第二章 その5 パニック
「脱線……?」
車内がざわつき、乗客全員の視線がアンジェリカに集中する。
アンジェリカは諦観したように息をついて、「申し訳ございません」と繰り返した。
事実上の肯定に一瞬、車内がしん、とする。駅を飛ばすのと脱線では訳が違う。
「おい、冗談じゃねえぞ」
「いやぁ、下ろしてぇ!」
一転して車内は騒然とした。向かいのシートにいた女子高生がパニックを起こしてわめき散らす。
「緊急停止ボタン押せよ! なにしてんだよ!」
「さっきから押してるわよ! 偉そうに命令しないでよ!」
キイチは大きな声で訊いた。
「なァ、脱線事故の生存確率って、どの車両が一番高いんだ?」
アンジェリカは細かく揺れる瞳でキイチを見つめた。キイチが友好的なのか、敵対的なのか判断しかねてるのかもしれない。単に、駅で会った人物であることに気づいただけかもしれない。
「最後尾車両はもらい事故による追突のために若干増加しますが、通常、後方ほど被害が小さくなります」
アンジェリカは事務的に答えた。
「じゃあこの先頭車両は一番死ぬ確率高いってことだな」
その途端、乗客は我先に後続車両に殺到した。
「ちょっと押さないでよ!」
「痛い痛い痛い!」
狭い車両間ドアの付近は乗客同士で押し合いになっていた。多少のトラブルがあるにしても致命的なことまでにはならないだろう。アンジェリカに手を上げた男は最後までアンジェリカを睨み付けていたが、「ちっ」と舌打ちすると二両目に移っていった。
先頭車両はキイチとアンジェリカだけになった。二両目と三両目の間でまた小競り合いが起きていて、それを二両目の乗客たちが腰を浮かし、不安そうに見ている。自分も続いた方がいいか、迷っているのだろう。
「静かになったね」
キイチはアンジェリカの隣に座ると気楽そうに言った。
「その……あなたは行かなくてもいいんですか?」
「それより怪我は大丈夫? ごめん、もっと早く止めればよかった」
キイチは傷口を確認しようと手を伸ばした。だが、アンジェリカはその手から逃れるように身を引いた。
「いえ、元々あった傷が開いただけですから。額の怪我は出血しやすいだけで、見た目ほど心配はいりません」
それは半分は事実だが、半分は事実ではない。頭部の怪我は見た目では大したことがなくても、脳に損傷を与えていることもある。
「これ、洗って返しますので」
アンジェリカは頭部に当てていたハンカチを示す。
「それは捨てちゃっていいよ」
「……そうですよね、申し訳ございません。たとえ洗ったところで、私の血で汚れたハンカチであることに変わりはないのに」
「いや、そんなつもりじゃ……」
アンジェリカはハンカチをぎゅっと握るとPCのモニタに向き直った。