第二章 その4 アンジェリカ
(九十……いや、九十二キロくらいか)
タンッ、タタタンッ、と小気味よく響くキー音を立てている少女をじっと見つめながら、キイチは車輪がたてる音に耳をすます。音の間隔から割り出した速度は、在来線なら速度超過の領域に達しつつある。だが、この車両の走行は安定していて、駅に進入するときやポイントを通過するとき以外は振動も少ない。
これも箱庭都市の新技術なのだろう。
だが、それでも設計以上の速度になれば脱線は免れない。
「おい」
不意に少女の前に中年の男が立った。
「この電車、地獄行きとか言ったよな。駅飛ばしまくってるし、ハッキングされたのは間違いねえ」
「……」
少女は男の意図を図りかねているのか、無言のまま顔を見上げる。
「お前がそのパソコン開いた途端におかしなことが起こりだした」
「いえ、私は」
「俺ぁ見てたぜ。あんた、さっきからパソコン叩いてなんかやってるよな? 見せてみろよ、そのパソコン!」
「違います、私は」
「いいから、よこせっ」
男は突然、少女のノートPCに手を伸ばした。
「痛っ」
弾みで少女の額にPCの角が強打し、眼鏡が飛んだ。
「何してんだ!」
思わずキイチが割って入る。
「大丈夫か? 怪我人になにしてんだよ!」
「な、なんだ、そいつをかばうのか? 誰のせいでこんなことになってんだよ」
男は一瞬ひるんだものの、開き直ったように言った。
「バカ言ってんなよ! そのPCのラベルを見てみろよ!」
「はァ?」
男は不審げに奪い取ったPCの天板を見る。
キイチは男にかまわず、眼鏡を拾い、額を押さえてうつむく少女に近寄った。包帯は血でにじみ、キャスケット帽からこぼれた一房の髪が額に垂れていた。
それは銀髪だった。脱色や染色ではない、艶やかで透き通るような光り輝く銀色だった。地味な外見にはあまりにもそぐわない。
(やはり外国人……?)
「大丈夫です。すいません」
少女は青ざめた顔で笑ってみせる。
キイチは少女の傷口をハンカチで圧迫しながら男に言った。
「そこにシールが貼ってあるだろ。この人は統括理事会サイバーセキュリティ特務課の人だ。俺たちを助けようとしてんだよ」
「そんなシールいくらでも偽造できるだろうが」
「おっしゃるとおり、サイバーセキュリティ特務課の者です。お騒がせして申し訳ございません」
少女はスマートフォンを取り出すと、男に身分証明書アプリの画面を見せた。
K市先端技術実証実験特区 統括理事会サイバーセキュリティ特務課
アンジェリカ・ユーリィエヴナ・カスタルスカヤ
「……じゃあ早くなんとかしろよ!」
男は周囲の様子を見回すと、乱暴にノートPCを突き返した。アンジェリカは「ご協力感謝いたします」と頭を下げて受け取った。
「ちょっとお、どうなってんのよ」
騒ぎを聞きつけたおばさんがやってくる。
「さっきから駅飛ばして、どうなってんのよ。あんたが修理してるの? あたし、十二時からの特売のためにわざわざ電車に乗ったのに、間に合わなかったらどうしてくれるのよ」
「申し訳ございません、ただ今対応しております」
「まったく」
――なんなんだこいつらは。なんで怪我を押して自分たちを助けようとしてくれる人に対して、そんなこと言えるんだ?
自分勝手な連中にむかついたキイチはわざとらしく大声を出す。
「だいぶ、スピード上がったなァ。このままだと脱線すんじゃねぇの?」
アンジェリカは、大きく目を見開いてキイチを見た。