4 ハント
宣言通り先に行ってしまったヤトヒョウさんを見送り、自分のペースで歩いた結果神殿についたのは夕刻のことだった。
朝の神殿の光を孕む霧を見た後に見る夜の神殿は昨晩の感動と打って変わってひどくおどろおどろしい、打ち捨てられた廃墟のように見えた。
神殿の門はその他の壁や屋根が真っ白なのに対し、深緑色の重厚なもので、ハントはその色に安堵した。
ヤトヒョウとの1日にも満たない邂逅は白い岩の転がる寂寥とした山肌から受けるなんとも言えない寂しさをより一層強く感じさせるものとなった。
門番らしき青年が一言も喋らなかったことさえ、ハントには気にならなかった。
それは、白の中にようやく見つけたヤトヒョウ以外の人間に安堵したからであり、門を出てすぐのところにいた人影に声をかけられたからでもある。
「初めまして、私が先生試験を行うサキヤカラです。どうぞ、受験中はサキヤ先生とお呼びください。」
緑の先生の服を纏った30代中頃ほどの女性がにこりと笑った。お手本のようなその笑顔に違和感を覚えてしまうのはヤトヒョウの疑念を聞いたからだろうか。
フレームレスの眼鏡とシミひとつない白い肌のせいでサキヤ先生は冷たいドールのような印象を受ける。
「僕は、ハントと言います。よろしくお願いします、サキヤ先生。」
「はい、よろしくお願いいたしますね、ハントくん。」
神殿の中に入ると、上からあれだけ厚く覆っていた霧はさして気になるようなものではなく、ひんやりとしたベールに包まれているようで心が休まった。
先導してくれているサキヤ先生がまず連れて行ってくれたのは試験中に寄宿させてもらう建物だった。
例に漏れず白一色の建物は、夕刻であるいまはしんと静まり返って霧に覆われている。3階建てのために、月光に照らされた建物の作り出す影が霧に映ると普通の夜闇よりも濃く思えた。
風によって姿を変える夜闇。
それに見惚れていたのか魅入られていたのか、ともかく上の空だったハントの注意をひくため、サキヤ先生は軽い咳払いをした。
「ここが、泊まっていただく建物となります。神殿には第一重から第五重まで門がありますが、今は全てを覚える必要はありません。第一重の門が先ほど通ってきた正門。正規の先生たちの居住区が第二重の門の奥、第三重の門より奥が子供達の居住区。今日はこれだけ覚えてくだされば大丈夫です。」
てっきり部屋に案内されると思っていたが、サキヤ先生はあっさりと建物の前を通り過ぎた。とはいえ、次に向かったのはその隣の建物だったが。
泊まる用の建物と違って1階建てのそれはかすかな騒めきと暖かな光が溢れ出していた。
霧に香るのは暖炉と食事の匂い。
「長い道のり、ご苦労様でした。ここが食事をとる建物です。ここの食事は美味しいので、先生試験を行うことを希望する先生が多いんですよ。」
ジョークなのだろうか。
ハントの周りには始終機械とにらめっこしている者か、怒鳴りながら家を作っている者しか居なかったために返事に窮した。
迷った結果、いま1番気になっていたことを尋ねる。
「先生候補につき、先生試験を行う先生は1人なのですか?」
「はい。ここは神殿、神に愛された子供達を守り慈しみ、やがて訪れる旅立ちを見送る場所。この神殿において先生もまた、神に愛を乞う迷い子の1人。先達が先導するのは神のご意向なのです。」
ここにも立っていた衛兵さんはやはり一言も口にせず、サキヤ先生の掲げた先生の証のロケットを見て扉を開けた。
二重扉を抜ければ、よくもまああれしか外に漏れなかったなと感嘆するような活気に満ちていた。
並べられた4つの長机には老若男女、様々な服を着た人々が己の先生試験の先生と共に食事をとりながら歓談していた。
大凡200人ほどだろうか?見た限りではヤトヒョウさんの姿はなく、見回してみようにもサキヤ先生はさっさと奥の厨房へと足を進めてしまっている。
食事を受け取って席に戻ろうとする流れに逆らってハントは己の先生を見失わないように少し早足になった。
先生たちの衣装は皆同じ緑。サキヤ先生の髪はよくある茶色で、茶色い髪をひっつめてお団子にしている先生はそこらじゅうにいた。
少しでも目を離したら間違えてしまうだろう。焦っていたハントは前ばかり見て、足元への注意が完全に疎かになっていた。
「ぐっ」
「うわっ⁈」
何か小さくて柔らかいものに蹴つまずいた僕は、それを反射的に抱きかかえつつ、サキヤ先生を突き飛ばす形で床に転がった。
悲鳴と怒号、食器の落ちる音と共に右肩に鋭い痛みが走った。
運が悪いとしか言いようがない。倒れこんだそこには、誰かの落としたナイフが床の隙間に上に刃を向けて挟まっていたのだ。
「ハントくん⁈大丈夫ですか⁈」
サキヤ先生の慌てた声に、頷き、何かを抱きしめている腕を緩める。
見れば13歳くらいの少年がポカンと血の滲む腕を見つめていた。
「大丈夫?君、どこか怪我し「だっ、大丈夫じゃねえのも怪我してんのもあんただろ⁈なんで血が出てんのに放置してんだよ!ばかか!」
ものすごい罵倒を食らった。
怒りながらも僕を心配する少年に、近所の悪ガキを思い出して思わず頭を撫でてしまった。もちろん、怪我していない右の腕でだ。
「だから何で俺の頭を撫でる!なんで和んでるんだ馬鹿だなあんた⁈」
きゃんきゃんと吠える少年も、僕の腕の中に居続けるあたり相当びっくりしたらしい。サキヤ先生に抱き起こされてからそよことにようやく気付いたらしく、顔を真っ赤にしていた。
…うん、まあ君が腕の中に居たら治療もできないし立つこともできないからね。
「なっ、なあ!お詫びに俺に治療させてくれないか?多分同世代は俺とあんただけだろうしよ!」
「治療できるんですか?ええと…」
「俺は薬師見習いのシラベクス!あんたは?」
「ハントです。えーと、家業は大工で特技は機械いじり。」
気を利かせて4人分の場所を空けてくれた周りの人の厚意に甘え、僕はシラに治療をしてもらった。
まだ薬を作ることしかできないんだと言っていたがそれで十分だと思う。そもそも薬師は医師に言われた薬を作る職。診察から治療まで全部したいと考えるシラが珍しいのだ。
「お待たせしました、ハントくん、シラくん。」
サキヤ先生とシラの先生が持ってきてくれた食事に手をつける。
白パンとかぼちゃポタージュ、鶏肉のソテー。
家では考えられなかった豪華な食事に、シラも目を輝かせてがっついている。
ふわふわの白パンをポタージュにつけて食べるとジュワッと味が溢れてとっても美味しい。シラくんはこの食べ方を知らなかったらしく、教えてあげるととても喜んでくれた。その代わりにソテーにかけると美味しいという約束の葉をもらった。
ローズマリーというらしいそれは香りが良く、確かに鶏肉のうまみを引き立ててくれて僕もシラに感謝した。
そして、ここに僕を来させてくれた父に、感謝した。
「こんなことってあるんだなー」
「うん、びっくり。」
宿泊するのは2人一組で、というのは聞いていたけど、まさかシラと2人とは思わなかった。
聞くところによると、15歳と16歳、年が近いもの同士で組ませてあげようという先生たちの配慮なのだそう。もともとシラくんは80代のおじいちゃんと組んでいたらしいが、今日の朝に二人組解除を言われたらしい。
おそらく、ヤトヒョウさんが僕の存在を先生たちに伝えたからなのだろう。
「ねえ、シラはもう神に愛された子供達にお会いした?」
お風呂に入って寝る前、2段ベッドの上に声をかければ、なぜかシラは下に降りてきた。そして僕のベッドに潜り込む。
「まだだよ、まだ。俺も一昨日ここに着いたばかりから。なあ、今日一緒に寝たらダメか?俺のいた薬師の師匠の家ではいつも兄弟弟子とくっついて寝てたから、その、1人で寝るのがあんまし得意じゃねえっつうかさ、」
「むしろお願いしたいくらい。僕も初めての場所だからかドキドキしちゃって落ち着かないんだ。」
掛け布団を上げて招き入れれば、すぐに入り込んできたシラ。その体はひどく冷たく、シラが布団にも入らずに座っていた可能性を示唆していた。
自分が冷えていることに自覚があるのだろう、少し距離をとるシラに腕を回して抱きしめる。
僕が眠れないとき、兄や姉がやってくれたことだ。そのまま深く腕に抱き込んで、深呼吸し、眠ったフリをする。
「はん、と?ねたのか?」
声をひそめたせいで拙くなった口調は、1度尋ねただけでそれ以上は喋らなかった。
そのまま抱きしめていれば、ゆっくりと体の力が抜けていき、ズシリとした重みが腕にかかる。
もちろん怪我をしていない左の腕に、だ。怪我をした右腕に頭を乗せられてはさすがに寝たふりなんてできない。
ちっちゃい体で懸命に気を張って、彼はここにいる。
15歳というのは嘘だろう。シラはどう頑張っても13歳ほどにしか見えない。
何があってここに来たのか、きっと悲しく切ない事情があるのだろう。
最も譽れ高き奴隷、そんなものになりに来た少年を抱きしめて、思いは昨日の夜へと繰り戻る。
神殿を憎み睨みつけていたヤトヒョウさん。
凄腕の傭兵であろう彼が、傭兵業を捨てて嫌っているはずの神殿に来た理由。
恩人が関係している、そう言った。助けられてからの時間の差異、それは恩人の死を意味するのではなかろうか。
恩人が死に、助けられたヤトヒョウさんはその遺志を継いでここへ来た。
美しく聖なる神殿に、疑心を持てとヤトヒョウさんは言う。
殺意と怒気を孕んだ瞳、その激情の行く先は。
「…まさ、か」
ヤトヒョウさんは先生にならなければいけなかった。
傭兵のままではいけなかった。
先生に許されて、傭兵に許されないこと。
まさか、そんな、そんなことはあるのだろうか。
神に愛された子供達、異能を持つ子供達。
胸が煩いくらいに暴れ、それに反して体は冷え切って行く
ヤトヒョウさんの、目的は。
「っ、ふぅ…」
だめだ、考えてはいけない。
冷たい夜気に頭が冷えていく。
明日からは先生試験が始まる。あれだけの人が食堂にいたことを考えれば、先生試験というのは長いものなのだろう。なら、最初のうちに手を抜いていると後から苦しくならないとも限らない。
衛兵は僕を門に通した。
サキヤ先生は僕を迎え入れ、僕に部屋を与えた。
ひとまず、最初の資質は認められたのだ。
衛兵に気に入られ、ぼくは神殿の中に入ることを許された。門前払いにはならなかった。
家族のために、僕はここを追い出されるわけにはいかない。
登山中はあれほど胸が苦しく冷たくなったその決意は、暖かな体を凍らせることなく、ストンと胸の中に落ち着いた。
それは、この薬草を操る幼い少年の温もりによるものなのだろうと、ハントはシラを抱きしめ直した。