竜一の想い
予想していなかった話しを聞かされたのは、大学が終わって適当に飯を食おうという話になったときだ。
俺の友人、陽が歩いている最中に青白い顔をして大事な話しがあると切り出してきた。
咄嗟に竜一は周囲に視線を回し、人たちの様子を探る。竜一の様子を見た陽は薄らと笑い、自動販売機の前に立った。
「大丈夫だよ。そこまで人目を気にしなくても。」
「青白い顔したお前が大事な話しって言うからには身構えるのも当然だろ。」
ハイよ、と陽が竜一に缶コーヒーを投げ渡す。
「俺、沙希ちゃんと付き合うことになったわ。」
「は?…沙希ちゃんって、美影沙希ちゃん?宮森ひまりの親友の?あの沙希ちゃん?遊園地行った?」
「なんでそんな驚くわけ?」
と力なく笑う陽に、竜一は言葉を濁した。
「いや、だってお前さ、好きな子と付き合えた男の様子には思えないから。」
彼女は、婚約者がいるはず。
その言葉を言えず、竜一は缶コーヒーを開ける。
「そりゃ、…本願が叶ったわけじゃないから。」
「はあ?」
「分かってるさ。……分かってる。」
それから随分長い沈黙が降りる。その間に缶コーヒーを飲み終えて、竜一は陽の様子を横目で窺う。
いつにも増して、言葉少なな陽はまるで葛藤しているかのように奥歯を噛みしめている。
何かに苦しんでいることくらい、誰だって分かる。それが婚約している女との交際報告なら、尚更。
「ま、そういうことだから。飯、食いにいくか。」
と言う陽に、ああと返事をして。
ふと竜一の脳裏に、ひまりの顔が浮かぶ。
彼女はこのことを知っているのだろうか。今、どうしてるんだろう。あいつのことだから、きっと自分の本心何て言わないで、喜んで応援すると言うだろう。でも裏では?その時誰がそばにいる?
「…ひまりは知ってるのか?」
「ひまり?いや、俺からは言ってないけど、沙希ちゃんが言うだろ。」
急激に心配になった。まるで目の前で泣かれたかのように。鮮明にひまりの顔が浮かんで、そして彼女は泣いていて。その幻影を脳裏に過らせただけで、心臓はけたたましい音をたてて暴れ出し思考を染めていく。
すぐにでも電話して、彼女の状況を確認したい。ふとスマホを手にすると、彼女の連絡先を知らなかったことに気づく。
「ひまりの…」
「ん?」
「ひまりの連絡先、教えてくれ。聞きたいことがあったの、忘れてたわ。」
陽はただ、分かったと言っただけ。
なのに、なぜ。
そんなに目を泳がせるんだよ。
***************
遊園地の帰り、恩を着せることもなく私を最寄り駅まで送り届け、電車で帰って行った竜一にお礼を言いたい。だが、なかなかその気持ちは果たすことができないでいた。
ひまりはスマホを無意味に眺め、溜め息を零した。
あの時、誰よりも一緒にいて喋っていたはずの竜一に連絡先を聞かずに別れてしまったことが、こんなにもどかしいなんて。
陽に聞けばいいだけのこと。
一言、お礼が言いたいのに電話番号聞くの忘れちゃったー!教えて!そう言えば良いだけ。
だがなんとなく、陽に電話し辛い気持ちになっていて、どうしてもかけられなかった。
ぶっきらぼうだし、初対面の人相手に厳しいことも言う。
なのに、優しい。私のことを思って言ってくれたことも。時間を割いてくれたことも。
それに、…それに、なんだか。
今思えば、初めて会ったような気がしない。
ひまりはどうして自分がそう感じるのか、必死に考えた。
――昔。
と竜一が電車内で切り出した話しが脳裏に浮かぶ。
彼は幼い頃気になる女の子がいたと言っていた。その気になるという感情を恋心だと気づかず、不愉快にする相手であると勘違いして、その女の子を苛めていたと。
あれ?でも、彼が言っていた構図。…女の子を苛める男の子。女の子を助けに来た男の子。それから…
何だか、どこかで見たような気がする。どうして?
ふとスマホから目を離したときだった。
手元でバイブルが起動し、一秒遅れで着信音が流れ出した。
画面を見ると、身に覚えのない番号からの電話。バイトをするようになって、見知らぬ番号にも出るようになったが、未だになんとなく、緊張が走る。
「…もしもし?」
と出ると、向こうからすうと息を吸うような音が聞こえてきた。その音が、相手の緊張を知らせるように。
「……多喜だけど。…遊園地のときにいた。」
静かで低い声が、ずっと考えていた人の声だと認識すると、緊張が更に増した。
「え、竜一君!!どうしたの?電話番号…!」
「陽に聞いたんだ。この前、聞くの忘れただろ?こんな形になって悪いとは思ったけど、なんとなく…その。」
その語尾の濁し方で、ひまりははたと思った。
竜一は私を心配して陽に電話番号を訊いてまで掛けてくれたのだろうか。
婚約者のいる沙希に、沙希に惹かれている陽を引き合わせたことによって、これから沙希が辿ることになった運命について罪悪感があると言った私のことを。
好きな人が、親友と付き合うことになった失恋の痛みで、泣いていないか気にしてくれた?
大丈夫だよ。陽君のことはもう諦めがついたし。
その言葉を零す前に、竜一の声を聞いてひまりの心が緊張から解けていくのが分かった。
すると、大丈夫だったはずの涙が込み上げてくる。
どうして、こんなにホッとしたんだろう?
でも、この涙の意味を竜一はきっと誤解するだろう。違うよって言っても、きっと強がりだろって信じはしない。
それに、寄りかかってはいけない。失恋の痛手を竜一という存在に甘えて癒そうとするなんて、卑怯だ。そんなことは、竜一だって不愉快に思うはず。そして馬鹿でアホでお人好しで自己中心性の強い自惚れやの他に卑怯まで追加される。
そう考えたひまりはすうっと深呼吸して、込み上げてきそうな涙を食い止めた。
「竜一君、実は私も竜一君の連絡先、聞かなかったこと後悔してたんだ!電話くれて、すごく嬉しい!」
「えと、そうなの…?」
「この前、私の最寄り駅まで送ってくれたでしょ?ありがとうって言ってなかったから、言いたいなって思ってたの。」
「そ、そうか。…それで、お前…大丈夫なのか?」
「何が?…あ、もしかして陽君と沙希ちゃんのこと?心配してくれたんだね。ありがとう!でも、大丈夫だよ。二人が本当に幸せなら、それでいい!…そうでしょ?」
「けど…お前は」
「陽君のことが好きだろ?って聞きたいのよね。…正直に言うと、ショックじゃないとは言えない。でも、仕方ないじゃない。私は陽君の幼馴染でいるって決めた。私が前に進まないといけない。…ううん、進みたいの。いつか、誰かを好きになって…その好きな人が私を好きになってくれる日が来るって。そう信じたいの。」
変かな?と呟くと、竜一は息を吸って止めた。無言が続く中で、やがて大きく息を吐く音が聞こえてくる。
「信じようとしなくても、それは必ずお前の身に起きる真実だ。…会ったばかりの俺に言われたって、信じられないかもしれないが、人には必ず決められた運命があるんだってさ。不幸を背負い込みやすい人もいれば、平穏に生き続けられる人もいる。」
低く落ち着いた声が、力強く自分の心を支えようとしていることに、ひまりは気づいた。
当て所ない、不確かな望み。口にすることによって自分を鼓舞しようとわざと撒いた種が、私に不安を与えた。そんな日が来なかったらどうしよう、と。
どうして、彼はそんな一瞬の私の迷いに気づくの。
こんなに、力強く、励まして背を押してくれようとするの?
「けど、幸せになるのはすべての人が与えられた運命なんだ。その幸せが、求めていたものとちょっと形が違ったり、気づかなかったり、自分にはその価値がないと信じ込んでいることもある。時には、やっと見つけた幸せも、すぐに新しい悲しみが押し流すこともあるかもしれない。でも、必ず望みは叶うときがくる。そう思えない日が、例え長く続いていても。…大丈夫だ。お前の望みだって、叶う日が来るから。」
ずるいよ。
私、泣くのこらえていたのに。一所懸命、こらえていたのに。
「……あ、ありがと……、ごめ…。ちょっと、なんでそんなに…良い事言うのよ。こんなの、私じゃなくたって、泣けてくるよ!」
電話越しに、竜一が狼狽えているのを感じる。
「泣いてるのは、悲しいからじゃないよ。全然違うから。」
ひまりは知らない。
この時、竜一もひまりと同じように堪えている感情があることを。
そして、できることなら今すぐに、ひまりのそばに行って、抱きしめたいと思っていること。
それでも、今そんな関係にないから、それができなくてもどかしくて苦しいと思っていることにも。