423話 そして渦巻く海流のなかへ
隊列を組んで今宵のとまり木を探す鳥たちが3匹の到来に慌てて列を乱す。
頬に吹きつく風に宵の訪れる気配を感じながら龍たちは翼を広げ空を駆ける。
たとえ種の姿を狩りていても大空の覇者。その早さは鳥如きの羽に負けることはない。
さらに慣らすのに時を要するが種の身体は軽い。鱗の体よりかは小回りもきいてとり回しも自在だ。
――鱗が薄いせいか少しばかり冷えるのが難点ではありますがね。
羽織の袖が開き夕闇に鳴く鴉を思わせる。
地龍の足首あたりでも裾がバタバタと険しい音を立てていた。
そして肌を剥きだしにした頭頂部で風を切り裂きながら滑空してどれほどか。
「あっ! 見えたよ!」
活気の良い声が響き渡った。
地龍が丸い頭を回してみれば、長白い指が1本ほど。
天龍の指す方角には森に沈んだ湖が、夕暮れに紫がかって煌めいている。
「ならばここいらで小休止としましょうぞ」
そう地龍が指示をすると、追従していた2匹も翼で前を押すように大気を押す。
瞬く間に勢いが殺され、3匹は横並びの滞空姿勢へとシフトした。
わっさ、わっさ。飛翔で心得ることは強く柔軟にだ。龍は生まれながらにして空を理解している。
尾も翼も、扱いかた手足と同義。身体の一部を動かすために教えを請う必要がないのと理屈は同じ。
スカートのなかに空気を孕ませた天龍は、きょとんと短い髪の頭をかしげる。
「おろろ? このまま海龍の巣にお邪魔するんじゃないの?」
岩に腰を下ろすみたいにして暗い空で締まった足を組んだ。
風に撫でられつづけた髪がまぐわい後のように四分五散と跳ね回っている。
対してこちらは少しばかり頭が冷えただけ。代わりに、はだけた合わせを整えた地龍はニッコリと微笑みで応じる。
「これ以上の進行は海龍の反感を買うことになりましょう。なにぶんこちらは飛び込みですからな」
「……反感? なんだってわたしたちが遊びにいくだけなのに反感なんて買うのよ?」
早く外の種族と交流を深めたいのか天龍の素振りはそわそわと――意味合い通りに――浮足立って仕方がないようだ。
丸い腰の辺りから生やした丸太のように太い尾っぽも、うねうねと忙しい。
なにしろまたとない機会だ。こうして種族が流れ込んでくるのも記憶に霞がかかるくらい前のこと。
さらには今、龍族のなかでも持ち切りの話題――あ の 蒼 について掘り下げられる。
「深い話は後ほど。おそらくはあちらも拙僧らの接近に気づいておられることでしょう。ときにはのんびりと待つのが吉ですぞ」
「……んまあ? 年長で海龍と同期の地龍が言うならわたしも従うけども……」
それでも納得はいっていない様子の天龍を置いて、地龍は袖に手を入れ腕を組んだ。
足の下の遥か遠く。自然が地平の彼方までどこまでもつづいている。
鬱蒼と茂る森。ひとたび火が入れば瞬く間に燃え広がることだろう。ゆえに龍がこの地で炎を吐く機会はわりと少ない。
見飽きた景色のむこうには湖。ここからでは手のひらほどの大きさ。
そのさらに奥ではもうもうと黒煙を上げる赤土色の山々が隆起し、そびえ立っている。
そちらのほうから漂い流れくる異臭。まるで生き物を腐らしたかのような悪臭。
鼻の良い地龍は臭いを遠ざけるように翼の羽ばたきを強める。
「うぅむ……なんともこの辺りに差かかると鼻の奥がむず痒くていけませぬ……」
顔面で手を振りながら苦々しく毛のない眉をひそめた。
しかし横では巨龍がすんすんと高い鼻をしきりに鳴らしている。
「くんくん、くんくんくん。ねらぐぁはこの匂いかなり好きだよ、なんかすごく癖になっちゃうね」
他の龍よりも巨大な翼で豪快に浮遊しながら、ご機嫌そうに尻尾をふりふり。
トボけた話しかた、顔立ちのも丸みがあって幼さが残る。だが長身痩躯な地龍と比べても彼女は頭ひとつほど背がすらりと高い。
形の良い鼻から香りを吸い上げるたび、むっくりと肉の詰まったふた房が根っこの辺りから上下している。
大抵のオスが彼女の姿を見て、まず目を奪われるのは、その凶暴な体つきであろう。
突起した女性の象徴は青年ひとりの頭くらいはゆうに飲み込む。実もある花もあるといったところ。
「んー♪ 今、巣にしてる湿地よりも住むのにむいてるのかもっ。でもあの藻とか苔とかが腐った臭いも捨てがたいから迷っちゃう」
腰をくねらせて嬉々と引っ越しの計画をたてる横では、もうたまらない。
「せ、拙僧とは鼻の質が異なるのでしょうな……。あまりの悪臭ゆえ嗅ぎつづけていると喉元に酸い液体が……うぷっ」
地龍は反射的にこみ上げてくる胃液を必死にこらえていた。
臭気に当てられた顔はとっくに土気色。老夫のように背を丸く、口を押さえてこみあげるモノを耐える。
彼にとって幸運なのは空腹だったこと。もし胃が満たされていたなら天高くから雨とは別の液体が森へ降り注いだことだろう。
あの合間なく黒煙を空に放ちつづけている山には臭う石がごまんと、そこいらじゅうに転がっている。
「くっ……! ただ臭うだけで使いみちのない忌々しい岩石めが……! なにゆえ神はあのような悪しき物をこしらえたのでしょうか……!」
「もしかするとルスラウス様もこの匂いが好きなのかなぁ、だったら嬉しいなぁ」
地龍が歯噛みする隣で巨龍はうっとり両頬を包んで目尻を垂らした。
彼女は可憐な見た目にそぐわず臭いの濃いモノを好む習性がある。たとえそれが食事だろうとお構いなしだ。腐りたてがもっとも美味だと豪語すらしている。
すると地龍の脳裏にとある悪しき日の記憶が蘇ってきてしまう。
「う、っぷ……! この間の粘つく豆を食べる巨龍の姿を思いだすとより吐き気がっ……!」
「えー、あれってすっごい美味しいんだよぉ? 枯れ草に湿地帯で採れたお豆を包んで放っておくと、とーっても美味しいネバネバがついてオススメなんだからぁ」
不満そうに片頬を膨らし覗き込んでくる巨龍へ、「だ、黙らっしゃい!」力ない叱責が飛んだ。
両腕までベタベタの糸を巻きつけながら腐った豆を頬張る姿は、どうあがいても不潔以外のなにものでもない。
腐り豆の香を思いだした地龍は、記憶と現実の境で吐瀉をこらえる。
「趣向はそれぞれであって悪いというわけではないのだが……巨龍は些か悪食が過ぎていかんッ!」
「むうう、地龍は失礼だよぉ。あれは寝藁のなかで採れた、ねらぐぁ秘蔵のお豆なのにー……」
「食べこぼしが寝汗で濡れて腐っただけでしょうにッ!!」
周囲に漂う石の臭いも相まって地龍の青い額に大粒の汗が浮きだす。
羽ばたくたびに体が上下に揺られ、それがまた気分不良を加速させていく。
もういっそのこと吐いてしまおうか。地龍が決断を迫られていると、すっと肩に手が添えられる。
「そんなに体調が悪いのならもう帰ろっか? わたしが手を引いてってあげるから地龍は翼畳んでてもいいよ?」
天龍は、活動的で明るげな表情を曇らせていた。
あれだけ他種族に会えることを楽しみにしていたはず。なのに帰宅をうながしながら彼の骨ばった背中を衣服越しに撫でさする。
「い、いかぬ……! 拙僧にはまだやらねばならぬことがありまするゆえ早々に帰るわけにはいきませぬぞ……!」
「ず、ずいぶんとがんばるねぇ? 地龍がそんなに外の種族と会いたがってたなんて知らなかったわよ?」
その天龍の問いに答えは地龍は答えなかった。
なにせこれから嫌でも理解することになる。
いずれ、それも幾らもしないうちに彼女は龍玉へと捧げられてしまう。そうなったら最後、もう2度と元気に笑うことさえ許されない。
だが天は心優しき彼女を見放さなかった。雲間から1筋の光が天龍を救うべくもたらされた。
ふと地龍は接近してくる存在を感知し、微かに口角をもちあげる。
「方舟の操舵役がようやくおいでなすった」
鼻の曲がるような臭気の流れに混ざった女狐の香を嗅ぎ分けた。
微かに潜む焦りと怒りですら彼に隠すことはできやしない。その香りが放たれた矢の如き速度でこちらにむかってくる。
風切る音の接近とともに香はやがて気配へと変化する。
「あーあ……面倒なことになっちゃたなぁ。こういうのを不測の事態って言うんだろうね」
……チッ。3匹の立った同じ空に現れた海龍は出会い頭に舌を打つ。
艶やかな姿をした少年は、白い肌を臆面もなく晒した腰に手を添え頭を掻きむしった。
「あっ、海龍だぁ! ひさしぶり~、昨日ぶり~!」
どうみても不機嫌な相手でも気にしない。
能天気な巨龍はぶんぶんと手を振って彼の登場を快く迎え入れた。
対して海龍は耽美な顔をうんとしかめてがっくり肩を落とす。
「昨日ぶり~、じゃないよぉ……まったくもおお! 昨日ぼくの巣にくるようなこと言ってたのに! なんで先に地龍のほういっちゃったんだよぉ!」
下からじっとりと睨みあげるような青く冷たい視線が彼女へむけられる。
だが巨龍は立てた指の尖端をふっくらした唇に添えてどこぞを仰ぐ。
「あれぇ? そんな約束してたっけかぁ?」
夕刻とあってか両者の間に一陣の風が冷たく吹きすさぶ。
とぼけた声が大柄な翼の羽ばたきによって蜘蛛の子を散らすように消失していく。
「してたのお! あとでゆっくり説明しようと思ってたからあの場で口止めをしなかったのお!」
これには海龍もヒステリック気味に髪をぐちゃぐちゃ、かき乱した。
つまりこの状況は海龍にとって望んでなかったあまり良くないこと。
彼の落ち度は、巨龍の脳がそれほど記憶を溜め込めないと知らなかったことだ。
そしてそれは逆にこちらにとってこれ以上ない幸福でもあった。
地龍は声にあるていどの威厳を籠めて低く尋ねる。
「海龍よ。某の計画に天龍を加えてはもらえぬだろうか?」
たったのそれだけ。なにせそれ以上尋ねることなんてありはしない。
「は、へ? わたしをくわえるって……なにを咥えるの?」
唐突に矢面に立たされた天龍はぱちくりと目を瞬かせている。
地龍は、あとはそちらの番だと言わんばかりに口を引き結んで待った。
海龍の描く壮大な計画が周囲に知れ渡れば瞬く間に破綻することになるだろう。だからこれは地龍にとって相談や交渉の類ではなくただの脅し。
「へぇ……やっぱりそうくるんだね。ま、3匹の気配を察知したときにおおかたの予想はついてたけどさ」
しかし相手は簡単に頷いてくれるような性質の相手ではないことは、こちらも承知の上。
「それでぼくになんの得があるの? ぼくが天龍を助けたらいったいどれほどの利益があるというんだい?」
一瞥くれた海龍は即座に姑息な笑みを貼りつけた。
だがそれは状況を理解していないフリを装うただの猿芝居。
交渉の優位性を相手に悟らせぬにはうってつけの手法でもある。
「外からの手引きを利用し、焔龍の枷となった黒龍を逃がす算段であろうに。もしそれが焔龍に自信に知れたらどうなると思うのか。某なら想像に難くないはずぞ」
しかしそれは地龍には効かない。
すでに彼の計画を1から10まで見通しているのだから効くはずがない。
容赦なく真実を突きつけると、海龍の尾が余裕ぶったうねりを停止させた。
「ふぅん? 朴念仁かと思いきや意外と酷いことを言っちゃうんだね」
「どれほど長いつきあいだと思っている。焔龍の高潔さを守護するためならば某は手段を用いぬのであろうよ」
それから2匹は口を閉ざしたまま睨み合う。
体躯に差はあれどどちらも龍。しかも先の決闘とは異なって拮抗した力をもち合わせている。
だがここから決闘にもつれ込むということは、まずありえない。
どうあがいても彼は利己的である。自身に対して得がないのであれば決して他者のために動くような温情をもちあわせていないのだ。
少なくとも地龍は、焔龍が あ あ な る 以前から、つき合いの長い彼をそうやって理解している。
海龍の全身から香る偽りの香が鼻腔に語りかけてくる。
「ね、ねぇ……さっきからふたりしてなんの話をしてるの? 黒龍を逃がすってなんなの?」
すると地龍の肩口辺りから天龍が不安そうな顔を穴兎の如くひょっこり覗かせた。
状況が理解できないようで戸惑いの表情を浮かべている。
しかし地龍と海龍は当事者を置いて微動だにしない。
まるで相手から目を反らしたほうが負けだと言わんばかり。大空のなか緊迫した空気が宵の口にひしめき合う。
「じゃあ彼女を救うのにひとつだけこっちからも条件を提示させてもらうよ」
そして先に口を開いたのは海龍の側だった。
根負けしたかのようにゆるく首を左右に振ってなだらかな肩をすくませる。
「この期に及んで条件の提示とは些か傲慢がすぎるのではないか? 拙僧が口をすべらせただけで某の魂は捧げられるということを忘れるな」
地龍の放つ怒りを受け流すように海龍は片目をぱちりと瞑った。
「ま、いいから聞きなって。どっちにしろ計画の遂行にあたって大きな課題が残されてたんだ」
それから腰の後ろで手を組み、器用に空中を練り歩く。
翼をもたぬ龍の彼は、彼のみに与えられた技を使いこなす。
額に埋められた宝玉に宿るマナとはまた別のなにか。種族の言葉を借りるのであればオリジナルの魔法――《レガシーマジック》。
散歩をするように海龍はのんびりとした歩調で右往左往する。
「まずこの計画はすでに見抜かれてるんだよ。見抜いた上で見逃されてるっていうこと」
その間、地龍は鼻を鳴らして香に聞く。
数多くの香りを集めた鼻は、彼の虚言を看破できるだけの自信があった。
しかし香に嘘偽りの類は感じられない。ゆえにそれは真実であることを意味している。
――まさかそんなことがありえるのか? あの公正と公平をなによりも重んじる龍が黒龍の逃走を許しているとな?
ありえない事実をカウンターで突きつけられた地龍は、一瞬だけ閉ざされた瞼をひくりと痙攣させた。
綻び。それを察したかのように海龍は少女と見紛う可憐な顔で蠱惑に微笑む。
「ふふ、信じられないって顔だけどこれは真実さ。なんなら直接聞いてご覧よ」
「効く勇気があればだけどっ」と言って地龍へ歩み寄り、心の臓辺りに指を突き立てる。
小馬鹿にするよう円を描き愛撫する。横にずらし胸板の辺りを必要に攻めたてる。
「くっ……! まさか焔龍だけでなく乳母が関わっているとは……!」
もはやこちらに優位性はなくなっていた。
厄介な存在の気配を察したことで脱出までの道筋が途端に脆くなっていく。
なにしろ厄介な龍は、龍族のなかでもっとも規律と規則を重んじる。
むしろソレはそのためだけに生きていると言ってもいい。龍を平等に捧げ、そしてみずからの魂も捧げ終えるまで正しくあろうとしている。
「黒龍が逃げられるってホントなの? ねえ……いったいふたりはなんの話をしてるのよぉ……」
2匹のオスが放つ異様な光景の端で、天龍は心配そうに眉をひそめた。
身長差のある両者の顔を仰ぎ、見下げ。びくびくしながらこまねいているようだ。
そして地龍は強引に己の体を滑る海龍の手を跳ね除ける。
たとえ異分子が入りこんでいたとしてやることは変わらない。曇ったモノを晴らすだけ。
「毒を喰らわば皿までいただこうか。如何にすれば天龍を救えるか聞かせてみよ」
終始一貫、初志貫徹。ここで男を見せねばなんのために生きるのか。
そんな奮い立つ男気を前にして、海龍は嫣然と目を細める。
「大丈夫、きっと上手くいくよ。そしてぼくの親友は試練を乗り越えよりいっそう美しく、清らかに頂天に君臨するのさ」
ちろりとピンク色の舌を見せる様子は、無邪気で凶暴なイタズラ好きの子供。
だが地龍の目にはおぞましい龍にしか見えていない。
「……この外道めが」
2つある枷の1つが確かにそこにいた。
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