見た目通りに物腰の柔らかく手助けを断った。
「まずは天龍の非礼をお詫びさせてくださいませ。拙僧は地龍グルコ・スー・ハルクレートと申す者でございます」
以後お見知りおきを。ゆったりと一礼をくれる所作に上品さが垣間見える。
相応の年月を生きたのだろう。天真爛漫な天龍とは異なり、その場の在りかたは堂々たるものだ。
「重ね重ね無礼とは存じておりますが……アナタ様はいったい?」
ふいにグルコは眉間の辺りに微かなシワを寄せた。
名乗られたのなら名乗るのが礼儀。相手からは見えぬとはいえフィナセスも踵を揃えて一礼をやる。
「私はフィナセス・カラミ・ティールです。聖都で聖女様をお守りする聖騎士をしております」
こちらもこちらで慣れたもの。軽い挨拶ではなく腰を直角に曲げて相手を敬う。
聖女につき従うならば儀礼の場に赴く機会も多いためこのていどの挨拶ならば日常茶飯事だ。
しかしそれは求められていたものではなかったらしい。「あ、いえ、そうではなく……」グルコは微かに戸惑ったように尾を揺らがす。
「貴方様は……男性、という認識でよろしいのですかな? 男性とお聞きしておりましたがあまりに声色が涼やかなもので……」
ためらいがちに言ってつるりとした頭をかたむけた。
相手に性別を尋ねることの失礼さたるや。それでも視認できないため承知した上での問いなのだろう。
なのでフィナセスはツンと尖った胸を張って答える。
「今はとってもキレイで美しいムチムチキュートな女性ですっ!」
この地にきてもう幾度も龍たちに尋ねられたため、もはや尻込みすることはやめた。
それに嘘はついていない。なにせ今は性転換薬の影響で心も体も純な乙女なのだから。
「そ、そうなのですかこれは失礼を致しましたな。鼻さえ利けばこのような問いをする必要もなかったのですがね……如何せんこの場は臭気が強すぎましてな」
そう言ってグルコは頭を抱えるような感じで丸い頭部を撫でさすった。
突然の来訪者。しかも――土地柄当たり前だが――相手は龍、それも3匹も。
一党と巨龍は門で出会っているため知れられても仕方のない話。だが残りの天龍と地龍はほぼ初対面である。
彼らがこの場に辿り着いた理由。おそらく巨龍が彼らにこちらの存在を漏らしたと考えるのが妥当だろう。
そして決闘に敗北した天龍を救うために外との繋がりをもつ海龍を目指した。
そこまで導きだせればあとは赤子の手をひねるよりも容易い。
――目的は龍を助けること……のはず。つまり処刑間近の天龍さんも一緒に外へ連れだしてあげるってことね。
フィナセスは、あいも変わらずこちらを見むきもしない彼の大きな背に目をやった。
風呂上がりだというのに律儀に粗末な鎧をまとい直している。鎧と鎧の合間からは黒い肌着のようなものが窺える。
火かき棒を片手に炎を混ぜ、薪がパチンと弾けた勢いで火の粉が蝶のように夜の帳へ飛び立つ。
黙したまま黒い瞳はじっと炎だけを虚ろに見つめながら、思いだしたかのようときおり火を掻いた。
なぜだかフィナセスは猛烈な寒気が首筋を昇る不快感を覚える。
「……っ」
彼の背中が孤独の霧に包まれているように見えて仕方がない。
闇のなかひとり目を伏して。まるで彼だけが世界から切りとられてしまったかのような。
炎に照らされた横顔はなにかを一生懸命に考えてるように見え、それでいてすべてを放棄しているかのような。
重ねられる、ような、ような。
なぜならなにもかもが不鮮明なのだ。
世界を救ったはずの彼がどこからきてどこへむかおうとしているのか。それすら明確ではない。
「ねぇ、ダープリ。本当にアナタは――」
フィナセスは友の背に触れてやりたくて手を伸ばしかけた。
それとほぼ同時。スードラが指でパチンと乾いた音を奏でる。
「じゃあ役者も揃ったことだし、そろそろ作戦会議ついでに龍の闇へご招待しよう」
そのハツラツとした声に乱され、全身を冷たい鎧に覆い隠した彼に触れることができなかった。
いつしか外に雨が降り始めている。雨足は徐々に強さを増し風がびょうびょうと闇を照らす炎を揺らす。
「ぼくはね、焔龍に頼まれてきみたちを龍の巣へ導いたんだ」
月のない夜は更けていく。
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