42話 【VS?】灼熱の水面にたゆたう ねぼすけリリティア
見上げれば、丸木を組み上げた家の窓からもうもうと立ち昇るミルク色の蒸気があふれていた。
耳をすませば湯の煮えたぎる音が聞こえてくる。
風呂釜があって壁がある。ならば、いまこの日焼けて醤油のように茶ばんだ壁のむこうにいるのは生まれたままの姿で浴槽に身を浸した意識覚醒前のねぼすけ。
「ふにゅ~くん、ふにゅ~くん」
ひょっこり。すぐ横から顔が出てくる。
新緑の髪からは野草と陽光の匂いがふわりと香ってきた。
「なんだい? シルルくん?」
「覗くのかな?」
その活発そうなくりくりの瞳を半目にして、じろり。
「シルルくん。これは覗きではないんだ。性という邪な考えのいっさいを切り離した、確認という作業なんだよ」
無論、明人にやましいかんがえは一切ない、わけではない。
好奇心の乾きを潤したくなるのも男の常。
「普通に聞けばいいのかな~」
「それはだけはダメだ……」
ひとつ屋根の下で共同生活をおくっていれば、おのずと見えてくるものがある。
この家の主は、しとやかに見えて意外と日常のなかでイベントを好む。それはもう箸が転がるていどの些細な出来事ですら誇張しておおごとにしたがる。
もし明人がリリティアの性別に関心があると知られれば、きっと彼女は面白がること請け合いだ。隠し、からかい、はしゃぐ。それはもう辟易するほどに。
つまり、リリティアは楽しいことが大好きなのだ。そして明人はからかわれる役。ユエラはソレを見て、遠巻きに笑ったり呆れたり。
腹を決めた明人は窓枠に手をかけた。
「やめときなさーい。いちおーとめたからねー」
あまりにてきとうなユエラの静止を右から左へ受け流す。
濡れそぼった窓枠をしっかとつかみ、懸垂の要領で体を持ち上げ風呂場を覗き込む。
「……なにもみえないのかな」
「うん……湯気の量が尋常じゃない」
わくわくと。シルルは心躍るかのようにこちらの肩口から顔を突き出すが、室内は濃密な白一色だった。
これではまだ成人指定の本の局部のほうがハッキリしているだろう。
もはやサウナのような熱気に包まれた室内。沸々と。マグマの如く湧き出す蒸気の嵐は、もはや濃霧といえよう。
毎朝、リリティアは江戸っ子が裸足で逃げ出すような風呂で体を温める。
はじめこそ泡を食ったが、もはやこの剣と魔法に魔物で完結するルスラウス世界の常識に驚くことも少なくなった。
「種族の性質かな? リリティアってこういうところ、脇が甘いんだよねぇ」
目を細めて霞む視界を透かしてみれば、ぼんやりと部屋の輪郭が見えてくる。
薬師であるユエラの調合した特性薬湯の爽やかな香りが鼻孔をくすぐった。
「……おっ! よし、いいぞぉ」
霧にまぶされたシルエットに全神経を注ぎ込む。
明人の勝利条件は上半身にあるであろう2つの膨らみの発見のみ。
それこそが女性と男性の違い。あるものがなくて、ないものがあるもの。しかしリリティアには女性にあるはずのものが、ない。
数度、服越しに押しつけられた経験はある。しかし、ない。ないものは、ないのだ。
だが、裸体であればさすがに膨らみていどはわかるはず。
「…………」
明人は湯気に目を曇らせた。
高をくくったものの屋内は、湯気、湯気、湯気ばかり。
毛やたるみが一切見当たらない艶めかしくも清楚な、汚しがたい裸体。すべすべの桜色に染まった素肌。
食い入るようにそれを下から上へ睨めるも、肝心の箇所に掛かったボカシはどうやっても晴れない。
「くそっ……もう少し……もう少しでっ……!」
明人は希望に追いすがるかの如く、上半身を窓にねじ込んだ。
そのときだった。
「あらぁ~? あきとさんおはようございまふぅ~」
空気の抜けるような気の抜けた声だった。
こちらを真っ直ぐに見すえる宝石のように輝く金色の瞳が光る。
視線が交わり、明人は体中から汗が吹き出すのがわかった。
「…………お、おはようゴザイマス」
「はぁ~い。おはようございまふぅ~」
明人が窓際で凍りつく反面、リリティアの表情はいつもいじょうにとろけきっていた。
風呂釜で肢体を投げ出し、仰向けになってシルエットが浮かぶ。煮える湯のなかで花開くかの如くナイロンのような金の髪がゆらゆらと、扇のように広がっている。
「いっしょにはいりまふかぁ~」
「……オレに死ねってことかい?」
「んふふぅ~」
「……ちょっとユエラと一緒にサラサララのワーカーとりに行っていいかな?」
このとぼけた空気感ならリリティアは首を縦に振るかもしれない。
あのキングローパー襲撃以来、リリティアの命令によって明人とその愛機”宙間移民船造船用4脚型双腕重機ワーカー”は離れ離れにされてしまった。
このままでは籠の中の鳥。魔物が蔓延るこのルスラウス大陸。明人如きただの人間では護衛かワーカーなしでは庭に出ることすら命懸けとなろう。現に、今もユエラに護衛してもらっている。
「んふふぅ~どうしましょ~」
「おいこら」
いつもの軽口が交わされ、それでもリリティアは意識が朦朧としているのか開いた体を隠そうとすらしない。
水面に揺れるすらりと伸びた細長い手足、キュッと引き締まったウエスト、女性特有の骨盤の広さまではなんとか視認できる。
しかし熱され絶え間なく泡立つ水面越しでは、これが精一杯だろう。ならここらが潮どき。
諦めは心の養生という。バレてしまった今、傷口をこれ以上広げるような真似は賢くない。
とりあえずリリティアのことをギリギリ僅かに女性であるとして、今回の調査を終えることにした。
「あ~……なるほろ~。じょせいには恥じらいもたいせつれすよねぇ~」
情けないほど間の抜けた顔で小首をかしげ、リリティアはほんのり微笑むと湯のなかに手を沈めた。
どこか含みのある笑顔に明人の脳裏によぎる、とある予感。そして、いつの間にかシルルが背に乗っていない。
「り、リリティアちょっとまっ――」
「いや~ん、あきとさんのえっちぃ」
びしゃっ、と。飛沫となって顔に浴びせられたのは熱々の熱湯だった。
リリティア会心の気まぐれ。回避しそこねた明人は外の地面に転がり落ちて、顔に剃刀を走らせたかの如く激痛に悶える。
「あああっづうううううううううう!!」
因果応報だった。
青年は理由がどうあれ覗きは良くないことだと学んだ。
…………
「ねっ? だからやめておけって言ったでしょ?」
「痛みいります……」
ユエラの適切な自然魔法治療により火傷は、ま逃れた。
○○○○○




