祈り
「別れと僕」より
フィクションです。
彼と彼女は近い距離に居た。予定された別れの時間が差し迫っていて、彼は荷物を置いて彼女を抱き締めた。彼女は彼の手触りを感じながら期待を込めて彼の表情を伺った。
「本当に帰っちゃうの。」
ほんの一瞬の躊躇いがあったが、彼はその答えを返した。
「ああ。帰るよ。」
「そっか。」
頭では分かっていたのだが、それを聞いて彼女は涙を零した。
丁度その後ろで彼が乗る予定の列車がやってきて、そのブレーキ音がけたたましく耳に劈いた。彼は振り向くと、電光掲示板の横にある時計を見やった。後五分。
「もうそろそろ行かないと。」
「置いてかないで。」
彼女はわっと泣き出した。彼は間を置いて、彼女をもう一度強く抱き締めて、耳元にそっと囁いた。
「次会うためには、今日帰らなければならない。」
「どういうこと?待てないよ。」
彼は彼女の両肩に自分の両手を置いて言い聞かせるように語りかけた。
「もうすぐ一緒になれるよ。もうすぐ君を迎えに来られるよ。だから荷物をまとめておいてほしい。」
彼は今回彼女のために自分のスーツケースを持ってきたのである。なぜなら一週間後彼女を自分の家に迎え入れる予定だったからである。
彼女は唸り声のようなものをあげて泣いていた。
「もう行くね。またね。」
「……じゃあね。」
彼は荷物を持ち改札へと足を進めた。この駅の改札はまだ自動ではなく、制服を着た駅員が切符を切ってくれた。彼は振り返ると彼女の方を見た。十メートルと離れてはいないが、声を出せず笑顔を浮かべて手を振った。二人の距離はコインの表裏のようだった。
彼は階段を駆け上がって線路を渡り、改札から見える位置の車両に乗り込んだ。休日の遅い時間ということもあって車内は空いていて、彼はすぐドアの横の席に荷物を置いて、窓から彼女に顔を見せた。彼からは彼女の姿が遠目にはっきりと見えたが、彼女からどのように見えているのかは定かではなかった。
そうして間も無く発車時刻となり、車内アナウンスとともに電車が動き出した。 彼は必死に手を振った。彼女も手を振っていた。彼は心の中で祈った、彼女があと一週間安らかに生きていられますようにと。
彼女から遠ざかる電車の中でも、彼は彼女のことを考えていた。車内は寝ている人もいないのにやけに静かだった。
彼女に生きてほしいということの残酷さを彼は理解していた。彼女は壮絶な過去を経験し、今も強い希死念慮に襲われているからである。彼も元は自殺志願者であり、彼女と結び付いたのもそこに縁があった。しかし、彼は変わり、彼女によって生きる希望を得た。彼女こそが彼にとっての生きる希望であった。彼はどちらかというと冷たい人間で、嘘つきではあったが、今では彼女に対して心より生きてほしいと願っていた。
このような別れの度に、彼女のことをいつも以上に強く意識していた。ここ数ヶ月は彼女と離れ離れになってしまっていたのもその理由の一つであった。離れ離れになるきっかけも、彼が作ったものであった。それ故に彼は罪悪感とは別の、言い様のない強い気持ちが心の中にあった。昔はその気持ちを持ってはおらず、結果自分を救って彼女を追い込んでしまったのである。過去の自分が未だに許せずにいた。しかし、許すつもりもなく、今のように変われたことを良いことだと感じていた。許さなくてよいのだ、未来へ進めれば。
彼は哲学も好きであったから、良く自分や世界のことを考えた。彼は専らニーチェの信奉者で、彼女に対しても、99%が苦悩でも1%の幸福を与えられるようにと接してきたのであった。しかし最近になってハイデガーを知り、死を強く念慮している彼女に生を感じてもらおうと考えていた。理屈は兎も角、接する中で。死までの未来の予定をいろいろと彼女と浮かべた。
苦難の雨に打たれていても、そう感じているのは彼らだけで、周囲の人間は何事も無いかのように生きていた。彼らには気づけないだけなのか、本当に無いのかは定かでは無いが、確かに重圧のような形で感じるのだ。彼らは二人きりで同じ景色を見ていた。雨に打たれながら陽の光を相合傘で遮っていた。
彼はふっと我に帰るとアナウンスや近くの人々の話し声が聞こえ、間も無く目的の駅だと気づいた。長らく空想の中に居たらしい。目先の長い一週間が彼に絶望感を与えていたが、一週間後に会えるという希望が彼を奮い立たせた。そうして、ガラス越しにぼやけて映る夜空の星に、どうか彼女も同じように感じていますようにと祈らずには居られなかった。