421話 そしてゆるやかに曲がりだす未来
毛のないのっぺりとした頭皮からういた汗粒が滝のようになって輪郭を伝う。
長時間にも及ぶ治癒魔法は精神的にも肉体的にも負荷が大きい。
目上の毛もないため滴る汗が瞼をかすめた。
彼に目を閉じる癖がなければ涙が滲んだに違いない。
「ここらでよきかな。よくぞ堪えてくれなすった」
地龍はかざした手を引き、その手で額を拭う。
空を仰ぎ深く一息。
「どうやら一命はとりとめたようですな。加減されていたとはいえ鱗をまとっていなければ輪廻へ彷徨っていたでしょうな」
彼が安堵した表情をすると、緊迫した空気に包まれていた場が一斉に張り詰めた糸を緩めた。
円陣を組むよう群がった龍たちの中央。藁と葉の寝藁の上に横たわっているのも1匹の龍。
地龍は己の袈裟懸けを裸体のまま眠る天龍の上に、そっ、とかけてやる。
「種の肌は火当たりに弱いため火傷が残ることは仕方なきこと。今は魂を繋ぎ止められたことへの感謝をしましょうぞ」
およそ半日にも及ぶ回復魔法。次々とマナを切らす仲間がいるなか彼だけは首尾一貫を通しぬいた。
老夫のようによろめき立ち上がる彼に見かねて仲間の男が手を貸し引き上げる。
「おお、これは助かります。長時間に渡る魔法の疲労により大陸が揺れていけませんな」
「気にするな頼み込んだのは俺たちのほうだ。それより天龍の容態はどうなんだ?」
「じきに目を覚ますことでしょう。しばらくは火に当てられたことにより皮膚が傷んで眠りが浅くなるかもしれませぬが」
未だ表情の暗い青年に対して地龍はさっぱりと爽やかなに応じた。
腰を曲げて衣越しに膝を叩いて土やら埃やらを払い落とす。
無謀な決闘によって身を焼かれた天龍の治療は無事成功した。
だが誰ひとりとして地龍のねぐらである狭い穴ぐらから去るものはいない。
「いやはや、無数の香りを嗅ぎつけたまでは良かったのですがな。まさかその皆が悲哀の香をまとっておられるとは、さすがの節操も肝が冷えましたぞ」
長身の青年が「……すまん」地龍へ頭を垂らす。
すると群れた仲間たちも同様に。次々、治療の謝罪と礼を口にする。
「ははは、なんのなんの。孤独を共有する仲間を救うのであればこのていど大した苦労になりませぬ」
腰を伸ばした地龍は湿気った空気を払うよう、快活にかっかと笑い飛ばした。
ここは龍の集うドラゴンクレーターの南東にあたる一角。クレーターに住まう龍たちが集う大規模な巣のひとつだった。
なにせこの一帯は魔物との接敵が多い。ルスラウス大陸的には説明不要の悪意の根源たる冥界の境である。
そしてなんといってもこの周辺にいれば誰かしらがいる。孤独に耐えかね彷徨う龍たちが集う場でもあった。
身体がデカくてそんじょそこらの魔物にも負けやしない。だがそれでも寂しいものは寂しい。だからこうして彼らは縄張りをもたず寄り添い支え合う。
それになによりも日に3度と決められている後尾相手を探すのが楽なのだ。わざわざ遠出をすることもない。
そんな憩いの場。踏み荒らされた森の端で、さらに地割れの奥の奥。地龍の住まう穴ぐらのなか。
「それにしても拙僧の巣にこれほどの龍が集うのはいつぶりか。まったく狭くていけませんゆえ、ちいと爪で堀広げねばなりませぬな」
そうやって土龍が気を使ってもやはり面々の気が晴れることはない。
まるで決闘のときの空模様のよう穴ぐらの中はどんよりと曇り調子。
「なんで……なんで天龍はあんなバカなことをしたのかしら……。いくらなんでも無謀すぎるわ……」
ひとりが感情を乗せぬ声でポツリと呟く。
すると鬱屈していた不満が漏れるようにして別の者も悔しげにつづく。
「いつも突飛なことをするヤツだけどまさか焔龍に決闘をふっかけるなんてな」
「近ごろやけにおとなしいと思ったらコレだ……! 俺たちに相談すらしないなんて……クソッ!」
誰もが悲痛を噛み締めている。
地龍を除き。ここに集まっている者たちは固唾を呑んで決闘の一部始終を観戦していたのだとか。
そして敗北し傷ついた天龍を助けるには応急処置だけじゃ足りなかった。
だが魔法の類に長ける龍は少ない。だから天龍を慕う仲間たちはここを目指して飛んだ。
そういった経緯で龍族のなかでも屈指の治癒能力に長けた地龍のもとへ転がり込んでいる。
「しかし決闘の報は拙僧の耳にも届いておりましたが、まさか焔龍へ挑むものだったとは……」
重々しく唸りながら土龍は袖に通すよう腕組みをした。
彼の閉じた瞼のむこう側では、中途半端に袈裟で柔肌を隠しただけの天龍が眠っている。
目鼻立ちのくっきりとした可憐な少女の状態。葉藁の上に仰むけになっていると魂の抜けた入れ物のよう。
貧した胸の辺りが浅く上下していなければ遺体と間違えてしまうほどに穏やかな寝顔だった。
「……ふむ? なにやら肉の焦げる香に次いで他の濃い香りが天龍の肢体にこびり着いていますな?」
すん、と。土龍は尖端が爪のように鋭利な鼻を1度鳴らす。
それから治療を終えたというのにまた膝を汚し、天龍へ顔を近づける。
「ほう……これはこれは奇異なこと。雌ならばこれほど濃厚な香を臭わせることもないでしょうに……」
頬から始まり胸元へ。だけでは飽き足らず脇へ、腹へ。
地龍は大地を這うような格好で天龍の肢体を余すことなく嗅いで回る。
一見して眠る少女の裸体に鼻を押しつけるただの変態。しかし誰も止めに入ろうとはしない。
地龍の性質を知るものたちは行為が終わるのを、なんかちょっと嫌そうな顔で待つ。
「すぅぅぅ……! はぁぁぁ………! んんん……!」
彼はは龍ならば誰しもが認知している強力な特徴をもっていた。
鼻を極めたがゆえ視界は必要ないと目を焼くほどの極モノ。
苔生した土色の尾を天に掲げ、少女をねぶる様に嗅ぎ分ける。
そして一同は天龍へ同情めいた視線を送っている。
ただ嗅いでいるというわけではない。地龍の性質はそれほど浅はかではない。
「ふぅぅ……なるほどなるほど。聞こえて参りましたな」
天龍の全身をくまなく堪能した地龍は、集めた臭気を吐きだすよう口から吐息を絞りだした。
「……で、なにかわかったのか? 天龍が無謀にも焔龍に決闘を挑んだ理由は一体なんだ?」
たまらずといった感じで龍の青年は、余韻に浸る彼へ問う。
するとしばし祈り手を結んだ地龍はゆっくりと振り返る。
「これは黒龍の香ですな。日に1度必ずまぐわう拙僧たちと同等か、もしくはそれ以上の香が肢体に固着しておりまする」
「……黒龍だと? オスを選んだ俺たちならまだしもなんだってメスの天龍がわざわざ……?」
青年は答えを求めるよう仲間たちに首を巡らす。
だが仲間たちも重々しく頭を横へ振るだけ。
龍は種の姿を模す際。生涯にたったの1度だけ性別を選ぶ機会が与えられる。
雄を選ぶか雌を選ぶか。その選択をする動機は龍によって様々だ。
もっとも多い選定理由は、美しくありたいか雄々しくありたいかのどちらか。稀に快楽を求める者もいれば見目よく好まれる姿をとることもある。
だからこそ疑問が生まれた。
現状、黄龍を外へ手引した罰として黒龍は袋――見学をして面白くもない状態にある。
そんな彼女へ、女の姿を選んだ者が会いに行く理由。
「俺たちと同じくらい匂いがこびり着いてるってことは……そういうことなのか?」
「いえ、私の知る限りだと天龍にそっちの気はなかったわ。だって私が寝藁に誘ったけど歯牙にもかけてくれなかったわよ」
「普段から黒龍に茶化されてた復讐ってこと? でも天龍はそんな陰湿な真似をするような子じゃないと思う」
途端に憶測でしかない意見があちらこちらから飛び交った
ここは狭く、天龍を案じて集っている頭数はかなり多い。そのためすし詰め状態となっている。
光魔法の灯りが届かぬ場所からもザワザワ。やかましく、とにかく暑苦しい。
「これこれ皆の衆ここは静寂を好む場でありまするゆえ烏合となるのは――感心しませぬぞ?」
尾で土をぴしゃりと叩いて固めた地龍は、ざわめきへ釘を刺す。
眉間にシワを集めて開いた襖――瞼の奥は漆黒でなかにはなにも入っておらず。それゆえ睨み以上の迫真した恐怖が生まれる。
長く生き辿り着いた極地。根を下ろす足で大地を感じる、玉鋼の如く研ぎ澄ましたで精神は物の輪郭を捉える、万物を聞いた鼻は視覚以上の香を知る。
匂いフェチの極意。もとい格式高くとも派手さを感じさせぬ彼こそが大地を司る地龍――グルコ・スー・ハルクレート。
「宵の口まで暇でしょう。ならば天龍のため滋養のある肥えた魔物でも捕らえてきては如何か?」
怒りともとれる波動が和らぐとともに地龍の表情も温和に落ち着く。
硬直していた面々も三々五々。ぞろぞろと地龍の巣穴から外へ退散していった。
あれだけ騒がしかった洞のなかへ水を打ったような静寂が訪れる。
足跡がさりきったのを確認した地龍は、膝を折って地べたに座す。
「仲良きは素晴らしきことかな。誰も彼も某のやらかしが気になり頭が回らぬようです」
「……」
「いいかげんに眼を見せては如何かな? でなくば天龍の一昨日に食した物を学んでしまいますぞ?」
涼やかに彼が言い放った直後。
天龍は「いやあああ!」高らかな悲鳴上げて飛び起きる。
脱兎の早さで地龍から距離をとった。
「どこの匂いを嗅ぐきなの!? あといつからわたしが起きてたことに感づいてたの!?」
背を土壁に貼りつけながらぜぇぜぇと喉で呼吸していた。
相手が盲目であってもかかっていた袈裟を平坦な胸元に合わせて肌を隠す。
「拙僧の鼻をそのような三文芝居でごまかせると思いなさるな。黒龍の話題がでた際にはすでに目覚めておられてましたな」
「あちゃ~……じゃあ最初からばれてたってことか……」
然り然り。土龍が頷くむこうで、天龍は男子くらいに短な髪の頭を抱えた。
そんな彼女の顔半分には痛ましい火傷痕が残されている。爛れた皮膚が赤く腫れている。
焔龍と対峙したときに出来た傷。おそらくそちらの面を鱗で守れていなかったのだ。そしてそれを治せる使い手はこの土地にいない。
命あっての物種とはいえどもだ。野に咲き日を仰ぐ花のように愛らしい天龍の顔はすでに傷物となってしまっていた。
「なぜ裸一貫とも呼べる状態で焔龍と決闘なんぞをなさった。神聖なる決闘を挑むということを理解しておらぬわけでもないでしょうに」
痩せこけた腕組みをした地龍は若干語気を強めながら尋ねた。
「遊びやら色気半分で決闘を穢したかったわけではありませんよな?」
「遊びのはずがないじゃないの。勝者は敗者の魂をどうにでもできるのだから」
すんなりと答えた天龍は袈裟を地龍へ放る。
鱗を変えるのに時間は要さない。すでにその身は裸体ではなく衣服をまとってめかしこまれていた。
天龍も地龍の前で腰を落ち着ける。他者よりか幾分筋肉質な足をのんびりと横へ流す。
「あーあ……負けちゃったかぁ。なにが腹立つって焔龍の本気すら引きだせなかったことよねぇ……」
そのままごろりと転がって体を開ききった。
これだけのことをしでかして呑気なもの。自由気ままな彼女らしくはあるのだが……
「焔龍の全力をその身で浴びたのであればそのていどで済みますまい。とはいえ……どちらにせよではありますがな……」
天龍が事の顛末のどこまでを聞いたのか地龍には理解が及ばない。
だから安易な行動を叱ろうにも同情が先んじ、声は晴れなかった。
「その言いぶんだとわたしはやっぱ龍玉いきかぁ。いっそ黒龍と同じ場所にいってやろうとか考えてたんだけどなぁ」
なのに天龍はぼんやりとした様子で軽め受け入れてしまう。
土くれを照らしながら舞う光球を仰ぐ表情もどこか清々しいもの。
「やはり黒龍の身を案じての行動だったのですな」
「表にだすのやめてよハズいじゃん。それにわたしだって絶対に負けるって思いながら挑んだわけじゃないんだから」
「種の姿を模した決闘。一概に悪手とはいえませぬが如何せん磨きが足りなかったと見えまする」
「時間が足りなかったの。それにきっとそれだけじゃないよ。魔法のほうにももっと気を配るべきだった。そうすれば……もう少しイケたかも」
名実ともに地の底で、粛々と反省会がおこなわれる。
それはまるで地龍が天龍の懺悔を聞き届けるかのよう。事この瞬間に至っては遺言とも――言わないが――言えなくもない。
――悲しみと後悔が香るなか僅かばかりの満足感とは……よほど決意した上での行動だったのでしょうな。
天龍のまとう香を意図せず鼻が嗅ぎ分けてしまう。
目と耳では感じとれない奥の奥に入りこんでわかることもある。
彼女は遅かれ早かれ贄となるならば、と決起して行動に移したのだ。メソメソ死を待つより道を己で選択した。
しかし結果として見れば、焔龍の圧勝で幕を下ろした。決闘も生涯も、ほぼ同時に。
さらに地龍の鼻は別の臭気を感じとっている。
「先ほど天龍は焔龍が遊んでいたとおっしゃられましたな? そのような判断に至った理由をお聞かせ願えませぬか?」
その問いに天龍はむくりと上体を起こす。
「んあ? だってわざとわたしの攻撃に当たって盛り上げてたし。まったく焔龍はエンターテイナーってやつね」
やんなっちゃう。不満げに唇を尖らせながらごろんとまた寝転がった。
だからなにをするというわけでもない。彼女はまるで余生を穏やかに過ごすかのようにぼんやり寝転がるだけ。
本当に受け入れてしまったのか。地龍は骨ばった指に顎を乗せ「……ふうむ」と唸る。
おそらく焔龍のおこなったのは遊びではない。これはあくまで彼女と古き良き友であった彼の直感でしかない。
「おそらくは焔龍は絶対的支配者であるという力の誇示をしているのでしょう。見世物とはまた異なりますな」
「ほーん、もうそういうのはどうでもいいかなぁ。どーせもう再拝された龍玉に捧げられるだけだしー」
あまりに投げやり、あるいはやさぐれ。
捲れ上がったスカートも、下着が土で汚れることも厭わず。もうすべてが終わったと言わんばかりの悪態。醜態。
これには温厚な地龍であっても毛のない眉を強くしかめる。
彼女へ治癒の恩を売る機はない。だがせっかく一命をとりとめたにも関わらず無意味に散らされてはやりきれない。
「あー暇だなー。龍玉に入るときって痛くないと良いなー。もういっそのことわたしからダイブして焔龍の度肝を抜いてやろうかなー」
いっぽうで天龍は背の翼と尾を使いながらごろごろ転がって暇をもて余す。
すると丸坊主の剥き身の肌に苛立ちの筋がひとつふたつと浮いてくる。
そして「いいかげんに――」と。湯だった怒りを爆発させようと土龍が立ち上がった。
「む……? この匂いは……いったい?」
振り上げた拳が力なく垂れて戻される。
代わりとばかり、広げられた鼻が土の香りに乗ってくる嗅ぎ慣れぬ匂いを集めだす。
そして洞のなかへひたり、ひたり。ゆっくりと近づいてくる気配がひとつ。
「ただいまぁ今帰ったよぉ、夜勤明けぇ」
低級魔法の灯りに陰影を強めつつ現れたのは、丸々と肥えたふた房の持ち主。
その冗談かと思える豊満さは、種の姿を選び終えた龍族のなかでも超重量級。動きづらさやらを考慮しない脳足りんとも言える。
「あれぇ? 地龍と天龍でまぐわってたのぉ、ねらぐぁおじゃま虫だったかな?」
ふらりふらり。身が揺れるたび形が歪みやすいそれも同期して揺れた。
さらに言えば彼女は龍族のなかでも超重量級。通常の龍ですら彼女が真の姿をとるならば見上げねばならぬ存在。
「巨龍! 某は今の今までなにをしていたのだ!? それに某のまとう香はなんぞ!?」
いっぽうで地龍は戦慄した。
すべてを嗅ぎ、記憶したはずの彼ですら理解の及ばぬ香り。
たまらず地龍は地面を蹴っていた。そして匂いの元にむかって飛びつく。
「うわぁ……?」
トボけた声を上げる巨龍に脇目も振らない。
その豊満すぎる谷間のなかへ丸い頭を沈めて貪るように鼻を鳴らす。
「未成熟特有の汗と皮脂の香! なにやら懐かしい甘く柔らかな香! その奥深くに眠るこれは――数千の血となにやらかまでは判別できぬが種族の脂の香!」
地龍の探究心と性癖が暴発する。
それほどまでに幾数万という膨大な新しい刺激が鼻の奥を満たしていく。
「なんなのだこれはァ!? この香を発する者はいったいなんぞ!? 不可思議――理解不能だァ!?」
「甘えん坊よ~しよし、坊主頭つるつる~」
地龍に貪られながらも巨龍は、彼のフラットな頭をなでり、なでり。
地中深くで興奮しいきり勃った男。そしてそれを慰める女性。アブノーマルで濃密な絡み合い。
それを見させられる部外者の心境は推して知るべし。
「わたしよりまずアナタタチが龍玉に捧げられるべきじゃないの……?」
天龍は寝転がったまま冷ややかな眼差しで2匹の絡みを看とった。
……………




