402話 絢爛愉快なピザタイム
誘いの森に住まう物好きたち。そんなドゥ家の面々がようやくそろったということで昼過ぎの少し遅めな朝食をとっていた。
それも今日はいつもと少し違った開放感。各々が青空の下に集い囲むのは、タグマフの来訪前から明人がこしらえていたとある調理器具である。
香草と発酵された乳製品がたっぷりと乗った円は、まるで秒針のない時計盤。それでいて知育に使った画用紙のよう。まさに自由をテーマとして塗りたくられた絵だ。
陶器のように白く滑らかな指がひらたい切りそろえられてなお円の生地へと伸びていく。
まずはひとつ。二等辺三角形の欠片をもちあげると美しい円が欠けた。
「いっただっきまーすっ!」
心躍る軽やかな音色が流れ、食材に感謝を送ることも忘れない。
期待に満ちる彩色異なる瞳。蜂蜜に濡れた色と新芽の如き新鮮な色の新緑色。
手にしたそれを2度にわけてふーふーと唇を尖らせて冷ます。それから勢いよくあむぅ、と齧りつく。
先ほどまでぷつぷつとオフホワイトの気泡が隆起をしていたばかり。とろりと粘り強く、彼女の唇の隙間を繋ぐ橋となる。
するとなかなか切れないことに業を煮やし、ままよとばかりにぱくりと頬張ってしまう。
チーズのとろみ負けぬ笑顔の花が咲く。噛みしめるたびに燻製肉に野菜にと見た目にも負けぬ味わいが口から鼻からを抜けだす幸せ。コクととろみのカーニバル。
親の仇ほどかけられたチーズは、脂肪が多く味わい豊かなタウロス産ミルクが原料となった品。しかし採れたての肉と野菜もまたタウロスチーズに負けじとも劣らぬ絶品だ。
脂に濡れた唇が奏者の如き美しい指とキスをする。手についた赤く甘酸っぱいソースも逃さない。舌を這わせて舐めとっていく。
そしてすかさず次の高脂質を両手で掴んで、にっこり笑顔。
「――ぴざっ!」
ユエラ・L・フィーリク・ドゥ・アンダーウッドはまぐまぐと焼き立てピザをたいらげていく。
頬が汚れることすらいとわず。ピンと伸びたエルフ耳が元気に揺れ動いている。
現在、龍との激闘を終えた一党はピザ祭り――ピザタイムを開催していた。
ユエラの手によりあっという間に減っていく朝食。同様の生活のリズムでひとつ屋根の下。となれば腹が空くのはエルフも人間も同じ。
手製のピザ窯の実験がうまくいっていることに安堵しつつ、明人も彩り豊かな生地へ手を伸ばす。
「あっ……」
すると別から伸びてきた手がひょいと目的のピザを奪っていった。
空を掴みかかった手。目を丸くしながら隣を見れば、三つ編みとロングドレスの白い裾がひらりと翻る。
「あーんしてくださいっ!」
テーブルの上にはまだいくらかの余りがある。だが隣には白百合の如き笑顔がある。
すかさずリリティアは「あーん」と、明人を急かす。
その行為に明人は僅かながらの照れを感じつつ、感受することにした。
「わーい! 明人さんが私のピザを食べてくれましたー!」
リリティアは空いた手を両頬に添えていやんいやんと全身を左右に揺する。
金色の髪に止まって羽ばたく青いリボンに、ちょっぴり血色の良い頬。どうやら嬉し恥ずかしは彼女も同じだったらしい。
そしてそのまま明人の腕にしなだれかかり、すりすりと頬をこすりつける。
「いつになくゴキゲンだね」
「近ごろはいっつもゴキゲンですー! でも今日はいつも以上に特別な日なのでもっとゴキゲンですけどね!」
されるがままの明人も振り払うことはせず。腕に絡みついているあったか存在が喜んでいる様子についついフッ、と頬を緩めてしまう。
それに近ごろのリリティアときたらなにやら暗かった。
別にため息をつくでもなければ笑顔が曇っていたわけでもない。それでも明人にとってはなんとなくわかっていた。だから龍と戦ったなんて、口が裂けても言わないが。
「まさか明人さんが岩龍を倒す直前に――オレのリリティアは渡さねぇ、なんて口にするとは思わなかったです。やっぱり興奮していると心の声ってもれちゃうんデスネー」
「――ンんッ!?」
不意打ち。タイミング悪く口内の食べ物が器官に入りかけた明人は必死に胸を叩いて飲み下す。
しかしそうやってる間にもリリティアは両手で頬を包みながら腰をふりふりと揺らす。
「あんなかっこいい瞬間にあんなこと言われちゃうと惚れ直しちゃうじゃないですか。もう、もう、もうって感じですねー」
「オレそんなこと言った!? あーチョット待って思いだすから……――やっぱり言ってないよね!? 記憶を都合よく改ざんするのやめてマジで!?」
「はぁん……あんな男らしさを見せられたらもう私は陥落です。あとでテレーレにもこの幸せを伝えなければなりません」
「おいこら聞けっての! あとさり気なく誇張した情報を拡散させて外堀埋めるのも禁止!」
明人が掴みかかりにいくもリリティアはひょいひょいと軽やかなステップで躱していく。
岩龍のそれとはまるで動作の質が異なる。やはり彼女は龍のなかでも特別な存在。長きに渡るこちらの生活で種の体に慣れている。
「こっちですよー! もし明人さんが私を捕まえられたら、ちゅ~してあげますよ!」
リリティアは可愛らしく前にかがみパチリと片目を閉じた。
白く長い指をにっこり描かれる桃色の唇に添えてちゅっ、と軽めにキスのマネごとをする。
「うわー内堀まで埋められて四面楚歌!? なにその姑息な作戦!? 最強すぎてオレでも手の打ちようがないんだけど!?」
そんな犬も食わぬやりとりもここ最近では久しぶりだった。
告白の答えを待つ間のリリティアはおとなしく、明人も忙しい。同じ空間を共有していても顔を合わすのは食事の時間くらいとなっていた。
だからか、もしくは龍の案件が有耶無耶になったからか。どちらにせよリリティアは兎が跳ねるみたいにテンションが高い。
「さてっ! そろそろ焼き上がるので明人さんをからかうのもこれくらいにしておきましょうね」
ポン、と。麗しい顔の横で手を打ちピリオドとなる。
なかなかに激しいやりとりだったにも関わらず、息ひとつ乱している様子はない。
「明人さんももっともーっと食べてください。そんな少食じゃ大きくなれませんよ」
「ハァハァ……タグマフと試合したときより疲れてるんだけど……。あとオレもう成長期終わってるからね……」
やはりというか人間はぜぇぜぇと岩龍戦以上に喉で呼吸していた。
そこからもリリティアの手によってひっきりなしに焼き上がっていくピザたち。調理するさいには若奥様風パステルグリーンのフリフリエプロンも忘れない。
紅々と燃え滾るピザ窯のアーチ状へ素手を突っ込む。そして焼けたピザを引きずりだし、さらに新たな生地を投げ込む。焼き上がったピザがテーブルにどんどん追加されていく。
「じゃんじゃん焼いちゃって! 私ピザだーいすき!」
そしてユエラはその襲いくるピザたちを次々に攻略していった。
その光景にヘルメリルは若干押され気味な様子。
「……寝起きだというのによくそれほど食せるものだな」
「ピザは別腹ですから! 女王様も遠慮しないでもっとたくさん召し上がっていってくださいね!」
「う、うむ。けぷっ、ありがたくいただこう……」
嬉々として貪り食うユエラに対してヘルメリルの手はいっこうに進もうとしない。
手にもったピザは未だひとかけらぶんの半分ほど。もともと食が細い者にこの量のピザは暴挙である。
するといったん手が開いたのか、リリティアも彼女らと合流した。ひょいと、ひとかけらを摘みにくる。
「今日のユエラはずいぶんとねぼすけさんなんですねぇ、あむあむ」
「物凄い量の薬の作成依頼がいっぺんにきたのよ。だからシルルとチャルナにも手伝ってもらいながら徹夜しちゃったわ、まむまむ」
家族の団らん。ドゥ家では食事中の会話も楽しむ作法として考えられている。
ぱくぱくと未だ香り高い湯気を立ち昇らせるピザを消費しながら日常会話に興じる。
そこにヘルメリルが加わる機会も珍しいわけではない。
「デュアルソウル徹夜はいかんぞ。いかが労働とはいえ規則正しい生活を心がけねばお肌に悪い」
「ううっ……き、気をつけます……」
尊敬してやまない女王に叱られたユエラの長耳がしゅんと下をむく。
彼女はエーテル領にあるドゥ家のいち員だが、未だアンダーウッドの性を名乗っている。
それもすべてこの語らずのヘルメリルを敬愛してのこと。ともにLクラスと讃えられてもユエラにとってはエルフ女王をだいぶ上に見えているようだ。
そんな叱られてしょげる生き生きとした竹色の頭に、ぽんぽんと手が置かれる。
「しかし納期とは約束であり取引先との信頼関係を築く上で重要なファクターだ。だからがんばったことは褒めてやる。それに貴様が友を頼れるようになったことは喜ばしいことだ」
「あぅ……ありがとうございます……」
ピザを片手に、なでり、なでり。
撫でられる側も、ぽっ、と頬を桜色に染めながら両耳をブンブン振っている。
そんなヘルメリルとユエラの心温まる会話を、リリティアは頬をほがらかに和らげにっこりと見つめていた。
「うふふっ、メリーったら。小難しいことを言わずにユエラのことが心配だって正直に言えばいいのに、相変わらず面倒くさい性格ですね」
家の前でピザを囲う。文字通り毛色の異なる美女たちがピザを片手に交友を楽しむ。
するとふとした感じでリリティアはピザを頬張りながらも、顎のあたりにピンと反らした指を添えた。
「ところで依頼はそんなたくさんなんです? 戦争が終わったというのに不思議な話ですねぇ、もむもむ」
きょとんと小首をかしげると彼女の丸い腰の辺りで三つ編みの房が揺れる。
「明人経由の依頼だから依頼者はわからないのよね。でも前金まで一括で貰っちゃってるからちょっとがんばっちゃった、はむはむ」
「ふぅん? まあ薬品は冒険者たちの必需品ですしね。いくらあっても在庫を抱えず買い手が枯渇しないので商店でも稼ぎ頭なんでしょうかねぇ」
つづけてリリティアが「ところでもう1枚焼きます?」と問いかけ、ユエラは「おねがーい」なんて。まだまだピザは焼き上がる。
このルスラウス大陸にもピザがあってなんらオカシイことではない。
なにせ米がない代わりにパンが主食だ。小麦を挽いて水で溶く、これはパンの作りかたと酷似しているため誰かしらが思いつく。
そもそも明人だってピザが売ってたからピザ窯を作ったくらいなのだ。つまりピザはルスラウス側でもメジャーな食べ物だった。
しかしだからといって既存の品を作ってやる必要なんてどこにもない。地球側の技術の流出は天界によって止められているが、食文化の流出はその限りではない。
「クックック……! 舌が有能なリリティアに似た味を作らせて、ようやくこのときがやってきたんだ……!」
女性陣たちとは異なる場所では、別の作業がおこなわれていた。
凶悪な笑みを作った明人は、なにやら企み顔な感じで喉を奏でている。
「まさか白ワインと蜂蜜でみりんの再現ができるなんてなぁ。へへへ、待ってろよぉ……」
龍との戦闘で体に疲労は残るがなんだかんだと一段落がついた。
ならば本日予定していた懐かしの故郷の味を再現するという野望を果たすのみ。
そんなマッドな料理人の背が少し強めに叩かれる。
「おいこらNPC」
ノンパワーキャラクター。略してNPC。そんな呼びかたをするのはバリっている彼女くらいなもの。
刷毛を動かす手を止めて振り返れば、明人の予想通りヘルメリルがしかめ面で立っていた。
「近ごろやけにつき合いが悪いと思えばピザ窯なんぞを作っていたのか?」
明人が「いやぁ照れるね」と冗談めかしながら頭を掻けば、「褒めとらん」と決まった返しが返ってくる。
ひとりと1人は割りかし気心知れた間柄だ。なにも彼が大陸中を駆けずり回ったのはリリティアとユエラだけではない。互いに頼るときは頼るし、頼られれば二言三言くらい文句を言ってから請け負う。
そんなヘルメリルだからこそ彼に対して言いたいことがあるのだろう。
なにやら驚いたようなむくれたような感情の読めない感じで庭をぐるりと見渡す。
「なんだあの畑は……? 作物も育っている辺りだいぶ前から作っていたと伺える……」
まず1点にむいたのは木組みの家の庭に作られた畑だった。
「ヘルメリルって野菜とか嫌いなの? 採れたての野菜は鮮度抜群で美味しいよ?」
「そういう話をしているのではない。というか普通に私が野菜を食べている場面を貴様は見ているだろうに……」
もうじき季節的に新鮮なトマトにナスにきゅうりの夏野菜が熟すころ。もぎたてはもっとも食べごろに違いない。
しかし彼女は、クイッと顎を上げ別の場所へ視線をむける。まだ文句を言い足りないらしい。
「それに柵もあって、あれはなんだ? 伸びたロープについているのは鈴か?」
「警報装置だね。リリティアが周囲の安全を確保してくれてるとはいえ、たまに庭に魔物がでるからさ。オレとしては死活問題なんだよ」
次に指摘された箇所を明人はすんなりと解説する。
庭には家庭菜園もあって、森と庭の境にも木の柵まで設置されていた。
これらによってわざわざ近隣の村にいかずにすめば、弱者1人が外作業することが可能となっている。
すべて傍らに止まっている屋根つきの移動鍛冶工房で作った明人の手製だ。
「鍛冶でたんまり稼いでいるくせに農業にも手をだしたか。いくら娯楽がないとはいえずいぶんとモノ作りを楽しんでいるようだ」
「ニーヤの額くらいの畑だから作るのは楽だったよ。ワーカーで耕すと一瞬で作業が終わるしね」
もう1度黒い髪を振ってぐるり見渡したヘルメリルは、不満げにツンと唇を尖らす。
顔には、この私が飲みに誘っているのにあんなことのために断りつづけていたのか。そう書いてある。
働くことこそ宙間移民船造船用4脚型双腕重機の得意分野である。開墾が正しい使いかたかははなはだ疑問であるが戦うよりは遥かにマトモな使いみちであろう。
ヘルメリルは浅く吐息を漏らし、明人を一瞥する。
「貴様が楽しんでいるのであればそれで良いさ。あーいやだいやだ与えられた寿命を土臭く浪費するとはなぁ」
そうやって子供のようにぶすくれながら踵を返す。
ふわりと黒いチューリップのように長尺のスカートが広がり、細い足首がちらり。
この寂しがり屋な女王様を前に、明人も少々後悔するというもの。
「イジケルなって……」
「……イジケてない」
一瞬チラリとだけ紅の瞳がこちらを認め、ふいと逸れる。
「あーもう……次から誘われたら作業を中断してついていくから許してくれよ」
明人が肩を落としながら提案すると、ヘルメリルはこちらをむいてフンと勝ち誇るような笑みを作った。
偉そうに腰に添え背をそらす。揺れた豊満な箇所が跳ねて沈むのをほれ見よとばかりに胸を張る。
「ならば次もまた狂宴の儀に誘ってやるとしよう! これは無類なき慈しみの女王からの褒美! 貧困な弱者へ与え給うひとしずくほどの囁きだということをゆめゆめ忘るるでないぞ!」
居丈高なセリフの合間にも長耳が上機嫌にぴこぴこ可愛らしく上下する。
エルフの耳は動物の尾と一緒で感情のバロメーターだ。こんなに喜ばれてしまっては前言を撤回することなんてできるはずがない。
「さて、それでは馳走になった。私はもう帰らせてもらう」
「あれ? 今日の夜にでも飲みいこうって流れじゃないのか?」
「他種族間会議が長引いている。明日も聖都で会議があるでな、ちんたらしてられん」
ヘルメリルが胸の谷間からはらりととりだしたるは桃色のハンカチ。カラフルな花柄模様で染色がキュートな品だ。
それでさほど汚れていない口を清潔なハンカチで拭いながら立ち去っていく。
明人が長い銀のヘラ――ピザピール――を用意しつつ、遠のいていくヒールの音のほうへ尋ねる。
「オレの特製オーガニックじゃないオーガ肉の乗ったこってりピザ食べていかないのー?」
「聞いただけで胃がもたれそうだ。これ以上胸部が重くなるのも肩が凝って考えものだ。気持ちだけ受けとっておこう」
「そっか。それとさっきテーブルの上に置いてあった空色の水薬の追加、ありがとうな」
ヘルメリルは振り返りもせず、さっ、と手を上げ礼に応える。
それから語らずして大扉を出現させ、颯爽と大扉の魔法のなかへと消えていった。
打てばよく響きそうな分厚い大扉が消滅するのを確認し、彼もまた作りかけている料理を再開する。
「会議ねぇ。どうせあの紅い月関連だろうし関わらないでおくかな」
すでに丸く整えられたピザ生地の上へ菜箸で食材を散りばめていく。もちろん菜箸の尻の部分には840の文字。
白のパレットに色を入れる感じは絵を描くような楽しさがあった。作って楽しい食べてオイシイ。そんな両どりができるのは料理人だけの特権である。
「最後にこの特性のタレをかけまして、っと」
明人は仕上げに、ボウルに作り置いたタレを2段階にわけてたっぷりと塗りつける。
黒糖を蕩かしたような淡く透けた黒ダレ、さらにその上から格子状に白いラインが描かれていく。
最後はピザピールに乗せてピザ窯にしばし封じて焼き上がりを待つだけ。リリティアのように素手でやるようなマネはしない。
「フッフッフ、完成が待ち遠しいぞぉ……! もしこれが成功したら次はブリにも挑戦だ……!」
しだいに香ってくる懐かしい匂いに唾液が過剰分泌されるのがわかる。明人の腹が同期して期待の音を鳴らした。
心と体の意見がぐぅぐぅと一致して特性ピザの完成を今か今かと待ち望んでいる。代用品を完成させた今、和風ピザが窯のなかで産声をあげようとしていた。
そうやってこちら側では故郷の味を再現していると、あちら側からなにやら聞き慣れぬ少年の声が聞こえてくる。
「岩龍のやつー……どれだけお尻を叩いても起きないんだからなぁ。でも起きたら起きたで絶対にまたぼくをバカにするんだろうしなぁ……」
見れば、美しい青色のハネた髪のなかで渦巻くつむじ。
不幸の詰まった吐息とともにしょんぼり、と。小ぶりな頭を垂らした少年ががっくりと細い肩を下げて佇んでいた。
「……海龍」
明人は彼の横顔を見ながら手を止め、口を閉ざす。
岩龍を家に連れ込む前にされた自己紹介を暗唱する。
――海龍スードラ・ニール・ハルクレートか。敵意がないどころかなにかに怯えてるようだし、アイツからも龍の情報が集められそうだ。
情報が多いに越したことはない。彼のこれからやろうとしていることは、あの夜明けすらにも劣らぬ事象だ。
今その手には常識という決められた道理を翻す蒼はない。薬指にはめられた銀を基調としたブルーラインの指輪は、あのとき以降地上との干渉をやめた天界と同様に、黙したまま。
辛い戦いになる。それは予測でもなければ妄想でもない、絶対だ。
この世に存在する絶対とは生まれたならば死ぬことのみ。少なくともヤツらが現れるまでの人間はそんな道理に従って生きていた。
天を振り仰げば抜けるような青空に紅と蒼、2つの月。そして割れぬはずだった空が、ちっぽけな人間を置いてただただ流れていくだけ。
「あと足りないのは……魔物ていどには負けないくらい強くて龍族じゃないメンツなんだよなぁ」
未来の苦悩より今の悩み。明人は軋む髪をぱっぱと払いながら慮る。
焼いているピザ窯からあふれでる香りが、ドゥ家を中心にどんどん世界へと広がっていく。
どこまでも、遠い遠い空の彼方へ。和と洋の織りなす酸味と甘味の二重奏が、風に逆らうことなく流れさていく。
……………




