親友の婚約は波乱を呼ぶ
あれから一週間が経ったころ、それまでずっと顔色が優れなかった沙希ちゃんが私を呼び出した。
余程のことが家庭であったのだろうか、それとも陽君のことだろうか。
胸の奥でこだましている痛みが、するりと制御システムを崩壊させたかのように心臓を激しく鳴らした。
大学の裏庭に設けられているベンチに二人で腰掛けて、沙希ちゃんはあたりを見回して誰もいないことを確認していた。
「・・・あのね。」
俯き加減で絞り出すような声の彼女はやはりそれまで見たことないような深い悩みを抱えているようで。
「うん?」
黙って待っている私の顔をちらと見て、彼女は深呼吸していた。
「わ、私、婚約したの。親が決めた人と。」
その一言で、私は頭を殴られたような衝撃を覚えて、その後一拍して胸の奥でチクチクしてきたのだ。
陽君が沙希ちゃんに惚れたときの顔まで浮かんでしまうから、たまったもんじゃない。
「・・・え。」
動揺でまともな返事が浮かばない私の様子に気づいた彼女は、なんでもないような風に微笑んで見せた。
「しょうがないんだぁ。・・・昔から、決まってたこと、と言うか。家のための結婚するんだって決まってたことだし。」
そういう彼女の横顔は微笑んでも尚、切なげに瞳が揺れていた。
「お相手は・・・」
「ふふ、すっごくハンサム!ちょっと年上でね、優しくて、それに幼馴染なの。」
ちくりと痛むのは、例の如くあいつのせいだ。
「しかもね、私その人が初恋の人なのよ。」
そう言って彼女は口元に人差し指をかざし、秘密だよと笑った。
それだけ聞けばまるで良い事のように聞こえるけれど、彼女の表情は憂いが拭いきれないのだ。
「私の片想い…。」沙希ぽつりと呟くように紡いだ言葉は、ひまりの胸に小さな棘を差し込んでいく。
誰を想って胸が痛いのか、ひまりは戸惑うばかりだった。
「い、今は?その人の事、今も好き?」
ひまりの質問に沙希は答えなかった。
その代わりのように、困ったように微笑むばかりだった。
困った、それでは我が幼馴染のお調子者は婚約者のいる人に恋をしたということだ。
出会ったときは柵などなかったはずの二人なのに、今では想うだけで禁断風味を醸しだしてしまったではないか。
そして今一つ、沙希ちゃんの気持ちが読み取れなかったのも不安の材料だった。多分、私が経験も足りなければ色々なスキルが足りないのだろう。
初恋の人で、片想いで、その気持ちが今も続いてるのだろうか。
ずっと顔色が優れなかった理由は何故だろう。
考えられることは、沙希ちゃんに気持ちがなくなったか、若しくは今も好きだが、お相手が沙希ちゃんと同じ気持ちではないから。
どの道、彼女からしたら、心から想い合ってから結婚がしたかっただろうに、今の状況は苦しいのかもしれない。
とぼとぼと帰路を歩いていると、ひまりの目に長身でやたら見目の良い男が自分の家の前に立っているのが見えた。
陽だった。
きまり悪そうに視線を逸らして、ひまりが到着するのを待っている。
ため息が出る。良い予感はしない。沙希ちゃんは婚約したということを誰にも言いふらしていなかった。だから周囲に人がいないことを確認したのだ。彼に言ってもいいのだろうか。
言えばきっと、もっと燃え上がるかもしれなかった。好きな人が、好きでもない人のものになるのを、良しとしておく気がしない。
だが、婚約中である沙希のことと、その人に想いを寄せる陽にとって今の現状を知らなけらば、どっちのためにもならないかもしれなかった。
惚れているのならまだしも沙希にとっては悩みが増えるかもしれないし、陽は自分の身の振り方を考える必要があるのだ。
はあ、どうして私が?そう疑問が湧いて慌てて消した。
「お疲れ。」
「うん、お疲れさま。どうしたの?」と定文で言ってみたものの、次に来る言葉はもう分かっているような気がする。
うん、あのさと珍しく口ごもりながら陽は言った。
「沙希ちゃんにまた会いたいんだ。セッティングして貰えないかな。」
やっぱりね。
そう心の中で呟いた。
そんなに切羽詰った顔で言わなくたって良いのに。たったそれだけのことで、きっとすごく悩んだんだろうな。ちょっとだけ笑うと、陽君は照れたように頬を掻いた。
「いいよ。そんなの、お安い御用だよ。・・・でも」
「でも!?」
何を思ったのだろうか、陽君の顔が引き攣る。きっと取引を持ちかけられると思ったんだろう。
「彼女今、すごく苦しい時期なのよ。彼女に聞いてからじゃないと無理だわ。」
「悩みでもあるのか?」
私が小学校で男子に酷いことを言われて泣きながら歩いているも同じことを言われたっけ。
でもこんなに逼迫したような表情でもなく、悠然とした構えだったな。
ひまりは下を向きながら続けた。
「うん…。沙希ちゃん、あまり人に言いたがらないから、教えると怒られるかもしれないけど、言うね。彼女、家の都合で婚約者ができたのよ。」
息をのんだ音が聞こえてきた。恐る恐る上を向くと、まるで時間を止められてしまったかのように身動きもせず、土気色になった顔色で目が見開いていた。
言わずもがな、見たことのない表情であったし、一目惚れでここまでになれるのだなと他人事ように考えた。
これからどうしていくのかは、彼女と彼次第だ。
「でも取り次ぐだけ取り次いでみるけど。でも、言っておくけどね、友達のほうが大事なの。彼女のことを困られたりしたら許さないからね。」
そして私は沙希ちゃんに電話した。
数回のコールのあと、さきほど別れたばかりの友人の声が優しく響く。
あの後、沙希ちゃんは気にしないでと言ったきり、いつも通りに過ごしている風だった。
「あ、沙希ちゃん?今いい?」
『うん、大丈夫よ。』
「実はね、この前会った赤木陽君、覚えてる?」
彼女は覚えていると答えていたが、その声が何かを察したかのように震えだした。
ふと、嫌な予感がしたのだ。
もしかしたら、沙希ちゃんは――
「あ、大丈夫だから!陽君には沙希ちゃんが婚約してるってことは伝えたし、無神経なことは絶対しない人だって言える。だから、息抜きだと思って三人で遊びに行かない?」
そう言うと、電話越しで安心したような雰囲気を感じた。
『まあ!それは楽しそうね!どこに行くか決まったの?』
電話の向こうの沙希ちゃんはふっと楽し気な声ではしゃいでいるが、向かいに佇む男からは《お前は邪魔だ》という空気を押し付けられる。
華麗にスルーを決め込んで、続ける。
「行き先はまだ決めてないんだ。沙希ちゃんにも聞きたかったし。」
そうなの?どうしよっかなと言って悩みだした沙希ちゃんに、じゃあ決まったらメールで教えてと伝えて電話を切った。
「と、いう訳だから、三人休みを揃えて遊びに行くわよ!」
「いいけど、お前途中でバックレてくれるなら。」
目の奥がドキンと跳ねた。お前は要らないと、ハッキリと告げられている。
「いきなり二人でデートなんで頭が高いわ!しかも相手は婚約者持ちの令嬢なのよ!?下手に人から見られて、彼女の醜聞が流れたらどうしてくれるの!!彼女には彼女の世界があるの!無神経なことはしないって約束しなさい!」
そう言うと、ハッとした顔でごめんと言ってくる。いつもクールで飄々としていても、こういうことは疎いらしい。
本当のことを言えば、私だって行きたくない。
沙希ちゃんの事情も絡んで、今や私は大混乱だ。事実、私は何の関係もないのにだ。
私が、沙希ちゃんが大切な友人で、陽君のことを好きだったらしいということ意外は、何も。
「・・・ところで、令嬢ってどういうことだ?」と聞いてくる陽に、ひまりは簡潔に答える。
「美影グループ会長の娘だからよ。」
一拍遅れて陽が息をのんだのが分かった。
「あ、あの・・・都内のビルの三分の二が美影絡みと言われ、学校やら美術館やらを建てた上に経営、電気やデパートだの何でも手広くこなして全てを成功させているあの美影グループか?」
「そう。しかも一代目なんてもんじゃない、歴代の由緒正しき財閥でもある。」
陽の顔色が驚くほど青ざめていく。
こんなにコロコロと表情を変える陽君を見たことがない。
「ちょっと!!何青ざめてるのよ!彼女が金持ちのところの娘だからって、引くわけ!?」
「引くっていうか、規模が違い過ぎて想像すらできないんだよ!」
気持ちは分かるが、納得はできない。眉間にシワすら寄りかけている陽が続ける。
「身分違いで、しかも婚約者まで表れて。・・・どうやってアプローチすりゃ良いんだよ…。」
やめようかなと呟く陽に腹が立った。知っても知らなくても人をこんなに悩ませて、友達からでも縁がないか模索する時期に。こんな中途半端な人だったんだろうか。と、自分の本来の立場も忘れて頭に血が昇った。アプローチなんてやめてくれればいいのにと思えばいいものを。
「ばか!令嬢だと知る前に好きになったんでしょう!知っていたら恋をしなかったと言うの!?違うでしょう!そんな適当な気持ちなら会わせないから!」
目を丸くして聞いている陽君から顔を逸らして、それに・・・と付け足す。
「沙希ちゃんは、今まで金持ちの娘だからって利用されたり、逆に遠巻きにされたり傷ついてきた子なのよ。今は婚約までして、それだってまだあの子の気持ちは分からない。でも辛そうなのは見てて分かる。もしあなた何かしてあの子の悩みの種なったりしたらどうしようとも思ったし、だから、本当は会わせることが正しいことなのか分からない。どうしたらいいのかも!でも、一つだけ分かるのは、陽君には後悔しないようにしてほしいし、沙希ちゃんにも同じで楽しんで笑っていてほしい。・・・沙希ちゃんの気持ちも考えないで、ズカズカ踏みにじるのだけはやめて。好きになれば暴走してしまうのかもしれないけど…でも相手のことを考えて段階踏んで、好きになってもらわらないとダメでしょう?」
もし、縁があるのなら婚約だってなんとかして陽君の手を取るかもしれないのだ。
可能性がゼロなんてものは、この世にはない。私自身は例外だとしても。
確かに簡単な事ではない、もしかしたら駆け落ちや勘当ありきかもしれない。でも、後悔するより良い。
相手が初恋の人だと言うから、無闇に「気持ちのない結婚なんてやめろ!」とも「本当に好きな人と結婚したほうがいいよ」とも言えない、それは家柄の違いだけじゃない。沙希の心が今どこに向かっているのかも分からないこそ、どこへ行くのも可能なわけで、ひまりはふと焦燥感に襲われた。
「・・・なんか、お前って――・・・。」小さな声が聞こえた気がして上を向くと、陽君と目が合った。
ちょっとだけ色素の薄い瞳の虹彩がゴールドのように見えた。
「いや、なんでもない。適当なこと言ってごめん。沙希ちゃんを困らせるようなやり方は絶対にしない。誓うよ。折角のチャンスなんだから。」
いつもは引き結ばれていた口元がふわりと微笑んだ、ように見えた。
「いつ、遊びに行くんだ?」
どうしようかなと悩んでいると、いつの間にか沙希からメールが届いていたことに気づく。ひまりは、沙希からのメールが来たと陽に告げると、自分の後ろ側に回ってひまりの手元にある携帯をのぞき込んで来た。
嫌が応にも、顔が近付いてきて、ひまりの内心は徐々に高鳴り始めた心臓の声音に気づかないでほしいと、焦っていた。
「遊園地行ってみたいんだって。いい?」
「勿論。・・・で、お前はどこに行きたいんだ?」
不意に続く陽君の言葉に、ひまりは心底驚いた。
自分の希望まで聞かれるとは思っていなかったのだ。
「・・・え、っと。」
しばらく悩んだふりをして、内心の驚きや、困ったことに三人で行きたいところがすぐに見当たらないのを誤魔化した。ひまりは基本、インドアだったこともあるが、まだまだこの世は「お一人様」という敬称を持ってして偏見の渦を吐き散らす人々はいたもので、その餌食にされかかったことがトラウマでもあった。
かつては美術館など、好きなところに足を向けていたのだ。
「・・・さ、沙希ちゃんと同じ。」
ふーんと頭上から響いてくるが、それ以上何かを言ってくることはなかった。
ひまりは振り向き、陽と向き合うと目が合う。そこには懐かしい幼いころの陽の面影を見たような気がした。それはなぜか久しぶりの再会のような気分だった。胸の奥で温かいものが流れ込んでくる。今までの温度差に鼻の奥がツーンとしているのだろう、泣きそうな気分だった。
「・・・そういう陽君こそ、行きたいところないの?」
私の問いに、いやと応えると「俺はないよ。」と言う。
「そう、じゃあ!次は日付と時間ね!待って・・・今、沙希ちゃんにメールして聞いてみるから・・・。陽君もスケジュール確認できる?」
「あ、ああ…」
《遊園地に決まったよ。次は日付と時間を決めたいから、希望日があったら教えて。陽君のと私のスケジュールを照らし合わせて決めよう♪》
そうして、決まったのは、思いのほか今からわずか三日後の日曜日だった。
私は決めていた。
もし、二人の様子が良い感じになったら、何だかんだと理由をつけて二人きりさせよう、と。