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第三章 その4 兄さん

「せぇのっ……と」

 キイチはガードレールに足をかけ、ワゴンに跳ね飛ばされて深々と刺さった杖を抜き取る。あとわずかでも遅れていれば、これはアンジェリカ自身だったかもしれない。

 キイチにはそれが僥倖だとは思えなかった。一命を取り留める、それは確かにいいことだろう。だが、普通に暮らしていれば命の危険なんてそうそうあるものではない。二日続けて命の危機にさらされるなんて事態こそが異常なのだ。それを基準にして「よかった」なんて思うことはできなかった。

「ほい」

 歩道の並木に体重を預けて立っているアンジェリカに杖を渡す。杖は思いのほか軽く、ガードレールの鉄板を突き破っても表面の傷一つ付いていない。

「ありがとう。ごめんなさい、私がぼーっとしてたせいで」

 アンジェリカは杖を受け取ると、深々と頭を下げた。

 以前にあったときは顔のほとんどを隠していた包帯も、今は額のみ。それでもなお、大きなキャスケット帽と眼鏡が美しい銀髪と顔を隠している。

「どうして顔を隠しているの? その髪も。せっかく綺麗なのに」

 キイチの問いにアンジェリカははっとしたようにうつむき、そしてキャスケット帽を目深にかぶりなおした。

「その、ごめんなさい。これは生まれつきのもので……」

「? そんなこと疑ってないけど」

「キーチも嫌ですよね、不愉快にさせてごめんなさい」

 そう言うと、アンジェリカは自分の容姿を恥じるように、さらにキャスケット帽を引き下げた。

「なに言ってるんだ。お前より美しい女なぞ、どの世界にもいない」

 妹ケイそのままの容姿で言われて、キイチはつい、アランのような口調で応えてしまう。

「俺はお前の素晴らしいところを、外見だけに絞っても百や二百はそらで言えるぞ。まずはその銀髪だ。艶やかで、まるで赤子の髪のように細く繊細で、日に当てれば透き通るような無垢の銀色。ホンモノの銀よりも価値があるだろう。俺なら銀、いやプラチナの百倍の金を出しても構わぬ。それからその翠色の瞳。長い銀の睫毛に縁取られたその瞳はエメラルドよりも淡く、海の碧を写し取ったかのような気品と神秘の具現。見つめられれば男女問わず魅了するに違いない。男女どころか知性を持たぬ動物であっても、いや植物すら抗う術を持つことあたわぬはず」

「も、もうやめて!」

 次第に古語調になって暴走するキイチを、アンジェリカが手のひらを突き出して制止する。

「す、すまぬ……あ、いや、ごめん。気を悪くしたのなら謝るよ」

「そ、そうじゃなくて、恥ずかしくて、もうそれ以上聞いていられない……」

 アンジェリカは真っ赤な顔でもじもじと答える。

「でも、ありがとう。すごく嬉しい。そんなに褒められること、ずっとなかったから」

「日本人はシャイだから、思っていても言わないだけだよ」

 アンジェリカは力なく首を横に振った。

「そうじゃないんです。私はこの社会に受け入れられていなくて、いつも、みんなを不愉快にさせてしまうだけなんです」

「そんなこと……」

 キイチは否定の言葉を口に出しながら、電車ジャック事件の車内を思い出す。アンジェリカに対して好き勝手な、心ない言葉をぶつける人たち。

「あの電車の中のことだったら、特殊な状況だったからだよ、きっと。あの人たちだって違うところでアンジェリカに会えば、あんな態度じゃなかったはずだし」

 アンジェリカは目を伏せ、再び首を横に振る。

「いつものことなんです。彼らに原因がある、と思って自分を振り返らなかった、私のせいなんです。こんなことを口に出すのはすごく辛いですが、私は……」

 アンジェリカはしばらくためらったが、ぐっと顔を上げてはっきりと言った。

「私は、嫌われ者なんです」

 大きな瞳が涙で潤んでいた。

「日本語や、日本の文化をちょっとかじっただけで、社会に溶け込むことができるつもりになってました。あの人たちの気持ちや考え方、国民性を分かった気になっていたんです。目立つことを嫌う、人と違うことを嫌う、はっきりと言うことを嫌う、空気を読めないことを嫌う……そんなことも知らないで、私は目立ちすぎるこの髪、この顔を晒していたんです」

「それでその帽子なのか……」

 アンジェリカがこくん、と頷く。

「それに、私は性格が悪いんです。自分勝手で、他人のことよりも自分のことを先に考えてしまうんです」

 そんなの、程度の違いこそあれ普通のことだ。キイチはアンジェリカのあまりに自虐すぎる考えに声が出ない。

「私と一緒にいるとキーチまで嫌われてしまうかもしれないのに、なのに近づかないでって言えないんです。離れてほしくない。そんな自分勝手なことを考えてしまう私なんて、きっとキーチもほんとは嫌いなんだと分かってるんです。キーチはきっと、誰にでも優しいだけなのに」

「そんなことあるわけないよ。あの電車ジャックで乗客を救ったのはアンジェリカじゃないか。自分勝手な人だったらあんなこと……」

 キイチは自分を後続車両に向かわせ、連結解除したアンジェリカの真意に気づいた。

 あれは、衝突事故にキイチを巻き込まないためだ。いくら電車の管制に長けていると言っても、緊急ブレーキによる停車距離を正確に計算することは難しい。先頭車両と保守作業車が衝突しても、二両目以降が助かればいい、と思っていたに違いない。

 まさか。

 キイチは気になっていたことを訊いてみる。

「アンジェリカ、その手足の怪我はどうした?」

「あ、ああ、これはその、大したことじゃないんです。以前にちょっとクラッキング事件があって、それで」

 しどろもどろに弁明するアンジェリカの様子に、キイチは自分の考えが正しかったと確信する。

「みんなを助けるために自分を犠牲にしたんだな?」

「犠牲ってわけじゃないです。もう少しうまくやればよかったのに、私が失敗したから、だからこれは自業自得で」

「馬鹿!」

 キイチの大声にびくん、と怯えるアンジェリカ。キイチはアンジェリカをぎゅっと抱きしめる。

「みんなを助けるためにお前が傷ついてどうするんだ。お前は一人じゃないんだぞ。お前が怪我をしたら、お前のことを大事に思っている人が悲しい思いをするんだ」

「大事に思っている人……」

「ああそうだ。心当たりがないとは言わせないよ」

「そうですね、私を大事に思ってくれる人がいる……どうして忘れていたのかしら。私は、兄さんのためにここに来たのに」

 キイチは大きく目を見開いた。

「……記憶が戻ったのか……?」

「キーチ、いつになるかは分からないけど、兄さんに会ってください。きっと気が合うと思います」

 にっこりと笑うアンジェリカを前にキイチは心の中で、

(誰だそりゃあああああ!)

 と絶叫していた。

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