306話 それではまた……ここから
窓からさすオレンジが濡れたアジサイ色になるあたり。
――日が伸びたなぁ……。
なんて。明人は、ユエラの席に陣どったリリティアを見る。
くぅくぅ。それほど酒に強くはないのに火酒を飲んでしまったためか、すっかり夢心地。
リリティアは、なかなかに年季の入ったカウンターに突っ伏して静かに眠っていた。
豪華な金色色した髪のてっぺんで、角のように生えた青い蝶の羽、明人の贈った青いリボン。
長い紐部分を三つ編みに無駄なく巻き込んでおり、余すことなく。
酒場の喧騒は酔いを増すごとにどんどん険しくなっていく。
しかし寝坊助が1度深い眠りに落ちたら起きないことは明人がよくわかっていること。
「龍って風邪ひくのかなぁ?」
言いつつ、立ち上がってさらに隣のイスからユエラの脱いだ外套を拾い上げる。
いつもよりも深めに呼吸し上下する痩せてなお柔らかい肩にかけてやった。
とても剣聖と呼ばれる女性とは思えない油断しきった感じ。駄賃とばかりに、明人はすやすや眠るリリティアの頬を指で突っつく。
「…………」
指を通して伝わってくるなんともいえぬ心地よさ。
回った酔いのぶんだけ火照った肌は少しだけ汗ばんでいる。
押すたびに指を飲み込む。引くと淡い弾力をもって戻り、ふるると軽く波を打つ。
「別の場所に割り振られる栄養がほっぺに集まったのかもなぁ……」
眠ったリリティアほどおとなしいものはいない。
普段が自由気ままなだけに、こうした鎮静感がより顕著だ。
眠った顔は穏やかで、とても龍なんて厳かなものの気配は微粒子ほども見つからない。
剣聖と崇められる大陸最強の剣士の女性。自分を好きだといってくれた女性。
剣をもてば凛々しく、エプロンを帯びれば母性にあふれ、笑った顔はぬいぐるみのように愛らしい。
その頬を明人は思うがままに、突く。
「むぅん……?」
気もちよさそうに眠っていたリリティアが、整った眉が寄せるのも気にせず、突く。
1滴の波紋ではすまさない。頬で津波を起こすように、超高速で連打する。
速度を意識するためさほど強くはない。しかしむっちりとした餅の如き頬肉が躍動する。
「あらおらおらぁ!」
「んむ、むむぅ……!?」
穏やかだろうが気もちよさそうだろうが、明人には関係がない。
世間知らずの令嬢のように、こういった場で無防備を晒すほうが悪としていた。つまり、油断している方が悪い。
酔い潰れて眠るほどの悪手は存在しないだろう。そしてその据え膳を逃すわけもなく。
「むぅぅ……!? んむぅぅっ!?」
「乱射効果ォォ!!」
好き放題に弄ばれてうなされる剣聖。
酒の席が粒のようにざわめき、冷ややかな目で密談をはじめる。
「け、剣聖様が相手とはいえ女性の寝顔になんてことを……」
「な、なんて威圧感なんだ……! 誘いの森に住まうだけのことはあるぞ……!」
「あれが聖都で暴れたという蒼の……ふ、ふーにく? ――あの蒼様なのか!」
だが明人は構いはしない。ここぞとばかりにぴょこんとキューティー・ロガーが危ない衣装で飛びついてくるのも気にしない。
はじめからずっとやられたらやり返してきた卑怯者の流儀に、今なおいっぺんの曇りなし。やれるときにやる。
とはいえリリティアは痛いのならば起きるし、もし自身の危機を察知すれば目にも留まらぬ早さで腰の剣を抜く。
だから安心して明人も彼女で遊ぶことができていた。
「こーらっ! 眠ってるリリティアにちょっかいださないっ!」
するとクロト一党たちと店をでていたユエラが戻ってくる。
ウェスタン風のドアを勢いよく押し開き、しなやかな足を繰りだしてやってくる。
「なんでアンタはリリティアに優しくしてあげないの!? イジワルなんてしてないで、いっそ寝室に連れてって抱きまくらとかにしてあげればいいじゃない!?」
明人の前で立ち止まり、微かに眉根をよせる。
口調は有無を言わさぬような感じ。
怖いお姉さんが戻ってきてしまったので――名残惜しいが――突くのを止めざるをえない。
「……いっそ、の間になにがあったらそうなるの? もうそれゴールインだよね?」
明人が朴訥と応じると、ユエラはゆるく首を傾げた。
「今さらなにいってんのよ? たまに私たちの布団に潜り込んで一緒に寝てるじゃない?」
彩色異なる目をぱちくりと瞬かせ、言葉通りに表情はなにいってんの? と語っている。
事実。明人はたまに――3日に1度ほど――両サイドを女性に挟まれて起きる日もあった。
しかしソレは個人の意思とは関係のない作為的に引き起こされた事象でもある。
「……それ、オレが寝てる間にリリティアが引きずり込んでるだけだからね? ……あと、オレにそんな大胆なことする肝があるとお思いで?」
ドゥ家にはおおよそ属性表のようなものが存在する。
眠っているリリティアに明人は強く、ユエラに弱い。なお、リリティアが起きているときの明人は四面楚歌だ。
しばし間を置いて店の出入り口方面から、両手を双子に掴まれたクロトがとぼとぼと入ってくる。
身にまとうは、ベリーダンスでも踊るのかという肌だしだしの黒い衣装だ。
チューブブラのトップに、ウエストゴムから真下に大きく開いたスリットが色気を匂わす。くびれとヘソも臆面もなく晒されている。
歩くたびに胸を揺らし、あまつさえ太ももまでをちらつかせ、男女問わず客たちの視線を独り占めだ。
「僕、もうお嫁にいけないかもしれません……」
華やかな服装に比べてクロトの表情は、さながら燃えカス。
歩み寄ってきた夜の踊り子の肩に、明人がぽんと手を置く。
「クロ子ならお嫁にもイケルと思うぜっ」
グッドサインも忘れない。
「嬉しくないです……。あと冗談なんでちゃんと訂正してください……」
もじもじと恥ずかしそうなクロトに変わって、ユエラは自慢げにふんすと鼻を鳴らしてご満悦。
その証拠に長耳が風を斬るよう上下に振られっぱなしだ。
「どう明人!? この子に私の作った服を着せたら絶対似合うって本当だったでしょ!?」
さながら商品を売り込むように開いた手を差しむけ、クロトを進めてくる。
リリティアのエプロンからはじまり、すでにユエラの手芸は極まっていた。
もとから彼女は向上心と努力を具現化するような存在である。常に上しか見ていない。
毎日毎日エルフへ薬草を配達する日々が収束し、暇をもてあました結果だった。
明人の考えた作戦とはこうだ。
まず男性ヒュームに対して心的外傷のあるユエラに、クロトを女性ヒュームだと勘違いさせるというもの。
これはなにも明人が可愛いクロ子状態のクロトと旅行を楽しみたいだけではない。ユエラの心のリハビリテーションも兼ねている。
今や大陸でヒュームは――ほぼ聖都住まいだが――決して珍しくない。見つけるたびに苦虫を噛み潰すような顔をしていてはせっかくの美貌も台無しだ。
フィナセスの修行期間中ヒュームの妹であるムルルと数日の間ほど家屋を共にした今ならば、という細やかな気遣い。
そしてさらに別でも得をする者たちがいた。
「いやーユエラさんの作った衣装がこんなに似合うなんて思わなかったわね! こんな可愛い衣装がにあう幼馴染がいるなんて、私たちも鼻が高いわっ!」
「そ、そうだねっ! やっぱり可愛い女の子に着せる服は可愛くないとねっ!」
双子である。
少年にしては美少女っぽい、少女にしては美少年。そんなクロトは、とにかくモテるのだという。
男女問わず好かれてしまうオールラウンダーな彼が、双子の目の届かない場所にいってしまうとなれば悩みも多い。
息抜きはして欲しい。しかし旅行中に悪い虫がついてしまうかもしれない。
女に寝とられかねない。だったらいっそ男に好かれるなら別にいいかという安直さ。
「うぅ……。確かに可愛いけど足がすーすーする……」
対して白く色っぽい太ももこすり合わせるクロトもまた、ワーウルフ領にどうしてもいく言って聞かない。
奴隷街と工房しか知らないからもっといろんな世界を見たい。しかし護衛なしでイェレスタムの外にでるのも怖い。
そして全員の目標が一致したとき、絶世の美女が生みだされる。
「ゆ、ユエラさんが趣味って服飾だったんですねぇ……。あ、ちなみにオレ――僕のことはクロ子って呼んでください」
ちなみに明人は、ユエラはものすごく男ヒューム嫌いで自然界最強のLクラスという部分を作為的に切りとってクロトに伝えている。
もし男性ヒュームだとバレた日には、さっと湯通しされるぞ、ともつけ加えて。
「へぇ、クロ子ちゃんっていうのね? たしか明人がワーウルフ領に連れてくって言ってたヒュームもクロ子って名前だった気がするわ」
己の作ったサンプル品を試着させ満足そうにしていたユエラは、シャープな顎に指を添え思案顔をした。
「は、はいっ……おそらくですが……。その……僕も一緒についていっちゃだめでしょうか?」
控えめな上目遣い。口ではイヤイヤ言っているが意外と乗り気にも見えなくもない。
もしクロトが男だと知っていてもときめきかねない愛らしさ。明人があらかじめ伝授しておいたブリっ子の動作だ。
「――ダメじゃないわっ! むしろ一緒にいきましょう!」
なにもしらないユエラが陥落するもの必然といえよう。
ここぞとばかりに彩色異なる瞳をキラキラと瞬かせた。
「もしクロ子ちゃんじゃなくて男のヒュームだったらどうしようかと思ったわぁ……」
「……あ、あはは。あ、ありがとうございますぅ……」
「ふんふんっ! やっぱりこの衣装が似合うと思ったのよね! ぜひ可愛い女の子に着て見せてほしかったの! ちょうどよかったわ!」
「……褒められてるのに複雑だよぅ」
なにはともあれ、明日以降の予定は確定した。
後はニーヤの暴食を止め勘定を済ませ、リリティアを背負って宿に運びこめば良いだけ。
だが、明人はその場を動かずに丸イスの上から酒場を見渡した。
もう少し酒を楽しみつつ、ヘルメリルといつもの無益な勝負をしても良い。
同じ話を繰り返すゼトの酌をしながら愛想笑いしても良い。
踏ん切りがついたニーヤの尻尾をもふもふするもの良い。
幼女姿のドワーフの実力を知るためにアクセナと腕相撲をしてみるのも良い。
あげつらえれば他にももっとたくさんの選択肢がある。それはもう少しアルコールでふやけた脳がパンクしそうなほど大量に選択できる。
自由だった。
そして平和だった。
ここには閉ざしたはずの未来があった。
古い映画で見たはずのモノクロームな景色を見ていたはずの生に、色がついた。まるで虹のように。
「んっ……? なんだろ? なんか首の辺りがチリチリするような?」
ひくりと肩を揺らがしたクロトは、無駄に色気のあるうなじの辺りに手を添える。
それと同時に明人の目の前を、飛沫が通り過ぎる。
血のように赤く、火の粉のように紅く、燃え上がるような朱の粒子が大気に発現しては消え、また発現しては消え。
白き風が肌を撫でる。眠っていたはずのリリティアが弾かれかのような勢いで立ち上がる。
「そ、そんな……! まさか……直接なんて!?」
腰の剣をすらりと引き抜くも、こぼれそうなほど剥きだした濡れたルビーの瞳は虚空をとらえている。
「……狙いはココ? いや、聖都……? ということは……? 過ぎた……?」
口のなかで言葉を咀嚼するようにぶつぶつと。
しかし明人の耳にはすべてが筒抜け。
――女帝? 黄龍? どこにむかう? なにを言ってるんだ……。
断片的な情報を拾い集めながら脳が自然と演算を開始する。
剣呑とした危機を肌で感じつつも店内は未だ熱気に満ち、酒を嗜む者たちの騒々しさが残る。
そのなかにも酒を飲む手を止め、どこやらかを皿のように目を丸くして見ている者がちらほら。
明人が憶測という推理をはじめようとしたところで、刹那の間にリリティアの姿が横から消失した。
「――リリティア!? ……あー、ったくもう」
残されていたのは紅の残影と、穿たれた木床の穴。
これには頭を抱えるほかあるまい。
いっぽうでLクラスたちもひとり置いてものの見事にいなくなっていた。
なんだなんだと喧騒の波の合間を縫って、月のない夜空のような女性がこちらにむかってくる。
「ユエラ、貴様は明人のそばにいろ。私たちは少しでてくる」
あまりに不躾でいて唐突。
「……はい」
しかしユエラは決意の孕んだはっきりとした目つきで同意してしまう。
これほど置いてきぼりという言葉が似合う場面もありはしない。
「…………」
明人は口元を手で覆い、ヘルメリルに目で問いを投げる。
言葉なんて必要はない。片眉しかめ、睨めば感情くらいは伝わる。舐めるなよ、と。
「フム、いささか急を要する事態だ。あのアホウがなにをしでかすかわからんのでな、説明は戻ってからにさせてもらう」
そう言って踵を返したヘルメリルは、語らずして己の前方に厚き重き大扉を呼びだし、開いた闇のなかに消えていく。
とり残された店中の閑散具合たるや。見送った者たちは目に驚愕を浮かべ、なにごとかと先ほどとは色の異なるやかましさを口々に疑問を吐いている。
そして明人もそう。
――……なんかあったな? しかもかなりクソくらえな感じだ。酷く……嫌な予感がする。
パキパキと指の関節に溜まった空気を逃し、重い腰を丸イスからもちあげた。
腕の筋肉やら肩の筋やらを伸ばしつつ、鈍った体に血を巡らす。
それから店先に繋がっていたはずの吹き飛ばされたスウィングドアの残骸を目指し、1歩を踏む。
すると横から手が伸びてきて、油で汚れた余りの多い白い袖を引くものがひとり。
「待って。明人は私とお留守番よ」
呆然と事の顛末を無言で見守っていたクロトたち一党を背に、ユエラは意味深な笑みを浮かべている。
「それにどこいくつもりなの? アテもなく夜道なんて彷徨ったら魔物の餌になっちゃうわ」
嫣然というより蠱惑。キツめの目を女狐のように細めて、頬をほころばせた。
「さあな。とにかくワーカーのレーダーでもソナーでもを使って情報を集める」
明人が再度踏みだそうとしたが、ユエラは掴んだ袖を握り込んで離さない。
見れば、気さくな声音の割にぎっちりと白い布地を握り込んだ手がかすかに震えている。
「……離せ」
「イヤよ。明人にできることなんてなにもないし、私も女王様からアンタのこと頼まれちゃったもの」
「……なにがあったか知ってるって顔だな?」
「…………」
笑えない明人とは違って、ユエラはずっと笑顔を貼り付けたままだ。
しばし一方的だが睨み合う。戦友の死の香りを察知し動かないでいられるほど明人は大人ではない。
それでもユエラは離さない。
耳やかましい喧騒を聞きつつ、1人とひとりの間だけ不穏な空気を醸しだしていた。
「そっか……。なら、こうするしかないよな? 認識コード840、α型スーツを通常モードに変更」
だから明人は躊躇せず流動生体繊維のパイロットスーツに命令を下す。
パンツ代わりにしていた黒い微生物たちが水のようにせり上がって胸やら膝やらまでを侵食してくる。
最後はプログラムされた通り、手首足首と首のあたりでぴっちりと肉に吸いつくよう固着した。
そして明人は、上着を止める紐に手をかける。
振りほどくことができなかった。なぜか繋がりごと振りほどいてしまうような気がしたからだ。
するとユエラはシワになるほど握りしめていた白い袖からあっさりと、手を離す。
そしてその場でスカートを翻し、タンゴを踏むような舞曲な足どりでくるりと回る。
浮かんだ薄い布地が花弁のように開き、流れ、ツヤのある竹色の長い髪と短い三つ編みも一緒に踊った。
それから後ろ手に手を編み前にかがんで明人を見上げる。
「――今から私とふたりっきりでデートしましょ」
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