412話 そして東へ、龍の巣へ
門番は一党の背を見送る。
「焔りゅーによろしくぅ! もしなかで会えたらお話しましょ、西側のお話ぃ!」
体を覆う布地を揺らめかせ、両手を上げ大手を振った。
遠巻きからでもその左右ともに巨大な房はまさに巨龍と呼ぶにふさわしいほど豊かだ。
麗しく良く伸びる声に後ろ髪引かれるよう一党も彼女に手を振って応じ、歩きだす。
仲間の助けによって解放されたフィナセスはげんなりとうなだれる。
「はひぃ……危うく連行されちゃうところだったわ……」
あわや直行寸前と言ったところでの救出が間に合った。
スードラがクレーターの入り口の番を巨龍に思いださせなければ攫われていたに違いない。
「スードラさん助けてくれてありがとー。やっぱり龍ってすごいのね、本気で抵抗したのにまったく歯がたたなかったもん」
やはり上位と呼ばれるエーテル族ですら龍には遠く及ばないことがわかる。
フィナセスは巨龍に掴まれていた手首の調子を確かめながら手甲をはめ、スードラに礼を言う。
「あはは、間一髪だったよ。でももし次に巨龍と会うのなら仲良くしてあげてね? あれはあれで責任感のあるとってもいい子なんだ」
バカだけど。シミひとつない白い頬をぽりぽりと掻きつつ、困った笑いを薄く浮かべた。
一党が今越えているのは岩壁の内部であり東と西の境界線。隆起が目立つゴツゴツとした岩壁の狭間は転びやすく、バランスもとりづらい。両側から迫ってくるような高い岩壁もまた息が詰まりそうになる。
道と呼ぶにはふさわしくないが森よりはマシだった。突き通すような直線のおかげであちら側への視界は良好。獣道より周囲警戒もしやすい。
これから龍の籠である岩壁を越える。陸最強種族たちの巣へと足を踏み入れる。
そんな緊張感もあってかいつもより足音の聞こえが顕著だ。赤い斑模様の岩壁は音を吸わず、いつまでも反芻し、もて遊んでいるかのよう。
誰も口を開かず、ただ黙々とグリーブ、ブーツ、スニーカーが異なる音を奏でている。
すると突然。膨れた鎧の胸部をうんと反らし、銀を編んだ大きな三つ編みがぶらりと揺れる。
「ふっふーん! やっぱりこのムチムチモテモテ美女おねーさんである私がいてこその突破よねっ!」
フィナセスは誇らしげに背で弓なりの弧を描く。
過剰な演技だということが見ただけでわかった。きっと皆の緊張を解すための行動なのかもしれない。
「ほらほらダープリぃ? 私のおかげでクレーターのなかに入れたんだからもっと感謝してもいいのよぉ? っていうかもっと褒めなさいよぉ?」
「ドヤ顔を近づけるんじゃない……たしかに助かったけど褒める気が萎えてくるんだよ……」
だが絡まれる側からしたら最悪だ。
明人は、調子に乗って見下しにかかってくるフィナセスから逃げるよう顔を逃す。
「褒めてよー! ねぇー褒めてってばー!」
エーテル族というポテンシャルは抜群。鎧越しでもその体型の発達具合は眼を見張るだけの価値はある。
肌色の白さと聖騎士鎧の白さもあいまってざっくり開いた肉感的部分は剥き途中の卵のようにみずみずしい。
しかも美しさに負けじと聖騎士の称号をもち合わせておりダイヤの原石にも等しい。
これで彼女に元男というバッドステータスがなければ彼とて雑に扱うようなマネはしなかった。
「なによなによそのまた素敵で魅力的な美女が絡んできた的な顔はー。私の大活躍を剣聖様に伝えるの忘れないでよねー」
相手にされないのが気に食わぬようでフィナセスは逃さんとばかり手を伸ばす。
手首までスーツに覆われた彼の腕を掴んでぐいぐいと引っぱる。
「ねーねーダープリったらー。友だちなんだからもっと私の相手してくれてもバチは当たらないわよー」
極めて鬱陶しいとはいえどもだ。彼女と焔龍の接点があったおかげで門番を越えられたのも事実だった。
明人がフィナセスからのぐいぐいに耐えていると。前方からまだ聞き馴染みのない涼やかな声が聞こえてくる。
「今回のが最良の手段ではあったんだけど、どちらにせよ巨龍は通してくれたはずだよ」
先導していたスードラはこちらにむかってちっ、ちっと指を振った。
そのまま会話に参加するように歩調を落とし、横並びになる。
ぱっと見栄えはするふたりだ。だが挟まれた明人にとっては両手に花どころか、両手に男爵芋の気分である。
フィナセスは、スードラにむかって丸い腰をかたむけ「あらそうなの?」意外そうに問う。
「うん。きみたちをクレーターに案内する利点を理解させることさえできれば案外簡単に通してくれたはずさ」
そして繰り返される、バカだけど。
ちょいちょい腹の黒い部分が見え隠れする。
「それにしても今日の門番が邪龍じゃなくてよかったね。もし彼女が立っていたら確実に出直さなきゃだったからきみたちは本当に運がいいよ」
むむむ、なんて。スードラは少女と見紛う丸っこい輪郭に手を添え、難しそうに唸った。
このひと癖ありそうな少年が手ぶらで挑む危険を犯すとは思えない。焔龍からの誘いという手段がなかったとて彼なりの策があったというのは真であろう。
「なぁんだ。せっかくのポイント稼ぎのチャンスだと思ったのに浮かれて損しちゃったわ」
そしてフィナセスは、いともあっさりと絡むのを止めた。
やはり演技だった。鬱陶しヤツから開放されたからといって明人にも言いたいことは山ほどある。
なにせ焔龍とフィナセスが密な関係に及ぶような間柄だったとは夢にも思うまい。鼻歌を奏でるフィナセスの横顔をじっとり湿気のある感じで睨む。
「なんだとはなんだ。はじめからフィナ子が正直に言ってくれてたら余計な手間かからないですんだんだからな。色気に誘われてホイホイやってきたこのエロセスめ」
唾を吐くよう文句を垂れるが、それほどの怒りは籠められておらず。
関係のない場所でスードラがくっくと生白い腹を震わせる。
するとエロセス呼ばわりされたフィナセスは明らかな挙動不審を見せる。
よく動く銀の瞳。頬から顎先まで流れ落ちる冷え切った汗。
「べ、別にえっちぃ期待なんてしてませんしぃ!? せ、せせ、正式なお断りを面とむかってするためにやってきただけですしぃ!?」
「おいこら。露骨すぎるくらい目が泳いでるぞ」
定まらない視線をどこぞへ投げつつすぼめた唇から乾いた音を漏らす。
「そ、それに私はぴちぴちの女の子だもーん! 女帝様も女の子だったから変なことになんてならないもーん! ひゅぅー……ひゅぅー……」
フィナセスは下手な言い訳と素知らぬ顔で口笛らしき音を奏でるだけ。
とはいえ結果だけを言えば新たな手札が増えたに等しい、成果だ。
「ハァ……。まあフィナ子が焔龍と知り合いだとわかっただけでもよしとするよ」
「ひーふぅー……ふーひー……」
「だからそのクラーケンみたいな顔をしながら下手くそな口笛をやめなさいっての!」
そう無理やり解釈して明人は痒くもない頭をぼりぼりと掻く。
とりあえずフィナセスがはじめから情報を解禁していたのであればわざわざ龍を脅す必要はなかった。だがおかげでいやに協力的な龍の助力が得られたのも事実である。
さらに龍族の頂点に君臨する者からの招待というのはある意味強力な武器になる可能性があった。
来客として龍族たちの目を気にせず堂々と歩けることの利点を数えたらキリがない。忍び、夜な夜な怯えながら潜むよりも胃を痛めずにすむ。
海龍の導きと焔龍の招待。莫大な臨時収入が手入ったと思えば耳障りな空気を吐く音も許せる。
「ひゅふぅぅぅ! ふひぃぃぃ! ぷふぅぅぅ!」
「許すからその顔やめろって言ってるだろ! いちおう女の見た目なんだからもっと回りに気を使えよ! あとどんだけ口笛が下手なんだよ!?」
あいも変わらず緊張感のない一党。主に乱しているのはたったひとりの聖騎士ではあるが。
反り立つ赤黒い岩壁の終わりはまだ見えず。大陸半分にも及ぶ巨大なクレーターともなれば円環状の山脈も規模は半端ではない。
夜が暗いせいもあって壁はおどろおどろしく赤黒色。まるで巨大な出血を固めた結晶のよう。灼炎を放つ顎のなかへ身を投じるのに、この道はなかなか乙なものだった。
先に待つものを誰だって予測できやしない。未来の暗示を暗幕で覆い隠すような夜の闇だけが待っている。
「ふふっ。やっぱり脅しにノッて正解だったみたいだ」
そして鱗とヒレの尾を揺れた。
低い位置でスードラは細く白い足を僅かに高く足を繰りだしている。
満月をこねて整えたようなシミひとつない頬にバラ色がうっすら。横に流す目は挑発的でやや姑息。
「白龍のお気に入りに、焔龍と褥の契りをねぇ? これは予想以上に面白いかもっ」
感情を隠そうともしないければ、おそらく隠す理由もないのかもしれない。
2重瞼の筋を深め、指を添えた唇が艷やかな弧を描く。雄とは思えぬ妖艶さ。
「…………」
慣れぬ鎧の装具点検をしながらも明人は彼への警戒は怠らない。
巨龍との会話を聞くに、この少年にはなにやらかの目的があることくらい察しがつく。
まず間違いなく外部からの侵入者になにかをやらせようとしているのだろう。
そうやって不信感を籠めた黒の瞳とブルーの瞳が交差する。
「きゃぴっ!」
くるりと回って前かがみ。布の少ない臀部を突きだしての覗き込むような舌だしのウィンク。
スードラの猪口才な振る舞いに、明人はイラッとして顔を歪めた。
今のところは利害が一致している。でなくば最強存在が小汚い人間を駒に選ぶ理由がない。
もしそれが違えたときにむけられるのは失望かはたまた激怒か。――知ったこっちゃない。
「ありゃ? そういえばムルちゃんは?」
大きく三つ編みを振るようにしてフィナセスは振り返った。
言われてみれば巨龍と別れてからというもの誰も気にとめなかった。
毛束が頬に直撃した明人も足を止める。鼻の上にシワを寄せながら最後尾へ視線を送る。
「おーいムルちゃーん! 疲れちゃったのならおぶって上げるわよー!」
フィナセスは後ろからトボトボ近づいてくる歪な影に手を振った。
だが、反応はない。黒く大きな円盤は上をむくことなく、星がだらりと垂れ下がっている。
ムルルの歩む速度はスローペース。やっと一党に追いついても爪先を見つめながらときおり肉の薄い肩がひくっ、ひくっと上下していた。
「……いもん」
その呟きを聞いた明人は即座に彼女の悩みを理解した。
だが聞こえなかったらしいフィナセスは心配そうにムルルの顔を覗き込む。
「どしたのムルちゃん? さっきの巨龍さんが怖かったの?」
ムルルは小さく首を横に振った。
開放的に開いたスカートの裾は掴み、か細い指が白くなるほど強く握られている。
少女はなにも語ろうとはしない。代わりにチャムチャムの寝起きに刺さりそうな声が聞こえてくる。
『ワタシちャんさんさっきクセェッて言われたせいデスネちャッたんダよ。お友ダちに気を使わせてのかもー、ッてな』
「えぇっ!? ムルちゃんは別に臭くないわよ!?」
『オレちャんもさッきからそう言ッてんのに聞き入れてくれないんダもん』
フィナセスが慌ててムルルの肩を掴むも、ぷいっ。顔を合わせてはくれない。
思春期の少女にとって巨龍に好かれたことは、よほど看過できないできごとだったよう。
ムルルを励ますフィナセスを置いて、ふと明人は背の低い彼を見る。
「なあスードラ」
「……普通に呼び捨てになったね、別にいいけどさ」
「龍族って鼻が良かったりするのかい?」
とても素朴な疑問だった。
リリティアと暮らしている彼は、たまにスンスン匂いを嗅がれることがある。
とくに感想を言われることもないが、感想を求めることもしない。ただよくある日常のひとコマ。そう思っていた。
尾を踊らせ小首をかしげるスードラへ、もう1度より詳細に問う。
「洗っても落ちないような古い匂い。そういうのを嗅ぎわけられたりする能力とかあるんじゃないか?」
すると彼は思い至ったかのよう繊細そうな指をパチンと鳴らす。
「ああ、そういうこともできるかもね。ぼくらはきみたちより鼻は良いほうだし。元の状態だと呼吸も深いし鼻の穴も大きいんだ」
そう言ってスードラは「こーんなでっかいよ」と両手で大きな丸を作った。
「……そういう理由? まあいいや、鼻が効くってわかればなんとなくムルルの好かれた説明がつく」
「んにゅ? あの子が巨龍に好かれた理由ってこと?」
スードラの一挙手一投足にぶりっ子が住まう。
教えてー、と。せがむ彼を背に明人は傷ついた少女のもとへ急ぐ。
見ればフィナセスがムルルを元気づけるのにやきもきしてい真っ最中。揺らしても声をかけてもムルルは微動だにしていない。
言って良いものか。一瞬だけ思考し、鼻をすするたびに上下する彼女の肩にそっと手を添えた。
「いいか? ムルル覚悟して聞いてくれ」
すると緩やかにぶすくれたムルルの顔が明らかになる。
両側を膨らませた頬は紅潮し、落ち込んでいるというより怒っているような感じ。それでもやはりというかへの字眉。
「ムル臭くないもん! いつもキレイにしてるもん!」
「ああ、きっとそうなんだろう。でも……体に染みついた臭いはきっと消えてないんだよ」
騎士のように膝をついた明人はムルルの手をとり両手で包む。
手のひらにしどと汗が浮いておりかなりの怒りを握りしめていたようだ。
目をぱちくりと瞬かせた彼女は「染み……ついた?」と、たどたどしくオウム返しする。
「たぶん……教会の地下施設だ。グラーグンに命令されてたときにこびりについた腐肉の臭いがとれてないんだと思う」
明人が思い切ってそれを口にした。
すると吹いてもいないのに寒風が吹きすさぶような空気に包まれた。
フィナセスも見ていられないのか、すらりと視線を逃す。
ムルルも地に根を下ろしたかのように白い顔で佇むだけ。
彼女は長い間、暗く湿った悪辣な環境で永遠の命――不死について研究をさせられていたという過去がある。
実験対象は死してなお動きつづける屍肉。歩く死骸たちの放つ鼻の曲がりそうな環境に入り浸って生きてきた。
そしてそれは人にはわからぬほどの微量なれど生きた証としてこびりついた。だから臭いモノ好きの巨龍に好かれた。
憶測の域である。だがこれこそ明人の導きだした結論だった。
「ムルル……オレにとっては臭くないぞ。だから大丈夫だ」
「だ、ダープリの言う通りよ! 私、ムルちゃんと一緒に暮らしててアナタが臭いなんて思ったこと1度たりともないんだから!」
フィナセスも参戦して勇気づける。
そしてスードラがぽっかり口を開けてあくびをした。その刹那のできごとだった。
「ムルお風呂入るッ!! お薬をいっぱいに浮かべたお湯に入りたいッ!!」
まるで台風の目だ。その怒張に弾かれた明人は尻餅をつき、フィナセスもたじろぐほど気が籠められていた。。
普段から物静かなムルルがマントをたなびかせながら己を主張する。
「じゃなきゃもう龍族と合いたくない!! ふぃなとふにーとはここでお別れするもん!!」
おうち帰る! さらにブーツの底が張りつかんばかりに強烈な地団駄を踏みだしてしまう。
わがままなれど繊細な乙女心。ここから先に進めばいるのは鼻の良い龍族のみ。つまりムルルは龍たちにとって臭い存在になってしまう。
「お風呂っていっても……オレたちのこれから住む場所の目算すらついてないんだぞ」
「しかもこのさきって文明が発達してないっていうじゃない? お風呂のある都合のようなところなんねぇ……」
これには明人とフィナセスも、暴走する我が子に悩む夫妻の様相だ。
龍族の住まう地は広く、拠点は必要不可欠である。さらには場合によって各地を点々としなければならない。
ここは未開の地。そんななかで屋根どころか風呂つきの物件を探す余裕なんてあるわけがない。しかも作るのは容易だが沸かすのはかなり面倒だ。
それもただの風呂を用意してもムルルを納得させられないとまできたものだ。
あーでもないこーでもない。頑なにここから動こうとはしないムルルを救うべく会議がはじまる。
「しかも薬湯か。薬草関連のデータはあるけど、どこから危険が迫ってくるかもわからない。悠長に採取なんてしてる暇もないぞ」
「そうよねぇ。いっそ星見の湯みたいな地中から湧きだす温泉とかがあれば話は早いんだけど……」
龍族とまったく関係ない場面で一党は躓いてしまった。
この場に幼子ひとりを置き去りにする選択肢は自動的に除外だ。こんな場所に置き去りにしたら魔物たちに捕まって目を覆いたくなるようなことになる。
だからといってどうにかできるかといえば、そういうこともない。明人とフィナセスは苦悶の面を並べて頭を捻ることしかできない。
「じゃあぼくの住処においでよっ! お風呂がなんなのかイマイチわかんないけど、あそこならお湯なんてそこらじゅうにぼこぼこ湧いてるよ!」
揺らぐ蒼と煌めく銀の瞳が物凄い勢いでスードラをとらえたのだった。
「異論はなさそうだねっ! うーっ、超特急でぼくの寝藁へご招待しちゃう感じー!」
意気揚々と歩きだすスードラの口ぶりを、彼は覚えている。
誰かの話しかたにとてもよく似ていた。




