このままでいたい
「私ね、陽君のこと…」
彼の瞳のなかに自分が映る。
より一層、緊張が増していく中でひまりは瞳の中の自分を見て、冷静になるのを感じた。
「とても、大事な幼馴染だと思ってるよ。」
だから、口をついて出たのはこんな言葉だった。
けれど、不思議とガッカリしたような感情はなくて、どこか清々しいような心地だった。
この言葉が嘘だったなら、きっと顔も強張っていただろう。
今、あの気持ちを口にしてはいけないと思ったことと、それ以外にもっと伝えたいことがあることに気づいたのだ。
ひまりの表情は、心からの言葉をやっと言えたことに安堵したように微笑んでいた。
陽もまた、嬉しそうに微笑んだ。
「…ありがとう。俺も、ひまりのことは大事な幼馴染だと思ってる。」
「うん。」
前方では、竜一と沙希がぽつりぽつりと会話しながら笑っている。
周囲からは家族連れや恋人たち、中学生の団体が楽しそうにはしゃぐ声を聴きながら、ひまりは思った。
このままでいたい。
「沙希ちゃんは、中途半端な気持ちで誰かを振り回すようなことはしないと思う。でも告白って…正直、展開早くない?って思ってる。約束もしたはずだったしね!」
ひまりはそう言いながら陽の背中をバシっと叩く。
都合が悪いのか、きまり悪そうに顔を掻く陽に、ひまりはにっこり笑ってみせた。
「……まあ、何かあれば、相談してよ。話し位なら聞くから。」
「…ああ。」
ふと竜一の視線を感じたが、ひまりが目を向けるより先に、竜一は沙希との会話に戻っていたので、ひまりも気にせずにいることにした。
心の錘が取れたような気がした。
自分が行動を起こして、彼らを引き合わせチャンスを与えられるのは自分しかいないのだと思い込んで、勝手に板挟みになったような気になっていた。
自分の心の痛みを無視して、相手のために行動しているのだということで、少なからず生まれた嫉妬心と罪悪感を鈍らせるための手段の一つだったのかもしれない。
ひまりは優しい目で沙希の後ろ姿を見る陽の横顔を盗み見た。
こんなに近くにいるのに、あなたはいつでも遠い。
大事な幼馴染は、私の大好きな親友のことを想っている。
同じ人を大事だと思っている。
ただ一つのその共通項に、ひまりは切なくなって、そしてひまりの心を一つの決断へ導いて行った。
私は、彼の幼馴染でいる。
それ以上でも以下でのない存在で、近くて遠いこの距離で歩いていきたい。
憧れは、いつも自分とは正反対の星に抱くもの。
だから輝く。だから、美しい。
いつだったか、読んだ本に書いていた。
彼は私にとって、きっとそんな存在なのだ。
思い思いに過ごすうちに、あっという間に夜が来て。
夜には夜でパレードを楽しんだ。
「綺麗ね。」そう美しい瞳を輝かせた沙希に声をかけられて、ひまりは「本当に。」と答えた。
ひまりの目にはパレードの輝きは映っていなかった。
沙希の瞳を通した光に、ひまりは息を飲んで、美しいと思ったから。
帰り道、最寄り駅に迎えが待っているからと言って沙希は帰って行き、陽は本屋に寄って行きたいからと去って行った。
残る竜一が、ひまりを見下ろして小さく溜息を吐く。
「それで…、話し位なら聞いてやらんでもないけど?」
訳が分からず、ひまりがきょとんと見上げると、竜一はもう一度溜息を吐いて、最寄り駅はどこか聞いてきた。
それに素直に応えると、竜一はひまりの背を押すように構内を歩き出し、ひまりがいつも乗っている電車に乗り込んだ。
扉の横にある手すりの前。お互い扉の両端、向き合うように立った場所で顔は外を見続ける。
しばらく竜一もひまりも一言も発さないで、流れていく景色を見送っていた。
きっと、彼が聞きたいのは陽のことだ。
さっきの会話が聞こえたのかもしれない。
隆一の言葉があったから、ひまりは自分の取った行動や立場への息苦しさは自分で生み出したものに気づいた。
告白はしない。
大事な幼馴染だと思っていると、私が言った瞬間の陽の顔が本当に嬉しそうにはにかんでいて。
ああ、告白なんてしなくて良かった。
そう思った。
あの時、言っていたら陽はきっと困って、今までの関係もその瞬間崩れてしまっていたのだろう。
それを想像しただけで色んな方面からチクチク刺さってくるものを感じる。
じわっと込み上げるものを堪えるように、唇を噛む。
「昔」
ふと、竜一の声が耳に入る。
釣られるように竜一を見ると、彼は顔を外に向けながら、視線だけをひまりに向けていた。
ひまりと目が合うと、視線を外に戻して話し出す。
「俺が幼いころの話しだ。公園で良く見かける女の子のことが気になっていたんだ。」
「その子は他の男の子と一緒に遊びに来ていて、楽しそうにしていた。俺は、その「気になる」という気持ちを恋だとは思ってもいなかった。ただ、他の男と楽しそうにしているのを見て、不愉快に思った俺は、その子のことをいじめたんだ。誰も見ていないところで。自分を不愉快にさせる存在だと思ったんだ。けどある時、その子の連れの男が、見事に俺からその子を連れ去って行った。」
「俺はその時、酷く後悔した。あの瞬間、俺はヒーロー物で言うなら悪役の小物役で、あいつがヒーローになったんだ。女の子の瞳がキラキラして、その男のことを見ていた。俺は、すべきではないことをしたと悟ったんだ。」
「その後、家が窮屈で一人で遊びにいくと、そこにその女の子がいた。俺はその子に声を掛けて、詫びたんだ。彼女は許してくれて、一緒に遊ぶようになった。一緒に遊ぼうと約束したある日、親の用事のために急に連れていかれる羽目になって約束を破ることになった。後日、公園で会うことしか知らなかった彼女とはもう二度と会うこともなく、詫びることもできず、気持ちを伝えることもできなかった。そのまま俺は留学することになった。」
ひまりはそれまで黙って聞いていたが、たまらず聞いた。
「どうして、その話しを?」
「俺が後悔してることだ。気持ちを伝えるか伝えないかは自分で決めることだ。だが、陽はお前の隣の家にいる。俺みたいに、どこにいるのかも分からなかったわけじゃない。それでも、お前は、後悔しないのか。」
ああ、やっぱり聞こえていたのだ。
「どうして、あの会話で私は告白しないって決めたの分かったの?」
「分かるだろ。……お前の顔を見てれば。」
「フフ、変なの。今日出会ったばかりじゃない。」
「……それで、後悔しないのか?」
「正直に言って、それは分からない。これからすごく後悔するかもしれない。沙希ちゃんと陽君を引き合わせることは、すごく荷が重かった。でも自分の役目だと思ったからこそ引き合わせた。正直に言うと、沙希ちゃんのことを考えれば、竜一君の言う通り私がはた迷惑な偽善者だと思う。一番好きな友達の肩を更に重くさせるようなことをしたのかもしれないって。色々な罪悪感から逃れるために、利用しただけなのかもしれないって…。私、竜一君のおかげで自分が背負うべきでないものがあるんだって気づいたの。特にこんな恋愛ごとは当人の決断次第でどんな可能性も起こり得るんだから。…ありがとう、竜一君。心配してくれて。私、あの時告白しようとしたけど、でも…しなくて本当に良かったって思ったの。大事な幼馴染でいられたら良いって。だから、心配しなくても大丈夫だよ。」
「そうか。」
それから二人は、黙って電車に揺られた。
やがてひまりの降りる駅に着くと、竜一も一緒に降りて改札口まで来た。
「それじゃ」
「え?竜一君もこの駅じゃないの?」
そう言うと、ひまりの頭をくしゃくしゃに撫でて、悪戯っ子のような笑みを向けた。
「違うよ。じゃあな。」
足早に去って行く竜一の背をぼんやりと見つめながら、ひまりは自分の胸にさっきまでなかった温もりが生まれるのを感じた。
感謝や喜びに似たその温かさは、いつの間にか冷え込んでいた指先まで伝わっていく。
ハタとひまりは気づく。
お礼を言ってない。
それに気づくと、ひまりは居てもたってもいられず、スマホを取り出す。
だが、スマホを取り出したところで彼の連絡先を聞いていなかったことに気づいて、虚しくスマホを下ろした。