408話 そして旅情に浸る暇すらない!
慣れぬ環境と仲間たち。とはいえ同じ釜の飯を食らい、同衾するような距離感で夜を共有することに抵抗がなくなってくるころ。
日に日に信頼関係が深まるかと思えば、およそ平行線のまま。たいして代わり映えしない。
出発してからすでに2日ほど経っているが、結束する気配すらない。全員が全員マイペースで協調性が皆無だった。
「Graaaa! Grararara!」
「Geee! Gegege!!」
歪で醜悪なゴブリンたちがたったひとりの女性をとり囲む。口端からしどと生臭い涎をこぼしながら少しずつ距離を詰めていく。
欲情滾った突起が薄汚い腰布をもちあげている。そのときを今か今かと待ちわびているのがわかる。
連中は言葉をもたざる者。ゆえに彼女が地にひれ伏し許しを請うたところで、連中のなすべきことは欲を満たすことのみ。
魔物と対峙するさいに――新米だろうが熟練者だろうが――冒険者が必ず見る夢があるという。……もし負けたら、と。
大陸の歴史上、魔物に敗北して腐臭と屈辱にまみれて沈んでいったものは少なくない。
肌が堅く大柄な男は胃の腑を満たすための食材であり、清らかな女は注がれて悲鳴と後悔の歌を奏でさせられるのだ。
「フッフーン! ゴブリン如き下等生物にもこの私の美しさが理解できちゃうのねっ!」
そんな危機の局地に晒されて余裕をかます輩がいた。
両手を腰に添え、自信満々と豊かな弧を描く胸を仰け反らんばかりに張る。
「体中を睨めつけるような視線がビシビシ刺さってくるわっ! このたおやかでむちむちボディを堪能したくてたまらないといった様子が蚕の糸で紡がれたような肌を通して伝わってくるう!」
手甲で両頬をおさえながらくねくねと腰を揺らすと、後ろで結った三つ編みも一緒になってぶらぶら揺れた。
揺れている腰にぶら下げた剣は飾りか。横で停車している荷馬車のほうから怒号が飛ぶ。
「おいこらフィナ子早く抜剣しろっての!? すっごい囲まれてんのわかってんの!? ゴブリンの群れの前で仁王立ちしながら贅に浸ってるんじゃないよ!?」
馬車から身を乗りだしたのは鼻白ませた明人だ。
転ばぬ先の杖とばかりに、バームクーヘンのような特徴的見た目の弾倉をした黒筒を手にしている。
こちらの世界にきてからというもの彼の切り札となっているRDIストライカー12だ。弾数はもうあまり多くはない。理由あって2と1発。
そんな彼に、フィナセスはしてやったりと鼻を広げて教えを説く。
「やっぱり見られることで女性は美しくなるって言うじゃない? 私がいくらこれ以上を望むことが難しい究極美女とはいえど、もっと高みを目指すという志は大切だと思うの」
『ヒューッ良く言ッたゼェ! 飛び散る汗に輝く汗、そして貼りつき透ける布地ィィ! ガんバり汗に濡れたビしょビしょ女子こそまさに美女の極みィ!』
「ぁぅ……。無駄話はやめてそろそろ戦わないと本気でマズイよ?」
そうこうしているうちにゴブリンの群れとの距離はもう幾ばくもないほど詰まっている。
不安げな視線を背にフィナセスはようやく銀閃を煌めかす。
「下処理はきっちりすませましょ! 今夜のご飯もゴブリンよ!」
誘いの森を出発した一党によるドラゴンクレーターへの旅は、さしあたって難航していた。
夜討ち朝駆け。いつでもどこでも不躾に襲いかかってくる魔物たち。そんな四苦八苦はもはや当たり前となっている。
丸い漬物石によく似た重機であれば半日もかからぬ他愛もない旅路なのだ。山を削り、森を粉砕しながら直線で進めることの利点たるや。しかし現在は大荷物を抱えての鈍重な足どりとなっている。
馬の歩くベースが遅いとなれば、こうして魔物に包囲されることもしばしば、よくあること。
そしてすでに旅がはじまって3日目の工程。先ほどのようなひと幕もなんだかんだと乗り越えて、一党はしぶとく生きている。
あれやこれやと苦難はある。だが足さえ前にだせさえすればいつか目的地に着く。
今日も今日とて大袈裟に揺れる荷の音。ふぅ、と小さなため息が混ざる。
「……あら? ムルちゃん暗い顔してどうしたの?」
いの一番に異変を察したフィナセスは手綱を手に振り返った。
銀の眼が丸く見つめる先では、困り顔を曇らせたムルルが荷台で膝を抱えてなにやら物憂げ。
斜め上を通り過ぎていく雲を仰いだまま、なにやらアンニュイ模様。凹凸のない胸に添えた手も服をキュッと絞っている。
「がる……どうしてるのかな? レミちゃんのお家で寂しくしてないかな?」
心優しい少女は、置いてこざるを得なかった同居者を案じ未成熟な胸を痛めていた。
ムルガルとリリティアのはぐれ龍コンビは――当たり前だが――留守番だ。龍がいるという気配をドラゴンクレーターに近づけるわけにはいかない。
「ふぅん、ガルちゃんのことが心配なのねぇ」
少しだけ唇を尖らせたフィナセスは、しばし中空へ銀燭の眼を逸らしてから思案顔。
車輪が1回りしたあたりでニンマリと猫のように目を細める。
「きっと大丈夫よ、ああ見えてガルちゃんは礼儀正しいからレミちゃんのお家に迷惑をかけたりもしないだろうし。聖都のみんなにもモテモテで寂しい思いなんてする暇がないくらいよ」
「ほんと……?」というムルルの希薄そうな問いに、「もっちろん!」元気な声がたわわな揺らぎとともに跳ね返ってきた。
「あの子のお家は聖都でも美味しいって有名なパン屋さんだから、逆にお手伝いとかで忙しいんじゃないかなあ? それにきっとパタパタ走り回ってるほうがガルちゃんの気も晴れるはずよ」
そう言ってフィナセスは長い手を伸ばしてムルルの小ぢんまりな頭をぐしゃぐしゃに撫でる。
『あァん! ワタシちャんさんからオレちャんをドけちゃいやァん!』
撫でる際にきちんとチャムチャムを退けているのは慣れているからだろう。いい加減に見えても他者の異変に即座に気づくのも彼女の懐の深さを物語っている。
そしてなによりも幼き心配事ですらテキトウに飾り気のある言葉で流そうとはしなかった。一考して応対する姿勢に根の真面目さが伺える。
「そういえばダープリは難しい顔をしながらなにを読んでるの?」
ムルルの髪をめちゃめちゃにし終わった彼女は次の標的に切り替えた。
幼子の横でじっ、と視線を落としたままの彼のほうをむいて、小首をかしげる。
立てた膝を本立代わりに揺らぐ馬車の上でもなんのその。重機の振動と比べればこのていど揺り籠も良いところ。
黒い瞳が異国の文字を追っている。神の敷いた翻訳の道理様様、書かれた文字は彼の世界で使われていない文字だ。
明人はハンドブックサイズの本から目を離さずに応じる。
「これ、リリティアが作ってくれた旅のしおりなんだ。まったくうちの家主は心配性で困るね」
軽口を交えながらもほんのりとした微笑みを作っていた。
剣聖の名が飛びだした途端フィナセスの目が爛々と輝きに満ちる。
「え、なになに!? 剣聖様の作ってくれた本ってなに!?」
荷台との仕切りを乗り越えんばかりにこちら側へ身を乗りだす。
浮いた両足をバタバタさせるむこう側で、手綱を放された馬がぶひん、といななく。
「みーせーてー! ダープリは私の数少ない友だちでしょー! 友だちは情報を共有するものだって聞いたことあるんだからねー!」
「あーもう前を見ろ前を! そうでなくとも荷物で狭いんだからこっちにくるなっての! あと目頭が熱くなるようなこと言わないでくれる!?」
半畳ほどしか隙間のない荷台にもうひとり増えればそれこそ揉み合いだ。
退けられていたチャムチャムは潰され、ムルルは迷惑そうに眉根にシワを幾重にも刻んでいる。
唯一明人がフィナセスの侵略へ対応するが、エーテル族の力にはどうあってもかなわない。
「みへへー! わはひにもみへへおー!」
白い頬を押されブサイクになりながらも、剣聖ファンとしての熱い思いが勝っているらしい。
元が違えど立派な女性である。くっつかれればほのかに甘く柔らかい香りもする。あと帯びている鎧が肌にあたってとても痛い。
これにはたまらず。明人は根負けして本を彼女へ手渡すしかない。
「わかったわかったから! あーもう……龍族に対しての注意点とかそのへんが書かれてるだけで面白いものじゃないぞ」
暴風が喜び去ったことで荷台側は、ほっと一安心だった。
「わーい! ダープリって結局優しいからわりと好きー!」
すとん、と。満足そうなほくほく顔で御者台に戻ったフィナセスは、すぐさま本を開いて目を走らせる。
綴られた達筆な文章を、半音高い声で読み上げていく。
「えーっとえーっと! ドラゴンクレーターでは日に3回ほどまぐわいの儀式が開かれるのでそのタイミングでの外出はと、ても……――まぐわい!?」
床に転がっていたチャムチャムからも『まグわい!?』と、声を重ねるようにして飛び上がる。
そのまま幅広のツバを伸ばしてフィナセスの頭の上にカサカサと移動していった。
耳まで真っ赤に染めた彼女が今もっている本の題名は――龍族のあれやこれ。制作期間が短かったからか箇条書きのなぐり書きな代物だった。
「ええと……注意するべき龍は邪龍くらい……らしいわ。地龍は……堅苦しいけど匂いフェチ? 巨龍は……ほんわかなのに臭フェチ。ってなんなのよこれぇ!?」
頭にチャムチャムを乗せたフィナセスは、ぐるっと音がなりそうなほどの早さで振り返った。
「龍族の紹介だけならまだしもよ!? なんで性癖とか3サイズとかの情報がこんな詳細に書かれてるの!?」
彼女の言う通り、この紐で束ねられた粗末な本には龍族のあれやこれが綴られていた。
投げだされ、落ちてきた本を明人は華麗にキャッチする。
「龍族って押し止められて鬱屈しているぶん感受性が豊からしいからねぇ……」
「感受性なんて可愛げのある話じゃないわよ! こ、ここ、これから合うかもしれない相手の性癖とか知っちゃった!」
恥辱に満ちた顔をフィナセスは両手で覆い隠す。
ぶるんぶるん。激しく首を振って乱れるたび三つ編みと、帽子のてっぺんに添えられた星が激しく揺れ動いている。
そんなフィナセスほど初心ではないが、彼もまた綴られた情報の扱いかたに困っていた。
「使える情報としてはクレーターの全体図と各地に生えてる野草マップくらいかなぁ……」
1度読み終わった項目をべらべらと流し見してから腰のポーチに押し込む。
そんな本の最後のページには――今のままでもとっても幸せ、とだけ。白紙の真ん中、震える筆跡で小さく小さく書かれていた。
家をでる際に見た不器用な笑顔を思いだし、明人は両の頬を殴りつけるような勢いで叩く。強めに気合を入れる。
「心配性の家主のためにもさっさと案件を片づけようか。魔物も少なくて雨も降らないなら足止めされる心配もない。予定通り今日中には着けそうだ」
浮かんだ涙越しに空を仰げば、今日は珍しく晴天がどこまでもつづいている。
この辺りになるともはや種族の気配はもちろんのこと、誰かが通り抜けたという轍すら見当たらない。
いっぱいの自然を抱え込んで、やや隆起した緑色の丘を蹄と車輪が騒々しく進んでいくだけ。見晴らしが良いため肩から力を抜くにはもってこいだった。
そうやってしばらく故郷の風を肌で思いながら凝った筋肉を解していると、前方からの声であくびが止まる。
「あっ、目的地が見えてきたわよ!」
御者台のフィナセスは、びしっと遠くを指差した。
自然の織りなす風景のなかにぽつん、と。なに者かの手が入ったとしか思えぬ建造物が遠間にうっすらと現れている。
いつだったか重機とともにダモクレスガーゴイルと死闘を繰り広げた場所――サーガ神殿が近づいてきていた。
そしてぽつんと佇むサーガ神殿の敷地奥では、地平線の果てまでつづくような巨大な岩壁が現れている。
「あいかわらずドラゴンクレーターはおっきいわねぇ……。見えはじめてるけど近づくのにもう半刻くらいかかりそうかも」
感慨に浸るフィナセスの肩口からムルルもにょっきり顔を覗かせた。
ツバ広の帽子をかたむけ日差しに目を細めながらも、どこか興奮ぎみに頬を紅潮させている。
「おー……すごくおっきい。あそこが、がるの住んでたお家なんだねー」
『世界最強種族ガ住む城もまた無量無辺ッつーわけダ。オレちャんたち如きデ推し量れるような存在ジャねェッてまザまザと見せつけられてるような気分ダゼ』
荘厳な景色を前にして、一党は不思議と背筋をしゃんと伸ばしていた。
未だ距離の測れぬ目的地を各々が吐息混じりで眺めている。漠然と開いた口から漏らすのは、おー、だのすごい、だのと圧巻の声ばかり。
人と対比して岩の壁はあまりにも大きすぎた。全体を眺めようとすれば魂さえももっていかれてしまいそう。見る者によってはきっと圧倒されて恐怖し目をそらしてしまいたくなるような崇高な光景だった。
おろし金のようにゴツゴツとして高くそびえ立ち、大陸の東と西を隔てる巨大な檻。
龍の住まう人間にとっての未開の地。種族たちはその異形なる壁のむこう側を――ドラゴンクレーターと呼ぶ。
「ドラゴンクレーターのなかにはこっち側じゃ見られない魔物や植物がいっぱいらしいわよ」
手綱を手にしたフィナセスがくるりと振り返り、景色に目を奪われているムルルに微笑みかけた。
幼い体はうちからこみ上げる感情をおさえきれていない。わくわくと小刻みに上下するたび――うすすぎる胸は揺れぬが――前髪の端で三つ編みが左右に揺れている。
「じゃあ美味しい物いっぱい見つかるかな!?」
「ふふ、どうかしらね。でもクレーターのなかは広くて危ないから絶対にはぐれちゃだめよ?」
「あうっ、わかった!」
そうやって期待に胸を踊らせつつ一党はしばしの間、圧倒されつつ馬を歩かせた。
するとちょうど神殿の前辺り差しかかった辺り。ダモクレスガーゴイルとの戦闘をしたらへんに青い髪の少年がぽつんと佇んでいる。
「もうもうもうっ! あんまり待たされるから待ちくたびれちゃったぞぉ~?」
くるり。軽やかな足どりで回った海龍は、小ぶりな尻をツンと突きだす。
それから星を飛ばすようなアザトさでウィンクを一党にむかって放ってくる。
「なーんちゃって! ふふっ、実はぼくの予想よりもかなり早い到着だったからびっくりーっ!」
同族がいたときよりもやや動きに無駄があり、どこか媚びるかのよう。可愛い見た目を武器にするようにしながら声も嬉々として歌うが如く。
だが、その謎はもはや明らか。なにせ著者リリティアによる本にはこう書いてある。
「……尻フェチで腹黒ぶりっ子な、海龍……」
明人はボソリと暴露した。
さっ、と。馬車に乗った全員が待ち合わせ場所から目を背く。
そしてスードラも駆け寄ってくる足をとめる。
ジュニアアイドルのようなプリティフェイスに影が重なる。
「……ちっ。白龍め、また余計な情報を漏らしたな……」
聴力に優れた操縦士の耳は、ガムを吐き捨てるような恨みごとを聞き逃してやらない。
ゆえに明人は思う。
――龍族暴露本かなり役立ちそう……。
手の届かぬ場所にいる筋肉フェチへと感謝の思いを募らせた。
……………




