第二章 その6 トリアージ
キイチは背を丸めてキーを打つアンジェリカの肩越しに画面を眺めた。画面には路線図のような運行モニタ、その上に真っ黒な仮想端末がいくつか。
運行モニタはキイチが今まで見たことのないタイプのものだった。完全無人運転の列車では現行のものとはだいぶ違うのだろう。「ATS ERROR」という赤いインジケータがいくつも点滅していた。
(ATS――自動列車停止装置か)
電車の速度が超過したり、前方の電車に接近しすぎたりすれば独立した別系統のシステムによってブレーキがかかる。だから、たとえ列車の制御が乗っ取られるようなことがあっても、事故に発展することはない――ATSが正常に動作していれば。
だが、今はキイチの予想よりもかなりまずい状況だった。
運行モニタを見る限り、暴走しているのはキイチたちが乗っている列車だけだ。しかし、ATSが機能していないということは、管制システムだけでなく、保安装置全体まで攻撃者の手が及んでいるということだ。
このままだと脱線よりも衝突事故が先に起きる。この箱庭都市の大動脈とも言える環状線、運行モニタ上にも多数の光点が動いている。猶予はあまりないはずだが、これほどのクラッキングに対する対策、判断を短時間で下せるマニュアルや体制は整っているのだろうか。
もしかしたら、そういうときのためにサイバーセキュリティの担当者がいるのかもしれない。技術が進めば進むほど、コンピュータによる制御範囲は広くなっていく。クラッキングによる危険性、被害規模も大きくなっていくはずだ。十年未来と言われるこの箱庭都市では外界とは対策も異なっていてもおかしくはない。
であれば、アンジェリカがこんなにすぐに運行モニタにアクセスできたこともうなずける。彼女はきっとサイバーセキュリティ特務課でも鉄道システムを担当しているメンバーなのだろう。サイバー攻撃を受けたときにはこの運行モニタから状況を把握、管制室に対応を指示する――今回はたまたまクラッキングされた電車に乗り合わせただけで、本来はどこかのオフィスでやってるのかもしれない。
キイチは運行モニタの上に「スタンドアロンモード」と表示されていることに気づいた。この画面は通信回線を経由した遠隔制御ではなく、一般通信を介さないコンソールモニタだ。わざわざ裏口の転送速度の遅いコンソールを使っているということは、攻撃者のこれ以上の侵入を防ぐために表側の全通信を遮断しているのだろう。
アンジェリカは真っ黒な管理コンソール画面に次々とコマンドを叩きこんでいた。それと同時に運行モニタ上でポイントの切替アラートが点灯する。
「ち、ちょっと待って。ここから制御してるのか?」
「そういう仕事なんです」
青くなって訊くキイチにアンジェリカが軽く答える。
「嘘だろ……」
キイチは自分ならどうするかを考える。
まずはすべての通信を閉鎖。これはすでにできている。その上で追突を避けるために同一軌道上の他の電車を待避。環状線である以上、この電車が終点駅に激突することはないだろうが、同じ線路上にいる電車をすべて別の線路に移さなければいつかは追突する。想定被害の大きさ、対策にかかる時間を計算すると、この電車の暴走を止めるのはそれからだ。
だが、アンジェリカにその判断ができるだろうか。一台の脱線事故で済んでよかった、という発想――その犠牲者に自分自身が含まれる苛酷な計算が彼女にできるだろうか。
アンジェリカはたかだか十五、六の少女に過ぎない。そんな年で、しかも外国人でありながら、この箱庭都市のサイバーセキュリティを担当しているということは相当優秀であることは間違いない。しかし、自分自身が暴走列車に乗っていながら、恐怖と戦いながら冷静な判断がとれるだろうか。
無理な話だ。ならば、それが無理であることを認めた上での対策をとるべきだ。
だから、一刻も早く外部に連絡をとり、現場の状況を伝えながら対処を依頼するべきところだ。だが、アンジェリカが外部と連絡をとる様子はない。
いざとなれば――サイバーセキュリティ担当者の前であろうが、クラッキングしてでも自分が止めるしかない。キイチは右手をぐっと握りしめた。