417話 そして龍の見た勇敢な世界
近ごろは雨季だというのに珍しく空が青い。気温が上がると徐々に陰影を明瞭させる雲が、透けるような空色を気持ちよさげに泳いている。
厚い壁に隔たりがあるからとて西だろうと東だろうと見る空は同じ。変化があるとすれば東の上空に居座る紅の月が頂天に見えるくらい。
そんな両手いっぱいでも足りぬ青色のキャンパスの下で、気が抜ける感じの談笑が繰り広げられていた。
「ぷぷぷぅ。タグちゃんってば意気揚々と乗り込んでダープリなんかに負けたんだぁ、ぷすすぅ。超かっちょわるぅい」
口元を押さえぷすぷすと嫌味ったらしく笑うフィナセスへ、タグマフはたまらずといった様子で眉尻を吊り上げる。
「ま、負けてねぇしッ! あれはたまたまこっちのコンディションが最悪だっただけだしッ! だからアレは負けに入らねえんだよッ!」
龍と正々堂々とやりあって勝つというのは道理が翻るようなもの。龍が敗北するなんて絶対的にありえない。
ましてや魔法すらロクに使えぬ弱種に遅れをとるなんてもってのほか。
「だいいちアレはただの暇つぶし的な余興だしぃ? だから勝ち負けとかわけわかんねえしぃ?」
余裕ぶりながらも尾は正直だ。
机を叩くみたいに罪のない地面をびたびたと際限なく引っ叩いている。
龍が最強なんて大陸の常識だ。隣で笑いを堪えているフィナセスとて百どころか千も承知なのだ。
そして承知しているからこそ煽り立てるのである。
「おやおやぁ? なんだかホッペタが林檎みたいに赤くなってるように見えるんだけどぉ? ぷすすすぅ!」
「さっきからチクチクとうっぜえ……話すんじゃなかったぜ……。あとその笑いかたクッソ腹立つから止めろ!」
タグマフはフンッ、と高い鼻を反らしそっぽむいた。
尾は感情を現すかのよう地面を叩く速度を上げる。同時に歩調もずかずかと荒くれ砂埃を舞い上げる。
そんなついつい表にでてしまう彼の反応がフィナセスにとって楽しくて楽しくてしょうがない。無邪気な子供をからかって遊ぶ意地悪にとても似ていた。
「んでっ、剣聖様を捕らえて点数稼ぎをしてやろうって思ったわけね。脱走龍を連れて帰ればディナヴィア様に褒めてもらえる、と」
「おおよ。うまくやりゃ焔龍だって大喜びっていうパーペキな作戦さ」
まるで日の光に負けぬ活気ある笑み。
タグマフは長く骨の浮くほど細い手を腰に添えて威張った。
「それで謹慎になっちゃったなら世話ないわねぇ……――ぷすすっ!」
「ンがあああ! クソッタレエ!」
真っ赤になって恥に喘ぐ彼の横で、鈴を振るような笑い声が打ち上がった。
この龍は新しい世代として生まれたばかりのまだとても若い龍なのだ。フィナセスのほうがずっともっと年上なほど。
だから感情も抑圧できなければわがままで無茶で無謀。海龍が手を焼きながらも庇護的になるのも頷ける
――でも剣聖様が無事で本当に良かったわ。
フッ、と。花弁が開くみたいにフィナセスの頬がほころぶ。
白龍である剣聖が無事だったということは、彼女の家に住まう唐変木――黄龍に被害が及ぶことはない。
とはいえどちらが連れていかれても辛いものは辛い。剣聖を尊敬する心と家族を守護する心。どちらも彼女にとってはかけがえのないものだから。
そうやって肉感的な胸をほふ、と撫で下ろす。すると不意に些細な疑問にいき当たる。
剣聖が脱走するきっかけとなったのは解放戦争が発端だ。LクラスがLと讃えられようになった所以でもある。
神より賜りし宝物――《拡散する覇道の意思》であるところのミゼル・ファナマウ・ディールの健在。大国でヒュームを従えていた時代の話だ。
だからタグマフと剣聖は面識がないはず。
「なんでアナタは先にガルちゃ――黄龍のところにむかわなかったの? 剣聖様が脱走した後に生まれたんだから実際に会ったこともないんでしょ?」
フィナセスは到着までの場繋ぎ的な気分でなんとなしに問うた。
「んなもん決まってんだろ。聖都に引き籠もってるやつと森に籠もってるやつを相手にするなら圧倒的に後者だろが」
そんなタグマフの返しはひどくぶっきらぼう。
「しかも白龍は過去に聖都で大暴れしたって聞いてんぜ? だったらなおのこと聖都に迷惑なんてかけらんねえじゃん」
まるでそんなことを聞くほうがバカだと言わんばかり。
フィナセスを見下しながら鼻を広げてせせら笑った。
「へー、ルールなんて守らなそうに見えるのに意外と常識はあるのね。ちゃあんとスードラさんの言いつけ通りに謹慎もしてるみたいだし」
「そ、それは……裏で悪さしてないか心を読まれちまうしな。しかも海龍を怒らすとヤベェことになっから仕方なくだぜ……」
フィナセスの口からスードラの名がでた途端に野太い尾を下に垂らした。
フィナセスが彼に怯えたのと同じく龍にだって怖いものはあるのだ。なにせどちらも等しく考えて行動する生命なのだから。
どちらも心の壁が薄いということもあるのだろう。そうやって出会ったばかりのふたりは間をひとり分ほど開けながら帰宅中の学童の如く気さくに雑談に興じた。
住む世界が異なる者同士が出会えばなにかと話題は尽きないもの。
「オレっち体力にはかなりの自信があるんだ! 儀式のときも邪龍と黒龍相手じゃなけりゃ勘弁してぇ、って泣かせるくらいにはな!」
「ほうほう……実に興味深い話ね。もう少し詳しくお願いします!」
やたらハイテンションなタグマフを相手に、フィナセスもまた東側への興味が尽きない。
じんわりと日の光量が増していく。煌めく湖畔を背景にして身長差のあるふたりが顔を見合わせくすくすと笑う。
どちらも口が軽いというか好奇心が旺盛というか。まるで友だちと気兼ねのなく遊んでいるような気楽さが広がっていた。
「龍族って……もはや親が誰だかすらわからないのね……」
「なに当たり前のこと言ってんだ? 西側だってそんな感じだろ?」
「そんな感じじゃないわよ! 日によってつがいをとっかえひっかえするなんて自由奔放すぎ!」
そして得たこれらの情報をとある者に伝えることこそがフィナセスの狙いだった。
東側にやってきた大筋の目的は龍族に関する情報の収集。
さらに言えば、情報を集めるごとに彼女にとっての得が貯まる。
――ふっふっふ! この情報をダープリに横流しすればまた剣聖様にお稽古してもらえるかもだわ!
フィナセスは目論んでいた。
だからタグマフとの雑談は楽しいし、美味しい。2つの意味でとても有意義な時間だった。
――それにしても龍族の情報収集ってかなーり大雑把な目的よねぇ? ダープリはいったいなにを企んでるのかしらん?
歩きながら考えごとをしていたその時。ひょっこりと軽率そうで目つきの鋭い顔が割り込んでくる。
「ボーッとしてるけどオレっちの話聞いてんのかあ?」
ぎょっ、と。フィナセスは瞬時に我に返った。
「あ、あはは……ちょっと考えごとしてたのよ。で、なんの話だっけ?」
焦りを悟られぬよう顔の筋肉を整えつつ愛らしい動作で体を横にかたむける。
別に隠しごとというわけではないから話してしまっても良い。しかしふたりっきりで交わした会話を第三者に聞かせるとわざわざ教えるのもいうのも忍びない。言わぬが花というやつだ。
「ハァァ……やっぱり聞いてなかったのかよ」
「ごめんごめん。お詫びにスリーサイズくらい教えてあげるからどーん質問してきなさいっ!」
「いらねぇ……その情報マジでいらねぇ……」
フィナセスが自信満々に胸を押しだすと、タグマフはとても苦そうに顔をしかめた。
咳払いひとつ。「とりあえず仕切り直しだ」と、彼のほうから腰の折れた話の口火を切る。
「オメーには将来の夢とかってあんのかって話だ。ちょっと参考までに聞かせてほしいんだよ」
そう言ってタグマフは少し色味がかった頬をぽりぽりと指で掻いた。
照れ模様の彼に対して、フィナセスは唐突なやりきなさに苛まれる。
「……」
はっきりした輪廓を描いて白い顎を引く。微かに長いまつ毛の影を伸ばす。
「なんだよもったいぶんなよ? 別に深い意味とかねーからさっさと答えればいいだろ?」
急かすタグマフをよそに歩を進める速度を緩める。
フィナセスにだって夢くらいはある。しかし軽い気持ちで彼の質問に答えることはできなかった。
上の遠くのほうを見つめながら思する。肩から垂れた三つ編みを無意識に触る。
「……私の夢の話か」
そしてタグマフも横で、翼を小刻みに動かしながら落ち着きがない。
意を決したフィナセスはゆるく首を振る。その間にいつものほがらかな表情に戻るようがんばってみた。
「私の夢はひとりの女の子が幸せに寿命を迎えること。それに笑うことを忘れちゃった子の笑いかたを思いださせること。この2つかな?」
嘘をつかず期待に応えた。
ムルルの寿命まで見届ける覚悟もあるし、もうひとりの心を失いかけた龍も見捨てない。
「その2つがオメーの夢なのか? 自分のためじゃなくて誰かのためってことだよな?」
唖然とする彼にむかってフィナセスは元気いっぱいに「うんっ!」と、言い切ってやる。
竦めた肩の上でぴょこんと銀の流麗な三つ編みが揺らぐ。するとタグマフはしばらくそのたおやかな笑みを見つめ、くしゃっと破顔した。
「良いなソレ! オレっちにはそんな夢の見かたなんてわからねぇ! わからねぇから面白しれえや!」
声の音量を上げながら面白え面白え。
幾度も首を上下に振り、尾っぽもびゅうびゅう大気を切る。
「じゃあ私の夢を聞かせたんだから次はそっちの番よね? 話させておいて自分は話さないとか言わせないわよぉ?」
フィナセスは満天の笑みで先の問いをそのまま問い返す。
するとタグマフの足がピタリと地面に貼りついた。顔色がみるみるうちに紅へと染まっていった。
グレー色の瞳がオロオロと定まらず、最後は堪らない感じで勢いよく顔を伏せてしまう。
そしてこちらとは目も合わせず、まるで独り言のように口のなかでぶつぶつ語りだす。
「話すけど……ぜってぇ笑うんじゃねーぞ?」
もはや茹だったタコの様相だ。タグマフの肌が隅々まで朱色に火照っている。
「オレっちの夢は……世界の中心にたつような……そのっ、ヒーローみたいになりてぇんだ」
英雄。この世界で今風に呼称するのであれば伝説と名のつくLクラスか。
まさか世界最強種族の口からヒーロー願望を聞かされるとは思ってもみなかった。フィナセスは、ただぽーっと彼の横顔を呆然気味に映すだけ。
「……そんな餓鬼のような夢見てんじゃねーって仲間と同じようにオメーも思ってんだろ?」
タグマフはイジケルみたいにして目逸らし、唇を尖らす。
若き龍ゆえに見る青い夢。他の龍たちは運命を飲み込んでいても彼はまだ成れていない。
「どうしてそんな夢を?」
フィナセスは理解しつつも聞きたかった。
今聞かないといけないような気がしたからだ。
「良くわかんねぇけど……蒼い壁がオレっちの体を通り抜けたときに変な景色が見えたんだ」
タグマフの声を聞いて脳裏によぎったのは、翻る道理。願いを乗せて大陸を包んだ刹那の蒼だった。
運命を捻じ曲げる蒼。文字通りに翻したあの夜明けの出来事がフィナセス脳内に駆け巡っていく。
無論、彼女もまた神より賜りし宝物の奇跡に夢を見たうちのひとりである。
そしていつの間にかふたりの足は止まっていた。頬を撫でる風がやけに冷たい。
「色んな種族がオレっちを囲って微笑みかけてくれる変な夢だったんだ、もちろん同族だっていたぜ? それで……なんつーか……」
歯切れ悪くタグマフは言いよどむ。
垂らした両手は拳を作って小刻みに震えている。
それでもフィナセスは口を一線に引き結んで彼の夢の話へ耳をかたむけつづける。
「夢から覚めたときソイツらをオレっちが守ってやりてぇなって、急に思たったんだ。そんで尊敬されたりちやほやされたりとかしてぇなってさ。あの夢を見てから変な夢を見るようになった」
あれだけギラギラとしていた瞳が、じわりと滲んだ。地面を見つめたまま揺れていた。
彼にだってそれは幼稚な願いだとわかっているのだろう。だからこんなにも水音にかき消されるような声で語るのだ。
そしてその感情こそ芽生え。あの蒼は世界中に夢の種を蒔いて翻ったのだ。
しかし世界は残酷だ。このタグマフという青年の心をもった夢は、彼の生まれもった種族ゆえに閉ざされている。
その瞬間。白き清き聖騎士の手が大きく振り上げられた。
「――叶うと良いわねっ!」
フィナセスが筋やら肉やらが薄く頼りない彼の背を強めに叩く。
すぱぁん、と。並々ならぬ音が湖と対面する森へ響き渡り、魚が跳ね、鳥たちが逃げていく。
即座に「いってぇ!?」なんて痛みに気づいた悲鳴も木霊する。
「なんなんだよマジでオマエはあ!? そんなに喧嘩してえならいつでも買ってやんぞ!?」
不意を突かれた彼は手では届かない場所を探るようにさすった。どうやら龍でも痛いらしい。
しかしフィナセスにはそんなことは些細なこと。怒れる龍を前にしても性根はさして変わらない。
「その夢わかるわぁっ! 私だって小さいころは棒切れを振り回しながら世界最強の剣士になりたいなんて夢を見てたもの!」
ぐっ、とガッツポース。瞳をキラキラと輝かせタグマフの遠慮なしに背をバシバシと叩きに叩く。
「とってもいい夢だよ! 私が剣聖様を超えるために教えを請うのと同じくらい無謀な夢だけど応援してあげる!」
「いって、いてててっ!? だとしても応援のやりかたが雑すぎなんだよ!?」
タグマフが逃げるように走りだすと、もう追いかけっこだ。
止めてた足のぶんの距離を稼がんばかりにふたりして駆けだす。
「本当はこんな可憐で綺羅びやかな美女に応援されて嬉しいくせに! このこの~っ!」
「男だろうが女だろうがオレっちは叩かれて喜んだりしねえ! どうせならドM極めてドSもいけるようになった海龍のケツでも叩いてやれよ!」
龍族と上位エーテル族の走る速度は尋常じゃない。もはや景色が線となって流れていくかのよう。
そしていつしか湿った空気は一瞬にして置きざりにされた。犬が犬が追い回す感じで三つ編みと岩の尾がふらふら揺れている。
――叶うと良い……なんてね。
笑顔を貼りつけながらも、帯びた聖騎士鎧の奥辺りがチクリと痛む。
夢の話題になったときからフィナセスは予感していたのだ。ひどく濁った暗い感情が残滓としてわだかまっていた。
龍だって夢を見る。そういう風に作られているのだから。
それも目の前にいる龍だけではない。もっとたくさんの龍が己の夢を望みながらに諦めているはず。
きっと世界を創造した運命の天使も彼らが夢を見ることを望んでいる。
――でも決して望んでも叶わない願いはあるの……。
だから――……なんて。
「がんばれ~! 少年よ大志を抱け~!」
これほど安っぽい激励の言葉なんてありはしない。
猛スピードでがむしゃらに走っているせいか、風の音がやけうるさい。
「……がとな!」
振り返ったタグマフの顔は、まだ子供のような夢を見てもなんらオカシクない。そんな少年のように無垢な笑顔だった。
そして野営地が見えてくるころ。テント前に止めた荷馬車の縁から座っていた少年が両足で草を踏む。
「ふたりとも丁度いいところで戻ってきたようだね。合流できたようでなによりだよ」
いつになく真面目な顔をした海龍――スードラ・ニール・ハルクレートがふたりを待っていた。
「久しぶりの挑戦者が現れたらしいね。しかも聞くところによれば龍と龍の決闘だっていうじゃないか」
あんなに晴れていた空は青を忘れてしまったようだ。
もうもうと暗雲が立ち込め龍たちの未来のようにしみったれている。
「さあ、龍族を統べる女帝焔龍への下剋上を見学しにいこう」
●●●●●




