405話 そして彼の地への旅立ち
「ダメです」
その声は無感情だった。
スレンダーな体が白く薄い布越しでシルエットになっている。動きやすい格好というより眠りを邪魔しないネグリジェ姿。
シルク生地とイスの組み合わせが悪いのかときおり小ぶりな尻をおさめ直したり。風呂上がりということもあって日中のリリティアよりも色気もある。
あまりまじまじと見ないデコルテや肩辺りの素肌に目を奪われつつ、もう1度。
「頼むよ。このために色々と準備もしてきたんだからさ」
「なんであろうとダメなものはダメです」
2の句も告げさせぬとばかり。すなわち玉砕。
明人が手を合わせても、リリティアは目を瞑ったままこちらを見ようともしない。
眠りこける男を1匹で担いだ海龍と別れて人心地。夕げをすませ、順番に風呂に沈んで、1日を終える直前に一波乱の予感が漂う。
テーブルに置かれた燭台の淡い光が弱く灯っている。燃え尽きそうな蝋燭は間もなくその役目を終えようとしていた。
蝋燭の寿命が今日の寿命か。謎の発想に至った明人は再びリリティアに旨を伝える。
「オレも大陸の東側に興味があるんだ。今まで色々な国にいって色々な種族と会って交流してきたじゃないか。だから――」
「ダメです。私の護衛なしというのも相乗して余計にダメです」
「……かけ合わせちゃうのかぁ」
剣聖による息つく間もない一刀両断劇だった。これには明人もがっくりとテーブルに突っ伏すしかできない。
リリティアのほかほかに蒸したリンゴのような頬はぴくりともほころばない。さらに目はじっと閉じたままだ。
ドラゴンクレーターにいきたい、護衛の代わりはいる、だから手は煩わせない。彼が優しく己の意思と計画性のあるところを見せ――伝えた辺りから、ずっとこの調子。返す言葉の端々に否定が着いてくる。
別に明人が旅行に行くだけの話なのだからリリティアの許可は必要ないはず。だが今まで守られてきた人としては仁義を切る――了承を得て筋を通すのが最低限の礼儀だと考えた。
それにこのまま負けてばかりでは男が廃ると、テーブルの上から再起する。
「オレだってもっとこの世界のことを知りたいんだ。今日戦ったタグマフやらスードラやらとももっと交流を深めたりしたい。それであわよくば――」
「あわよくば、なんです?」
結っていない濡れた髪のむこう側で澄んだ金色の瞳が光った。しかし頭は正面をむいたまま。
リリティアに軽く睨まれた明人は、パイロットスーツに手を添えて1度呼吸を整える。
「あ、あわよくば……だな。あーわよくば……あわよくばー……」
意外と言葉がでてこないに驚きつつ、焦った。
まるで親に悪事がバレて叱られている子供。それもついた嘘がバレる寸前の感じ。
蛇のひと睨みだけで、口八丁手八丁が得意な嘘つきのボロがでかかっている。
――あれ? オレってこんなに世渡りが下手だったっけ……。
頭のなかは真っ白で、脳みそは混乱しっぱなし。
「…………」
その間もリリティアは問いかけたままの姿勢でまんじりともせず。ただじっと、横で踊る明人を目だけで見据えたまま美しい彫像のように動かない。
なんでも言いようがあった。当然それは彼の頭どころか口先が覚えている。
鉱石を採りにいきたいでもいいし、あちら側に群生する植物を観察したいでもいい。はじめは拒否されてもそこから会話を繋げられる。それなのになぜだか明人は嘘がつけなかった。
このままでは完全敗北が決する。そんなときテーブルを挟んだ蝋燭のあちら側で、2色の瞳が揺らぐ。
「ねえ? ちょっといいかしら」
両肘を置き頬杖をついたユエラは暇そうに足をパタつかせている。
彩色異なる瞳が蝋燭の光を反射して淡く清い光が浮かぶ。ゆったりと余裕のあるスモークグリーンの薄地が突起する丘の辺りからストンとまっすぐにテーブルの下へと落ちている。
あまり重ね着をしていないため他者にはあまり見せない姿。彼女もまたナイトウェアを着込んで寝る準備は万全だった。
流れが悪いことを察した明人は「かなりいいよ」と、懸命に、なんども頷いてユエラの発言を待つ。
「ドラゴンクレーターって誰でも入れるの? 文明との交流を拒絶しているなら入り口で止められちゃうんじゃない?」
至極まっとうな意見。
目で問うように明人がリリティアのほうへ首を巡らすと、目と目が合う。
彼女は、あれからもずっとこちらを見ていたのだ。
「…………」
「うぐっ……!」
次に目を逸らしたらきっとリリティアは立ち去ってしまう。
なぜかそんな気がした明人は、張り詰めた糸を緩めるようにして肩の力を抜いた。
そして糸の切れた人形のようかくり、と頭を垂らす。軋んだまま伸びた黒い髪束が空気を含んで揺れた。
「それも考慮して入れるように頼み込んだんだ。フィナセスだけじゃなくて、さっきの別れ際にもうひとりの協力者を用意したから」
お手上げ。蒔いたネタを正直にバラす。
すると「ふーん」なんて。味気ない返答の後「ならいいんじゃない?」語る口ぶりは軽い。
「だって明人がここまで準備してるってことは――つまりそういうことでしょ?」
ボリューミーな箇所の下で腕を組むと、垂れた布が巻き込まれて余計に淫靡に映る。
肉感的な胸を息に弾ませながらさも当然とばかりに、ユエラは皿のようにした手を差しだす。
「なにがあろうともあの地に足を踏み入れることは自惚れに他ならないんです。どれほど計画を練ったところで無意味です」
いっぽうひさかたぶりに口を開いたリリティアも淡々と述べるだけ。
「でもコイツだってそれくらい知ってるはずよね。なにせリリティアと一緒に暮らしているだから」
「龍族にだって性格は個体によって異なります。もし気性の荒い龍にでも見つかればなにをされるかわかったものではないんです」
「だからそれは性格の話でしょ、私が言いたいのは龍の強さを理解してるってことよ。そんな場所に無策で乗り込んでおめおめとやられるようなタマに明人が見えてるわけ?」
声色も変わらず、表情もまた同様に。それがよけいに水面下での争いを漂わせている。
ユエラとリリティアは粛々と意見をぶつけ合う。
「そうは思っていません。それにユエラだってクレーター内の事情を知らない。なら明人さんを止めるべきではないのですか」
「明人は私のものじゃないわ。それにコイツが自分からなにかをしようとしているのを、私に止める権利はないもの」
「私だって明人さんが誰かのためではなく自由にしてくれるのを常々願っています。ですが危険に飛び込むのを止めるは家族の務めのはずです」
板挟みにされた蝋燭の火が気の毒に思えてくるほど冷たい舌戦。艷やかな唇が夜に似合わぬ音を奏でる。
目に映るものと聞こえるものの2つの意味で圧倒された明人は閉口したまま。一切の口を挟めないでいる。
ふたりがまだしゃんと背を伸ばしてイスに座っていてくれることが彼にとっての救いだった。このふたりが戦うことはあってはならない。だって止められない。
「なんでそんなにわかってあげないのよ?」
「……なにがですか。私がなにをわかっていないと言いたいのです」
背もたれにとっぷり寄りかかるユエラへ、リリティアは下から睨みつけるような視線を送る。
そして明人は為す術もないことを痛いほど知りつつ、とりあえず身構えておく。
「……」
「……」
先ほどまでの言葉の応酬が嘘のように静寂へ。
ふんぞり返って見下すユエラに、肩をすぼめて見上げるリリティア。
このままではイスの上の攻防から徐々に床の上の攻防へと発展しかねないほど緊迫している。
「ひとつ言っておくけど、私はコイツが自由に動こうとしているなんてひとことも言ってないからね」
「そんなものはただの詭弁です。議論に言葉遊びなんて必要ありません。それも大切な家族の生涯を左右するほど重大な事態であればなおのこと」
指紋ひとつない4角に切りとられた風景に星々が歌う。
空には褒められ慣れた高飛車な月が今日も飽きずに浮いている。黄色でもなければ欠けることのない紅と蒼の月だ。
人の目と種の目。互いの目にその空はどのように映るのだろう。
割れぬはずだった空は、間もなく割れようとしている。もはや一刻の猶予もなく。別の世界と同じ末路を歩もうとしている。
それはともかく。
ユエラは、真剣な表情でイスを軋ませ立ち上がった。
「コイツが自分から動くなんて誰かのために決まってるでしょ」
ふと明人がそちらを見ると、そちらもこちらを見ている。
「……も、もしかして私のために、です?」
その上、リリティアはの顔は火がでるほど真っ赤になっていた。
そしてドラゴンクレーターへむかうことの許可が降りた。
必ず彼女のもとに帰ってくることを条件として。
………………
剣風舞う。一切の淀みない剣筋。
ひと突きで胴獅子と鷹頭の中間にざぶりと切っ先が沈む。
「――Gebe!?」
輝く魔剣に呼吸を止められたグリフォンは苦しみ悶え、フックのような鳥の足をジタバタとさせた。
激しく広い両翼で羽ばたくも空には帰れず。手のひら台の羽が踊るなか、くちばしからごぼごぼと血のあぶく吐いた。
暴れる敵を貫いたまま、剣のもち手は氷のように冷たく死を宣告する。
「獰猛ゆえに狙う相手を間違えたわね。観念なさい」
揺らぐ三つ編み、白光する剣身。祝福を受けた聖騎士だけが扱える魔法――《聖剣》。
女性は細腕1本で巨躯の魔物を地上に縛りつけていた。
敵との体格差は長身な彼女よりもおよそ倍はあるだろう。体積でいえばもっとだ。
「G、Ge! Geee!!」
「アナタは空からの不意打ちでどれほどの冒険者の魂を食らったのかしら。イヤに慣れているからひとりふたりではきかないんでしょうね」
白光する剣身が幾何学的模様を描きそれでオシマイ。
フィナセスは祈りとともに剣を立て、背後でごとりと鷹の頭が鈍い音を鳴らした。
巨躯の別れた箇所から血の柱が上がり下生えを紅へ染め上げる。横薙ぎに治れた獅子部分はしばらくもがいた後、両足を揃えて動くことをやめる。
「祈りなさい。さすれば仲間と同様の安寧の場で眠れるはずよ」
魔物の死を横目でチラと見たフィナセスは、作法のような動作で血振りをくれ、剣を鞘にすらり叩き込む。
赤く咲いた大地の上に佇む1輪の白き強き花。どこか色気の含んだ動作で肩に銀の三つ編みをかけ直す。
地に伏した魔物の群れ。どれも寸分違わず、喉やら首やら心の臓やらを破壊され、帰らぬ者と化していた。
『ひュう! やるたァ聞いてたけドマジやるねェ! ひとりデあの数を相手にしなガらこッちに1匹もくれやしねェ!』
「ふぃなすごーいぱちぱちお見事」
すかさず黒い帽子と、その飼い主から称賛の雨があられが飛び交う。
ぱちぱちと小さく手を鳴らすムルルの上から、石と石をぶつけるようなチャムチャムの声が耳やかましい。
びょいんびょいん、と。ゴムみたいにしながら曇天の空にむかって星の飾りが伸び、縮む。
――リリティアがあんな簡単に許可をだした理由がわかってくるな。確かにそこらの連中よりもずっと動きがいい。
遠巻きに明人も彼女の圧巻するほどの強さを再認識した。
「私の主な任務は聖女様の護衛だからね聖騎士の得意分野だもん。かっちり守ってずびゃっとがんばっちゃうだから」
だが気を良くしたフィナセスがへんてこな踊りをはじめるも、もう誰も彼女を見てはいない。
馬車の荷台では、これからの旅路を憂いての簡易会議がとっくに開かれている。
「ふぃなは強いけど、魔物の数もすごいよ? このままいって大丈夫かな」
『それな。北東にむかうなら誘いの森沿いは避けるベきデしョ、常識的に考えて』
つい先ほど誘いの森からでたとはいえどもだ、ここはまだエーテル領の南側の位置にある。
悪意の漏れる誘いの森では常日頃から魔物同士の派閥争いが繰り広げられていた。上級や突然変異種、またはリリティアに追いだされた強力な魔物も少なくない。
風当たりの強い荷台にどっこらと腰を据えた明人は、開いた地図を猫背になって眺める。
「予断は許されないな。かといって今の季節は天候が崩れやすいけど……それが助かるんだ」
さしあたって目算した魔物の数よりも多いこと。たまらず「うーん……」と、唸らざるを得ない。
『荷物なんてもッてこなくてもよかッたデしョーよ。そしたらおッかねェ巨乳の女王様に頼んデ聖都からスタートデきたジャ~ん?』
「冒険ならそれでもよかったんだ。だけど今回のこれは旅だからそれじゃダメだな」
彼の返答に『ドうちゲーのよ?』と、チャムチャムが疑問とともに横へかたむく。
よく見れば幅広のツバの下でもムルルもへたり込むような格好で、三つ編み2本をかたむけている。
「快速なら2日、長く見積もっても3日ないし4日で目的地には到着する。だからといって旅はそこで終わりじゃない」
説明をしながら明人が地図に指を走らせると、眠たげな琥珀色の瞳がそれを追う。
小さくすぼまった唇から「おうふく……?」なんて。自信なさげにぽつんと漏れた。
明人は、幼いのに賢い彼女の頭を帽子越しに撫でてやる。
「もちろんそれもあるけど、それ以上に滞在のほうが大切なんだ。滞在期間も未定だし、なによりむこう側の文化が発展していないところを鑑みての大荷物ってわけ」
久しく臭わない大きな手が撫でる感触は、布のそれだ。
されるがままに「おぉう」と頭を揺らして感嘆するムルルの上。チャムチャムも『よせやい照れちャうゼ』なんて、主の功績を横どりしようとしている。
「むこう側にいって冷たい飯なんてイヤだろ? オレたちはサバイバルをしにいくんじゃないんだからさ」
そう言って明人が指を振ると、ムルルは首がとれそうなほどの勢いで頷く。
「わかる。食べ物はすごく大切だよ」
『ジャあオレちャんもわかッてやるゼ。ワタシちャんさんのマナしか食えねーけドな』
そんな少数でも賑やかな屋根なしの荷台では、物が積載量ぴったりくらいに詰められていた。
食料はもちろんのこと、水、砥石、変えの武器やら、予備の車輪やら、薪、鍋などの台所用品などなど。長旅に必要な物はあるていど揃えられている。
もちろんこれらは保険だ。利己的であって臆病で警戒心の塊のような人間が用意した積み荷。いざとなったら腰のポーチから薔薇のベル――メリベルをとりだせばコトもなし。
「ま、止まっていてもしょうがない。とりあえず誘いの森はおっかないから北東方面に上りつつ考えよう」
魔物が去って安心した様子で一角を生やした跳ね馬が偉そうにぶるると笑う。
「おーいフィナ子そろそろ出発するぞー! 馬を扱える御者はオマエだけなんだから早く戻ってきてくれー!」
そろそろ出発の頃合いとみて明人は呼んだ。
そちら側ではフィナセスがまだひとり魔物の屍の中央で謎の踊りをつづけている。
複数の意味合いで残念な美女がひとり芝居をはじめてしまっていた。
「そこで私がびゃーっと斬り伏せて次の魔物が飛びかかってきたのを同時にすかさずどぅるびゃしっ!」
「現実に戻ってこーい」
「ここからさらに護衛対象を確認することも忘れちゃダメ! 要は危険予測が護衛の基本であって戦いの基本でもあるのよ! ……ほへ?」
呼び声に反応したかと思えば、どうやら自分に注目がむいていないことに気づいたらしい。
「ねー聞いてるー!? もっとがんばった私のこと褒めてってばー!? ねーダープリー!」
大股でフィナセスが戻ってくる。しかし歓迎はされていない。
荷台からひょっこり首を伸ばした明人とムルルが寒々しく見届けている。
「……よくアレと暮らせるな。オレだったらストレスで胃が荒れそう……」
「ぁぅ、慣れた。辛いのは意外と最初だけだよ」
『アレはアレデ、オレちャん嫌いジャないゼ。風呂上りとかパンイチデ歩きまわッてメチャンコドエロイし』
先行き不安を抱えたまま、一党は目的地であるドラゴンクレーターを目指す。
そしてもっとも弱い者が指揮して一行も声を上げる。
「ともかくサーガ神殿までいくぞー! そこで警らの龍と待ち合わせしてるからなー!」
白馬のいななきを耳に、ちぐはぐな連中の旅はまだはじまったばかり。
……………




