173話 ちっぽけな世界で生まれる奇跡
※特殊前書き
そのとき、警護兵の体にある異変が起きた。
「ぐっ!? お、オマエっ……! 私の体に……! がっ! なにをしたっ!?」
喘ぎ喘ぎ。剣を落とした警護兵は、跪いて青年へと尋ねる。
体の一部が膨れて皮の鎧を前へと押しだす。ラグジュアリー感の漂う銀の髪がするすると伸び生えていく。
クロトは、目の前で起こっている現実から目が離せなくなった。
「はっ、はっ、はっ……!」
その黒い瞳は恐怖を見ていた。
上位種であるエーテルを打ち倒し、ヒュームが立っている。
その背中は、見たこともない衣服も相まって闇に溶けるよう。
敵は倒れた。しかし、それで終わりではなかった。
青年は、左手首に絡みついている趣味の悪いブレスレットを外す。
「がはっ――!!」
そして苦しみ喘ぐ警備兵の腹へ向かって思い切り振りかぶったつま先を食らわせた。
内蔵をも破壊しかねない痛烈な一撃が鎧ごと腹部へとめり込む。
パチリ。トドメとばかりに腰蓑から小瓶をとりだして酸素を求める警備兵の口に突っ込んだ。
「ごっ!? がはっ! げえぇぇっ!」
毒々しい紫色の液体を警備兵は、ヨダレと共に割れた石畳の上に吐き散らす。
もはやその顔に渋みはなく、あるのは美貌のみだった。
「」
現実の輪郭が薄れていく。床にへたりこんだクロトは、カタカタと歯を鳴らして青年の残虐非道な行為を眺めるだけ。
もはや敵は戦意どころか意識があるかすら怪しい。許しを請うように伸びていく銀の髪を地にこすりつけて広げる。ヒューヒューと喉を鳴らして息は、絶え絶え。
それでも青年は止まらない。少し毛先の遊んだ黒い髪を揺らがせて唱える。
「《マナレジスター》」
低く感情のない詠唱だった。
すると青年の背中越しに蒼が迸った。
同時に。マナではなく、光の粒子が金の腕輪から湧きだして宙を泳ぎはじめる。
「――ひっ!?」
それを見たクロトは、背筋を舐められるような酷い悪寒を覚えて戦慄した。
もうすでに腰は抜けている。ぱっかりと壊れた靴で地面をこするがこの場からは逃げられない。
それは、奴隷街で犯罪を犯した者を縛りつけるための武器だった。魔法の名は、魅了。
そして青年は淡々と、ようやく息が整い始めた警備兵へ命令を下す。
「これからオレに一切逆らうな」
おびただしい数の光の粒が警備兵に集っていく。
それはクロトが拝見したことのない完全な魅了魔法だった。
あまりにも大雑把な指示。それでも食らって逆らえるものなどいようはずもない。
勇気をだしてクロトは、同種と思われる青年の背中に問いかける。その自身と同様に変異体の黒い髪を見つめて。
「あ、ああ、ああああ、あな、アナタは……いったい!?」
呼吸するたびに口内がぱさぱさになって唇が痙攣した。
すると青年は、ゆっくりとこちらに振り返る。
「オレか? ……そうだな。オレのことは――」
そう言って、世のなかすべてを疑うような虚ろげの目を宙にさまよわせる。
青年の身長はクロトよりも高い。肌に張りつくような不思議な衣服が筋肉をなぞらえ浮かび上がらせていた。
日常の片隅にあった路地裏でクロトは、出会う。
転がった影のうちひとつは、管理者である友だちのもの。もうひとつは、絶対的支配種であるエーテルのもの。
なのに青年はどちらもを容易に覆した。
あろうことかエーテルすらたったひとりで一瞬のうちに昏倒させてしまった。
この地に生み落とされてからずっと誰かの下で支配されつづけていたクロト・ジャール・ティールは、はじめて完璧な抵抗を見せつけられた。
残酷で残忍で男の風上にも置けない手段を用いた青年は、己が名を口にする。
「オレは……」
つつがなくの日常に現れた1滴の毒。
「……っっ!」
クロトは、目が奪われてしまった。
サナとルナ。幼馴染。
宝物たちを奪おうと裏切ってしくじった友だちをよそに、魔法ではない魅了にかけられた。
それは奴隷として運命づけられたクロトにとって、生まれて初めての欲という味だった。
歩き慣れた道をいつもの足どりで歩く。見飽きた街の情景はいつもとなんら変わらない。
整備のされていない飛び石のような石畳を踏めば、ネズミが一匹ちちちと駆けていく。
「ふぅ……。今日も疲れたなぁ、なんてな」
茜色の空で貝殻のような雲がのんびりと流れる。それが定時の合図だった。
奴隷街での労働は、規則正しい。決められた仕事を決められた数だけこなして、決められた時間に解散する。
早く終わらせたら終わらせただけ仕事の量が増えるとなれば、誰も彼もがのんびりと働くのも当然であろう。
量をこなしても賃金は、変わらない。努力すればするだけこの街では、愚か者と嘲笑われてしまう。
それほど疲れていない体でクロトは、ぽっかりと口を開けて伸びをする。
「……ふぁっ」
すすに汚れた袖が鼻に近づくと染み付いた汗の匂いがした。服を洗った記憶は遠い昔。
ぱっちりと開いた目に涙が浮かぶ。童顔小顔のクロトは、家を目指してゆるく帰路につく。
肌を撫でる据えた臭いのする風は、微かに冷たく火照った肌に心地よい。
しかし気温が下がれば、また病が蔓延することだろう。この街で暮らすのならば注意を怠ってはならない。
日払いの鉄銭3枚を手にしっかりと握ったクロトは、四分五裂の見る影もない石畳を見て立ち止まった。
「あっ、雑草だ」
根ごと引き抜いて羽織り襤褸のポケットに土ごと突っ込む。
手のうちにある鉄銭の使いみちはいつもと変わらない。1枚はパン、1枚は安全な水、1枚は塩。そして溜めた雨水で雑草を煮て今日の糧とする。
最低限よりか少し下の生活を矯正される身。この日銭の鉄銭を残すことなどできようはずもない。
食わねば死ぬ。欠かせば翌日のノルマもこなせない。木を伐って、石を砕いて、畑を耕す。そんなありきたりな仕事でも生命線だった。
働いて食べて寝て、死ぬ。それがヒュームの生きる理由。
――この街で生まれ育ったならそれを甘んじて受け入れる……家畜に神はいない。
ゴールがある。死こそ救済。
そう考えることこそがヒュームたちにとっての救いだった。
のこのこと歩いていれば、嫌でも家につく。
クロトはモヤッとした不安を胃の腑に感じつつ吐息を漏らす。
「ふぅ……」
それほど距離はない。だからこそ少し早めに返ってきてしまう。
道の横に建てられた襤褸小屋。小屋と呼ぶことすらおこがましいそれは、木と布だけでできている。ようするにただの目隠しと風よけ。
我が家の前についたクロトだが、なかにはまだ入らない。風でたなびく玄関をよそに腕を組んで道の先を見据える。
「…………」
手で日よけを作って日の位置を見定める。
歩いてきた道側からは、神の御首である蒼月が顔をだしていた。
仕事を終えた同居者を待ちかねて弾む思いとは裏腹に、少しづつ気持ちが沈んでいく。
――今日も、あのふたりは、仕事にいったんだ。
別の仕事場に向かった同居者の名前は、サナ・ジャール・ティールとルナ・ジャール・ティール。
ふたりは双子であり、クロトの昔なじみで幼馴染だった。
姉のサナは、陽気で重い空気を追い払うムードメイカー。ちょこちょことそこらじゅうを駆け回っては、問題を起こす。
しかしいつもにこにこと笑っているサナは、クロトにとってかけがえのない存在。
転じて妹のルナは、口数は少なくおどおどしている。それでも根がしっかりとしているため妹なのに無鉄砲な姉の面倒をよく見ていた。
ルナもまたクロトにとってかけがえのない宝物だった。
共に支え合い、寄り添う仲の同居者。幼い頃に両親を亡くした者たちにとっては、櫛の歯の如く欠けてはならない相手。
――そう…………仕事だ。
待つこと数分。風が肌寒くなってくるころ。
視界に映った夕日を背負う影をみたクロトは、喜びと同時に微かに眉を寄せた。それでも笑みだけは崩さない。
「ちょっと! もう定刻なんだから触んないでよ!」
ポニーテールをうねらせてサナは、あからさまな嫌悪感を表情にだして男を突き放す。
しかし屈強な体をした男は、馴れ馴れしくサナの肩に手を回した。
「えーいいじゃないかぁ? こうして暴漢に襲われないように送ってやってるんだからよぉ?」
糸目を細くして強引にサナを引き寄せてそう主張する。
白の清潔なタンクトップは、コブのように凹凸を作っておりまるで細工された鋼のよう。抱き寄せられてなおも抵抗を試みるサナの細腕では、2つの意味で勝てるはずもない。
「あ、あの……。わたしも……きゃっ!」
その血管の浮いた反対側の腕には、ルナが巻かれている。
おどおど、と。それでも男から離そうと抵抗するたびに横でちょこんと結ばれた髪がぴこぴこ動く。
「いいじゃんいいじゃん? 最近冷えてきたんだしもっと寄り添わないと風邪ひいちゃうぜぇ?」
しかし、容易に男の胸板に抱き寄せられてしまう。
クロトは目を伏せ双子の帰りをただ待つのみだ。
――……バアルノス。また……。
男はクロトの友である。名はバアルノス・ジャール・ティール。
奴隷街の管理者のひとりであり、絶対的な権利をもつ男だった。
笑みを作って帰宅を喜ぶふりをするクロトには、わかっている。別の場所で働くサナとルナが、今日一日中バアルノスと一緒にいたことを。
管理者とは、エーテル族が下した命令を聞くという大役を請け負っている。その上、日払いいとなる鉄銭の管理を担当していた。
奴隷の管理と金銭の管理を行うからこそ管理者と呼ばれる。だからこそ、管理者に逆らうものはいない。
もし逆らえば、エーテル族にあることないことを吹き込まれて断罪、魅了魔法の餌食となる。
それは確定であって絶対。例外など存在しない。だからルナもサナもバアルノスには、逆らえない。
――逆らえないんだからしょうがないよね。
それにクロトも甘んじた。
バアルノス次第で給金を増やすも減らすも自由であり、餌食とするのもまた自由である。
だからクロトも、バアルノスの腕のなかで抵抗するふたりから目を逸らすことしかできなかった。
「よぉクロトぉ! 今日も勤労お疲れぇい!」
気さくに話しかけてくる友にクロトも笑顔で応じる。
応じざるを得ない。
「ああ……」
「なんだよなんだよ? 本気で疲れちまってるんじゃないだろうな?」
そう言ってバアルノスは、ふたりを開放してクロトに絡んでくる。昔、同じ仕事をして汗水たらしていたときのように。
地位は変わっても関係は変わらないと、バアルノス言った。その言葉通りクロトとの関係だけは、変わらなかった。
「そんなことはないよ……。あんな仕事で疲れたりはしないさ……」
「ほぉん? たまには息抜きで売屋にでもいったらどうだ?」
それを聞いたサナとルナは、ぴくりと肩を揺らして怯むように身を寄せ合う。
管理者であるバアルノスは気楽に言うが売屋とは、いわば春を売る場のこと。それも鉄銭3枚程度の稼ぎしかない者にとっては、夢のまた夢の話だった。
そもそもそんな場所に行くつもりもないクロトは、のしかかってくるドワーフの如き筋肉の重みに耐える。
心も同様に。
「いや、そんな金はないんだ……。だから大丈夫……」
「そうかぁ? あっ! だったら男娼にでもなれよォ! オマエって結構そっち受けする可愛い顔してるから売れるぜ!? 勤め先を紹介してやろうか!?」
「…………」
反吐がでる。それでも貼りつけた笑顔は保ったまま。
黙りこくっているとバアルノスは、満足したのか組んだ肩を開放した。
「んっだよぉ……。ノリがワリぃなぁ……」
わざとらしく唇を尖らせて今度は、おもむろにクロトの手を握る。
イボのある大きな手に掴まれたクロトの染みひとつない手は、油で汚れていてもなめらか。男性的というよりは女性のそれに近い。
そのバアルノスの手には、丸く硬いなにかが握られていた。
「ほらっ、鉄銭30枚やるから元気だせよっ!」
そう言ってバアルノスは、10日分の給金を眺めたまま動けないクロトの肩を叩いた。
そしてのっしのっしと丸い肩で風をきるように大股に遠ざかって行く。
「おっとっと、いい忘れてた……。ルナぁ、サナぁ!」
なにかを思いだしたかの如くバアルノスは、こちらに振り返る。
糸目はより細く、口は弧を描いて、ぺろりと舌で唇を湿らせた。
「ひひっ……今日我慢させた分は、明日きっちり発散させるから覚悟しておけよぉ?」
そう言い残してバアルノスは、大手を振って意気揚々と道を戻っていく。
意味を理解したクロトは、少女たちの肌が微かに火照っている理由を知らされる。
身を寄せ合って震えるサナとルナは、肩から纏った襤褸切れのなかでもぞりと痩せた太ももをこすり合わせた。
……………
ボロい幕屋のなか。それほど広くない空間に男がひとりと女がふたり。
地べたは、土壌がそのままになっており置かれている物もとくに目を引く物はない。
部屋の中央にあるのは団らんの木箱。蝋燭を灯して日に1度囲うくらい。それ以外は、雨水を溜めるための背の高いツボと藁の寝床があるだけ。角に引かれた1枚の薄布は、一応の隠匿空間となっている。
そんな目につかない薄布の向こうでは、クロトの5倍ほどの時間をかけて水浴びが行われていた。色のある声が聞こえるわけでもなくただ粛々と。
わだかまりを胸にクロトは、髪についた水気を手で弾いてふたりを待つ。
考えれば考えるほどに思いつめさせられる。頭は重く熱は冷えて体中が凍りつきそうな寒気を覚えた。
「ね、クロト。ちょっといいかな?」
朱色に染まる幕屋に花の咲くような声が鳴り響く。
いつもどおりの。なにも変わらない色をした声は、労働環境が変わった初日と比べてかなり穏やかだった。
目を真っ赤になるまで泣きはらして、それでも笑って演じる少女たちの顔をクロトは、未来永劫忘れない。
「ん? どうしたの?」
それでも痛みには慣れてしまう。言い訳のように和のためであると唱えつづける。
ここでは真実の欲求を願うことすら罪だった。
「私たちずっとここにいるからね?」
「わ、わたしもずっと一緒だよ……?」
生涯を共に生きようと誓った者たちからの言葉は、非常に頼もしい。
しかしそうもいかぬ。否定的な意見を飲み込んでクロトは、笑う。
「ははっ、ずっと水浴びしてる気かい? もう少ししたら凍りつくような寒さになっちゃうよ?」
「……そういう意味じゃないしっ」
「……うぅ」
ふたり分の影がしゅんと頷くのが見えた。
すると突然、枝の如き頼りないかけ棒から薄布がはらりと退く。
「っ!? な、なな、なんのつもり!?」
視界の端で一糸まとわぬ少女たちが見えた瞬間にクロトは、大慌てで目を逸らす。
「うしししっ! アタシたちの裸なんて小さい頃から見飽きてる癖に毎回毎回面白いわね!」
それを指さしてサナが大口を開けて笑った。
横では、もじもじと恥ずかしそうにルナが立っている。
サナもルナも見た目は、野に咲く一輪の花の如く非常に整っている。栄養が偏っているにも関わらず女性的な体つきも男の気を引いてやまないだろう。
現に屋根を共に暮らすクロトもドギマギする機会は非常に多かった。
サナは、こうして飽きもせずクロトをからかう。ルナも控えめだが特に反抗するわけでもない。
濡れた肢体を隠そうともせずサナは、我が物顔で部屋を練り歩いて襤褸を手にとる。水滴の乗った尻を突きだして夕日に晒す。
その後ろでは、ちょこちょこと早足気味にルナがつづいた。
ふたりして素肌の上に襤褸を羽織りなおす。
「さっ! しょぼくれてないでちゃっちゃと市場で買い物にいきましょ!」
「うん。早くしないと閉まっちゃうよ?」
簡単に湿った髪をゴムでまとめていつもどおり。前開きの留め具からちらちらとみずみずしい素肌がチラつく。
似ているようで似ていないふたり。姉の方は、短い髪だが色気を好んで後部でひとまとめに尾っぽを作る。妹の方は、長いが固結びに小さな跳ねをまとめる。
性格的には、裏と表ほどに差があった。しかしどちらも我が強いということを付き合いの長いクロトは、知っている。
「なんで……下になにも着ないの……?」
ようやくふたりを直視できたクロトは、慌ただしく異変を問いただした。
その問いにサナは、ひょうひょうと答える。
「禁止されてるの。どっかの変態バカに。逆らったらなにされるかわかったもんじゃないわ」
クロトが確認をとるように目を向ける。
するとルナは、申し訳なさそうに小さくコクリと頷く。
「だ、大丈夫……。も、もう慣れたから……」
「そっか……。それなら……しょうがないよね……」
慣れた。その言葉がもっとも危険だということにふたりは、気づいていない。
クロトもこうして毎日バアルノスのもとにふたりが出向くことに慣れてきている。
サナとルナも一応の抵抗と後悔を垣間見せるが、それも近々なくなってしまうだろう。
ヒュームは、この環境を甘んじて慣れてきてしまった。
――だって僕らはヒュームなんだから。上位に飼われるただのヒューム。
それは諦めの心とするか平穏を愛するとするかは、者によって考え方は違う。
ペットが買われて小さな世界で死んでいくことを不幸だと言えようか。外で生きる魔物たちが幸福だと言えようか。
ダルく立ち上がったクロトは、小汚いが動きやすい作務衣の如き衣服の上に襤褸を被る。
そしてクロトは、屈託のない女子のような笑顔を浮かべた。
「じゃあ行こうかっ!」
それを見たふたりは、一瞬互いの顔を見合わせる。
くすり。色合いの異なる笑みを浮かべてその背中につづいた。
和を以て貴しとなす。例え愛し愛される者たちが、望まぬ者の物になってしまおうとも。
だんだんと慣れてきているふたりとは、後どれほど時間を共有できるのか。いつこの過酷な幕屋に、我が家に、ふたりが帰ってこなくなるのか。
金を得て幸福な毎日を送るふたりの幸福を祈る。もしくは、この悪辣な環境で共に家族としていき続けるか。
どちらにしてもふたりにとっては幸福である。
「……くだらない……」
無理くりのこじつけで整理をつけたクロトは、夕暮れに向かって足を繰り出す。
考えることを放棄して。
……………




