174話 ちっぽけな世界で生まれる奇跡 2
日常を愛した
偶然を避けた
和を乱すことを恐れた
そんな愚鈍な生活
そして
すべてが崩れ去った
名ばかり聖都は、都というだけあってかなり広い。
城を中央において北が奴隷街、南がエーテルたちの居住区となっている。
奴隷たちに割り当てられた領土は、それなりにあった。
しかしそのほとんどは、エーテルたちを下支えする畑や作業場など。
つまり、奴隷とは搾取されつづける者たちの総称である。そこに権利はなく、強制的に聖都エーデレフェウス国を発展させるための道具だった。
ゆるりと出入りが盛んな市場にやってきた面々は、いつものように食品を求める。
市場といってもここは、農耕役を割り当てられた者たちの居住地。エーテルたちが求めないクズ肉やクズ野菜ばかりをとり扱っている。
しかしそれでも利回りはかなりいい。右に左に立てられた粗雑な露店には色鮮やかな野菜や果物がおかれており構える者たちは、客よりも清潔な身なりをしていた。
それもそのはず。この街での商売とは、とり合いという勝負の勝者だ。
奴隷たちにも管理者に及ばすながら階級は、存在する。
回りの視線を物ともせず先頭を歩くサナは、丈長の襤褸から汚れたブーツを見せて歩く。
「さーて、今日は何を食べようかしら?」
合わせの留め具の隙間からちらりちらりと白い肌と実りの影を匂わせる。
定刻にスラムへ現れた2匹分の蝶。周囲の男たちは待ちかねたとばかりにその色気で鼻の下を伸ばした。
「うひょー見ろよォ! 昨日は下着だけだったけど今日は多分全裸だぜェ!?」
女性が眉をしかめるのをよそに男たちは、食い入るように前かがみになって双子を見つめる。
ふたりを見るためだけにこの時刻にこうして市場へ足を運ぶ者も多い。
「うぅ……。またみんな見てる……」
それが恥ずかしいだろう。顔を赤くしたルナは、内側から手で合わせをギュッと抑えて目を伏せている。
こそこそと背を丸めて尻を突き出す格好に、男たちの欲望の眼差しが集まった。
下卑た視線を送るものは、種々様々。しかし、やはりもっとも数を占めるのがヒューム。変に差別意識がないぶん鑑賞に遠慮もない。
それでもサナは、気にした様子もなくずんずん進んでいく。
自然とその先は、割れるように道が開いていった。
「こーらっ。ルナは気にしすぎよ? 私たちに手をだす連中なんていないわ」
「で、でも……恥ずかしい――ひゃんっ!?」
襤褸越しに突きでていたルナの尻を引っ叩く。
するとルナは、飛び上がるような早さで背筋を伸ばした。同時に胸部のそれが襤褸越しに大きく突きだされて、微かにざわめきが生まれる。
それをサナがキツ目で、キッと睨むと群がった視線がよそに逃げた。
「そういう感情がダメなのっ。ああいうバカ共は、全部物だと思いなさいっ」
「……う、うん」
「じゃないと……――ううん、なんでもないっ! さっさと晩ごはんかって帰りましょ!」
一瞬だけ怒りの裏に濃い影を見せるがサナは、振り払うように首を振って髪の束を躍動させた。
前を行くふたりに守られるようについていくクロトは、心に闇を滾らせる。
「…………」
結い上げられた髪。ゆらゆら揺れる尾っぽの根本、サナの首筋に紫色をした丸いうっ血の跡が増えていた。
まるでそれは、コレが自分の物であると主張するような行為。バアルノスがクロトの宝物に残した傷跡だった。
周りは決して可憐な双子に手だしをしない。なにせふたりは、管理者の物として認識されている。
変に手をだして管理者の怒りを買ってしまえば、魅了によって生ける屍、心無人に化けることとなる。
管理者は、地区ごとに存在しておりそういった事例も多い。だからこそ女性は、ある意味で守られていた。
「……」
「……」
砕けた石畳に目を落としたクロトを、サナとルナが心配そうに眉を曇らせて見つめている。
しかしクロトは、それに気づかない。
「あ、そうそうっ。そういえばさ」
会話の切り口を見つけるようにサナは手を叩いた。
表情をけろりと晴らして陽気にルナとクロトに語りかける。
「今日、売屋に優しそうな男がきたわよね。すっごいキレイな妹ちゃんを連れてさ」
するとルナがハッと目を輝かせて会話に乗る。
「うん、わたしも見たかもっ。あんなキレイで長い黒髪生まれて始めてみたっ」
「ねーっ! お兄さんの方もずーっとニコニコしてて感じよかったもんっ!」
キャッキャと、双子は黄色い声で会話に花を咲かせた。
双子の明るい声に、クロトは少しだけもやもやが晴れた気がした。
「へぇ、なにしにきたんだい? ふたりが見たことないってことは、売屋の新人さんとか?」
歩調を早めてふたりの間に割って入る。
同様にふたりも歩幅を小さくとってクロトを迎え入れた。
両手に花で3列に並び歩く。面々の顔は、皆楽しげ。
先程よりもサナとルナも弾むように靴音高く市場を歩く。
「どうかなぁ? ちょっとあの妹ちゃん心無人っぽかったわよ? ぼーんやりしてたし」
「そうかな? わたしは、お兄さんだけしか見てないようにみえたよ?」
「それは……なんか意味ありげだねぇ……」
僅かな遺恨を感じぬよう感化していつもを演じる。
往来の激しかった市場がだんだんと波が引くように収まっていく。
活気づいた屋台は、ある一線を超えるとさっぱり消えてしまう。どんよりと沈んだ空気があたりに漂う。
先程までの場所は、上流奴隷の買い物の場。鉄銭ではなく、ラウス貨幣で支払いを行う場所。そしてここ、薄汚い地べたで商品を売りさばくこここそが、クロトたちの目的地だった。
おもむろにクロトは、ポケットから鉄銭の詰まった袋をとりだす。
それを見てサナとルナも合わせから手をだした。そのくすみのない白い手には、同じ袋が掴まれている。
「じゃあ、今日の分の稼ぎを合わせるよ。っていっても僕のは、貰いものなんだけど……」
クロトの袋には、合計して33枚の鉄銭が入っている。
コレは貨幣というより交換券のようなもの。食事ならば1枚を消費して、日用品は2枚を消費する。3枚目からは、ラウス銅貨1枚と交換になる。
さらにいえば女性を買うための売屋は、ラウス銅貨10枚が必要だった。
つまりバアルノスは、言葉通りクロトが売屋へ行くことを想定して30枚の鉄銭を渡したのだろう。
器量の良い大人しい顔を困らせるクロトを見てサナは、あっけらかんと言い放つ。
「まあ、貰えるもんはもらっちゃえばいいんじゃない? 後からグズグズ言うようなヤツじゃないしっ」
ソレに同調するかのようにルナもコクコクと頷いた。
片側でまとめた髪がぴこぴこと上下する。
「うんうん。意外とさっぱりしてるから大丈夫だと思うよ」
貰い物と簡単な仕事で稼いだクロトに対して両隣のふたりは、大きく膨れた革袋を獲得していた。
仕事によって賃金が変わる。それは当然の習わし。
やけに雇い主に寛容なふたりを見て違和感を覚えつつ。クロトは、しっかりもののルナの革袋に自身の稼ぎをすべて流し入れる。
ジャラジャラと音を立てて安っぽい錆た鉄の通貨がぶつかり合う。共同資産を1箇所にまとめるのがいつもの日常。これは屋根を共にする面々の儀式的な意味合いもあった。
「さぁっ、じゃあチャチャッと買い物して帰ろう!」
急ぎ足でクロトは踏みだす。もう、あまりルナとサナを他者の目に入れたくなかった。
その背中をルナとサナは、嬉しそうに襤褸の裾をはためかせて追いかける。
「ん……?」
ふと、珍しいものがクロトの目に入ってきて立ち止まった。
その肩越しにルナとサナがひょいと顔をだす。身長の差はあまりない。
クロトの見つめる先を追ってサナが首を傾げた。
「どうしたの?」
「いや、貧民街でアクセサリー屋さんって珍しいなと思ってさ」
穴だらけ埃だらけのシート。その上には、驚くほどに場違いな宝飾品が売られている。
そして店主は、一見して物乞いに見えるローブを目深に被ったエルフだった。体内マナがエルフだと告げている。
他種族がいることは決して珍しいことではない。しかし、貧民市場で宝石を売ることがそもそも言葉通りに場違いだった。
「ふふ、どう? お安くしておきますよ?」
凛として冷たい声がクロトの耳に刺さる。
座した女エルフは、指輪をひとつ手にとって掲げた。
それを見たルナは、星を散りばめるが如く目を輝かせる。
「わぁ……! きれい……!」
銀の輝きに引き寄せられるように指輪に顔を寄せた。
「やめなさいって。こんな高級そうなもの買えるわけがないでしょ」
指輪の虜になりかけているルナをサナは、押し止める。
銀を基調として中央にぐるりとブルーのラインが入った指輪。一切の淀みがない様を伺うかぎり、間違いなく上等な品だった。
その値段が書かれているであろう立て札のエルフ文字を読んでクロトは、戦慄する。
「こ、これがたったの鉄銭1枚!? こんなのオカシイって!?」
クロトの驚愕の声に反応してサナも前のめりになって指輪を食いいるように見つめた。
「……え? えぇ!? 本当に鉄銭1つって書いてる!?」
すると可笑しそうにクスクスと女エルフは笑った
白いしなやかな指で指輪を3つほど拾い上げる。
「どうです? これで店じまいする予定ですのでで、お守りにでももっていてはいかがかしら?」
明らかに妖しい。被り物の下から覗く淫美さも相まってより怪しい。
クロトの頭にいわくと疑惑の文字が浮かび上がっていた。
しかし普段では、決してそんな見え透いた罠にかからないはずのルナがそれを手にとってしまう。
「わっ、すごぉい……! キラキラしてキレイ……!」
まさに上の空。指でつまみ上げるようにしてブルーラインの指輪を3つも天に掲げたルナは、ほぅっと熱い吐息をこぼした。
「ふふっ、それじゃあ今日はこの辺で失礼します」
四の五の言わせないとでも言わんばかり。
そのままエルフの女はローブをひらめかせてスタスタと立ち去っていく。
その背中はぐんぐん遠ざかっていきクロトたちのきた方角、市場の群衆に消えていった。
「な、なんだったのかしら? 押し売り?」
「いや、よく考えたら鉄銭すら払ってないし……押し渡し?」
まるで嵐のような瞬く間の1コマだった。
途方に暮れるサナとクロトは、惚けるルナの横で顔を見合わせる。
「オイコラぁ!!」
その時だった。閑散とした生気のない貧民市場の通りに罵声が木霊する。
「オメエ今、鉄銭をちょろまかしたろ!?」
やけにガタイの良い年増の男だった。
それが店主であろう老父の胸ぐらをねじるように掴み上げている。
敷かれた商品は男によって踏み荒らされていた。無惨にも靴跡のついたパンは、よほどの乞食根性がなければまず買わないだろう。
商品を台無しにされても怯えきってしまった貧相な老父は、男に文句ひとつ言う様子はない。ただ必死になって弁解するだけ。
「い、言いがかりだっ! ほ、ほら! パンひとつで1枚だった!」
「何が言いがかりだ!? オレが顔を背けてる間に水の分の鉄銭をくすねたの見たんだよッ!」
「そ、そんなことするはずがないじゃないか!」
「見たっつってんだろ!? いい加減白状しろや!」
男はドスの聞いた声で一方的に老父へと詰め寄った。
よくある光景だった。金持ち喧嘩せずとはよくいうが、さもありなん。逆もまた然り。
「そ、そろそろ帰ろうか――」
争い事を避けようとクロトが進行方向を変える。
しかし、その横をふわりと甘い香りが横切った。嫌な予感がした。
「ちょっと! あんたこの間も別の店で脅してたでしょ!?」
苛立つ鍛え上げた男に一切の躊躇なくサナが立ち向かう。
「あんだ!? テメェは関係ねーだろうがッ! さっさと消えろや!」
「消えるのはアンタの方でしょっ! そうやって相手見て脅す小物の癖に!」
自身が他者から守られている立場を利用しているのではない。
これはサナの純粋な正義感だった。
「いいやがったな小娘如きがッ!? テメェの運命決まったぞオラァ! 朝まで泣きわめいて貰おうじゃねーか!!」
「ッ、やれるもんならやってみなさいよっ!」
売り言葉に買い言葉。
恐怖に震えたクロトは、二の足を踏むように尻込みしてしまう。
一方で、ルナも身をすくませてカタカタと震えている。
普段ならば、この辺で相手は引く。管理者の所有物であるサナだとわかっているから。
「――きゃあっ!?」
しかし今回は、違った。
襤褸を剥かれたサナは、何が起こったのか理解できないといった様子で目を白黒させた。
身になにひとつ帯びていない一糸まとわぬ裸体が、観衆の目に突如映しだされた。
豊満なふたつの果実と薄いバラ色の肌。艶かしくも均整のとれた肢体が、不気味なほどに赤い夕日に照らされる。
数秒立ち尽くして、咄嗟に察したのか。サナは、手で体を隠そうとする。
しかし、男がそれを許さない。
「ちょ、やめてよっ! いたいっ! はなしてっ!!」
軽々と片手で吊るし上げるように男は、暴れるサナの手を掴んで持ち上げた。
「あぁん? ククッ、オマエ痴女かよ!? それにしても……なかなかいい体つきしてんじゃねーかァ」
下から上へ舐めるように首を動かして、ぺろりといやらしく舌をだす。
足が地面から離れたサナは、足を蹴りつづけるが根が張ったかのように男は動じない。
貧民たちに裸体を晒してみるみるうちに肌が紅に染まる。
ニヤニヤ笑って痴態を見学するものもいれば、オロオロと慌てふためくものもいた。
なんとかしなくてはいけない。そう思うクロトだが足が大地に吸われてぴくりとも動かない。膝は笑い、拳を作ることすらできない。
すると意を決したかのようにルナは、男に向かって駆けた。
「や、やめてくださいっ! お姉ちゃんを離して!」
気のない声を発しながら赤土の如き骨太の腕に飛びかかる。
「ンだぁ? フヘッ……! テメェら姉妹かよォ!?」
しかし男は、一寸も気にした様子もなくルナを見つめて愉快げに笑った。
おもむろにもう片方の腕でルナの襤褸を引きちぎる。
「――い、いやぁぁ!!」
絹を裂くような悲鳴とともにもうひとり分の裸体が顕になった。
いつの間にか貧民市場には雑多な混雑ができていた。
そのなかには先程、襤褸をまとったふたりに卑しい視線を送っていた者もいる。
「うっひょー! 眼福だぜェ! やっぱり管理者ってのはお目が高ぇ!」
「見ろ見ろ! 今のうちに見とかねえと損するぜ!」
「グヒヒッ、フヒッ! エルフみたいないい体してるぅ! いや、エルフよりすごいかもぉ!?」
色目に晒されたふたりは、今にも泣きそうに瞳を滲ませて歯噛みした。
ふたりを見られたくない。そんな思いは露と消えクロトは、ただその中性的な顔を悔しさで歪めることしかできない。
すべては事なかれ主義。ろくな賃金が手に入らない仕事しかせず、ただ安穏と生きるだけ。
ヒュームとはそういうもの。そうやってぬるい水に慣れてしまったからこそクロトは、何もできない。自身で奮い立つことすら忘れてしまうほどに。
「おいっ! オレにも見せろよ!」
「ぐっ! くそがっ! 押すんじゃねぇ!?」
周囲の輪がどんどん狭まっていく。
双子の裸体をひと目でも見ようと我が我がと押し寄せる。
すでに抵抗を止めたサナは、しゃくりを上げて涙を流していた。
「ひっぐ、イヤぁ……! もうはなしてよぉ!」
とめどなくあふれる涙は、頬をつたい丸いそれに流れて、体に線を作る。
地面にぺたんと重量感のある丸みを沈めたルナは、血色を失った顔で周囲の男たちに怯え震える。
「ひっ……! こ、こないでっ! こないでくださいっ!」
男たちの欲望は、すでに押さえきれないところまで達していた。
労働に次ぐ労働によって溜まったストレス。制圧された未来への悲観。そんな奴隷たちの前に現れた欲望のはけ口。
ついに自制によって塞がれていた感情の波が、あふれる。
「もうどうだっていいじゃねーか! これだけ数がいれば誰がどうしたってわかりゃしねーだろ!」
その言葉が火種となって男たちの手が次々と双子の肌に伸びていく。
「いやっ! やだぁ!! いやああああああっ!」
「やめてくださいっ! さわらないでぇっ! さわらないでくださいっ!」
山のように群がった男たちが連なってすでにサナとルナは飲み込まれた。
ふたりの悲痛な叫びを聞きながらもクロトは、最前列でそれを傍観することしかできない。
「さ、さな……。る、るな……。あ、あああ……!」
静止の声すらもでず。ついには、ぺたんと膝を石畳に落とした。
そんな絶望の渦中にとりこまれたクロトの横に巨体が現れる。
肩幅の広い男は、麻の7分丈を履いた脚部を躍動させてずしずしと群衆の前に躍りでた。
そして胴間の声で叫ぶ。
「て め え ら ァ ! オ レ の 女 に な に し て ん だ ! ?」
ビリビリと響く低音に蠢いていた群衆たちが、凍りつくような形でピタリと静止した。
次いでやってきた男の顔を見て目を皿のようにし、青ざめる。
「フィナセス様。こいつらが犯罪者です」
「フム……そうだな……。確かに状況を見るに間違いないな」
バアルノスの僅か後方からやってきたのは、エーテル族だった。
エーテルたちが好んで北にくることは稀。不衛生な場をにくるエーテル族といえば、四方を囲う壁に常駐勤務している警備兵くらいなものだろう。
管理者以外で警備兵に語りかけることは、ほぼ禁じられている。
基本的にエーテル族は、奴隷たちを石ころ程度にしか考えていない。石ころに気分を害されれば蹴るのも当然のこと。そのため緊急時以外では呼び止めることはない。
タイミングを見計らったかの如く現れたバアルノスは、折り目正しく横に立った若々しくも渋みのある男に敬意を払う。
「管理者であるオレのいった通りここは犯罪者たちの巣窟と化しています! どうか見てくださいこの始末を! いたいけな少女に群がる無頼漢共の恥も知らない卑しい顔を!」
装飾の施された剣を携える男の髪は、透明感のある銀色だった。
そしてそれこそが恐怖の象徴、絶対的支配種であるエーテルだった。
群衆たちは、それを前にして当然の如く微動だにしない。ただ生の終わりを見つめて冷たい処罰を待つ。
「いささか都合が良すぎじゃないか?」
チラリ。銀燭の如き目が姿勢良く立つバアルノスを捉える。
それでもバアルノスは、引く様子がない。
腰を90度に曲げて角刈りの頭を下げ、エーテルの剣士に問いかける。
「と、申しますと?」
「……いや、いい。オマエは管理者としては、一級品だな」
そう言ってエーテルの男は、きゅっきゅとグリーブの革の音を鳴らしてへたり込む男たちの群れに近づいていった。
するとこのすべての元凶だった男が戦々恐々とした風体で叫ぶ。
もはやその下半身はずぶ濡れになっており、足元で己の身を抱き隠すサナとルナの横に汚物の水たまりができている。
「う、裏切るのか……!? お、おお、オレはオマエにッ! ――ぐぎぐッ!」
この街で犯罪を犯すということは、死と同義。
魅了魔法によって命じられ心を失った者は、誤作動すら許されずただ働く蟻となる。
「バ ア ル ノ ス ゥ ゥ ゥ ゥ ゥ ゥ ! !」
真っ赤に燃える奴隷街に悲鳴と絶命の声が猿叫の如く響いた。
ものの数秒の間に血気づいた男たちは、一匹も、記憶の断片すら残さず。すべてが一切の予断なしに心無人となった。
……………
全員に魅了をかけたエーテルの男は、手続きがあると言って犯罪者を連れて去ってしまった
「け、怪我はないか!? 大丈夫だったか!?」
そう問いかけながらバアルノスは、腰砕けになったふたりの肩に襤褸をかけ直す。
市場には、もう誰も残されていはいない。
もともとまばらだった影は、8割がた除去されて、もう2割は早々と店をしまって帰っていった。
「う、うん。あ、ありがと……」
「どうも……ありがとうございます……」
余韻冷めやらぬサナとルナは、そんなわたわたと額に汗を浮かべて案ずるバアルノスをぼんやりと眺めた。
そんななかでクロトは、ただひとり。およそ枠から外されたかのような錯覚を覚える。
バアルノスの手を借りてふたりは、ふらふらと覚束ない足どりで立ち上がった。
「――きゃっ!」
よろけたサナは厚い胸板へと飛び込む。
うまくキャッチしたバアルノスは、優しくサナの細い肩を押し止める。
「おいおい、ふらふらじゃないか。今日は、うちのほうが近いから泊まってけよ」
「え? あっ! で、でも……そのぅ……」
「わ、わたしたちは大丈夫、です、から……」
チラチラ。サナとルナは、横目でクロトの様子を伺う。
これでいい。これがいい。ふたりが助かってよかった。
ふたりが守られたという事実に安堵したクロトは、ほんのりと愛嬌のある顔に笑みを貼り付ける。
――ふたりを守れたんだ。
繰り返す。
――僕じゃ守れなかった。
やがて、言い聞かす。
――……守ろうとしなかったじゃないか。
言い訳。現実が肉体を苛む。
その夜。ふたりは幕屋、我が家に、クロトのもとに、帰ってはこなかった。
翌朝になってほんのりと頬を火照らせて帰ってきたふたりは、暗い顔で仕事に向かうクロトに謝罪して、見送った。
しばらくふたりの仕事は休みになったと、言っていた。
……………




