418話 そして降臨せし永遠の存在者 前編
海龍のまるで流れるよう小川の如く曲線めいたの背は思いのほか乗り心地が良い。翼で飛ぶ龍じゃないお陰で揺れも最小限。
つるつるとした鱗は日の光をまぶしきらきらと輝いている。それが長く、背はまるで道のようにずっと彼方まで伸びている。
見た目もさることながら感触も高級な真綿生地に触れているよう。
防具にしては些か硬さに劣る。しかしそれをカバーするかのように柔軟性に富んでいた。
『到着だね。ここなら他の龍に気づかれる心配がないはずだから安心して鑑賞できるはずさ』
ハープのような音色の声色で『どう? 降りられそう?』と、長首がぬるりと振り返る。
龍の背に乗って半刻ほど、地上は遠い。敷き詰められた木がブロッコリーほどの大きさに見えるロケーションだった。
「これくらいの高さならへっちゃらよ! じゃあ先に降りて待ってるから!」
海龍の蒼く長い胴にしがみついていたフィナセスは、自慢気にふんぞり返った。
そして間もなく水に飛び込むような軽快さで大空へと飛び込む。
落下の風に煽られた前髪が逆立ち白い額が日の下に晒される。ばたばたと銀の三つ編みが乱れ暴れる。
そしてなんなく周囲を一望できる断崖絶壁の上に降り立つ。同時にぶわっ、と砂埃が舞った。
「んーっ! やっぱり空の旅は快適よねぇ!」
濁った体を覚ますよう両手を空に突きだす。鎧の白く丸い突起部分がうんと押しだされる。
ここは決闘をおこなう熱狂的な場――からやや距離を置いた場所。
他の龍たちの視線を懸念したスードラの提案で、離れた高い場所へとやってきていた。
ついでとばかりにフィナセスは鎧を汚す埃をぱっぱとほろって前を見れば、そこにいる。
「おーいダープリー、ムルちゃーん! お待ちかねのフィナ子ちゃんが到着したわよー!」
もう寿命を迎えて捨てごろな鎧を帯びたコブだった背へ、元気いっぱいに駆け寄っていく。
――ずいぶん年季が入ってる鎧だけど、なにかの魔法でも付与してあるのかしらん?
そんななんでもない疑問が頭をかすめるも、他愛ないこと。
なにせこれから見られるのは龍と龍の決闘だ。この状況で浮かれるなというのが不可能な話。
座った彼の横でずささーっと脚甲を滑らし立ち止まる。
なお先は地上から遠く離れた崖だ。踏み外せばさすがのエーテル族とて落ちる。魔法を使えば死にはしないが登ってくるのは面倒。
そしてすかさず、開口一番まずなにをするかと言えば晴れやかに「おっはよー!」と。にっこり笑顔。1日のはじまりは笑顔いっぱいな朝の挨拶で幕を開けなくてはならない。
「うっす。おはようさん」
「くぅ……ふぃな、おはよぅ」
律儀に返ってくる挨拶。
彼はどっかり腰を据え、なにかの果実のようなものを食んでいる。
さらに膝の上にはムルルが、まだちょっと眠たげにうとうしながら目をこすっていた。
フィナセスはちょいと体を傾げながら彼の手元を覗き見る。
「それってなに食べてるの? 美味しいの?」
よくよく注視してみれば彼の横に手のひらより大きな紫色の実が点々と置かれていた。
「さっきとってきたアケビっぽい果物だよ。まだ時期が早くてエグミがあるけど、朝食代わりに腹に入れておくと良いんじゃない?」
それを彼はナイフで縦に切れ目を入れてから実の内側に両親指を突き入れた。
さらに繊毛の生えた柔らかい皮を広げる。すんなりと実を剥きだしにする。
「種に気をつけな」なんて気づかいも忘れない。ひとこと添えて厚い皮を皿代わりに果肉の入った側をフィナセスへ手渡す。
「それよりアレを見てみな。遠くの岩壁に龍たちがどんどん寄ってきてる」
「んえ? あらホント。遠くからでもやっぱりおっきいわねぇ……」
刃の根本辺りに輝く840の文字。彼はナイフでそちらを指し示した。
先に遠く、粒のようになって見えるもの1つ1つが龍。我先にと、森のなかに埋まるように置かれた決闘の場へと群がっていっている。
そこにあるのは自然のなかに存在する不自然。岩壁に囲われたすり鉢状の決闘場。
さながらドラゴンクレーターのミニチュアといったところか。
「まさに大集結ね。スードラさんの話だと、クレーターじゅうの龍が決闘見たさに飛んできているらしいわ」
「龍族にとってはローマ国の円形闘技場的な娯楽かな? 剣闘士というより猛獣と猛獣の殺し合いを観戦するようなもんかね」
「……?」
彼の語るよくわからない単語の羅列に、フィナセスはきょとんと小首をかしげた。
この素性自体が曖昧な青年はたまに変なことを口にする。
だからことさら慣れたもの。彼女は手渡された果肉をひょいと拾い上げ、口の中に放り込む。
「んー……美味しいけど種がゴロゴロしてて食べづらい……」
「文句を言うんじゃないよ。こんななにもない場所で糖分をとれることに感謝しなさい」
「ダープリの感想も私と一緒だったってわけね……」
成熟しきっていない青臭さとほのかな甘味が口いっぱいに広がっていく。
果肉の内側は硬く小さな種子がごろごろしているためあまり食べやすいものではない。だが、甘さを求めている朝に贅沢は言っていられなかった。
「あはは、これから龍同士の決闘が始まるっていうのにずいぶんとまったりしてるんだね」
一様に振り返ってみれば、種の姿を借りたスードラが愛嬌のある笑みを浮かべて立っていた。
露出幅が極端に多い腰を揺らし、細く華奢な足をメス猫のようにしなりしなり。優雅に一党の輪へ加わってくる。
「おーい! 飛んでいくなら龍の姿くらい解放してもいいだろ! っていうかなんでオレっちだけ乗せてくんねーんだよ!」
それから遅れて風を連れてきたのはタグマフだ。
背から生えた翼で地上へ降下しながらぶちぶちと文句をこぼしている。
「そっか、ごめんごめん。そう言えば龍に形態変化するの禁止にしてたっけ。うっかりさっぱり忘れてたや」
「……オメーよぉ。今朝だって海龍目当てでやってきた邪龍の相手なんかさせやがって……こっちは朝からクッタクタなんだよ」
悪気のなさそうな謝罪を貰ったタグマフはうんざり気味に尾っぽと上体を垂らした。
これにはフィナセスも若干の苦笑い。
「いい加減な上司とわがままな部下みたいね。それでもお友だち感覚みたいだし相性がいいのかしら?」
同意を求めて彼へ問いかけてみるも、返事はない。
すぅ、すぅ、という穏やかな寝息をたてるムルル。そんな彼女を抱えながら身じろぎひとつもしないで群がる龍を真っ直ぐ見据えている。
厚いクマ。そして憎しみをもって睨むような眼差し。冥を意味する漆黒の瞳の奥に、一切の光が見えない。
「どしたのそんなに真剣な顔しちゃって? 友だちなんだから悩み事くらい聞いてあげるわよ?」
前かがみになったフィナセスは彼の身を案じるよう覗き込む。
すると彼は視線をあちらから逸らさず「……いや、ちょっとね」と、口元で薄く弧を描いた。
「リリティアもあの連中と同じ種族なんだなって思ったらさ……急に遠い存在に見えてきたかな。あらためて実感させられた気分だよ」
まるで自笑するかのように薄く長い溜息を吐く。
「いまさらぁ? ダープリにとって剣聖様は身近な存在かもしれないけど、私からすればとんでもない御方なんだからね」
「そうは言ってもだな。リリティアがマトモに龍の姿を見せてくれたことなんて1回もないんだぞ? それに尻尾も触らせてくれないしさ……」
黒い手袋のようなものを帯びた手をワキワキと動かし、悔しそうに顔を歪めた。
よほど白龍の尾っぽが触りたいようだ。代わりとばかりにすっかり眠りこけるムルルの頬を両側から伸ばしたり押し込んだり。弄ぶ。
「ほへぇ。剣聖様はミステリアスな部分が多いって有名なのよね。でも一緒に暮らしてるタープリにもそうなんだ」
「リリティアの龍姿見たいなぁ……龍ってメッチャかっこいいのになぁ……」
苦言を呈する彼の隣へ、フィナセスもちょこんと腰を据える。
むこう側では龍たちの集まり具合がまばらになっている。だいたい集結しきったということか。
さらに空はどんよりとしており鉛を敷き詰めたかのよう。もはや白というより夜の如く日を遮って地上への光を呑み込んでいる。
ビカビカと雷光に煌めき、遅れて地割れのような音が鳴り響く。
その雷鳴の音に混ざって、背後から乾いた土を踏む音が聞こえてくる。
「いよう! まさかドラゴンクレーターまで遊びにきてくれるとは思わなかったぜ!」
タグマフは、手を立て気さくに挨拶をした。
なにやら因縁があるらしい2名の再会。フィナセスは内心ハラハラしつつも静観する。
「お、ひさしぶり。さっきスードラから色々話を聞いたけどずいぶん苦労してるらしいね」
「まあ別に大したことじゃねーけどな!」
フィナセスの危機感をよそに以外や以外。男同士で対面しながら拳なんかを軽くぶつけ合ったり。
「それより今さっきオレっちも海龍から聞いたぜ? なんかオレっちが道理を破ったことで生贄にされてねぇか心配してくれてたらしいじゃん」
タグマフもどっか、と彼の横に腰を落とす。
それから男同士仲よさげに技だのなんだのとフィナセスの知らない思い出話まではじめてしまう。
これには肩透かしもよいところ。あらかじめ誰かが手を回していたらしく、とくに因縁めいた感じではない。
「岩龍も気が良いほうだからね。それにぼくと同じできみたちに期待しているうちのひとりだからさ。彼のことをわくわくしながら待ち望んでいたんだよ」
抜け目ないスードラもまた、フィナセスの隣にぺったりと尻を降ろす。
自然な動作で白い足を流した。見ただけでは少し少年よりの少女にしか見えない姿で紛らわしい。
「焔龍の決闘なんていつぶりかな。まだ彼女に挑むだけの傲岸不遜な龍がいるなんて思わなかったよ」
コバルトブルーの瞳を中央に添えた目が優しげに眦を下げた。
その海のように青い前髪のむこう側――額では青い宝玉が清らかに輝いている。
フィナセスも思いだしたかのよう彼をマネて油断のない脚甲を帯びた足を横に流す。
それでもやはりというか当然、スードラのほうが色気が多かった。
「スードラさんはなんとも思ってないの? これから大切なお仲間が決闘するっていうのに……」
「自然の摂理と同じで流れるモノは流れ着くまで止まらない。流れる川が海を目指しても谷底に着くことだってあるし干上がることだってある。流される水が望んでも望まなくても関係なく、ね」
長く生きて達観しているのか眉ひとつ動かさず、そう答えた。
なにかひとことくらい言ってやろうかとも思った。だが、フィナセスは遠くで飛び交う龍を眺めるだけ。
――流されるだけじゃなくて抗えなんて……言えっこないもんね。だって……私 に も 龍 族 へ 挑 戦 す る 権 利 があるんだもの。
腰に帯びた剣鞘に触れ、力なく手を下ろす。
挑戦しないのはできないから。挑んだところで勝ち目が皆無だから。
「ふふっ。ぼくの仲間を心配してくれてありがとうね」
フィナセスの心中を見透かすかのよう。スードラは微笑みながら礼を告げた。
そしておもむろに白細い手広げながら地面のない方角へかざす。
「さあそろそろはじまるから観戦の用意をしようか。《水鏡効果》」
そう、彼が唱えると前方のなにもない虚空に水の膜が出現した。
宙に浮かんだ膜はぷるぷる震えながら波紋を生みだしている。
そこに映しだされているのは無数の龍、そして決闘場。それらが手の届きそうな距離にまで拡大化されていた。
――遠見の魔法に水精霊を使っている? さっすが海を司る龍と呼ばれるだけあるわね。水の精霊を操る精度でいえば魚族以上かもしれないわ。
龍の魔法技術をまざまざと拝まされたフィナセスは、たまらず息を飲んだ。
その実力はとてもではないが一般的と形容できぬ代物。
長く時を刻んだだけでは至れぬ境地。海を司る龍だからこそ辿り着く極地とも言えよう。
例外を除けば龍は魔法に長けている種族ではない。魔法の実力だけならばヒューム以上エルフ以下、いいとこドワーフくらいなものだろう。
それでも大陸最強と呼ばれる所以は、地を抉る爪、森を薙ぐ尾、城塞を喰らう牙。そして魂すらも焦がす灼炎の吐息。
やはり種の姿とは似ても似つかぬ恵まれた体格が最強という称号をもたらしている。
「ようやくきたよ。絶対王者の降臨さ」
スードラの小躍りするような音色に、フィナセスはそれた意識をそちらへ戻す。
すると水の膜を通さずとも銀の瞳が雷光のむこう側に姿をとらえた。それは少しづつ、もったいぶるようにして下降してくる。
「あ、あれが女帝ディナヴィア・ルノヴァ・ハルクレート!? なんて……なんて神々しい姿なの!?」
目を剥かんばかりに見開いたフィナセスは意図せず頬を紅潮させた。
まばゆい光を銀の瞳に映すだけで肌が泡だち総毛立つ。
彼女の降臨に恐れ道を割るよう、漆黒に覆われた天空から光が満ちてあふれだした。
それはさながら大陸を照らす2つ目の日輪。闇を注がれた地上に巨大で雄大な巨躯が光をもたらす。
「あれが正真正銘の焔龍の姿――くッ!?」
息をすることすら忘れた。それでもフィナセスは、脳裏に君臨する焔龍を刻みつけた。
現実とはかくも残酷なものである。あの絶対存在が頂天に立つという事実を本能が認めてしまう。
圧倒的カリスマ性がそこにあった。無論それだけではなく、炎を浴びたわけでもないのに全身が焦げてしまうほどの衝撃が体を叩く。
「そうさ、彼女こそが創造神ルスラウスの最高傑作なんだ。炎を司る最強種族が焔を両刃して生まれた伝説の龍なんだよ」
スードラのかざした衣のように滑らかな手は、まるで日を掴むよう握りしめられた。
砂埃が徐々におさまっていくと水の膜のむこう側が鮮明に現れる。
焔龍と対峙するのは種の姿を借りたひとりの少女。彼女もまた龍なのだ。




