1 のらねこ
「ごきげんよう、おうつくしいひと」
白い花弁が舞う。
宵闇の、深い深い藍色の長髪と、硝子玉のような透明な薄青色の瞳。
白雪の肌とふっくらとした朱唇。
肌を覆い隠しす禁欲的で無性的な神殿の衣装。最上位を表す純白の衣が恐ろしいほどに似合っていて、
「…だれ」
「とおりすがりののらねこです、おうつくしいひと」
のらねこは習いたての騎士の礼をして"お美しい人"に微笑みかけました。
それは、のらねこが4歳、"お美しい人"が5歳の春のことでした。
「ごきげんよう、おうつくしいひと」
「のらねこ、きみはぼくのことがこわくないの」
6歳以下の子供たちが集められた神殿の、白い花弁の舞う薔薇の庭園で、お美しい人はいつだって硝子玉の瞳をしてぼおっとしていました。
庭園と言っても、石垣に囲まれた小さなもので、白薔薇と芝生の境なんてあってないような、そんな忘れ去られた庭園でした。
「おうつくしいひと、そのことばをそのままお返しいたしますよ、こわくないのですか、くろののらねこが」
のらねこがまとうのは、天上の白ではなく、地上の3色でもなく、異端を示す禍の黒。
神に愛され力と色痕を与えられた子供達の服は、男女貴賎の区別はなくとも力によって色を分けられる。
白は天上の色極上の色。神聖霊に愛されたものだけが纏うことを許された色。
薄青色は水の色、水に愛されたものだけが纏うことを許された色。
薄紅色は炎の色、炎に愛されたものだけが纏うことを許された色。
薄黄色は土の色、土に愛されたものだけがまとうことを許された色。
そして黒は異端の色。理外れた者だけが纏う忌み色悪し色呪われた色。
のらねこが纏うのは黒い服。のらねこの制御環《
ロック》は黒の首輪。のらねこの髪は烏のような黒。のらねこの瞳は闇のような黒。肌でさえ、皆のものとは程遠い褐色。
誰もが恐れ忌み嫌う、力から容姿まで真っ黒なのらねこ。
「どうでもいい、いろなんて」
お美しいひと、ただ1人極上の色、天上の色を纏う誰よりも何によりもおうつくしいひと。
お美しいひとはのらねこの容姿を怖がらず、恐れず、全く気にしませんでした。
お美しいひとが空を見上げる、風はさらに花弁を舞いあげてお美しいひとを祝福する。
お美しいひとはいつだって、空を見上げて風を纏ってぼおっと花弁に囲まれている。
だからのらねこはお美しいひとを見ながら、少し離れたところでじっとしている。眠くなったら寝て、話しかけたり話しかけられたりでほんの少し話して。
白薔薇の庭園で微睡んで、他のことを忘れたフリをしていました。
「おうつくしいひと、もじを、よめますか?」
ある日のらねこは、白薔薇の庭園に一冊の絵本を持っていきました。いつだって空を見上げているお美しいひとが、光に透かすと空のような蒼になる長い御髪を風に遊ばせてことりと小首を傾げます。
「かんたんなものなら」
いつもはじっとうずくまって、お美しいひとを眺めながら微睡んでいるのらねこが話しかけたのが珍しかったのか、お美しいひとは硝子玉の瞳をほんの少し揺らしました。その光の揺れる様は、神殿の大人たちには決して見せない、お美しいひとの感情の表れでした。
「あのですね、おうつくしいひと、ものがたりをよんでくださいませんか」
「のらねこはもじをしらないの」
のらねこがその時持ってきたのは、とてもありふれた童話の絵本でした。王子様と、神殿の子供達が悪い魔法使いからお姫様を助け出すお話。
嫌がられるのではないかと思っていたのらねこの考えとは裏腹に、お美しい人は丁寧に読んでくださいました。
白の天上の色を持つ王子様、地上の三色を持つ子供達。
天上の白の王子様に愛されるのは薄青の水の色を持つ綺麗で美しいお姫様。
お姫様の美しさに黒の悪しき色を持つ悪い魔法使いは魅入られて、自分のお城へ攫ってしまいます。愛おしい人を奪われた3人の貴公子は悪い魔法使いの手下たちをやっつけながら悪い魔法使いのお城に向かいます。そして最後には、悪い魔法使いがお姫様のお願いを聞いて王子様のところへ帰してあげます。
王子様と結婚式を挙げるお姫様の笑顔で絵本は締めくくられていました。
「…そうして、みずの、おひめさまは、ひかり、の、おうじさまと、けっこ、ん、して、しあわせに、なりま、した。」
いつもなら2メトルは離れている2人は、いつの間にかぴったりとくっついて絵本を読んでいました。
たどたどしくも最後まで読み聞かせてくれたお美しいひとは、お美しいお顔を少ししかめて絵本を見ていました。
「ありがとうございます、おうつくしいひと。」
「このえほん、どうしたの」
おうつくしいひとの硝子玉の瞳が揺れるのを見るのが、のらねこは好きでした。それでも、その時の揺れ方は不安になるような揺れ方で、のらねこは慌ててしまいました。
「しんでんのせんせいがね、これをよみなさいっておっしゃったのです。それで、おうつくしいひとといっひょにいてはいけないというのです。」
普段なら、そんな事を言ったらだめなのだと気付いたはずなのに、のらねこは先生の言葉をそのまま口に出してしまったのです。
「おうつくしいひとのしろを、のらねこのくろでけがしてはいけないとおっしゃったのです」
硝子玉の瞳が、揺れて、揺れて、揺れに揺れて、いつもは柔らかくしゃらしゃらと揺れているお美しい人の御髪が、荒々しく風に靡いて、白い花弁がいつもの比じゃないくらいに舞い上がって、
そして、揺れて揺れて、揺れた薄青が、お美しいひとの瞳が、のらねこを虚ろに見つめたのです。
「のらねこは、ぼくから、はなれるの、」
お美しいひとは喜びません、怒りません、泣きません、笑いません。
ただからっぽの硝子玉で見つめるだけです。
そのお美しいひとの硝子玉が揺れるのは、いつだってのらねこが何かをした時でした。
こっそりお菓子をくすねてきて2人で食べた時、木の切れ端に猫を描いて見せた時、先生に言われたお勉強を手伝ってもらったとき。
先生たちがどんなにお美しいひとに傅いても揺れない瞳を揺らせるのは、いつだってのらねこでした。
「のらねこは、くろです。のらねこはわるいくろなのです。だから、せんせいにいわれてもはなれません、せんせいにいわれてもおうつくしいひとのおそばにいたいのです。」
のらねこがそう言えば、お美しいひとははためく髪を気にもせずに、のらねこに手を伸ばしました。
のらねこはいつだってお美しいひとには触れず、お美しいひとのそばにうずくまってじっとしていました。
だから、お美しいひとがのらねこのことをぎゅっと抱きしめたときも黙って抱きしめられていました。
「のらねこは、わるいまほうつかいみたいに、おうつくしいひとがいやだといわなければ、はなれません、おうつくしいひと、」
「のらねこ、いかないで、のらねこ、」
だけど、のらねこの黒が冷たくなって、横目に見たお美しいひとの瞳が解けるようにぽろぽろと、お水を零していたことにはとても驚きました。
のらねこは喜びません、怒りません、泣きません、笑いません。
だからお美しいひとが涙を零した時、とてもとてもびっくりしてかたまってしまいました。
お美しい人を抱きしめ返すほど心が出来ていなくて、何もしないほど心が冷たくはありませんでした。
困りきったのらねこは、お美しい人の綺麗な髪の先っぽを、優しく優しく梳いて、優しく優しく編んで解いて、お美しいひとが落ち着くまでじっと抱きしめられていました。
趣味です。見苦しくてもご容赦を。
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読んでくださってありがとうございます。