3 のらねこ
微睡みから覚めたのらねこは、小さく丸まっていたせいで固まった体をぐうっと伸びてほぐしました。
最初におうつくしいひとに出会った春はもう終わりを迎え、晩春である最近は日の下で微睡むには少し暑すぎたのです。
いつもは楽しげに宙を舞う白い花弁がやわやわと宙を揺蕩っているのに気付き、のらねこは伸びの姿勢のままに顔だけ動かしておうつくしいひとを探しました。
おうつくしいひとはのらねこ1人分離れた隣に、つまりはのらねこのすぐ隣で横になっていました。深藍の髪が青い芝生に散らばり、陽に照らされた白皙のほおはいつもよりも血色がよく見えます。いつも通りの無表情でしたが、いつもよりも幸せな雰囲気を纏っている様に思えてのらねこは少し心がふあふあしました。
そして思います。
のらねこが暑くて目が覚めたように、おうつくしいひともこのままでは目を覚ましてしまわれるのではないかと。
いつだって冷たい空気を纏っているおうつくしいひとは、いまは花弁を悪戯に舞わせるだけで、自分自身は無防備に横になっているのです。
のらねこは考えます、少し考えて、そして衣擦れの音でおうつくしいひとを起こさない様に用心しながらおうつくしいひとの頭の方へにじり寄りました。
おうつくしいひとの髪の広がっていない辺りの芝生をのらねこは優しく指で叩きました。
ゆっくりゆっくり、芝生に呼びかけます。
そうすれば、芝生はさよさよと揺れて、小さな木の実をのらねこの示した場所に運んできてくれました。
その木の実を人差し指くらいの深さに埋めると、のらねこはまたゆっくりと微睡んでいた場所に戻り、これまたできるだけ優しく力を送り込みました。
まず、芝生がぽこっと動きます。青い双葉が芽吹き、するするとその白い体を伸ばしていきます。まずは二つに、次第に幾枝にも枝分かれして行きます。優しく優しく、のらねこの思いがこもったかの様に、ゆっくりと天へと手を伸ばしてゆく若木はその青々した葉っぱを鈴なりに実らせ、おうつくしいひとをその木陰に隠しました。真っ暗ではない、優しい木漏れ日の落ちる静かな空間。
おうつくしいひとの風がのらねこの育てた樹に纏わりつき、白い花弁で飾ります。
さやさやと、そよそよと、さらさらと、静かな音の重なりはより深い眠りに誘う様にのらねことおうつくしいひとを包み込みました。
明るい陽の光から、木漏れ日の下へ。
のらねこにはさっきよりも、おうつくしいひとの表情が穏やかになった様に思えて、さらに心がふあふあしました。
ゆっくりと、ほんの少しだけおうつくしいひとににじり寄って、またゆっくりと離れます。
のらねこは、春の真ん中あたりにおうつくしいひとに抱きしめられながらおうつくしいひとの御髪に触れたことをしっかりと覚えていました。
冷たくて、さらさらしていて、滑らかで、
触っているだけで落ち着くおうつくしいひとの御髪。
きっとのらねこがおうつくしいひとの御髪に触れて、あまつさえ編んで手遊んだことを知れば先生たちはたくさんたくさん怒るでしょう。
のらねこが、"子供達"なのに"先生"のように"お望み"を持っていると知れば、もっとたくさんたくさん怒るでしょう。
それでものらねこは構いません。のらねこは悪い黒なのですから。
のらねこは少し考えました。
のらねこは先生たちの"お望み"を叶える気はさらさらありませんでしたが、おうつくしいひとを邪魔するようなことはしたくありませんでした。
本を読んでもらう時も、描いた絵を見てもらう時も、お菓子を一緒に食べてもらう時も、のらねこはいつだっておうつくしいひとが何もしていないことを見計らって声をかけていました。
今、おうつくしいひとは寝ています。
のらねこが木陰を作ったので暑さで起きることはないでしょう。それどころか優しい静かな音に包まれて深い眠りについているかもしれません。
もし、のらねこが御髪に触れることでおうつくしいひとの眠りを覚ましてしまったら。
のらねこは微睡むのが好きです。
のらねこが日がな一日微睡んでいると、先生たちは怒って起こします。のらねこがどんなに嫌がっても寝かせておいてはくれません。
ですがおうつくしいひとはずっと寝かせておいてくれます。暑い日にはのらねこの方にそよそよと冷たい風を吹かせてくれることもあるのです。
のらねこはそんなおうつくしいひとの心遣いが好きで、いつかのらねこが起きていておうつくしいひとが寝ている時に、のらねこもその恩返しをしようと思っていました。
木陰を作ったことでより良い眠りをお贈りすることはできましたが、のらねこのお望みでおうつくしいひとを起こしてしまっては本末転倒です。お望みでおうつくしいひとを煩わせるなんてのらねこの好きくない先生たちと同じになってしまいます。
のらねこは考えて考えて、そして思いつきました。
おうつくしいひとの髪の、ほんの先っぽだけなら起こさずに済むかもしれないと。
もともとおうつくしいひとの風の満ちる庭園にいる時点でおうつくしいひとは無意識下でのらねこの行動を把握しています。それでも起きないということは、のらねこが敵対行為をしない限り眠り続けるのでしょう。
そこまで考えて、ようやくのらねこはおうつくしいひとに近づいて、芝生に散らばった長い長い御髪の先っぽを優しく掬い上げました。
静かに散らばる御髪は、木漏れ日にキラキラと煌めいて絵本の中に出てきた川を思わせます。のらねこの黒い髪は日に透かしてもただの黒なのでのらねこはおうつくしいひとの髪が光と影によって幾重にも色を変えるのを見るのが大好きなのです。
少しの間見惚れて、のらねこは腹ばいになって編み始めました。髪を傷めないように、緩く編んで、解いて、また編んで。木の時と同じように、小さな白い花を咲かせて、編んだ髪に挿してみたり。
のらねこの髪はきゅ、ときつく編んでいるので解くとくねくねと痕がついてしまいます。なのに、おうつくしいひとの御髪はちょっときつめに編んでも手を離すだけでまっすぐのサラサラに戻るのです。
編んだ髪を、中空で離すと、さらさらとほつれた髪は風と少し戯れてから芝生の上の川に戻ります。その時に解けながら木漏れ日に煌めく御髪の美しさに、のらねこは幾度も髪を中空に放ちました。
のらねこは夢中になっておうつくしいひとの御髪で手遊んでいました。
だから、その御髪がするりと手から逃げ出したのを風の悪戯だと思ってはっしと捕まえてしまったのです。髪を捕まえた奥に見えるのは、身を起こしこちらを見る無感情な薄青。
それを認めた瞬間、のらねこは御髪を地面に置いて飛び退っていました。
反射的で本能的なそれは、のらねこの神に愛された子供達、それも黒の子供として生まれながらに持つ桁外れな運動神経によって、のらねこ自身も想像していない速度でのらねこを庭園のはじまで運びました。
細い三つ編みはバタバタとのらねこの周りで荒ぶり、のらねこの驚きと慌てようを余すところなくおうつくしいひとに伝えてしまいました。
おうつくしいひとは静かな瞳で白い花がたくさん絡まった自分の御髪を見て、それから怒られるのかとびくびくと自分を見るのらねこへと目を転じました。
いつも通り無表情で、なのにその黒曜石のような瞳をまん丸にして、パタパタと尾のような三つ編みをはためかせる様は本に出てくる猫の驚いた時にそっくりでした。
「…のらねこ」
起き抜けで、低く掠れたその声に、のらねこは殴られたかのようにびくんと体を跳ねさせました。そして、怒られることを恐れながらも初めて聞いた声色の心地よさにうっとりと目を細めます。
きゅうと目を細まる様は本当にご機嫌な猫に似ています。のらねこ本人には分からないことでしたが。
髪にじゃれつき驚いて跳びのき、びくつきながらも名前を呼ばれて目を細める。
それはまさに猫のしぐさと言えるでしょう。
「のらねこ」
「あ、う、ごめんなさいなのです、おうつくしいひと。」
2度目の呼びかけにのらねこはたじたじとどもりながら謝りました。できるだけ小さく縮こまって、木の下のおうつくしいひとを見つめます。
目覚めたおうつくしいひとはいつものように御髪をふあふあと中空に漂わせましたが、のらねこの編みかけの部分は編まれて花を挿されたままにおうつくしいひとのちょうど目の前で揺れます。
おうつくしいひとの細い指が編みかけの房を指に絡め、白い花に唇を寄せました。いえ、正しくは花の香を確かめたのでしょう、朱唇は触れることなく離れたのですから。
「ありがと。」
「ふぇ、ぁ、」
唐突な感謝の言葉に、のらねこは頬を赤らめました。
おうつくしいひとに絵を褒められたことはあっても、ありがとと言われたことはなかったからです。
そして、その感謝の言葉がのらねこのどの行動に向けられたものなのか、混乱のあまり理解できなかったからでもありました。
「こかげ、きもちよくねむれた。」
のらねこの混乱を見通して、おうつくしいひとはゆっくり発音しました。いつもより少し低い声音はのらねこの混乱を宥めて、それでも混乱を見透かされた恥ずかしさとお礼を言われた照れくささにのらねこは黙ってこくこくと頷きました。
それには、勝手に御髪で遊んでいたことによる申し訳なさに似た感情も理由の一つではありましたが。
「かみであそんで、たのしいの」
くるんと変わった話題に、のらねこは一瞬口を開けて、そして閉じて、やっぱり一つこくんと頷きました。
なぜ、とか、嫌だった、とか、またやってもいい、とか、そんな何かはなく、ただ事実を確認して満足したのか、おうつくしいひとはもう一度横になってしまいました。
遠目にも、おうつくしいひとが目を閉じたのはわかりましたがのらねこは近づいていいのか、ダメなのか、途方に暮れてしまいました。
えいやと気持ちを奮い立たせて動いたのは、数分後のことです。静かに静かに、おうつくしいひとにゆっくりと躙り寄るのらねこの歩みは牛歩の歩みと言うにも遅いじりじりとしたものでした。
四つん這いのまま、そろそろと片手を上げて、そろそろとおろし、かさとも音が立たないようにじわりじわりと芝に着地させる。
のらねこが最初に微睡んでいた場所に戻るまでには、実に1時間もの時間を要しました。
のらねこがそろそろと体を横たえて、数瞬。
ようやく体から力が抜けきらんというところで、ふわりも舞い上がった御髪に再び身体中に力が入ります。
今度はおうつくしいひとが目をつむっているために、飛び退ることもできずに硬直します。
「すきに、すれば」
のらねこはぴくんと顔を上げ、誘うように揺蕩う髪の一房を摘んで、せっせと編み始めました。
のらねこを驚かせないようにじわじわと体勢を変えたおうつくしいひとは、ゆっくりと目を開け、
無表情ながらも楽しそうに髪を編むのらねこを見つめて、またゆっくりと眠りの世界に戻って行きました。
晩春の午睡は、のらねことおうつくしいひとの距離を、ほんの少し縮めたのです。
のらねことおうつくしいひとの日常編になります。
のらねこ視点とハント視点、その他視点が交互に出します。混乱させてしまったらすみません。
副題は視点者の名になります。